2007/05/18

ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?

 磯崎さんのところで見た新語にちょっと興味を引かれたので、つらつらと思うことを。

 ポリバレントな人材(isologue)

 「Polyvalent」って本来は化学用語らしいけど、日本語にすると要するに「多能工」ってことでしょ。英語にすると新しい話みたいに聞こえるけど、日本の製造業はもう数十年以上前から多能工の持つ価値を見抜いていて、その生産性の高さを引き出すための方法すら編み出している。そう、いつものアレです、「トヨタ生産方式」です。

 こういう、耳新しいカタカナ語で語るとすぐに皆さん飛びつくんだけど、なんだかなあという感じ。いちいち英語で言われて気づく前に、日本オリジナルの知恵をもっとよく勉強して、大事にすればいいのに。そんなに難しいことじゃないと思うんだけどな。

 ものづくりの世界での「多能工」の意味には、まず作業負荷の平準化がある。つまり、ある工程の作業ができる人というのがライン内に複数いることで、その工程の作業の負荷が一時的に増えてもそれを前後の工程の人が分担できる、だから生産ライン全体で見るとボトルネックが生じにくい、というのがそれだ。

 ただ、多能工のメリットはそれだけではなくて、複数の工程をこなせるため仕事に飽きが来ない、複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができる、そして熟練すれば単工程の作業をこなせる人よりも多くの人から尊敬を集められる、といったこともある。言うなれば作業者のモチベーションそのものを高めることができまっせ、というのが多能工化の本質的な価値である、とトヨタ生産方式の中では言われているわけだ。

 これだけ明確に謳われているにもかかわらず、ものづくりの世界から一歩出ると、多能工化を嫌う人が世の中本当に多いのね。特にその傾向が顕著なのが、磯崎さんのブログでも書かれているような「士業」の世界、それから学問の世界の人たち。いわゆる「専門家ホワイトカラー」系の世界の住人である。この方々は1つの領域に深く深くはまってる人にこそ最高の価値があると思っていて、複数の領域を股にかけて何の専門家なのかよく分からないぐらいいろいろな領域に足を突っ込んでいる人を、ことさらに卑下するさげすむ傾向がある。

 「専門性」という名の下に隠蔽されたこれら「専門家」の視野狭窄、柔軟性のなさ、そしてもっとぶっちゃけて言うと「使えなさ」みたいなものは、最近とみに深刻だと思う場面が増えているのだけど、当の専門家の間にはそういう世間の評価に対する反省というのがまったくないというのがさらに深刻ですな。要するに、知的退廃というヤツでしょうか。率直に言って頭が悪いんですな、特定の「専門領域」しか持たない人たちというのは。あるいは現実の社会を知らないというか。

 個人的には、その元凶となっているのが「大学」だと思うわけで。アカデミズムの世界ほど、特定分野の専門性を掲げずにいろんな領域を横断的に考える人間の評価を、不当に貶めているところもないと思う。確かに純粋科学の領域などでは、特定の専門領域に深く深く入っていく、生涯をかけて取り組むことで達成できる何かもあるとは思いますよ。でも実際の世の中で役に立てようと思ったら、複数領域の専門性を併せ持っている「多能工」な人のほうがずっと高い価値を生み出せる。だったら、純粋学問と社会の間の「実務系学問」の領域ぐらい、多能工専門家の評価をもっと高くする仕組みとか、あってもいいんじゃないかと思うのだが。

 こと「士業」の世界では、純粋学問の人たちの人材に対する価値観がそのまま実務的専門家の評価にも滲み出してしまうものだから、社会的ニーズの高まりそっちのけで融通の利かない視野狭窄な専門バカが大量に生まれるという弊害が生まれているわけだ。そして、既存のアカデミズムに依存しなければ自分の目で人材が有能かどうかの判断すら付かない人たちが、その価値観をさらに再生産するという悪循環が延々続く。まったくもって、どうしようもない。

 まあ、既存のアカデミズムはそういうところは永久に変わらないかも知れないだろうけど、せめて実務家の側からでもそういう価値観に異を唱えることはしていくべきじゃなかろうかと。多能工の本質的価値というものを、もう少しホワイトカラーの人たちも考え直して、人材評価に反映させるとかした方がよろしいんじゃないでしょうか。なんてことを思ったですよ。そんな話はどうでもいいですかそうですか。では。

12:36 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (5)

2007/01/21

某えん罪事件の映画の件

 映画そのものは見てもいないわけですが、あちこちで盛り上がり始めているのでちょっと一言。例の、前田有一氏曰く「すべての男が見るべき大傑作」磯崎先生曰く「他人にどうすすめてよいのか分からない」と悶絶されるところの、あの映画でございます。

 まあ、いろいろな意味でフジテレビ亀ピーGJ、なんでしょうね。素直にそう思います。痴漢えん罪がどうこうというのでなく、司法というのがいかに不条理な世界であるかというのを、これから4年以内に「裁判員制度」が始まる前に、国民の皆さんがよく知っておいた方がよろしかろうと。 知ったからどうこうなるものでもありませんが。

 不肖私もこの前とある刑事事件で地元の警察に原告側証人として呼ばれ、調書作りにつき合わされたのですが、いやもうなんというか「職業としての司法」というのはこういうものかと絶句致しました(警察は厳密には行政ですがね)。最近は公務員に成果主義導入とか話題になっているようでございますが、警察には既に業績評価賃金が導入されているかのごとくでございます。とにかく明確で疑いを差し挟む余地のない事件を立件するのが職務ですから、そのために刑事さんってのはグレーもすべて「クロ」と断言させようと、誘導尋問しまくりなんですな。

 こちらは一応原告(被害者)の人にとって唯一の頼れる証人ということもあり、あいまいな証言をすると加害者が無罪放免になっちゃう恐れもあり、まあ多少の誘導尋問には目をつぶるしかないかと思ってもいたんですが、それにしてもこっちの話の意図や目撃内容を必死にねじ曲げて、あたかも犯罪があったのが自明であるかのようにでっち上げようとする様子が、本当に痛々しいことでございました。

 逆に考えると、自分が何かのはずみで事件に巻き込まれ、加害者の嫌疑をかけられたら、裏でこうやってものすごい勢いで周辺に誘導尋問されて罪をでっち上げられるんだろうなと思うと、とにかくああいう場にかかわりにならない生き方をするのが善良なる市民の責務でさえあると思うようになりました。

 以前にどこかで読んだ気もするのですが、満員電車の中で女性に手を捕まれて「あなた、痴漢でしょ!」とか叫ばれたら、「違う」と主張したり「出るとこ出てやろうじゃないか」とかバカなこと考えたりしないで、とにかく脊髄反射的にすぐに手を振り切って、脇目もふらずに電車を降りて(あるいは別の電車に飛び乗って)人混みに紛れて逃げるのが最上の策であるらしいですね。自分自身は痴漢したい衝動に駆られたことも痴漢したこともありませんが、万が一痴漢扱いされたら脊髄反射で脱兎の如く逃げられるように、いつも心構えはしているつもりです。

10:13 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (14) トラックバック (6)

2006/09/27

Google Mapで見るディズニーリゾートのトリビア

 Google Mapの日本の情報が更新された、という記事をCNETで見たので、どれどれと思いながらちょっとのぞきに。今回は地図データのアップデートだったらしいが、衛星からの写真データも7月に更新されていたらしい。

 そこで、前からその中身を見てみたくてしょうがなかった施設の上空に。そう、それは「東京ディズニーリゾート」。頭の黒いネズミの統べる王国。おお、中の施設から、駐車場の線1本1本に至るまではっきり見えるぜ。と思いながら、ふらふらと空中散歩していたら、面白いものを見てしまった。ディズニーシーのど真ん中に、まっすぐ1本の道路が走っているのである。

 メディテレーニアン・ハーバーの裏の水上パレード用ボート繋留所の横、キャラバン・カルーセルの裏側から、ミステリアスアイランドの山脈とマーメイドラグーンの間を通って、ポートディスカバリーのエレクトリック・レールウェイ駅裏側まで、ポートディスカバリー地域向けのロジスティックス用自動車道路が貫いている。ディズニーシーには3回ぐらい入ったことがあるが、こんな道路があるなんてまったく気がつかなかった。

 上空からは堂々とした道路が見えるのに、アトラクションのどこから見てもこの道路が見えない、というか存在自体にまったく気がつかないほど巧妙に隠されていることに、改めて驚いた。 たぶん、設計段階であらゆる角度からのランドスケープを計算して、ロジ関連施設は一切見えないように工夫を凝らしているのだ。この緻密な施設設計能力自体が、オリエンタルランドの最大の企業ノウハウなんだろうね。

 ちなみに、Yahoo!でも地図情報の投稿サイトがスタートしていて、こちらにOLCの社内関係者とおぼしき人が施設の名称や機能、周辺エリアの建築予定の建物などについて細かいデータを投稿している。上記のロジスティックス道路の始まっているところは、「ロジスティックビル」という注釈がついているので、この道路がレストランの食材や物販用の商品のロジ道路であることは間違いなさそう。

 大学生の頃に、「ディズニーランドに観覧車が存在しないのは、消費者に魔法の迷宮をさまよう楽しさを与え、その世界を俯瞰するパースペクティヴを彼らに与えないため」という論文を書いたりしたこともあったんだけど、これを見るとディズニーリゾートは消費者に上空から見られることを拒否している施設だったんだなあと、改めて思う。

 ただ、不思議なのは、舞浜エリアに上空からの視線をものすごく意識している施設がたった1つだけあること。いったいこれって、何のためにこんなことしているんだろうか?誰かその秘密を知っていたら教えてください。

01:16 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (7)

2006/09/11

禿に関する一私論

 昨夜、10分1000円の散髪屋に行ったらもう閉店時間だというので、しかたなく近くの普通のフルサービス4000円の散髪屋に。そこはあんちゃんがおしゃべりでしかも僕とは割とフィーリングの合わないタイプなのであまり行きたくなかったのだが、背に腹は代えられない。

 で、のぞいてみると日曜日の夜なのに奇跡的に空いていた。で、40分ほどそのあんちゃんとおつき合いすることになったわけだが、あんちゃんは相変わらずこっちの気持ちをまったく読まず、心理的な間合いを詰めようという努力の気配も見せず、僕をシートに座らせて髪を切り始めた瞬間からいきなりセールストーク全開ですよ。

 「お客さん、結構頭の皮が日焼けしてますよね。頭皮の脂を落とさないと、髪がなくなりますよ。うち、10月まで皮脂を落とす特別マッサージ、1回2000円を1500円でやるキャンペーンやってるんですけど、いかがですか?」

 お兄さん、せめてもうちょっと禿の話を切り出す時には素振りだけでいいからデリカシーを見せようよ。いきなりそこまで突っ込んで話しかけられて「お、そうかい、俺の頭皮そんなに禿げそうかい。じゃあその特別マッサージとやら、いっちょやってくんな」なんていうキップのいいお客さん、いないと思うんですけど。いるんですかね。いたら申し訳ない。自分にデリカシーがないくせに他人にはそういうの要求するタイプなんですよ僕って。

 にしても、もうちょっと説得力のある勧誘というのはできないものか。一応これでもうちの血筋、誰一人として禿のいない家系なわけですよ。親父も爺さんも、お袋の親戚も男性はみんなフサフサ。だから自分も全然禿げる気がしない。そういう人に向かって「お前、頭皮が日焼けして禿げそうだからうちの商品を買え」ってのはいくら何でも説得力なさすぎ。せめて「お客さん、ご親族に頭の薄い方とか、いらっしゃいます?いやね、実はね、お客さんの髪の毛、もともとはすごく丈夫そうなんですけど、ちょっとこの日焼けがずいぶんひどいのが気になりましてね…」とか、言葉の綾の駆使の仕方ってもんがあるでしょうが。

 それともあれかな、やっぱり説得するには数字とビジュアルを使ってやらにゃ、てことかな。例えば頭に霧吹きで水をかけている最中に頂上の髪を1本プチッと抜く。んで検査機にかけ、毛根の成分比率とかをガスクロでさっと検査して、さらに顕微鏡写真を標準の毛根の写真と並べてインクジェットプリンタでプリントアウトし、カットの終わったお客さんに見せながら「お客様の頂上部と額上部の頭髪の毛根をちょっと調べさせていただいたんですが、標準の毛根に比べて皮脂や汚れが多くなっておりまして、頭髪年齢はもう56歳、あと数年でいっせいに定年退職じゃなかった、抜け毛が一気に増えるというサインが出てます。ま、危険信号ですね。これ以上の診断と処置のアドバイスをお求めになりますか?」などと語ってくれたりするとものすごい説得力と危機感が漂うな。

 理容店業界向けのサプライヤーで、そういう脅迫ソリューションを考えついて実践する人ってのは誰かいないのだろうか。そもそもQBネットの登場以降、理髪店では「髪を切る」以降のプロセスのサービス価値というのが急速に薄れている。お客からすれば、「だいたい髪だけ切ってくれれば10分1000円ですむものを、人が座って身動き取れないのを良いことに勝手に洗髪だのシェーブだの俺様が自分でもできるような余計なことばかりしやがって、俺様の顔中血だらけにしたうえに俺様の貴重な30分の時間と3000円の追加料金ぼったくるとは不届き千万」とか思われているわけだ。だったら気持ちよく4000円を払ってもらえるように、カット以降のプロセスに理髪店でなければできない付加価値というものを付けられないかどうか、もう一度考え直してみたらどうか。

 既に理髪店業界において使われている最も安易な手口は、「洗髪やマッサージを可愛い女性理容師がやってくれる」というもので、前に住んでいたところの駅近くにある理髪店はカット、洗髪、シェーブ、マッサージ、整髪をすべて違う女性理容師が入れ替わり立ち替わりやってくれるというシステムを導入していた。入口には怖い顔の置屋のお婆さんみたいな店長がどっしり構えており、店内を忙しく走り回る若い美人女性美容師たちを見張りながら「○○ちゃん!次、そこのお客さんに洗髪!早く!」とか時々叫んでいる。理容師たちは交替するたびにいちいち「よろしくお願いしま~す!」と黄色い声を上げながら客に向かって深々と頭を下げてあいさつするので、そのたびにワクワクするというか、まあ普通の男性なら若い女性に優しく頭や顔を触られたりなでられたりするのが嬉しくないわけがない。実際その理髪店はすごい勢いの流れ作業で進める30分のカット1回に対し4700円と法外な値段を取るにもかかわらず平日も客足が絶えず、土日ともなると黄色い声のお姉ちゃんたちに顔をなでてもらいたい男どもが朝から晩まで長蛇の列をなしていた。これはどうみても理髪店ではなくて風俗の一形態である。もうね、アホかと。バカかと。

 しかしこのシステムは一方で店の中に少なくともカット・洗髪・シェーブ・マッサージ・整髪役の5人の美人女性理容師が常駐していなければならないという欠陥を持っており、客が大量に集まる繁華街でならまだしも、うちの家の近くのそのあんちゃんの店のように、休日でも理容師が3人そこそこいるだけのようなヒマな店では到底成り立たない。やっぱりここは頭髪検査設備に投資して、今日は3000円ぽっきりと思って来店した1人のお客さんに、あれよあれよという間に皮脂含有量の検査データとびっしり汚れがまとわりついた毛根の拡大写真を見せながらパワーアップ・クレンジング・シャンプー・アンド・スカルプケア・マッサージのキャンペーンを納得させ、気が付けばコンサルティングフィーを含めて8000円を巻き上げて「これできっと髪の毛すっきり、毛根ぴかぴかですよ!」なーんてさわやかな声をかけて見送るような科学的理髪サービス営業システムを構築してみようという理髪店、あるいは理髪店向けのサプライヤー企業はないものだろうか。あったら面白いんだけどな。でもそんな店には僕は絶対行かないと思う。マジ怖いから。やっぱりQBネット最高。あれ、何の話でしたっけ?

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2006/07/24

学校2.0

 はてブではなぜか産経の記事だけが盛り上がっているが、昨年の朝日の記事のほうがずっと詳しいのでそちらを読まれたし。

わがママに先生困った 保護者の「無理難題」(asahi.com)

 はてブからたどれる言及ブログでは「嘆かわしい」「教師より親のレベルの方が低いんじゃないのか」「この国の将来が心配だ」等々、知ったような口をきいてる方々が多数いらっしゃる。あはははは。みんなはあちゅうテンプレ、好きだなあ。今度は「絶対保護者改革」ですよね、やっぱ。

 例のテンプレレベルな憂国談義で盛り上がりたい向きはともかく、この問題については、昨年8月の読売新聞の記事がちゃんと解決策まで提案しているので、そちらを見るべし。逆に言うと、問題だけ投げ出して何の分析も解決へのヒントも提示してない産経は、ただの無責任なセンセーショナリズムと言われてもしょうがないんじゃないかと思う。それに見事釣られるはてなダイアラーおよびはてなブックマーカーの皆さんも、それはそれでアレなわけだが。ブロゴスフィアって楽しいっすね。

 読売の記事が良いと思うのは、このテーマをめぐっては教師と親、それぞれの価値観が根本的に食い違ってることが問題の本質であることを、きちんと指摘している点だ。実際、はてなダイアラーの皆さんの言う「キチガイ親」のことを教師がどう批判するかを聞けば(読売には教師の側のコメントも書かれているが)、教師の側も同様に「キチガイ」に見えることは必定だ。この点を認識せずにどちらか一方だけを「レベルが低い」「キチガイ」と批判していても、何も始まらない。

 問題の根源はそもそも教師と親の双方がお互いの価値観、もっと言えば「常識」を何ら共有してないところにあるわけだ。例えば産経の記事では、

小学校の1学年全クラスの担任配置表を独自に作成し、「この通りでなければ子供を学校に行かせない」と要求した保護者もいる。
 と書かれていて、これだけ読むとエゴイズムの極まったDQN親のように見えるが、朝日の場合は同じ事例について、もう少し具体的な状況を書いてある。
 関西の住宅地の小学校に勤務する教諭は、母親から1枚の紙を示された。見ると「1年1組 ~先生」「2年1組 ~先生」……。全学級の担任配置案だ。母親の子の学級には、力のある教師の名が書いてある。「この通りでお願いします」と親は屈託ない。「うちの子を~先生のクラスにと希望されたことはあったが、全担任案とは」と教諭は驚きを隠せない。
 これを読むと、必ずしもこの親の“非常識”を責められないようにも思えてくる。

 もしかして、この母親から見るとこの中学校は、子供との相性を無視した担任の変更を繰り返したり、特定の学級だけに「力のある教師」を張り付けたりして、教師の配置のマネジメントがてんでなってないように見えていたのかもしれない。「自分の子供に良い教師を付けてくれと主張するだけではエゴ丸出しと取られてしまう。それなら、全学年全学級の子供と相性の良い担任の配置をこちらで考えて提案してあげよう」と考えた可能性だって、ないわけじゃない。

 そもそも、朝日の記事からは、表向きは「平等な教育機会」を標榜する義務教育にもかかわらず、この学校では教師ごとに指導力の差があることを学校側が認めているようにも読めるわけで、親の側に「平等と言いながらクオリティコントロールの努力さえ放棄するなんて、ふざけるな」と言われても仕方がないような気もする。

 かくも「学校」にまつわる「常識」というのは時と場合と相手によってさまざまなわけで、これを埋める努力なくしてお互いを「キチガイ」呼ばわりしていても、現場の問題は何の解決にも至らない。この件に関して、実際の現場の教師の方からもブログで良識的な意見が表明されているが、その中で述べられている「この件は、もう少し慎重に考えたほうがいいのではないかと思ったわけです。下手をすると、教師と保護者との関係がますます希薄になってしまうことにつながるのではないかと心配しているのです」という危惧は、かなり的を射たものだと思われる(ちなみに、そのブログのコメント欄には小野田先生ご本人も降臨)。

 個人的な経験から言えば、我が子のことを一途に考え、端から見るといくら何でもそれはあり得ないだろうというような要望を学校に持ち込んでくる親は、たいてい教師あるいは学校側責任者との1対1の場でそれを言う。親がたくさん集まっているような場所では絶対に言わない。なぜかというと、(1)回りに他人の親がいる場所で自分の子供のエゴだけ主張しても認められないことは分かっている、(2)たいていの人は周囲の空気を読み、それに合わせて振る舞おうとする、からだ。

 つまり、ここから言えることは、親に学校というものに要求して良いことと悪いことを判断させる「常識」というのは、学校側と親が1対1で相対していては絶対に伝わらないけれど、親同士が集まっている場所ではその場の空気を「常識」とすることで伝達が可能だ、ということである。

 であるならば、学校はもう、個々の親の「常識」が自分たちと一致していることを期待するのではなく、なるべく学校側にとって負担の少ない「常識」を、親を集めた場の中に醸成するにはどうすればよいかということを考えた方が良い。学校から一方的に情報を提供し、それに黙って従ってくれることを期待するのではなく、親をグルーピングしてそこにある適切な刺激を与えることで、自律的な状況判断がコラボレーションされるのを期待するのである。曰く「学校2.0」である。

 例えば、親だけが参加できる「保護者SNS」を作り、コミュニティーの管理者には教師ではなく、複数の子供をその学校に通わせているような、経験と分別のある先輩保護者の代表(複数のチームでも可)をあてる。もちろん、その保護者には管理者としてのフィーを多少は払ったうえで、学校側と緊密なコミュニケーションを取りながらSNSの運営をしてもらうのだ。

 SNS上では、管理者の親から、例えば季節の行事ごとに「初めて運動会に参加するお父さん、お母さんにワンポイントアドバイス!」とかそういうほのぼのトピックを流してもらい、参加している親の関心を惹く。また同時に学校の運営についての親同士の意見交換もどんどんしてもらい、ある程度意見がまとまれば管理者を通じて学校に提案を出すというかたちにする。

 そうすると、多くの親はこれまでに学校にどんな提案がなされ、どういう経緯で実現してきたのかをログで確認することができるし、どんな提案がどういった理由で実現されなかったのかも知ることができる。つまり、どの程度の要求なら通り、通らないのかの「常識」が身に付く。また、他の親が自分と同じような悩みを抱えていることを知り、それをどう解決しているかも相談したり、一緒に考えたりすることができる。つまり、自分の悩みをストレートに学校にぶつけようと考えなくなる。

 もちろん、そういうコミュニティーでの議論を飛び越して自分のわがままを学校側に直訴するような親もいるだろう。だが、その内容も学校側から管理者のグループがきちんと聞き取って、プライバシーが分からないような範囲でコミュニティーに「報告」としてアップし、親同士の議論のネタにすれば、そのうち誰も「抜け駆け」はできなくなる。「抜け駆け」を繰り返すような親は、逆に親同士の間で問題視されることになり、学校側もコミュニティーでの反応を理由にその親を「無視」できるようにもなるだろう。

 実際の運用にはなかなかデリケートな部分も多々あるが、少なくとも管理者役の親と学校(教師)側がしっかり相互理解のもとに「握る」ことができれば、この仕組みは長期的には親からのクレーム対応に費やす学校側の負担を大きく減らすことにつながるはずである。

 これまでも学校と保護者の連携の場としてPTAという建前があったが、実際にPTAと学校がどんなやり取りをしていてそれがどこまで「常識」的なのか、一般の親にはうかがい知ることはできなかったし、それらのやり取りが「ログ」としてどこにも残っていなかったので、過去にどんな積み重ねがあるのかも分からず、その結果自分の子供を預ける時の不安が解消されないという問題が残った。

 SNSなどのネットワーク・コミュニティー機能を使い、集合知としての「常識」を代々の保護者に移転していく「学校2.0」の仕組みが実現すれば、学校は少なくとも親にとってずいぶん安心できるものになるのではないかというのが、ネットジャンキーな僕の妄想である。文科省も阪大の小野田教授の研究プロジェクトに上乗せして「学校2.0実験校」とかやってSNSシステムを開発して、うまく行ったらそのSNSシステムを全国の公立学校に横展開するようなカネの使い方をすればいいと思うのだけど。

 ま、そこまで文科省や学校関係者のITリテラシーが高かったら、そもそもこんな問題が世の中に蔓延してませんかそうですか。それは大変失礼しました。

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2006/05/25

ブログ封印

 ダメ。マジでやばすぎ。仕事が全然おわんない。なのでしばらくブログ封印します。ブクマには「あとでコメント」ネタがたまっていってるんだけど…。ここで下手に手出すともろもろ生産性が落ちそうなのであしからず。あ、封印期間中も無法系コメント・トラバは容赦なく削るのでそのようにご理解いただければ。では。

03:47 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (67) トラックバック (3)

2006/03/14

言葉の磁場

 以前のエントリにも書いたことがあるが、93年にタイで出家していたことがある。その理由は、1つには高校時代のホームステイ先のホストマザーを喜ばせたいということだったが、もう1つはこちらのサイトで彼が書いているようなこととそっくりな理由だった。彼が91年、そして僕が93年だから、京都と東京という違いはあれど、あれはちょうどあの時代の共通な空気だったのかも知れない、と思う。僕はたまたまタイで出家ができた。彼はそれを日本でやりたいと考えた。違いはそれだけだったのだろう。

 僧侶だった間、僕はずっと自分と世界とのかかわりの法則について考えていた。当時の僕の頭の中は、マルクスとかデカルトとかカントとかヘーゲルとかヴィトゲンシュタインとか、そういうものでいっぱいだった。そして、タイで先輩僧侶に向かって「マルクスはこう言っている」とか「ヴィトゲンシュタインはこういう説を述べている」とか、つたないタイ語で必死に説明して、西欧の哲学の巨人たちとブッダの教えとを比較して、どちらの矛が盾より強いか一生懸命試そうとしていたのだった。

 2カ月の間、ずっとそういう論争を先輩僧侶にふっかけ、「どうしてそうなるの?」「どうしてそれが正しいの?」と質問しまくっていたので、やがて寺院の中で僕はみんなからからかい混じりに「プラ・ダインガイ(どうして坊主)」と呼ばれるほどになった。他のタイ人の同僚僧侶たちは、中学・高校の国語でパーリ・サンスクリット語の基礎も習っているから、毎日唱えるたくさんのお経の意味がふつうに分かっているのだが、僕にとってはそれは暗号みたいなものだったので、自分の理解できる範囲の知識を元に質問し、それに理解できる範囲のタイ語で得られる知識をぶつけて考えるしか、仏教を理解するための方法がなかったのだ。

 僕が慕っていた先輩僧侶はとても人格の優れた人で、(マルクスぐらいは知っていたかもしれないが)ヴィトゲンシュタインとかヘーゲルとか、聞いたこともない哲学者のことを説明する僕に黙って耳を傾けては、「君のいうその哲学者はきっとこういうことを説明したかったのだろうと思うが、私の理解ではブッダはこのように世の中を見ていたと思うよ」と、静かにその議論につき合ってくれていた。

 延々と続いていたその議論に終わりが来たのは、以前のエントリで書いた虹色の渦巻きが現れて、消えた時だった。その時、僕の中で何かが氷解したのだ。溶けた氷の中から出てきたのは「宗教とは、個人的な問題だ」ということだった。それは社会と自分との関わりを「自分の側」から説明するのに役に立つが、「社会の側」からの説明として押しつけられることはないし、いかなることがあっても押しつけられるべきものでもないのだということだった。

 実は僕はその前年に宗教ではないが、ある非常に強烈な「宗教的」な体験をしていた。そこで、カリスマティックな人物が発する言葉というのが、ときに周囲の人々の意識をすべて巻き込み、その人々がその言葉を借りることでしか思考できなくなるほど強烈な「磁場」を形成すること、そして一度巻き込まれてしまった言葉の磁場とその人々の輪の中から逃れるのは、実際のところ、自分というアイデンティティを一度ほとんど喪失することになるため、死ぬほどの苦しみと努力を必要とするものだということを経験した。

 結局僕自身はある日突然その輪から逃げ出し、カリスマ本人はもちろん、自分と親しかった関係者からの電話や説得にも耳を貸さず、一切の関係を絶つという暴挙に出ることで、半年ほどかけてようやくその言葉の磁場から抜け出て「自分自身の言葉で思考する」ことができるようになった。それまでは、確かに思考のレベルはスリップストリームに入ったかのように凄まじく上がり、早くなるのだが、その一方で自分の考えることはすべてそのカリスマな人物の言葉の範疇でしかなく、まるで自分が自分でないかのようにものを考えていたのだ。半年間、必死でそのカリスマの使っていた言葉を使うのを自分に禁忌と課し、ようやく自分の言葉を取り戻したと思えるようになった。だから翌年のタイでの出家は、自分の思考だけでなく、世界と自分とのかかわりをもう一度自分の手元に取り戻すための試みだったのかもしれなかった。

 そういう経験をしたものだから、彼が資本主義の外部性としての原始仏教に心を動かされた気持ちもよく分かるし、頭が切れる人だったからこそ、カリスマ本人を目の当たりにして自分が急にものすごいスピード、レベルでものを考えられるようになったことに感激し、その虜になっていった気持ちもものすごく良く分かるし、さらには周りの人に何度諫められてもそこから何年も抜け出られなかった理由もよく分かる気がするのである。つまり、彼と同じあの時代、彼と同じあの空気を吸って生きていた自分が、今はたまたまこういうふうに生きているけれども、もしかして何かのはずみに彼であったかも知れないと強く思うのだ。

 もちろん彼と僕が違っていたのは、宗教の場所を「大学の夏休みに行って2カ月で戻ってくるべき場所」と思っていたか、それとも「出家信者」という生き方を自分の人生の中軸に据えてしまったかということでもあるし、それはつまり「宗教とは個人的な問題だ」という悟りを得られなかったという不幸だったかも知れない。そして、その結果起こってしまったことに対して、過去を自己批判し続けない限り、常に社会的な制裁を受け続けなければならないという重い十字架を負ってしまったことかもしれない。ただ、このことについては、理不尽と言おうがなんと言おうが、日本社会というのがそういうものである以上、僕にはどうすることもできないし、仕方のないことだと思っている。

 彼らが本当に自分自身の信仰者、ここで言う「出家信者」としての人生を貫きたいと思うのであれば、そういう存在を地域のコミュニティーによってきちんと受け止められ、包み込んでもらえるタイやビルマに“独りで”行けば良いと思うし、宗教的なるものに対しては常に狭小で重箱の隅まで資本主義的でどうしようもなく現世崇拝的な日本という社会において、無理矢理自分たちの宗教を「社会化」させて生きようとするのはどうかと思うこともある。それは「出家信者」と称する彼ら自身に、実際にはエゴイスティックな自意識や嫌悪する日本社会と同じように狭小な仲間意識ばかりが強烈で、本当に信仰者に求められるべき「社会」へのまなざしが根本的に欠けてしまっていることの証左でもあるのではないかと思うからだ。

 ただ、僕という「個人的」な問題の範疇で言うならば、「あの時代において、僕はもしかすると彼であったかもしれなかった」という当事者意識のもとにこの出来事を受け止めるほかないのだと思っている。そして、こういう社会の中でひっそり生きるあらゆる宗教者、本当の信仰者の「こころにいつも太陽の」あらんことを祈るほかない。

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2006/02/22

日常の亀裂

 このところ、更新が滞っております。理由はいろいろあって、1つはこのブログにウェブネタを3回も連続して書いてしまい、(ブログ用の)脳内が自家中毒に陥ってしまったこと。もう1つは本職で原稿執筆に追われまくっていること。そして最後に、このクソ忙しいのに長編マンガにはまってしまい、身動きがとれなくなっていたこと。

 何のマンガかというと、実は「ガラスの仮面」だった。最近になってカミサンが文庫版23巻を買い集めていたのを盗み読みし始めて、気がついたら止まらなくなってしまったのだ。竹熊先生いわく「現代の合法ドラッグ」という意味がよく分かった。毎晩2巻ずつぐらいを床に入ってから読み続け、10日ほどかけてやっと全巻読破した。読破しないと仕事が手につかないとあって、もう必死だった(笑)。

 詳しくは語らないのだけど、実は僕は高校から大学にかけて演劇青年だった。高校から大学にかけて、新劇から小劇場、高校や大学の演劇など年間50本以上の芝居を観に行っていたし、2年生の時には図書室にあった小田島訳のシェークスピアの全集37巻を読破したり、スタニスラフスキーシステムや鈴木メソッドの本なども読んだりしていた。

 観るだけでなく、自分でやる方もかなり手を出した。高校時代に役者、脚本、演出はもちろん、大道具、小道具、音響、照明などまですべてこなし、「衣装以外の仕事は全部やれます」とよく自己紹介の時にしゃべっていた。おまけに大学の時はある大きな学生劇団で制作をやりながら、名前を隠して別のところで演劇批評も書いたりしていた。

 それほど演劇にどっぷりはまっていたのに、「ガラスの仮面」は読んだことがなかった。当時は(というか先日まで)ただの少女マンガだと思っていたから。でも「ガラスの仮面」を読んで、そんな学生の頃の気持ちを思いだした。

 今から思えば芝居にどっぷり浸かっていた学生時代だったが、ある時を境目にぱったりと演劇に関心がなくなった。そのきっかけは95年の阪神大震災だった。僕自身が関西出身だったので知り合いがたくさん被災した。大学時代の友人にはボランティアに行った奴もたくさんいた。マイノリティ言語の通訳ができる僕に「手を借りたいからボランティアに来てくれ」と連絡してきた人もいた。

 僕は、神戸には行かなかった。冬休みだったし時間はあったから、行っても良かった。でも、みんなが押し掛けている渦の中に入って何かが見えなくなるような気がした。数週間ボランティアして帰ってきた友人の話を聞いて、僕の判断はある意味正しかったと思った。僕に言わせれば、彼らは震災の現場をただ「見てきた」だけだった。もちろんそれはそれで得られるものはあったに違いないが、そんなことは東京にいたって想像力の範囲内で経験できることだった。

 僕は、神戸に住む親戚や知り合いから聞くことのできた話から、日常の世界にぱくっと開いた目に見えない深い亀裂のようなものを感じ取っていた。そして震災から数ヶ月も経つとその亀裂がまるで何もなかったかのように塞がれ、見えなくなっていったことも、感じていた。

 その後、半年ほどしてある劇団がやった公演を観に行った。ここではその芝居の名を伏すが、内容は暗に阪神大震災をテーマにしたものだった。それまで結構その劇団が好きだったのだが、その芝居を観終わった瞬間に猛烈な怒りと虚しさがこみあげてきた。こんな舞台ごときで、あの震災に開いた「亀裂」のことが表現されてたまるか。こんなのは“ウソ”だ。

 その時、僕は演劇によって生み出せると思っていた日常の「亀裂」がまったくのウソだということに気がついてしまったのだ。演劇だけでなく、ニューアカとか現代思想とか、それまで興味のあったものの多くに対して興味を失った。あの震災に比べれば何もかもが嘘っぱちとしか思えなくなったからだった。

 話は「ガラスの仮面」に戻る。あの出来事から11年が経ち、何かが変わったのかと最近考える。「ガラスの仮面」を読みながら、北島マヤが演じる芝居に心を打たれて何度か涙をこぼした。あれ以来演劇を見限った僕の心の中の何かが、元に戻ったのかも知れないし、そうではないのかも知れない。でも、今度時間のある時にでも、何か芝居を観に行ってみようかなと、ちょっと思った。

 そんなことを思った時に、たまたま面白い記事を読んだ。「日経ビジネスX」の「イッセー尾形に学ぶ『自分』の見せ方」という連載記事だ。昨年6月に行われた、一人芝居で有名なイッセー尾形と、その演出を担当する森田雄三が、素人を4日間の稽古で舞台にのせるという前代未聞のワークショップの様子をレポートしたものだ。台本もなく、ただ集まった100人の一般人が、どのように「舞台で演じる」ことを学んでいったかを連載していくらしい。

 1回目の内容からして、ものすごく面白い。詳しくはリンク先を読んでほしいが、既に1回目にして「演劇とは何か」「人間とは何か」「人生とは何か」ということをこれほど深く考えさせるワークショップはないのではないか、という気がしてくるから不思議なものだ。

 大学の頃制作を手伝っていた劇団の主宰者が、よく「僕らの芝居は、劇場に入る前と見終わって出てきた後とでは、その人にとっての“世界”の意味が少しだけ変わっているような、そんなものを目指しているのです」と話していた。たぶん彼の言おうとしていたのは、劇場を出てもしばらくは観客にとっての日常にぱくっと空いた「目に見えない亀裂」が閉じずに残っているような、そんな体験を2~3時間の中で提供したい、ということだったのだろう。実際、僕らはそういう芝居を(ごく短い期間ではあったが)やっていたと、その頃は自負していた。

 今の日本に、「観に来たあなたの日常世界にぱくっと亀裂を開いて差し上げます」と宣言する劇団がどれほどあるだろうか。残念ながらほとんどないのではないか。しかしイッセー尾形と森田雄三は、どうやらそれをやってのけたらしいということが、このレポートから分かる。日本の演劇もまだ捨てたものではないと、何となく思えた。もちろんこのワークショップだけが日本の演劇というわけでもない。今日もどこかで誰かが芝居を演じている。そして僕は北島マヤの演技に涙している。

 そんなわけで近々また芝居を観に行こうかと思い立ったりしたのだが、さて芝居を観に行かなくなってからもう10年近いブランクが空いている。いったいどこの芝居を観にゆけばよいのやら。これだけインターネットで情報が入る時代だというのに、自分がどの芝居を観に行けば良いかも分からない。こういう時にGoogle先生は役に立たない。困った困った。

 そうそう。言い忘れていた。20日に発売された、東洋経済から出た「ブログキャスター」という雑誌に、1本コラムを書きました。専門と全然違うところ(政治ネタ)になぜか有名ブロガー、カトラー氏とともに登場しています。ご興味のある方はどうぞ。

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2006/01/09

新年のごあいさつとメディア業界についての予感

 あけましておめでとうございます。更新再開が大変遅くなったのは、ごらんの通り1年ぶりのデザイン&コンセプト・リニューアルをくわだてていたからでした。今年もよろしくお願いします。

 今年の年末年始は家の中とか持ち帰りの仕事とかいろいろあり、ずっと自宅で過ごしていましたが、そしたら思いっきり寝正月というか冬眠正月というか。外があまりに寒いものだから家族全員で引きこもり三昧、体重も爆増で、年明けから激しく焦りまくりの2006年です。

 メディア業界は、さっそく年初から何やら雲行きが怪しい。そんな状況を象徴する2つの記事を見つけたのでちょっとご紹介。

 1つは、日経ビジネスが年明けから連載開始した「TVウォーズ」の本誌連動企画。本誌のほうはまだ読んでないが、ウェブには大リーガーの松井秀喜と、橋本NHK会長、氏家日テレ取締役会議長3人のインタビューが掲載されている。

 テレビ業界の経営トップ2人の発言は、要旨をまとめると「今のフレームは変えたくないし、変わらない」という一言に尽きる。それをNHK的にやんわりと言うか、ナベツネの盟友らしくべらんめえ調で脱線しながらしゃべるかだけの違いなのだが、氏家氏の脱線ぶりが結構面白い。これが、テレビに限らずメディア業界のトップの典型的な本音というかレトリック、といってもいいと思う。

 ツッコミを入れる記者の質問もちょっとぶれていて、初めのほうで「通信と放送が融合したら、コンテンツをタダで流すだけでなく有料販売などで2次利用していくべきではないか」って振っているのに、途中から氏家氏が「メディアの最も重要な役割とは報道の内容についての客観性、信憑性の検証だ」という、テレビ業界の現場が誰も信じてもないようなテーゼ(笑)を掲げて記者を煙に巻いたために、ツッコミの矛先がうやむやになってしまい、結局話が核心に触れずに終わってしまっている。

 テレビ業界の今後を考える場合の「核心」とは何だろう。それは広告だ。氏家氏もその発言の中で「広告売り上げは成長から安定に入ったが、経済成長率と同じ程度は成長していく」と見通しを語っている。まあ、映像広告という点で見ればその通りかもしれない。だが、問題はそのパイの分配の構図だ。

 昨年、すでにラジオがネットに広告売り上げを抜かれた。そのネットがいよいよブロードバンドの普及と共にマス化し、映像コンテンツにまで本格進出し始めたのも2005年の特徴だったと思う。

 今のネットには個人や組織の著作者名がついていない、「どこの誰かも分からない」人の作ったテキストコンテンツが大量に氾濫している。ネットがコンテンツで強いのは、こういう「コンテンツを作る権利」を一般人に解放する機能を持っているからだ。今はまだ一般のユーザーが映像コンテンツを気軽に作ってアップするような状況はどこにもないが、Googleがオンデマンド映像配信を有料で請け負うサービスを始めるとリリースしたから、この市場も立ち上がりのためのインフラは確立しつつある。

 となると、氏家氏の言うような、市民記者だか一般人だかが作った嘘だか本当だかも分からないネタ映像のネット上での大量洪水に、たぶん視聴者から見たら大して区別のつかないレベルのテレビ局の映像コンテンツが押し流されるような時代が来るのも、もはや時間の問題と言って間違いないだろう。

 で、その頃にはGoogle様かどこぞのベンチャー企業が、他人の作った映像の内容をセマンティックに解析してその間に適切なCMを挟む技術を開発しているだろうから、映像広告の市場のテレビと広告代理店による独占が破れるのも、これまた時間の問題だろうと思う。

 というように、ほぼ最後の「寡占メディア市場」と思われていたテレビ業界にさえ、ネットとの市場のパイの分配争いがひたひたと迫ってくる足音が聞こえ始めたのが2005年だった。

 年後半にはNHKの民営化という話題もあったが、今の動きを見ていると、政府は少なくともNHKに「コンテンツ」の市場は開放しても、「広告」の市場への参入は許さないような気がしている。つまり、NHKは適当にコンテンツを有料販売することで生計を立てつつ、事業規模の縮小を粛々と進めましょう、というのが政治的な落としどころになるんじゃないだろうか。民放連会長としての氏家氏の“仕事”は、NHKの広告市場への参入を断固阻止する、これだけだろう。したがって、テレビ「業界」の今後を考えると、NHKの存在は大した問題ではないようにも思える。

 ただ、問題は氏家氏が意図的に触れなかったのかどうかはともかく、現実の問題としてテレビ業界に「広告のパイの分配方式を現状維持する」ための経営努力が可能なのか、ということにある。むしろここはテレビ業界と表裏一体になって広告の市場構造を維持してきた電博という広告代理店の側の問題であるとも言える。

 この点で、昨年末に電通からGoogleに転職したタカヒロ氏のブログmediologic.comの「広告業界の人材枯渇に関する一文」という今月6日のエントリが、広告ビジネスの置かれた状況を非常にストレートに指摘していて面白い。というか、この文章、昨年3月に僕が書いていたこんなコラムとそっくりだと思うのは僕だけか。

 インターネットが普及した結果、一介の個人や事業会社にとっても適切な戦略さえ立てれば「メディア」的になることは簡単にできるようになっている。つまり、広告でもテレビでも雑誌でも、「メディア」業にかかわったことのある人材がその能力を生かせる可能性の領域というのは、飛躍的に広がっているのだ。

 逆に言えば、これまで多くの事業会社にとって「こんな良い製品、良いサービスがあるのに、まだ見ぬ顧客へのコミュニケーションの手段が『既存のマスメディアに露出すること』しかないので、その価値を届けられない」という事業戦略上のボトルネックはどんどん緩くなっていると言える。そのことを直感した経営者と、メディアビジネスを経験したことのある人材とが出会えば、すごくハッピーなことが起こると思うのだけどな。

 というわけで、これからもマーケティングやメディアという切り口から世の中を見て思ったことを、綴っていきたいと思います。今年もぜひご愛読をよろしくお願いします。

02:03 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (5)

2005/12/19

メディアについて何となくいろいろ

 年末進行の世界からは去年で足を洗ったはずなのに、年末に向けていろいろとやらなきゃいけないことがあってやけに忙しい。どうなってるんだまったく。

 この1週間もいろいろとブログ上で言いたいことがあったのだけど、どれもうまくエントリの文章に昇華できないでいる。ただ、今の世の中を非常に象徴しているなあと思ったメディア批判言説がたまたま2つ、シンクロするように出てきたので、ちょっとそのことについて書いておこうか。まとまんなさそうだけど。

 強度偽装事件については、加野瀬氏@ARTIFACTから盗作電波ブログ認定されたきっこブログにイーホームズの藤田社長まで釣られて大変なことに。まあ、でも電波でも何でも釣った奴が勝ちだわね、世の中というのは。

 ちなみにきっこ氏の匂わせるに、ブログ上での一連のリークの裏には自民党から口封じの圧力を受けた記者連中がいるって言うらしいんだけど、加野瀬氏のそれが本当かどうか分からないが、こういうかたちで個人ブログがリークの回路に使われるのってどうよ、という気がする。

 てか、きっこ氏の言うことがもし本当だとしたら、これってメディアの自殺行為だよ?ときの政権の圧力で記事に書けないようなことを、芸能界のおしゃべりヘアメークごときにばらしてどうするっつーの。本当だったらその記者が文春や新潮に原稿を持ち込むことも知らない相当なお人好しの間抜け記者か、それともその新聞の社会部デスクの目が特ダネに目をつぶってでも政治部のプレッシャーを受け入れるヘタレどあほうか、どっちかですよ。てゆーか、どっちも普通あり得ないってば。

 とはいえ、こういう、メディアが書くネタを巧妙にパクって、あたかも自分のネタのようにして世の中を煽り立てるブログの存在感が高まってる(イーホームズという、渦中の人間でさえもそれに釣られてしまう)ということは、とりも直さずマスメディアの議題設定能力を、ブログを初めとするネット陣営が着々と奪い取りつつあるということを示しているように思う。

 大手のマスメディアだってもちろんウェブサイトを立ててはいる。しかし、もはやネット上にいる人たちの多くは、いちいちメディアサイトを巡回することなく、Google先生の検索やブログを初めとするXML系のウェブアプリケーションを通じてそれらの存在や話題を知る。

 と、いうところで思い出したのが、今話題になっているもう1つのブログサイト、「月刊FACTA」の阿部重夫編集長のブログだ。ソニーの販促ブログやCDへのrootkit組み込みの話などをネタにばっさり斬ってネットで話題になっている。だが、その人気ぶりも辛辣なソニー批判によって、というよりは「意識的または無意識の世論操作装置と化している既存ジャーナリズム」とか、「新聞が資本の論理に屈してコストのかかる「調査報道」は見る影もなくなった」とかいうような、マスコミ批判のボルテージによって共感を得てるんじゃないのか、という気もしないでもない。

 それが証拠に、「本当のニュースとは何かをプレビューしていただきたい」と銘打って掲載されてるロシアの資源戦略外交の話の方が、ソニーのゲートキーパーネタなどより記事としてはずっと価値があるはずなのに、TBが1つも付いておらず、ほとんど無視されているかのようだ。なんだかなあ。

 自分でも何が言いたいのかよくわかんなくなってきたが、要するにこの2つの話のどちらも、なんか腑に落ちない部分があるってことが言いたかった。腑に落ちないということは、そこに見えてる関係者の誰かが読者を騙してるか、あるいは本当のことをしゃべってないってことなんだと思う。誰が、どういうふうに騙したりしてるかは僕にもわかんないけど。

 それと、どうでもいいことだけど、ブログってやっぱり燃えやすいネタを投入した時のバイラル・マーケティング効果ってものすごいんだなと改めて納得した。そういう意味で、そろそろバイラル・マーケの舞台になりそうな一部の有名ブログには「裏」からの資金の流れが発生していくんではないかと思ったり。FACTAがバイラル・マーケだけを狙ってブログをやっているとは思わないけれど、この雑誌がこれからどうやって収益モデルを作っていくのか、興味津々で見守りたいと思う。

 書くことがまとまらないのに書いたんですっごく疲れた。中途半端だけどもう頭もまわんないし、今日はこんなところで。

03:54 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (18) トラックバック (12)

2005/11/27

財布バトン

 というのが、栗先生から回ってきた。そこに全財産を持ち歩いている俺が来ましたよ。

Q1.どんな財布使ってはります?

小銭とお札とカード類が全部入る、2つに折りたたむやつ。ブランドはRYKIEL homme。色は焦げ茶色。

Q2.ズバリ、現在中身の金額は?

1万1025円。たいてい1~2万円の間。

Q3.ポイント・メンバーズカードあったりして?

ヨド、ビック、祖父のポイントはid:matsunagaさん同様、常備。それ以外は時々ベストとか。あと、ツタヤと近くのショッピングモールのポイントカード。

Q4.診察券あったりして?

腰痛で通っている接骨院と整形外科のもの。

Q5.なにかレシートあったりして?

毎年青色申告していた父親の「領収書は1枚たりとも捨てるな」という教えを忠実に守り、コンビニからタクシーまで、あらゆる領収書は全部財布に入れて取ってある。今はセブンイレブンのが最多。

Q6.なにか割引券あったりして?

図書券500円。もう1年以上入ってる。いつも本屋に行くたびに使うのを忘れる。

Q7.その他あんなものこんなものあったりして?

クレジットカードはJCB系2枚、VISA系2枚。キャッシュカードはみずほ、UFJ、三井住友の3枚。あと、変わったところでは10年以上使っていない赤十字の献血手帳とか。それ以外はひ・み・つ

Q8.財布おとしたことある?

ない

Q9.財布拾ったことある?

あったっけな?あったかも知れないが過去のことは覚えてない。

Q10.誰の財布の中身知りたい?

藤代さん(id:gatonews)
切込隊長(id:kirik)
オーシマさん(id:nekoprotocol)

てか、これ聞いて何かいいことあるん?よくわかんないけど。

08:05 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (14) トラックバック (2)

2005/11/25

今週は特になし。つれづれ雑感のみ

 ネタをいろいろと考えたりもしたが、どうにも筆が進まない。先週からずっと1つ下のエントリが大人気ですが、「どっちもやれぇ」とかはやし立てるコメント、TBがてんこ盛り。皆さん本当に揉め事が好きですな。ブログ界=ネット野次馬というか。どうでもいいけど。

 それはさておき、今週の話題の中心は、マンションか。これについては、ウチダ先生からbewaad instituteFIFTH EDITION五号館のつぶやき松本のコーヒー屋氏に至るまで、あちこちのブログで秀逸な情報収集、批評エントリが上がっている。新聞も雑誌もテレビも一切見ずに、この件についてこれだけの情報とこれだけの考察がタダで読め、自分の知恵にできる時代。僕はなんと幸せな時代に生きているのだろう。

 建築についてはいろいろ思うところもあるのだが、うまくまとまらない。というか、もうこれだけエントリが書かれているのに、今さら付け加えて言うことなど何もないかもしれない。

 世はバブル。お金があちこちでうなりを上げて、目先の欲に目がくらんだ人々を地獄に巻き込んでいく。怪しいバブル紳士がまたぞろ跋扈し始める。なんつーか、景気が良くなると人間って悩みが増えないか。これが幸せな事態とは、とても思えないんだが。

 で、こういうマネーゲームってお金持ちの人たち同士でやってくれれば一般庶民には何の関わり合いもないことでござんす、で終わるのだが、世の中よくできたもので、めったに見ない札束やらチャンスやらに目がくらんで欲の皮を突っ張らせてその上で滑って転ぶ役どころってのはたいてい一般庶民に回ってくる。お金持ちな人というのはそういう鉄火場で巧みに経ち振る舞って、あらかた滑って転ぶ人続出する頃には手仕舞って雲散霧消。

 それを考えると、一般庶民にとって景気がいいと嬉しいことなんてほとんどない気がするのだが、どうなんだろ。かく言う僕も実はバブルの渦中の経験というのは2000年のITバブルに続いてまだ2度目でしかないので、その中での人間の振る舞い一般法則であるとかバブル経済状況に対する一般庶民的対処法であるとかについては、何とも言えず分からないのだけど。

 ある経営者が、「従業員に渡すお金は、少なすぎても多すぎてもその人をダメにする」と言っていたのを思い出した。たくさんカネを手にした時の人間のしでかすことって、本当にろくなことじゃない。自分がそういう人間にならないように、欲の灯を滅する修業は日々怠らないようにしないといけないよなー。

追記:そうそう、bewaadさんが悩んでいらっしゃる奥田ヒロシ君の例の「カルテル」発言ですが、アレですよきっと、ドラッカーに遅れること1週間、ついにお亡くなりになったヨシツネ先生にインスパイヤされたトリビュートものだとおもうわけですよ。そゆことで、よろしく。(やっぱりカタカナ使いまくり><)

03:49 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (4)

2005/11/20

消費者は偉大だ

 久しぶりに見た「オレが消費者だ文句あるか」って感じの日記。禿しく心を揺り動かされた。ネットの外側の世の中のほとんどの人はアルファなんとか言って本まで出しちゃう連中をイタイ奴扱いするんだろーなーという悟りと目覚め。しかもコメント、TB一切拒否。これぞはてダの鑑。そして自分はこういう人から「分かんねえ」と言われてしまうような文章を書いてしまったことに、反省しきり。ネットって、こういう「何の関係もない人からの容赦ない言葉」が素で聞けるっていうのが、本当にすごいと思う。

 弊ブログは通常どのようなネットユーザー様に対してもまったくのタダでご提供、お読みいただいているものではありますけれども、そういったことを言い訳にせず、この件をきっかけと致しまして今後はより一層の品質およびお客様満足の向上と信頼関係の構築と強化に努めて参る所存でございます。(棒読み)

 それはともかく、この日記の中の人にはこれからも末永く消費者ブログ日記を続けていただきたいものだ。いや、これは冗談ではなく。ネットも世の中も多様性が大事ですよ。いや、ほんとに。

08:46 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (44) トラックバック (14)

2005/10/13

生きて帰京

 何とか生きて帰京した。

 でも冷や汗が出続けていて、PCに向かって座っても、何をする気力も起こらない。廃人みたい。とっとと早く帰って寝ようと思ったが、帰ってメールボックス見たらまた面倒な要件が。しかも週末に向けてやらなければならないことを突然思い出したりするし。ぐあーーーーーーー。

 ところで今日の日経新聞の1面トップ、何これ。「固定並み料金、動画も滑らか、携帯IP電話2007年から――総務省、3―4社認可」

 お手盛り工業だったかのケイマンあたりの株主を2年越しで調べ上げてアゲようとしてる証取委と裁判所に対して「おらっちの書いた記事は、決してただ単に仕手屋の煽りに載せられて株価つり上げに荷担したわけじゃなくて、技術的な根拠と役所のお墨付きがあったんだよー」とアピールするための記事ですかそうですか。ケッ

 てか、素直に謝れよまったく。懲りないやっちゃのう。しかも記事の内容はただ「ベストエフォート」って言えば1行で済むものをわざわざ20行も費やして。こんなもん、1面トップに書く記事かっつーの。あほらし。無線LAN通信やろうとしてるライブドアを「通信ベンチャー」とか言って名前伏せるし。新しい内容ゼロ。よくこんなもん1面トップに載せるな。ま、裁判所に対する言い訳だからしょうがないか。

 しかしビデオiPod、60ギガで399ドルですか。で、ドラマ1本2ドルと。これじゃ今までいったい何のためにDVDレコーダー買ったのかわかんないじゃん。アップルすげえ。アメリカの放送局、すげえ。ソニーと松下ちょうやばい。これやったらもうDVDレコーダーとかケーブルテレビ要らないじゃん。

 あとはビデオiPodを差し込んで中の映像を自宅テレビに映写できる専用ドックを作ればいいだけだなあ。テレビで見たら、画質どうなのかなあ。60ギガで150時間って、2年前のHDDレコーダーより若干画質が悪い程度だから、普通のテレビでも十分見られそう。テレビの市場構造もこれでガラガラにぶっ壊れるんだろうか。メディア業界も大変だ。南無。

10:09 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (11) トラックバック (5)

2005/10/12

出張先のホテルで高熱+人生の正念場

 最近過労がたたり+気温が急に下がったのに相変わらずTシャツだけでソファにひっくり返って寝ていたことなども災いして2日前ぐらいから激しく具合が悪かったのだがなんとかリポビタンDと風邪薬を交互に飲むという荒技で持ちこたえさせてきたものの昨日からの出張で過労がピークに達しているにも関わらず酒席に付き合わされて、宿泊先のホテルに着いた時には頭はもうろう、悪寒がぞくぞく、そのまま大理石のロビーの床にへたり込んでしまいたいほどの病状。気力を振り絞って部屋にたどり着きベッドに潜り込むも体温が38度を確実に超えている(当社比推定)と実感され、自宅にカミサンの声を聞きたくて電話するものの当たり前だが起きているわけもなく孤独なままホテルで死ぬんじゃないか新聞休刊日明けの明日の夕刊あたりにホテルで30代とみられるブロガーが死亡とか記事が出ちゃったらやだなどうしようとかぼんやり考えながらとにかく水をがぶがぶ飲んで汗をかきまくって何とか熱は少し下げたものの頭痛が痛い。もうだめぽ、死ぬる。ヤバイ。ブログに書きたいことはあれこれあるんだけど人生の正念場がかかってるのでこれから年末までカネにならない文章など1行たりとも書く気になれないほど追いつめられているような気がするとか言いつつ夜中に起き出して頭痛の頭を抱えながらこんなだらだらしたエントリ書いたりしてるわけだがこれはストレス解消と私はここにいます、でももしかしたら明日は死んでるかも宣言だったりするわけで、ぶっちゃけこの記事の続きだれかこのブログに代わりに記事書いてくれ。口述筆記とかでいいから。でもうわごととか出そう。しかもこんな夜中にメール書いてくる奴誰だおいってただのスパムメールかよマジ氏んでくれ。俺が死ぬかスパマーが死ぬかやあ勝負勝負。倒れる10秒前。ちなみに携帯電話は電池切れましたゴメンナサイ。

04:15 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (4)

2005/08/30

「ふるさと」という贅沢

sakana 夏休み最後の週末は更新をgoo選挙特集の方にお任せして、お金持ちな某氏のお招きにあずかって僻地へと遠征しておりました。データ通信カードのPHSどころか、携帯電話も通じない。東京からたった1時間のところにこんなすげえ僻地があるのか。もう、焦る焦る。完全にネットワーク中毒者でございます。

 で、そこでバーベキューと相成ったわけだが、表に出てビールとか飲んでると、横にたまごの形をした巨大なかまどがプスプスと煙を上げている。「何焼いてるんですか?」と聞くと、中を見せてもらってびっくり。70~80センチはあろうかという巨大な魚を2匹も丸焼きしている。

 うひゃーこれが今日のメインディッシュ?とか思っていたら、違った。魚は前菜、メインディッシュは和牛のサーロインステーキでした。これがまた何枚も、次から次へと出てくる。食べきれねえええええ。

 さっすがお金持ちは違うねー、とか思っていたんだけど、聞いてみたら魚も肉も、地元の漁師さんとか昔ながらの肉屋さんとかから格安でいただいたものらしい。確かにゴージャスなんだけど、別に贅沢しようとしてそうなったわけではなく、普通に「お客さんが来るんで、おいしい食材を」と地元の知り合いに頼んだら手に入った、ということのようだ。最後に出てきたおにぎりも、聞いてみたらやっぱり地元産の新米に、自家製の梅干しを握ったものだった。

 そうなんだよね。本当の贅沢っていうのは、別に難しいことじゃないんだな。東京のど真ん中にいるとどうしても難しいけれど、田舎でその土地で取れた旬の食べ物を、人づてにタダみたいな値段で買って来て食べていれば、それって十分贅沢なんだと思うのだよね。

 前に親しくさせてもらっていたあるコンサルタントの人が引退して、「これからどうされるんですか」って尋ねたら、山陰地方の水のきれいなコメどころに第2の居宅を構えることに決めたと言われた。「米と野菜がうまいところに居れば、生活費もかからないしそれ以上何も要らないよ」というのがその人の言い分だった。

 僕自身は、東京ではないけれど都会生まれの都会育ちなので、生まれてこの方「ふるさと」というのを持ったことがない。結婚したカミサンも、「ふるさと」の田舎はあることにはあるが、盆暮れに里帰りするような習慣はなかった。お盆に周囲の人が里帰りしているのを見ると少しうらやましくなる。

 個人的には、人生の次の目標っていうのは、40歳か50歳ぐらいまでに、くだんのコンサルタント氏のように気が向いた時に里帰りできておいしいものを食べられる快適な「ふるさと」を持つことかなあ。といっても、そんなもんどうやって持てばいいのか皆目わからんのだけど。これから時間をかけて、少しずつ調べてみようかな。

 というようなことを考えながらおにぎりを頬張りつつ、梅干しの漬け方談義に花を咲かせた楽しい週末でした。

04:57 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (10) トラックバック (2)

2005/08/15

コードレス掃除機に燃料電池を!

 日曜日、家族でふらふらとちゃりんこに乗って遊びに出かけた。するとカミサンが突然「新しい掃除機が欲しい」と言い出す。

 今の掃除機は確か結婚した時に近くのヨーカ堂で売価の半額以下で在庫処分大安売りしていたのを衝動買いした奴で、当時流行始めたサイクロン方式。一応まだちゃんと使えてるんだけど、新しい家に移ってきてから、いくつか困った点が出てきていた。

 一番困ってるのは、掃除機が結構大きくて重いので、ダイニングテーブルの子供の座るところの床(食い散らかした食べ物のかすでしょっちゅう汚れる)を掃除するために引っ張ってくるのに骨が折れるってこと。

 あと、掃除機の電気コードが微妙に短くて、家中に掃除機が届くコンセントというのがなく、3カ所ぐらいを差し替えつつ掃除しないといけない。前の家は2カ所差し替えれば済んでいたのだけど、新しい家はそれより広くなったのだからしょうがないと言えばしょうがないが、これも結構面倒だ。

 で、カミサンいわく「だからコードレス掃除機がほしい」。家電量販店に行って物色しつつ店員さんにオススメを聞いてみると、松下電器の「MC-BB1」と三菱電機の「HC-Z11」、そして日立の「PV-BM2」の3機種だった。店員さんいわく、「日立は集塵ケースの構造があまり良くない。三菱はハンドルを立てすぎるとスイッチが切れるので背の高い人には向いてない。よって松下がオススメ」ってことだったが、実際に操作してみると松下のは確かに便利そうではあるが、集塵タンクがハンドルの中程にあって不格好。よって三菱が第一候補に決定した。

 ただ、その後家にあった商品券を持ってきて買おうと話して店を後にし、夜にもう一度行って買おうとしたところ、何と売り切れに。ガーン。掃除機の売り切れなんて初めて見た。お盆だから在庫の取り寄せにも時間がかかるという。

 まっ、しょうがないやっと思って帰宅してから、ネットでいろいろ情報収集してみた。だいたいはkakaku.com経由。それで分かったこと。

  • 三菱の「HC-Z11」のデザインは、実は松下の2000年発売のコードレスモデル「MC-B25M」のパクリだった。でも、吸引力は三菱の方が評価が全然上。三菱製品は2002年の発売から3年以上経った今も評判が落ちてない。
  • 松下は、三菱の改良版を見てかどうかは知らないが、先端部に電池と集塵ケースを集めることを放棄し、「小さなすき間も掃除できる」小型ヘッドタイプにデザインを変更。しかしユーザーからは「15分しか動かないのは不便」「刀型ノズルがないとすき間や毛ぼこり掃除できない」など不満が出ている。刀型ノズル付けて吸引力が改善できるような代物じゃないんだってば。
  • 日立のは2000年発売のモデル。当初から集塵ケースの構造が悪いことは指摘されていたみたいだが、バッテリーの持続時間と軽さとでそこそこ売れ、そのまま放置。哀れ。
  • 三菱の「HC-Z11」は2002年2月発売で、その前のモデルは1999年発売。99年当時のプレスリリースに「コードレス掃除機の98年の国内市場は年間92万台、前年度150%の伸長」とあるのに、その3年後の2002年の製品のプレスリリースには「市場は年間50万台の需要と予測」とあり、2000~01年頃以降大きく落ち込んだもよう。
 ニッチな業界だけど、調べてみると面白いもんである。

 ちなみに、掃除機の国内市場規模は年間約560万台程度で安定しているようなので、2000年以降伸びるかに見えたコードレス掃除機に一転して不利な状況が現出し、掃除機市場内のシェアを取られたと思われる。不利な状況とは、たぶんサイクロン掃除機のブームと吸引力競争、排気ゼロ掃除機など、コード付き掃除機の分野での性能向上のイノベーションだろう。

 実際、三菱電機も今年はサイクロン掃除機の新機種を発売して人気は上々のようだから、もうしばらく吸引力競争は続くのかもしれない。ただ、そろそろサブカテゴリであるコードレス分野にも目を向けてほしいなあと思う次第だ。

 コードレス掃除機は、部屋の隅に立てかけておいて、掃除したい時にさっと掃除するという用途が主だ。つまり、収納しなくてもいいというインテリア性と、電気コードをつないで伸ばして…といった面倒の要らない手軽さが、主流の掃除機に対する優位性である。

 一方、電池で駆動させるために、長時間使ったり吸引力を強くするのは不得意だ。だから現行機種の多くはノズル部分のローラーでゴミを集めたりといった工夫で、機能を高めている。だが、これらはもしかするとどれも「電池性能の向上」で解決できる問題なのではないかと思う。

 だとすれば、家庭用電池の性能が劇的に向上するこれから数年が、コードレス掃除機においてイノベーションを起こすチャンスである。何で電池の性能が向上するのかって?燃料電池が実用化されるからだ!

 既に東芝やNECが燃料電池を使ったノートパソコンのプロトタイプを発表したりしており、総重量1~3kg程度のモバイル機器にも使える燃料電池は作れることが明らかになっている。ただ、問題はある。ノートパソコンに使った場合、発生する水(蒸気)をどうやって排出するかが解決されてないのだ。実際、これに各メーカーとも頭を悩ませている。

 その点、掃除機なら話はより楽になる。掃除機の上から蒸気で空気中に放出してしまってもあまり問題にはならないだろうし、ちょっと発想を変えて、発生する水をノズルの後ろで床にすりつけて「掃除と水拭きがいっぺんにできる」とかいう機能に仕立ててもいいかもしれない。

 いずれにせよ、ノートパソコンに水蒸気を吹き上げさせたり排水タンクを付けたりするよりは、掃除機の方が燃料電池のずっとましな使い方ができるだろう。まじめな話、家庭用掃除機というのは数年後には「電気コードをコンセントに差し込んでから使う」のではなく、「燃料タンク口にメタノールを100ccほど注いでから使う機械」になっているかもしれない。

 …なんて夢想をしながら結局まだ掃除機は買ってないのだが、なぜかというとどのメーカーも2000年から2002年にかけてコードレス掃除機を発売したまま、新機種が発売されていないことに気がついてしまったからだ。だって、それってば今年あたりがコードレス掃除機の3~4年ぶりの新モデル投入のタイミングってことだよね?

 まじめな話、三菱電機がHC-Z11の後継をいつ発売するのか、すっごく気になるんですが。もし今年中だったら、現行機種を買わずにそっちを待ちたいんだけどなー。関係者の方がいたら、誰かこっそり教えてくれませんか?(^-^;)

02:14 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (11) トラックバック (0)

2005/07/16

そういえばモヒカン族って…

 こちらのテストをやってみたのですが、わたくしめは「非攻撃的モヒカン族」であるという判定が。

 ところで、モヒカン族って何なんですか?パプアニューギニアの山奥にいるインターネットユーザーのこと?

01:33 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (6) トラックバック (2)

2005/06/23

更新する気END

 あーあ、書きかけのエントリをまた吹っ飛ばしちゃった。最近たくさんのウェブサイトの参照しながら書くエントリで、うっかり書きかけているエントリの上に新しいURLを開いちゃって、完成間近の原稿が吹っ飛ぶアクシデントを3回ぐらい繰り返してる。つまり、事故でボツったエントリがすでに3本以上。死屍累々。

 エディタで書いてからコピペして更新すればいいって分かってるのだが、面倒くさがってウェブに直接書こうとしたら天罰てきめん。今日はもう更新する気なくした。回線切ってLANケーブルで首吊って逝ってきます・・・。・゜・(つД`q。)・゜・

11:30 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (1)

2005/06/21

初めての360度評価

 転職した会社は年俸制で、そのものさしとして360度評価が使われる。前職でも360度評価を導入するという話が人事制度改革で持ち上がっていて、僕も1度だけ先輩を評価する機会を得たことがあったが、自分自身は結局360度評価を受けずに辞めてしまったので、今回が初めての360度評価体験だった。

 前職では、テスト導入で360度評価を受けた管理職が、集まった部下や同僚からの評価の自己評価とのあまりのギャップに色を失って逆切れし、経営側から労働組合に年2回の360度評価を2年に1回に減らす修正案が出されたというお笑いのオチがついていた。

 笑っている場合ではなくて、これはまさにプリミティブな360度評価をそのまま組織に入れた時に起こる反応の典型例だと思う。自分が自分で思っているよりもずっと低くしか他人から評価されていないと、数字で示されたときの人間の受けるショックというのは大変なものだ。プライドも何もない入社半年の僕でさえショックを受けた(笑)のだから、自分の仕事ぶりにそれなりのプライドを持って何十年も生きてきた人なら、筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。

 僕自身も、自己評価は相当低めに付けたつもりだったのだけれど、それでも自己評価を下回る評価点の項目が(それも、自分としてはいろいろな尺度の中では比較的よくできていたと思っていた項目で)いくつもあった。

 数字だけ眺めていると、「表面的なところしか見ずに点を付けられてるな~」という悔しさが募ってくるのだが、その後に「ギフト」という名前の、各評価者からの定性コメントが添付されていて、それを読んで自分がなぜそういう評価点をつけられたのか、初めて納得できた気になった。

 評価の数字だけ見ていると「表面的」であることに腹が立ってくるものだが、コメントと一緒に読むと、むしろ周囲のそういう意見を「表面的」と断罪する自分の感覚こそが「表面的」なのだ、ということに気がつく。

 そうか、回りの人たちは一緒に仕事をする者として、より快適に仕事をしていけるために僕にこういう立ち居振る舞いを求めているのだ。それが何よりも自分自身、より高い生産性で仕事をするために必要だから、こういうフィードバックを送ってくるのだ――。

 そう気がついたとき、360度評価が来年度の年俸に反映されるのがとても自然だと思えるようになった。目の前でその評価結果を見せられて、それとともに来年度の年俸額を提示され「サインして下さい」と言われるのは、何というかすごく「米国的」だなあとは思ったけれど、不思議に違和感が全然ない。

 リクルートの2003年の調査によると、360度評価を導入している企業は約20%。うち半分は「導入はしたが改訂の予定」だそうな。たぶん、前職の会社のように入れてはみたものの、社内から不満が噴出して対応に苦慮してるのだろうな。で、よくある失敗の理由として「360度評価制度を処遇決定(昇進昇格基準や賃金決定)に直接反映させている、もしくは、直接反映しているのではないかと従業員に「思われている」」ことにある、という。

 逆に聞きたいが、社内で一緒に仕事をしている人たちが「あなたのこういうところが私の生産性に好影響を及ぼしている、逆にこういうところは生産性にマイナスだ」と評価した声が、年俸でもボーナスでも昇進でもいいのだけれど、何ら処遇に反映されないとしたらそれって何のためにやっているのだろうか。変な話だ。

 他人に評点を付けるのはそれだけで大変な手間がかかる。もし人事部の独りよがりで「うちも先進的ツールは導入しています」ということを言うためだけにこんなしちめんどくさいことを従業員に強いているのだとしたら、それ自体が壮大なムダだと思う。

 たぶん、360度評価をうまく機能させるために必要な要件は、360度評価を処遇に反映するかしないかではないのだ。社員同士が上も下も関係なく、たがいのことを信頼し合い、より良い仕事ができるように意見を言い合い、それを常にポジティブに受け止められる、そういうビヘイヴィアを有形無形に「強制」するような組織文化がないとダメなのだ。

 これって、言うは易しだけど実際にやるのは相当難しいだろうな。特に、組織が大きくなればなるほど、組織内にいろいろなベクトルが存在し、それとともに政治的な思惑を異にする人たちが存在するのを許容せざるを得なくなり、その人たちの間で信頼関係を維持するのが難しくなる。まあ、そういう人たち同士で360度評価し合わなければいいのかも知れないけれど、それが営業と生産とか、補完関係にある組織だったりするとそうもいかなくて大変だろうし。

 結局、そういう組織では本音でものを言い合ってお互いがムダに傷つくのを防ぐために、当たり障りのないことを360度評価に書くようになって、結果的に評価作業そのものが壮大なムダになるんだろうな。

 どんな経営ツールも同じだけど、そのツールが大きな効果を上げるだけの組織文化を作りあげることの方が、ツールを導入するよりもずっとずっと難しい。だけど、ツールを入れるのにはお金がかかるけど、組織文化を変えるのにはお金はかからない。C/Pで言うと組織文化を変える方が安上がりなはずなんだが、世の中の経営者でそれに気がついている人というのは本当に少ない。僕がこれまで会った中でも、指折り数えるほどしかいないかも。

 あと、「そういう組織文化をまず変えなきゃね」と言われて、二言目に「そんなこと無理だ。議論するだけムダだ…」と言う人は、結局のところ自分は、あるいは企業は何も変えられないよ、と言っているに等しいのかも知れない。

07:47 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (5)

2005/06/05

意外に早く復帰

 ごぶさたしておりました。実は引っ越しで6月半ばまでブロードバンド環境がなくなってしまうので更新停止せざるを得ない状況だったのだけど、なんと固定電話よりも早くネット接続会社の工事が終わった。で、引っ越し当日にして既にブロードバンド環境が確保できた。スループットは4.75Mbps。快適快適。

 あと、人生相談もだいたいけりがついたが、目下最大の懸案である本を書く作業(笑)はまだ残っているので、それにメドがつくまで本格的にバリバリ更新するわけにはいかなさそう。ただこれで物理的な障害はなくなったので、ぼちぼち再開していきたいと思う。

 それにしても今回の引っ越しで、ISPの方が固定電話よりも対応が早くなってるということを知り、少なからずショックだった。

 引っ越しの1週間前の同じ日にNTTとISPに連絡をして開通工事を頼んだのだが、NTTは「最速で3週間後しか工事できません」と返事してきた。ISPは「2週間以内にうかがいます」と返事があり、実際に工事にやってきたのが申し込みから1週間後の引っ越し当日。

 知り合いとその話をしていたら「最近は5~6月に引っ越しが多いらしくて、NTTも切り替え工事がすごく待たされるらしいよ」と言われたが、昔だって3~4月の引っ越しシーズンのピークは今の比ではなかったはずで、それでもちゃんと引っ越しの翌営業日ぐらいには工事に来てくれていたような気がする。いくらピークがずれたと言っても、やはり希望日から2週間近くも工事が遅れるというのは、最重要固定インフラの1つを担っている企業とはとても思えない。

 しかも、一方で役所や金融機関の移転申請書類に自宅ではなく携帯電話の番号を書いても、誰も文句を言わなくなった。こちらとしても、自宅の電話に連絡が入っても忙しくてつながらず、留守電さえ1週間以上聞かずに放置するのがざらとあっては、連絡先として固定電話を用意しておく意味がほとんどない。

 あと、今回加入したISPで、IP電話も一緒に申し込んでみた。固定電話回線に緊急連絡先としての機能ではなく、「安く電話がかけられる」機能しか期待しないのであれば、IP電話で十分だ。提携ISP同士の電話ならタダでかけられるとあって、さすがにスパムコールの被害なども一部で出始めているようだが、発信機能しか使わないつもりなら着番号ならぬ着IP?縛りでもかけてしまえば知り合いとの連絡手段を確保するには十分だ。

 まあ、もっと進んだ通信手段がほしければSkypeでもやればいいわけだが、一般の家庭でPCを通話の発信機能に使うには(うちのカミサンなどを見ていても)まだちょっと敷居が高いのかなとも思う。そのうち、電話線ではなくイーサネットにつないだだけで使えるSkype内蔵家庭用電話機が登場すれば、今のIP電話からさらに乗り換えてしまってもいいかも知れない。

 …とか言いつつ、まだIP電話がうまく設定できないのだが誰か助けてくれ。

 ところで、前のエントリでもコメント欄にツッコミが来ていたが、忙しくなる前にネットラジオにまた出演して、その回の放送分が先週アップされていたらしい。実は引っ越しが忙しすぎて、自分でもまだ聴いて確認してないのだけれど、結構過激なことを口走った気がする。多少カットされたらしいんだけど、とんでもない発言が残っていたらどうしようか…と心配。ご興味のある方は聴いてみてください。では。

10:02 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (4) トラックバック (1)

2005/05/11

運動系な人たちを批評することの難しさ

 昨日気がついたんだけど、今週の日経ビジネスってば特集丸ごとブログの話だったのね。特集タイトルにも章ごとの見出しにも一言も「ブログ」って書いてなかったんで、思わず見落とすところだったよ。マスメディアの話には一言も触れてませんが、ビジネスブログ系の話をかなり広範にカバーしてるので、ご興味ある方はキオスクでどうぞ。

 さて、話題はまったく変わるが時々読んでいる上山和樹氏のブログで、ちょっと気になる話が語られていて、ここ最近ずっとそのことが頭から離れない。『不登校は終わらない』という本の著者である東大大学院の研究者・貴戸理恵氏と、その本の題材となった「東京シューレ」という、不登校児を集めたフリースクールの間の論争についての話。かれこれもう1ヶ月近く前から話題だったようだ。

 僕は東京シューレや代表の奥地圭子氏についても伝聞でしか聞いたことがないし、貴戸氏の著書を1冊も読んだことがなく、自分自身も不登校云々とは何の関係もないという、まあ上山氏的に言うと「究極の非当事者」なわけで、そういう人間がこの論争についてのまとめを書くのはどうかと思う(笑)。ちょうど、非常に読みやすく、かつこの問題について最も的確な解説と問題抽出をしているブログがあったので、まずはそちらにリンクしておきたい。話が全く見えないという方は、まずリンク先の荒井賢氏のエントリをお読みいただければ。

 で、僕は別に東京シューレや貴戸氏のどちらの側にも異議申し立てするつもりはないし、まして稲葉振一郎氏の書評のように、不登校の理由がヴィトゲンシュタイン言うところの「語りえぬもの」である、などというたいそうな議論をするつもりも全然ない。

 では、なんでこの話でエントリを立てたかというと、上山氏の言う「当事者性」というところにひっかかったからだ。不登校、ひきこもり、フリーター、障害者といった個別具体的な属性によって、この「当事者」という言葉の含む意味もさまざまに変わってくるとは思うので、上山氏が言うような「当事者性一般についてのメタ言説」、というようなものが存在し得るのかどうか僕も分からないのだけれど、要するにこれってば「人はいかにして人を批評しうるか」というような話なんじゃないのかな。

 例えば企業の批評というのは、方法論的に言えばある意味非常にシンプルだ。要するに「正しい手段でどれだけの利益を上げているのか」というところに徹底的にフォーカスして論じればいい。この場合の「正しい」を、「法律を守っている」と取るか「人倫にもとらない」と取るか、その幅の解釈はいろいろあり得るだろうが、一方で「利益を上げている」かどうかというのは定量的に確認できるので、その部分については批評のロジックを一貫できる。

 問題は企業じゃない相手、例えば上のような運動系の団体だったり場だったりする。これを批評することは手続きとロジックの両方の意味において、めちゃくちゃ難しい。

 批評の1つの方法が、「私もあなたたちの同類なんだ、あなた方がケアすべき対象は私なのだから私の意見を聞いてくれ」というスタンスからものを言うこと。これが上山氏の言う“当事者が批評”するということだ。ま、これは分かりやすい。

 問題は、研究者だったりマスコミだったりといった、当事者でない人たちがその団体や場を批評することだ。運動にかかわる“当事者”たちにとっては、関係ない外側の人間にあーだこーだ言われる謂われは基本的にまったくないし、もしもその運動が社会から完全に隔絶したところで行われている場合、外側の人間にとってもその運動に対する批評を聞かされる・読まされることというのは単なる「好奇心の発露」以外の何物でもなく、殺人やら犯罪やらが起こらない限り余計なお節介のレベルである。

 だが、その運動が何らかのかたちで社会に関わっている、あるいは将来大きく関わりそうだと思える場合、外側の人間は無関心ではいられないわけで、当然その運動の「批評」を聞いたり読んだりしたくなる。ところが、その運動が既存の社会システムに何らかのアンチを掲げている場合(企業という形態を取らないたいていの運動団体はそうだが)、外側の人間がいかに自分に利害関係があると思って批評したとしても、“当事者”たちにとってはアンチの対象であるシステムの側の人間がわざわざ自分たちにケチを付けにやってきたぐらいにしか思えず、「余計なお世話」という反応に終始してしまう。

 批評するためには、ある程度その実態やら内情やらを取材して回らなければならないので、当然ながらある時点ではマスコミや研究者も完全な外部の人間ではなく、「当事者」や「関係者」のふり、あるいは運動に共感する人間を演じつつ接近しなければならない。運動の関係者として入り込んでおきながら、いざ批評する場合には外部の非当事者にも理解できるレベルで、つまり共感をある程度断ち切って話をまとめなければならないため、ここに常に摩擦が生じる。

 企業の場合、いかに常人に理解されない独自の理念やらビジョンやらがあろうが、外部の社会とは商取引という等価交換を行っていかなければならないので、当然ながらそこには摩擦やギャップをある程度緩和する、あるいは埋める手だてとしての「マーケティング」や「コミュニケーション」が存在しなければならない。

 けれど、運動系の団体や場というのはその成立において、たいてい外部社会とのコミュニケーションをある程度断って仲間同士のコミュニティーを形成する過程を経る。その経緯を今も引きずっている場合、社会とのギャップや摩擦を埋める必要性を企業ほどには感じないことも多い。

 実際のところ、荒井氏のまとめているように、外部の人間の中には、若い時分に「なんか、不登校な奴って自分のポリシーがビシッとあって、惰性で学校に通ってる俺らみたいな奴より何となく格好いいよなぁ」とさえ思わされた経験も少なからずある(実は僕もそうだった)わけで、市民運動の中にはもともとニッチでマイナーな「アンチ社会システム」から出発したにもかかわらず、今となってはそういうさまざまな思想的影響を一般社会に与えるものも少なからず出てきている。

 ところが、残念なことにそれら団体の多くは自分たちのポジションがもはやニッチではないようなウェイトを占めるに至っているのだということに無自覚なままだ。だからいざ運動と社会のかかわり方を外部から批評されかけると「我々は我々の気持ちを理解しない外部の非当事者からの批評は、断固拒否する」みたいなコミュニケーション拒否の態度を示しちゃう。今回のシューレのリアクションは、その典型みたいに見える。

 もっともこのあたりはその批評の主体たるジャーナリストなりアカデミシャンなりの「説得」スキルにもよるわけで、書籍や記事を出す前に、事前に批評される対象に「あなた方もずいぶん社会から思想的ポジションを認められるようになっていて、そろそろその思想を社会システムのニッチな部分に対するアンチとしてではなく、オルタナティブな価値観として世界を包含できるようなものに磨き上げていくべき時期ですよ」とかなんとか、褒めそやしたりすかしたりしながら一定の「外部からの批評」を許容するようにし向けていく役割が、本来彼らには課されているわけ。

 今回の東京シューレと貴戸氏のそれぞれの言い分を読んでみると、貴戸氏は「私はアカデミズムに許されているデュー・プロセスに則って不登校を研究・分析した。それのどこが悪いんですか」というロジックを展開しており、一方シューレの側は「そうは言ってもあんたの著作で傷ついたって言ってる生徒だっているわけだし、かつては当事者だったとか言いながら運動のコミュニティーに接近してきたんだったら、コミュニティーに対する仁義ぐらいちゃんと切れよ」という感情論を、無理矢理「原稿修正」というロジックに置き換えて貴戸氏にぶつけているように見える。

 つまり、話が「正論」と「感情論」ですれ違っていて、全然噛み合ってないように見えるのだ。あくまで外野からはそう「見える」というだけの話で、実際もっと事情は複雑なのかもしれないけどね。

 個人的には、もともと取材する側の人間だったこともあり、貴戸氏の側にやや厳しめの印象を抱く。彼女の「理論的にはまったく正しいが、取材対象となった関係者の神経を逆撫でしそう」な回答文を見ると、「正しいことを主張するのは構わないけど、そういうことやってたらこれから不登校の分野でフィールドワークできなくなるよ、あんた」と思ってしまう。人間ってば感情の生物だからね。ま、彼女の行為はそれも分かったうえでの計算ずくなのかもしれないが。

 というわけで、オチなし・余計なお節介の雑感でした。上山氏が両者に取材を試みているようなので、その報告に期待したい。

12:57 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (7)

2005/05/06

ネットラジオに出演してみた。

 活字媒体への執筆依頼は紙もネットも全部蹴っていると以前に書いたが、僕はこれまで活字以外のメディアに発信者側としてかかわったことが(ずっと若い頃の例外的なチャンスを除き)ほとんどなかった。

 かかわってこなかったのは単にチャンスがなかっただけで、自分としては興味がないわけではなかった。そこにたまたま今回お誘いがかかったので、ひょいひょい出向いてネットラジオに出演してみた次第。

 ゲスト出演してきたのは、このブログのメインコンテンツであるビジネスや経済社会についての硬派なお話とはまったく畑違いの、デスクトップミュージック(DTM)をあれこれ批評するネットラジオ「DTM天国(仮)」。そこのパーソナリティの方(丹マリさん)がこのブログを読んでいて、声を掛けてくれたのである。

 DTMについては僕も高校生の頃に打ち込みとかやっていたこともあるのだけれど、さすがに丹さん、服部さんという2人のパーソナリティについていけるわけもなく、そっち方面の話の時は不用意なことは言わずに黙っていた。番組の中でしゃべったネタは、パーソナリティの丹さんが大好きな紅茶の話。ま、詳しくは番組を聞いていただければと思います。

 7日からライブドアのストリーミングで配信するらしいので、ご興味のある方はどうぞ。真ん中あたりのトークのところ以降に登場しています。なぜか一番最後のエンディングのところで延々としゃべっちゃって、パーソナリティに「今ごろしゃべるな」とか突っ込まれてますが(笑)。30分以上にわたって服部さんの関西弁でのツッコミが冴えまくり、DTMのことを全然知らない人でも十分楽しめる音楽トークの番組です。

 で、今回出演して思ったのは、やっぱりラジオのパーソナリティには、それにふさわしい「しゃべり方」というのがあるんだなあということ。僕は文章を書くことについてはいちおうプロの端くれだったけれど、しゃべってみると全然ダメだった。「ということでぇー、」とか無意識に語尾が伸びるしゃべり方をしてるんで、聞きづらいのなんの。しかも声がくぐもってる。

 それに比べて、パーソナリティの2人、特に服部さんの声のキレはすごい。僕よりも2倍ぐらいマイクから離れてるのに、声の明瞭さは僕よりずっと上。さすがプロは違う。

 ちなみに、7日からストリーミングで放送する分は、あまり音質がよろしくないそうなので、番組の「ねとらじポッドキャスティング」のページ(10日以降は「DTM天国」のブログ)から、192kbpsのmp3ファイルがダウンロードできるようなので、そっちがお勧めです。

 で、今そのページをみていて気がついたのだけれど、5日に「週刊!木村剛」がラジオNIKKEIでポッドキャスティングを始めたようだ。ゲストが山本一太参院議員とホリエモンという豪勢な顔ぶれ。ホリエモンのトークはなかなか面白かった。ラジオNIKKEIのホリデイスペシャル企画のようなので、第2回目以降があるのかどうか分からないけど、これからこういうブロガーのポッドキャスティング進出っていうのも、当たり前になるんだろうな。

 個人的には、iPodでキムタケのダミ声を1時間も聞かされたいとは思わないんだけど、「あのブロガーの考えを活字だけじゃなくてしゃべりでも聞いてみたい」という人は少なくないはずで、そういう意味ではブログとネットラジオの相性っていうのはかなり良いのかも知れない。

 そう言えば、ネコプロトコルのオーシマさんがはてなアイデアに「はてなポッドキャスティングを開発してほしい」というアイデアを出した話を読んで思わず吹き出してしまったのだけれど、でもこれって結構笑いごとじゃなくて、最新の日記を声で記録したものをiPodにダウンロードして朝の通勤電車の中でまとめて聞けるようなサービスというのが望まれているんじゃないかとも思う。オーシマさんでなくとも、美人はてなダイアラーの声を毎朝聞きたいとか考える人がいてもおかしくない。

 ただ、活字のブログと音のポッドキャスティングというのは、ずいぶんとコンテンツの「作法」の違う世界でもあるなあというのが今回の僕の実感だ。両方うまく使いこなせるというのはかなりの情報発信リテラシーのある人だろうし、そういう人がどこかから出てくると面白いかも。

 活字媒体というのは、最小限の量のデータで最大限の情報を伝えられるという意味で、有史以来の人間の英知が詰め込まれたインターフェースだと思うのだけれど、一方でその弱さというのもあって、それは読み手側に非常な意識の集中を強要することだと思う。ありていに言えばテレビやラジオのように「ながら」の情報摂取ができない。

 ブログとネットラジオの併用で、そのへんをうまく補うようなメディアミックスができると面白いと思うんだけれど、どうなんだろうね。このあたりは僕も未踏の領域なんで、何とも言えないが。

08:49 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (4)

2005/05/05

GW中に誕生日を迎えた人たちへ

 身近な人で、ゴールデンウィークのまっただ中に誕生日を迎える人が何人かいる。祝日に誕生日が重なると、誰も自分の誕生日を真面目に祝ってくれないとか言って怒る人がよくいるが、もうね、何を寝ぼけたことを言ってるんだかと。世の中でGW中に誕生日を迎える人ほど最強の運を持つ人もいないと思うですよ。

 だって、今の世の中には「バースデー割引」というものがあるじゃないですか。夏休みのハイシーズンは、さすがに割引適用は、ない。7月末から8月の1ヶ月半ぐらいの間に生まれた人は、かわいそう。誕生日のメリットがすべて夏休みの前か終わりにしか得られないから。あなたの誕生日より世界の航空会社の営業利益の方がもちろん重要という、市場経済の冷厳な事実を突きつけられるわけです。

 ところがしかし、日本という国の特殊性の象徴というか、4月末から5月上旬の時期にぽっかり浮かび上がる国際的常識外れなグレート・ホリデイ・ウィークにはさすがの航空会社も無力。GWにかかる時期に誕生日を迎えた人にとっては、毎年バースデー割引で日本全国どこに行っても1万円で旅行し放題なのです。うぉぉ、ありえないありえないありえな~い。さすがにバースデー割引で海外までは行けないようですが。

 最近は航空会社だけじゃなくて、ホテルとかレジャー施設とかレストランまでもバースデー割引をやるようになってきてるから、なおさらだ。だいたい、連休とも盆暮れともいかなる祝日とも関係のない平々凡々な日に生まれた人間がこの制度によってどれほど差別されているか少しでも考えを至らせたことが、航空会社のバースデー割引に安易に便乗する割引サービスを実施している施設の運営者はあるというのか。そこんところ、どうなのか。これは信じられないほどの不公平であり不平等であり人権蹂躙、いわば誕生日差別であるっ!!ちくしょうちくしょうちくしょう。

 というわけで、しばらく更新していませんがR30は毎日ガキに蹂躙されながらもちゃんと生きていますよ宣言でした。読者諸賢におかれましては引き続きこんなブログなど読んでねえで楽しいGWをお楽しみください。かしこ。え?何?今日でもう終わり?それはそれはご愁傷様。お互い、明日から頑張って働きましょうや。では。

05:04 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (2)

2005/04/26

僕らは・・・

何気ない日常を生きる人々の上に
突然降って湧いた惨劇を目の当たりにする時、
どんな言葉も虚ろにしか響かない。
それでも人は言葉によってしか何かを伝えられない。
だからしゃべる。
書く。
どんな言葉も虚ろにしか響かないと分かっている。
分かっていながらも、書き続ける。
語り続ける。

労働強化のせいだという人がいる。
逆に労務管理がなってなかったのだという人もいる。
品質のことをつぶやく人がいる。
市場の競争のせいにする人もいる。
これこそマイクロテロリズムだろうという人もいる。
鉄道の線路の下には戦後の闇が埋まっているという人もいる。
みんな、虚ろに響くことが分かっていながら、
それでも語り続けなければならない時、
人はその心の中にある真の関心事を口にしてしまう。
そしてそれらはどれも、
虚ろにしか響かない。

目にした悲惨を、ひたすらありのままに語ろうとする人がいる。
亡くなった人ひとりひとりの物語を語ろうとする人がいる。
やり場のない怒りをどこかにぶつけようとする人もいる。
目に見えない恐怖を血眼になって探す人もいる。
「言葉を失った」と書く人もいる。
彼らは何を伝えようとしているのだろう。
彼らは何かを探し当てるために語っているのか?
彼らは何かを必死で忘れようとしてしゃべり続けるのか?
彼らは自分が涙をこぼさないために言葉をつづっているのか?
それとも、彼らは何かを隠蔽するために書き散らすのか?
それとも、彼らは何かの商売のために?
それとも、彼らは祈るために?
何かを、祈るために。

今、ここで、何気ない日常を生きる我々に、
その祈りは届いているか?

12:16 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (11)

2005/04/08

今日のマイブレーク:高橋メソッド

 いやー、これ最高に笑った。最強のプレゼンメソッドだな(笑)。

 高橋メソッド

 はてなブックマークの「注目のエントリー」欄が、最近激しく面白い。正確に言えば、たくさんブックマークしている人のいる「00 users」という表記のところを見ると、ブックマークしている人たちの備忘コメントが見られる。これがとても面白いのだ。

 今日、ひときわブックマーク件数の多いページがあるなと思って見たら…これが大爆笑。昼間見たときは50件ぐらいだったのが、今さっき見たら80件突破してる。

 しかも、なんとそれをJavascriptでブラウザ上に簡単に実装するページまで出現。GJ!社内で回りの席の人に見せて、みんなで大爆笑。類似のインプレッション手法として有名な、「ルパン3世」のタイトルメーカーのFLASHをパワーポイントに張り付ける手法を紹介するブログも出てきた。

 ちなみにうちの会社は、プレゼンでやたら小さい字を1枚のスライドにたくさん書き込むのがしきたりになっている。目的を考えるとしょうがないところもあるんだけど、個人的には違和感が強かったので、なおさらこの対照的な手法に痺れた。これ、今度の社内研修の時に一部ギャグで使ってみようかな。

 ただ、このプレゼンが面白いのは、オリジナルの作者である高橋征義氏が、微妙に弱腰な姿勢でプレゼンしているところなのだろう。単に字がむやみとでかいから面白い、というわけではないように思う。

 本当に笑える「高橋メソッド」のプレゼンをやるには、単に字を大きくするだけでなく、高橋氏の編み出した独特の弱腰スタイルも学ばないとダメな気が。精進しなければ(何にだ)。

 あと、この1行コメントの楽しさをうまく使ったはてなブックマークがこれからちょっとヒットしそうな予感。

09:21 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (5)

2005/03/29

オピニオン: 名誉毀損は竜頭蛇尾の時代

【偽GJニュース 03月29日 東京都】-前置きをまったくせずに話し始めてしまうが、湯川氏@時事通信が実況中継してくれていた大陸間弾道ミサイル先生と我らが子ども新聞生扉PJニュースの小田親分のバトルのことである。昨日15時に小田親分が上・中・下からなる迎撃ミサイル「ブログ時評という論理破たん」3部作の最終回を堂々完成した。

 そしてそのたった3時間後に、間髪入れず弾道ミサイル先生から「ライブドアPJへ:自ら出発点の欠陥を正すのが先だ」と題した、これまたいつもの居丈高調の反論エントリがものすごい勢いでアップされた。

 記者はたいていのパソコンの前ではお茶を噴かない冷静さを持つ人間であったが、さすがに小田親方のこの最終作品を読み終わった瞬間、17インチの液晶ディスプレーをもう少しで復旧不能の故障に追いやってしまうほどの量のお茶を噴いてしまった。記者の口から見事に大量のお茶を噴出させた張本人とは、小田親分の華麗にして荘厳なる迎撃ミサイル3部作の最後に添えられた、

*この原稿はPJ個人の見解であり、ライブドアの見解ではありません*
 の太字加工された1行である。

 弾道ミサイル先生に向かって「朝日新聞社員の~」と組織名も名指しで批判を繰り広げ、「名誉毀損」とまで大見得を切ったのなら、当然ながら小田親分は生扉を代表して言っているのだろうと誰もが思ったはずだ。まだ噂の段階ではあるが。

 なのに、最後の最後に出てきたのは「個人の見解」であったことであるよ。あーりーえーなーいー。もう君たち勝手にそこでとぐろ巻いてなさい。ママぜんぶ許してあげるから。

 記者は常日頃から弾道ミサイル先生の居丈高ぶりはブログやネットジャーナリズムとそぐわないと思って生ぬるく冷やかしてきたが、今回ばかりは単純にネットで発表する文章の持つべき最低限のロジックという点で、弾道ミサイル先生のほうに圧倒的な軍配が上がったと思えてならない。記者の「妄想」かもしれないが。

 ライブドアの堀江貴文社長は、商法上の所有権は株主のものであるが、心の所有権は拘束できないと語っていた。生扉PJの小田親分も、弾道ミサイルを迎撃するなら読者から孤立したメディアは立ちゆかないということも無縁ではないと思われることを知ったほうがいい。ソースはRなんとかっていうサイトで見たような気がするが忘れた。とにかくそういうことだ。

 ホリエモンが新風を吹かすのはフジテレビだが、記者がお茶を噴かすのは昨年末に買ったばかりの液晶ディスプレーだったことを忘れてはならない。名誉毀損はどうでもいいが、物品損壊には断固として謝罪と賠償を要求する。そしてみんなでカネの勉強を始めよう!【了】

生扉・偽GJジャーナリスト R30
この記事に関するお問い合わせ先:r30marketing@livedoor.com

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2005/03/18

ガ島さんと転職のこと

 一昨日、東京に来られたガ島通信氏と会って昼飯(カレーライス)食って茶しばいてきた。えーガ島さん、ちょー背高くて(たぶん180cmはある)ちょーイカシたナイスガイだぞ!!いや、マジで。僕が女なら目がはぁと♪になってしまうところだ。あれで独身なんか?!ありえねえ。××(彼の居住地)の女の目はみんな節穴なのか、オイ??

 というのはさておき、彼と1時間半ほどマスコミ、転職絡みのことをいろいろと話し合った。驚くほどお互いに考えていることが似ていたので大笑い。僕的には「ゴールドラッシュの横でジーンズを売る」っていう喩えにはまった。いやあ、楽しかったです。

 ま、彼の転職の真意みたいなものの詳しい中身は彼のコンテンツであるし、そのうちガ島通信で連載があると思うのでここでは語らない。その代わり、転職ということについて語ってみたい。

 1つだけはっきりしていることは、ほとんどの人が転職せずに1つの会社を勤め上げて一生を終えるという時代は、もはや終わったということなんだろうと思う。

 理由は、簡単だ。1つの会社が40年間継続して成長するなんてことはほとんどまれである、ということにみんなが気がついた。それだけのことだ。

 企業の発展は、よく軍事作戦に喩えられる。どんな事業でもその始まりから終わりまでに必要なタイプの人間とは、大きく分けて4種類だ。市場機会があると思われるところに危険を省みずパラシュート降下したり、暗闇に紛れて上陸作戦を敢行したりして橋頭堡を築く「コマンドー」、その地域に橋頭堡が築かれたら集団で上陸し、巧みな波状攻撃でもって戦力を面展開し占領する「歩兵」、そして占領された地域に入って統治し、その地域から上がる収益をなるべく豊かにする「警察」、最後に、侵攻に失敗したり撤退する時に、後ろから追ってくる敵をうまく手なずけて被害を最小限にとどめる「しんがり」だ。

 面白いことに、よほど特殊な分野でもない限り、人は勉強さえすればたいていの分野の軍事作戦をこなすことができる。生まれつき電気製品のビジネスにしかかかわれない人とか、保険以外のどんな事業をやらせても失敗する人、などというのはいない。

 だが、この4種類のうち1人の人間が2種類以上こなせる能力があるケースというのは、極めて稀だ。画期的な技術を開発する技術者が、同時に冷徹な大組織の管理の天才でもあったなどという例は滅多にない。

 どの企業にもこの4種類のタイプの人間がいるが、企業の成長フェーズによって必要なタイプの割合というのは変わってくる。生まれたてのベンチャー企業にはたくさんの「コマンドー」とごくわずかの「歩兵」しかいないだろうが、成長期にはトップ以外にも才能ある「歩兵」の右腕がいなければ会社は回らない。そして、成長の止まった巨大企業では「コマンドー」は慎重に排除され、冷徹な「警察」と場合によっては「しんがり」が、膨大な社員を操ってコストと事業展開領域をコントロールすることになる。

 戦後の焼け野原からずっと、日本の企業は量的拡大を続けてきた。つまり成長軌道に乗ったときのタイプ別社員構成をそのまま微修正程度に維持しながら、事業領域をどんどん拡大し続けることで組織を再生産してきたわけだ。それで戦後50年近くうまくやってきた。

 ところが、バブルが弾けて成長が止まってみると、この成功方程式がまったく通じなくなってしまった。いくらもがけど、本業の周辺に新たな事業拡大の余地はもうない。本当は「警察」と「しんがり」に会社の操舵を任せ、領地の統治に必要最低限の人間以外は切り捨てて新たにまったく別の方面に向けて外部も含めた生きのいい空挺部隊を編成し、侵攻させなければならないところなのに、上層部には未だ「歩兵」出身のボスが居座って、脳天気な突撃命令を繰り返している。おまけにその下には上の突撃命令に盲目的に従うことしか知らない思考停止なミドルしかいないから、本丸の裏手の「株式市場」から、ある日突然ITベンチャーの空挺隊がワラワラと降ってきても、そういうのは見えなかったんだとでも言わんばかりに明後日の方向に突撃するふりを繰り返すのをやめようとしない。

 別に城が落ちてしまっても、社員の方はと言えば、勉強さえし直せば領地を拡大している他の会社に雇ってもらえるわけだから、城とともに自分の地位や老後の報酬が決まる上層部以外は、組織そのものに執着する必要なんかさらさらない。むしろ、「警察」のつもりだった人間が、奇襲攻撃に大慌ての上層部にある日突然「明日から君は敵奇襲部隊迎撃のためのコマンドーを命ずる」とか言われても困る。そもそも本人の能力ではできもしない、やりたくもないことを押しつけられて、不幸になるだけである。

 つまり、量的拡大という大前提が崩れた瞬間に、働く者にとって会社という「殻」が持っていた意味は、根本から変わってしまったのである。

 もちろん、相変わらず成長し続けている企業だって少ないが存在はする。トヨタとかしまむらとか。そういう会社には一生勤め上げることもできるだろうし、実際のところ転職というのはそれはそれで個人にとって結構な一大事なので、転職しなくてもいい境遇というのは、ある意味で「幸せ」ではあるだろう。

 だが、別の意味では会社という枠を超えて自分の人生を自発的に選び取り、エンジョイするという快楽、スリルを味わえずに雇われ人生を終わるというのも、正直もったいないなと思う。まあ、そういうスリルや快楽が要らないという人も世の中にはいると思うので、そんな心配は余計なおせっかいだろうけど。

 ただ、継続的に右肩下がりの、つまり既に保有する領地さえうまく統治できないような会社というのは、よほどの手腕がトップにない限り、社員を幸せにすることはできない。そういう会社にいる若い人は、悪いことは言わないから転職先を探しにかかったほうがいいと思う。

 転職先は、探すだけならタダである。ただし自分にぴったりの仕事が見つかるのはタイミングの問題でもあるから、納得のいく仕事を見つけるには時間をかけなければダメだ。結婚と違って、相手探しにかける時間が少なければ少ないほど、条件の悪い相手しか見つからない(結婚は逆…のような気がする)。僕も前の会社の右肩下がりが3年続き、社内でいろいろと情報収集した結果、さらに今後数年かそれ以上は悪化が続くと見切ってから転職活動を本格化させたが、それでも納得のいく転職先を見つけるのに1年かかった。

 最初の話に戻ると、ガ島さんもある意味、僕と同じようなことを考えての決断だったようだ。繰り返すが、彼と僕に共通するのは、1つの会社に居続ければ、その中で自分が必要な能力も経験も自然のうちに与えてもらえるという時代は、もう終わってしまったという認識だ。

 僕も(たぶん)彼も、前の会社が嫌いではない。むしろ精一杯愛して、自分のため以上に、会社のために働いてきた。でも、その経験から「これ以上ここにいても、この会社に必要とされている能力や経験を、僕は身につけられない」と悟ってしまったのだ。だから、会社という殻の外に出て経験を積み、能力を磨くことにしたのだ。

 こういう考えを言うと、「日本的雇用に対して何でも『米国では~』とアンチを言い張る外国かぶれ」的な目で見る人も少なくない。でもそれは全然違う。米国のマネをしてこういう結論にたどり着いたのではなく、日本の経済社会の仕組みが、あらゆる企業が画一的に量的拡大を続けるなどという戦後経済成長の特殊幻想から完全に解き放たれたというだけの話なのである。

 そんなわけで、ガ島さんにはぜひ転職してからも自分の目標を見失わずにがんばってほしいと思う。彼がまた東京に出てくることがあったら、あのルックスをエサに知り合いの女性を食事に誘うとしよう。

02:29 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (14) トラックバック (14)

2005/03/17

ビバ!ホワイトデー(鬼嫁日記風)

 一昨日はホワイトデーだった。1ヶ月前の同じ日に比べると、世の中の大騒動(中止宣言発表、切込隊長荒れるetc.)などの度合いは全然静かな記念日である。この日本という資本主義社会がいかに今もって男性中心の価値観で回っているかが、これほど分かるイベントもない。

 ところが、ここに世の中と正反対な集団がある。R30の勤務先の会社である。うちの会社は社員のちょうど半分を女性が占める。しかも(お局様とかそういう意味ではなく)枢要なポジションを占めている人が多い。

 するとどういうことが起こるかというと、男性陣の女性に対する気の使い方といったら、もう大変なレベルである。

 ホワイトデーの前の週末に入る前、僕の上司(男性)から、僕を含めた数人の男性社員にメールが届いていた。「3月14日はホワイトデーです。女性の方々にバレンタインのお返しをしないといけないので、皆さんで相談して1人500~1000円相当のものを月曜日に人数分買ってきてください」

 入社2ヶ月しか経ってない僕は、そのメールを見てのけぞった。バレンタインデーに女性陣から配られたチョコレートというのは、おやゆびの先ほどの大きさの箱に入った、2センチ四方ぐらいの小さなトリュフチョコ2つだった。うちのカミサンの値踏みでは、「どう見ても200円はかかってない代物」である。

 そのお返しが500~1000円なのか。倍返しどころの騒ぎではない。必殺MAX5倍返しである。しかもホワイトデーの主役は、チョコレートに比べて体積当たり単価の安いクッキーである。ディズニーショップで売っている高さ10cm以上の円筒形のクッキー缶でさえ、800円ほどである。

小指の先ほどのチョコのお返しに1人1つの缶入りクッキーかよ。藁しべ長者も腰を抜かすぞ。

 一瞬上司の真意を疑ったが、まさかここで返信メールで「ボスはそんなに職場の女性が恐いんですか」とか、いちいち確かめるわけにもいかない。しかも徹底した年次主義のマスコミ文化で育った僕にとっては、上司の命令は常に絶対である。メールの宛先になった人のうち、一番入社が新しいのは僕である。とすれば、まずは黙って買いに行くしかない。

 さっそく日曜日の午前中に近くのショッピングモールに行き、こじゃれた雑貨店に行くと、白い小さなセラミックボールに入ったカワイイくまの顔の小さなクッキーが並んでいる。しかも476円。見た目よりは安い、ビミョーな金額だ。

 「お、これ良さそう♪」

 と思った僕は、ケータイで写メを上司に送った。他の先輩方から「買っときます」連絡も入ってなかったので、これで十分だろうと思い、そのまま月曜日に出社した。

 すると、月曜日に上司からメールをもらった先輩のうち、僕以外にも2人がプレゼントを買ってきていた。しかも先輩たちのは、僕の買ったのよりもさらに体積がでかい。メールの指示通り、数百円台後半ぐらいのクッキーを買ってきたらしい。

 僕「なんだ、重複してたんですか・・・(´Д`;)」

 メールを出した上司も来ていて、ばつが悪そうに頭をかいて立っている。

 上司「いやー、分散して頼んでおけば買い忘れるっていうリスクが最小化できると思ったんだよ」
 

・・・上司、そんなところまでリスクマネジメント能力発揮しなくても。

 先輩「しょうがない、全部詰め合わせて配ろう」

 そう言うと、先輩が首尾良く持ってきていた大きめの手提げ袋にみんなのもってきたクッキーを1つずつ詰め始めた。僕も手伝う。1つ1つもきれいに包装されているのをさらに包むので、

 先輩「まるで福袋かクリスマスプレゼントみたいだなあ・・・・(´ロ`;)」

 僕の脳裏にフラッシュバックする、2月に女性陣からもらった親指の先ほどのチョコ。

あのチョコのためになぜここまでやらないかんのか(。´Д⊂)うぅ・・・

 その後、3月のサンタクロースよろしく、先輩とともに大量の袋を抱えて、職場中の女性の席を1人1人まわって「2月の折はありがとうございました」と言って頭を下げながら配って回る。ここまで腰の低いホワイトデーは、生まれて初めてだ。_| ̄|○

 普通の会社の女性社員なら、ホワイトデーに男性にここまでされたら甘エビでカツオを釣ったかのように狂喜乱舞するだろうと思う。だが、うちの会社は違う。一応「わーありがとー」と棒読みの返事を返しつつ、誰もが袋の中の品物チェックに余念がない。

 そのうち1人が、僕の買ってきたセラミックボール入りのクッキーを見つけて、こう言った。

 「このクッキー、なんかかわいくない?こんな商品、××(部署名)の男性陣が見つけてこられるわけがない!(゚Д゚)クワッ」

 「奥さんの手を借りた人がいるわね!誰?」

 皆さん、そこまで言うか(汗)・・・うちの部署の男は本当はみんな心優しいんですよ、卑屈なまでに・・・(;´Д`)ノ

 僕「あ、それ、僕が買ってきたんスけど・・・(;´Д`)」

 女性陣「R30さんだったのね!奥さんが選んだんでしょ!(゚Д゚)」

 僕「いや・・・そ、その、僕が自分で・・・(´ロ`;)」

 女性陣「えーっ、ウッソー!!R30さんってこんなの選ぶ人なの?!信じらんな~い!」
 

サンタクロースがここまで言われたら、来年は代わりにブラックサンタを差し向けようとか思うに違いない('A`)

 その日家に帰ると、カミサンが家でいくつものクッキーの箱に埋もれていた。「会社でいろんな人からお返しをもらった」らしい。そう言えば管理職なカミサンは、2月には部下や上司(社長)に必死に気を使って、チョコを配りまくってたからなあ。会社用のチョコだけで5000円以上散財してたんじゃないだろうか。彼女の場合はお返しがあって当然だ。

 そのカミサンから嬉しい言葉が。「私こんなにクッキー食べきれないから、食べていいわよ。あげる」

 僕「ホント?(゚∀゚;≡゚∀゚;)じゃあ、明日1箱会社に持っていってみんなで食べてもいいかな?」

 カミサン「ええ、どうぞ」

 やった。これでおやつのエサのたしになる。翌日、僕はクッキーを1箱、会社に持っていって、誰でもつまめるようにミーティング用の机の上に並べた。

 すると、めざとくそれを見つけた人が取り調べモードに。

 女性「R30さん、それ何?」

 僕「クッキー」

 女性「そんなこと、分かってるわよ!(゚Д゚) 誰のクッキーかって聞いてるのよ!」

 僕「僕が持ってきたんだけど・・・いや、みんなで食べてもらえればと」

 女性「じゃなくて、昨日のホワイトデーのでしょ?誰がもらったもんなの?」

 僕「あ、うちのカミサンがもらったもので・・・食べきれないって言うから('A`)」

 女性「ああ、やっぱりR30さんの奥さんだったのね!じゃあ『R30の奥様からの差し入れです』って、ポストイットに貼っておくわ!(*´∀`)」
 

何が何でもR30の細やかな気遣いの賜物とは認めたくないようだ・・・(´ロ`;)ぬぁぁぁ

 3月14日は、心の底から企業カルチャーの差というものを実感した日でした。

(ちなみにこの話はいかなる現実の個人・団体・組織とも関係ありません。(´ロ`;)実録鬼嫁日記の文体のマネって、難しいねえ・・・orz)

03:06 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (11) トラックバック (1)

2005/03/10

だれか事業化してくれません?画期的なタクシーのサービス

 タクシーに乗るたびに「不景気なのに車両数ばっかり増えて全然儲からない」的な愚痴を運転手から聞かされるのにうんざりしていたんだが、最近わざわざ電話で呼び出してでも使いたくなるタクシーの画期的なアイデアを思いついた。誰かベンチャースピリットに富んだ人は、MKタクシーが参入する前にやってみてください。

 その新しいアイデアとは、「タクシーの運転手に心理カウンセリングの技術を身につけさせる」というものだ。

 だいたい、タクシーに乗っている時間はヒマなのである。本当はクルマで移動している間に本や資料を読んだりメールを見たりできればベストなのだが、揺れるクルマの中でテキストを集中して読むと気分が悪くなってしまう人は少なくない。いや、むしろ気分が悪くならない人が珍しいぐらいだろう。僕もその1人だ。

 ということは音声系の情報ツールしか使えないということになるが、2人以上で乗っていれば打ち合わせや商談もできるが、1人で乗っている時には音楽を聴くぐらいしかない。それでもいいのだろうが、せっかくタクシーに乗るのだ。何か付加価値、つまりコミュニケーションがほしい。

 しかし運転手としゃべると、これがまたむかつくことがやたら多い。官僚や政治家の悪口で盛り上がる程度ならまあ新橋の赤ちょうちんの会話の延長だし多少のストレス解消にもならんこともないが、ライフスタイル的な話に踏み込んだ瞬間に話が合わなくなる。

 こっちは自腹で数千円のタクシー代を払おうという人間であり、夫婦ともにしゃかりきで働いているわけである。ところがたまに気の利かない運転手がいて「やっぱり子供はちゃんと母親の手でしっかり育てないとねえ。子供をほったらかして働きに出る母親なんて、何考えてんだろうねえ」みたいなネタをふりやがる。

 後ろから頭をぶん殴って「今すぐクルマを止めて降ろせこの野郎」と叫びたくなるのを抑えて我慢して黙っていると、こっちに相づちを打ってもらいたいのか、話がどんどんエスカレートする。家の前で降りた時には、仕事で疲れ果てた頭にさらに血が上って吐き気まで催すという最悪の事態。

 外側のどこかに「このタクシーで気に障るトークを運転手にされた場合には無料とさせていただきます」みたいなシールを貼っているタクシー会社はないものかなどと思っていたら、先日カミサンが「すごいタクシーに乗った」と報告してきた。

 何でも、仕事に疲れ果ててタクシーを拾ったところ「お客さん、私はカウンセリングの資格を持ってるんです。ずいぶんと心労がたまっていらっしゃるご様子ですが、お話しされてみませんか?」と言い出し、カミサンが悩み事をしゃべると「それはね、お客さん、自分をとにかく褒めることですよ。どんなことでもいいから、自分を褒めてあげてごらんなさい。きっと良くなります」と、何とも的確なアドバイスを返してくれたのだとか。

 今、心身ストレスで鬱になったり精神に異常を来したりするサラリーマンが激増していると言われている。だが、実はその受け皿になる心療内科の数は非常に少なく、ほとんどの心療内科は1ヶ月先まで予約で一杯の状態だ。しかも、そもそも精神の病で病院に行くということ自体に、多くの人にとってものすごい抵抗がある。潜在的な心理療法のニーズを持つ人は、莫大な数にのぼるだろう。

 ちょっと自宅まで距離のある人なら、月に2~3回はタクシーに2~30分乗ることがあるだろう。心療内科の病院に行くところまでは思い切れないが、心が疲れたと思った時にさりげなくタクシーの中で心理カウンセリングが受けられるとしたらどうだろう。運転手の方も、専門的な訓練を受ければ客の声を聞くだけである程度的確なアドバイスが出せるに違いない。

 医療行為とは言えないからカウンセリングそれ自体に対して料金を取ることはできないだろうし、薬の処方もできないだろうが、仕事上のストレスなどであれば、リラックスできる音楽をカーステレオで流しながらゆったりと相談に乗ってあげるだけで、相当和らげることができるものである。長距離の客なら、電話で予約してでもそのタクシーを利用したいという人は多いのではなかろうか。

 というわけで、カミサンにはそのタクシーの運転手の連絡先を聞き出して携帯電話番号を調べるように言ったぐらいなわけだが、誰かこのアイデア、事業化しませんか。すごい付加価値になると思いますよ。

05:46 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (11) トラックバック (4)

2005/03/08

祭りの場を面白くするネット左巻きの剽軽 [ブログ時評13]

 ブログの世界を中心に時事問題への議論を収集して4ヶ月余り、ブログに左巻き的言論人の参入が相次いでいるのに、2チャンネラに囲まれての炎上ばかりで由緒ある左翼発言がほとんど無いことに驚いている。NHK・朝日問題に関連して、在米研究者の卵による「むなぐるま」は「日本ではリベラルブロガーのハブはないのだろうか」と問いかけて話題になった。私の立場からは炎上しない朝日系の記者サイトこそ教えて欲しい。「ブログ時評」の「公論の場を貧しくするネット右翼の病理」が「ネット右翼では『右』を代表することは出来ないと早く気付くべきだ」と指摘する頓珍漢に近い。

 「ネット右翼」と目される集団が押しかけ、多数のコメントの山を残した「小倉秀夫の『IT法のTop Front』」では、ネット右翼というものがあるのなら自分こそと名乗ってみて、との趣旨の呼びかけがされたものの、切込隊長に華麗にスルーされたようだ。ネット上で主に対米国、対NHK、対切込隊長関連でアナクロ左翼的言辞を並べている朝日ブロガーの立場には共通点がある。「自分はノンポリ。ピンクがかって見えるのは、あなたが緑だからでしょう」といった感覚。そして、読者のコメントを強制削除し、トラックバックを打ってきたブログを「Googleでの検索が足りません」などと見下して、昔ながらの信者グループとだけ集団を作って居心地の良さに納得している。

 中国を誇る、社会主義への真っ直ぐな思いを貫いている――信者集団の光景は第2次インターナショナリズムに極めて近い。G7サミットでテレビ中継が始まった瞬間に、コイズミ・ブッシュ・クタバレに切り替わってしまう心情である。どちらも、地上の理想国家建設という夢が生まれるメカニズムは共通している。国連という脳内共同体の一員として、北の将軍様の抱える貧しい人々の幻想にバーチャルに共感し、米帝覇権主義を意識する場面だ。「ブログによるコメントスクラム」を非難するスタンスも同じである。このメカニズムで生まれた左巻き的思考である限り、目を転じて国際政治の現実に対処する思想を持たない。国内に向かっては「謝罪と賠償」で一致していても、外交の論理は支離滅裂だ。

 大政翼賛会が磐石だった時代、最初から存在しない民衆の代表に代わって朝日新聞がファシズム政権擁護の柱だった。今、プロ市民、労働組合を含めてリベラルが群衆動員のモデルを見失い、攻め手の朝日新聞も取材を録音したテープさえ提示できない。こんな時代だからこそネット上にお祭りの場を造りだす意味が大きいと考えているが、ネット左巻きでは「リベラル」を代表することは出来ないと早く気付くべきだ。惰性に任せては先行きが見えない社会を変えるために、時には謝罪と賠償も必要と左巻きの立場で考えたら、相当に巨額の税金を取り立てて投入せねばならない。ネット右翼の立場ならニート・ヒッキーのためにお祭りするくらいでも笑いは取れる。現政治状況に当てはめると、村山元首相なら、不肖の後継者・福島瑞穂氏の党職員首切り路線に忸怩たる思いをしているはずである。

 :マジでどうでもいい。つかメディア人だったらガ島通信について一言ぐらいコメントしたらどうか。当事者意識のないやつめ。

09:24 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (20) トラックバック (14)

2005/03/05

ものごとを考えるまとまった時間がない

 3月末だからとかそういう理由ではなく、リアル仕事と生活がとても充実している、というか猛烈に忙しい&新しいアイデアがぽんぽん沸いてくる、という状況になると、ブログで書くネタを考えるのがどんどん面倒になってくる。

 思えば昨年12月は思いっきりニートだったのですごい勢いで長文の論考をびしばしここに書いていた。今も考えたいと思っているテーマはたくさんあるし、過去のブログにつけられたトラックバックやコメントに答えたいと思うこともたくさんある。だけど頭をそっちに使うまとまった時間がない。

 ときどき、普通に仕事しながら年間何冊も本を出すような人がいる。まあゴーストライターがいるんでしょと言われればそれまでだが、もし本当に自分で書いているとすればどうやってあんなに書くのだろうか。

 本というのはものすごい密度の沈思黙考を重ねないとできないものだ、少なくとも読みがいのある本はできないものだ、と昔から思っていた。だけど最近はぶちぶちと章ごと、あるいは段落ごとに区切れた本もたくさんある、というかそちらの方がよく売れるみたいだね。

 ということは、ブログもそうだけど、あまり長時間沈思黙考したようなネタというのは受けないのかな。それもなんか悲しいな。脊髄反射みたいなネタもいいけど、たまには自分が沈思黙考すると、思考の冒険でどこまでたどり着けるものか、見てみたいと思うんだが。それを確かめるためのブログだと思うんだけどね。

 でもリアル世界の方で深く強く考える、考えなきゃいけないことがたくさんあると、そういう話を迂闊にブログにリークするわけにはいかなくなってくるので、なかなか辛いものがある。ま、それでも片鱗とかはブログの端々に見えているんだろうけどね。

 転職して2ヶ月足らずだが、もう新しい事業のアイデアが2~3個沸いてきたので、個人的な時間を使ってFSに乗り出しているところ。まだ目の前の仕事もきちんと身につけてないのに気の早い奴とか思われそうだが、思いついちゃうのだからしょうがない。でも提案するまでにきちんと叩いて形にしてからにしないとね。

 新しい会社はそういう提案をバンバン受け付けてくれるところなので非常に嬉しい。少なくとも上層部は新規事業の提案に対して決して嫌な顔をしない。1つにはベンチャーで失うものがあまりないから(笑)というのもあると思うけど、そういう社風は自分にとってはとても気が楽で嬉しい。それだけにやる気もすごく上がる。

 問題は気分がハイになりすぎて、ときどき目の前の仕事をちゃんとこなすことを忘れてしまいそうになることだ(笑)。おいおい。順番が逆やっつーの。気をつけてきちんとしよ。でも、まあこういう奴も1人ぐらいいてもいいよねえ。

 というわけで今日も目の前の仕事をこなしてきます。さいなら。

09:15 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (2) トラックバック (0)

2005/03/04

【速報】ガ島通信がガ島脱出

 とうとう脱出するらしい。っていうか行き先決めずにブログでリリースするって…。あり得ない。これも「ブログで辞めた」の殿堂入りするのだろうか。

 マジな話、東京に来るなら相談に乗るけど、でも行き先決めずにっていうのはどうかと思うよ。僕も転職確定して社内調整も終わった段階でブログにリリースしたわけだし。留学退職ネタの時にどこかのブログが言ってたけど、キャリア作りは個人が執り行う人生最大の戦争でっせ。勝敗決まる前に手の内さらけてどうするよ、ガ島くん。

 でも、あなたみたいにいろいろ考えられる人が一地方紙の文化部でうだうだしてるのも実際もったいないとも思っていたので、ぜひ大海原にこぎ出して良い冒険をなされますよう、お祈り申し上げます。

 finalventさんじゃないけど、今日は僕も確定申告&ウェブ休みの日ということでデジタルサバト。これで失礼。

12:17 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (1) トラックバック (6)

2005/03/03

過去のことは忘れなければならない、あるいはknowledgeの生まれる場所

 何のことだかワカランという人は勝手にスルーしてください。今日のエントリは独り言です。

 よく「前にも似たような議論をした覚えが…また同じ話をぐるぐると性懲りもなく」とか言う人がいる。あ、鈴木謙介氏@SOUL for SALEだっけな。まあいいや。で、僕が思うのは「同じ話をぐるぐるとする。それが何でいけないのだろう?」ということだ。だって4000年昔のエジプトだかどっかの象形文字を解読したら「最近の若い者は…」って書いてあったって言うじゃん。人間なんて、そんなもんでっせ。

 その点、ネットっていうのは恐ろしい。だって昔の議論が全部残ってるから。残ってるって言っても、今はまだせいぜい98年か2000年以降ぐらいの分しか残ってないさ。だからもしかしたらまだ議論してないことがあるかもしれないし。

 だけど、これを10年や20年続けていったらどうするよ?あらゆる話は、もう何年か前に議論され尽くしたことになっていて、もし「昔議論した話は過去ログ読め」で終わるんだとしたらさ、そこに何の偶有性も反映されなくね?それって悪夢みたいな未来だと思うな。

 最近すっげえ嫌な予感がするんだよね。「はてな」って、質問の数も、質問に対する返事の数も昔よりずっと減ってない?もちろんカテゴリの数増えてるってこともあると思うんだけどさ、なんかすごく嫌な予感がして。

 なんつーか、質問しても「ああ、この質問過去に答えたような気がするし」とか思って答えないとか、質問する人もささっと検索してみたら過去質問が残っていたんで結局質問しなくて良くなっちゃうとか、もっと言えば、質問しようと思ったんだけど、でもきっと誰かが過去に質問したような気がしてそれもあっさり答えられちゃってるような気がして、それだけで質問する気が失せるとか。

 ブログの議論とかはさ、まだフローの要素強いからそれなりに面白いけどさ、でも1年ぐらい見てると、季節柄出てくるネタとか必ずあって、「またその話か」みたいな感じで飽きてくるよね。

 実は僕も隊長よりは少し遅くだけど、大学3・4年~社会人出てすぐぐらいの頃にニフティのFBMANにはまってたことあって、マーケティング会議室あたりのオフ会にも1回ぐらい行ったことあったんだけど、議論のスタイルとかデザインとかは多少違っていても、コンテキストはほぼ同じことがブログという新しい場の中でも繰り返されてるだけじゃないかっていうデジャヴにとらわれるようになってきたんだよな、最近。

 まあ、その既視感が既視感なだけで終わればそれはそれで結構無問題なんだけど、FBMANと違ってブログって過去ログが流れないじゃん?つまりブログ上では流れたように見えるけど、Google先生がいつでも発掘しちゃうわけで。削除してもなおキャッシュで発掘されちゃうわけで。

 となるとさ、FBMANで議論していた内容はすっかり忘れたけど、あそこで何かすごく頭から火噴くほど知恵振り絞って議論したぞ、みたいな思い出が僕にはあるんだけど、今の時代ってさ、例えば何かを頭から火噴くほど考えようとしても、その矢先に「過去ログ残ってるから嫁」とか言われた人たちは、なんか頭から火噴くほど考えもしないうちに過去のブログとか読んでそのターミノロジーに頭を支配されて、自分で言葉つむがなくなって終わるんじゃないかと思うわけだ。

 まあ、過去ログっていうのは、その時誰がどういうことしていたとか、ファクトベースでなら資料価値もあるよ。だけどそこで考えられていたことっていうのは、つまりナレッジ(知恵)は、過去ログ読んだからって追体験して頭にすっと入ってくるものじゃないわけでしょう。

 ましてブログなんてどこまでがファクトでどこからウソなのか、それ自体としては検証もできない話、つまり事実確認の資料価値はほぼゼロなものばっかりなわけでしょ?そんなものがずっと残って、ファイル消してもブログ主死んでも残ってるって、いったいどうなのよっていう気がする。

 話は少し飛ぶかもしれないんだけど、IQの低い人たちの会社があるとするじゃん。でもそれがIQ高い人たちの会社に比べてだめな会社かっていうと、それとこれとは全然関係ないわけだ。じゃあいったい良い会社と悪い会社の違いは何かっていうと、突き詰めれば会社ってのはゴーイング・コンサーンなわけでしょう。だとすれば上から下までその時々の判断はバカっていうか間違ってても、時間とともにそれが修正されて品質が上がり、正しい方向に向けばいいだけなんだよね。

 逆に、ある瞬間に正しい方向性を見極めた人がいたとしても、そいつがそれ以降たくさんの人数の上司とか部下とか同僚とかとともに正しい方向に進み続けられるかっていうと、実はそんな保障どこにもないわけで、最初の奇跡の大ジャンプの後に、2度と奇跡が起こらなくてそのまま逝っちゃう会社なんてたくさんあるわけだし、正しい!と思う方向にずんずん進んでいても少しずつ道をそれてそれに気づかずに気がついたら出口の見えない藪に紛れ込んで野垂れ死んじゃう会社もある。

 つまり人も会社も社会もそこで何を見聞きし、記憶し、文字で書き付けたかをたくさん貯めれば正しい方向に進むかっていうと、全然そんなことないんじゃないの。そりゃ大所高所に立って会社や社会、国家の向かうべき方向を判断する立場の人が四書五経や孫子からランカスター、クラウゼヴィッツ、チャーチルまで読んで判断しますよって言われればそれはすごいと思うよ、感心すると思うけど。でも実際そこまでの政治家なんていないわけだし、庶民の誰1人として元首や会社社長にそこまでのことなんか求めないわけでしょう。

 つまりある一瞬において頭がいいとか悪いとかいうこと、つまり過去ログをたくさん読んで知っていることよりも、ゴーイング・コンサーンの条件というのは、もっと時間をかけて自分たちを正しく追い込んでいけるのかとか、その場でどんだけ同じことを壊れたテープレコーダーみたいに繰り返し続けられるのかとか、むしろそういう「過去ログ読まない強さ」みたいなものに依存するのじゃないか。

 そしてナレッジ(知恵)というのも、僕の感覚では過去ログというストックの束から生まれてくるというよりは、ストックを忘れる瞬間、つまり過去の事実の輪郭をぼやかして今目の前にあるものと重ね合わせた時の類似項として生まれ落ちてくるものだと思うのだよな。それは別に古典作品でなくても書籍でなくても、ネットでまさに昨日書かれたばかりの他人のブログのエントリでもいい。つまり今ここにいる自分と化学反応を引き起こせる自分の“外側”の存在となるような何かがあればいいだけ。

 ブログを書いていると時々「僕が書いたこの文章はインターネットという空間に半永久的に残るのか?いつまでもGoogle先生がいる限り、他人の質問にさりげなく僕のブログのエントリのURLを返してそっとここへと導いて下さるのか?」といったような超越神を信じたくなる心境に陥ることがある。

 だがそんなのはまやかしだ。むしろ有害だ。思索のためのテキストの過去ログなど消えてしまえ。物理的に残っていても決して他人に「ああ、かつてこの人がこんなに考えているのだから既にこの問題は解決しているのだな」などと思われたくない。むしろみんな忘れてくれ。延々同じように見える議論をループしてくれ。自分の頭を使って、無意識のうちに思考を規定する偏在的なコンテンツ、ブログから身を隠せ。そしてそのループから脱出せよ。

 蓄積しておけば手間を省く知、我々をこれまでよりもう少し遠くにまで連れていってくれる知、というものは確実に存在する。だからそういうものを蓄積で残すのは良い。しかし今のインターネットの中で多く流通しているのは、僕らがどこかに連れ去られようとしている時にうたった鼻歌である。鼻歌だけをどんなにたくさん集積してみても、音程のあやふやなハミングコーラス以外にはなりようがない。

 ネットはあらゆる多様な解釈を許容するし、またそれを平等に広める。逆に、いやむしろだからこそ、解釈の根っことなる知の基盤については、より厳密に集約され整然と凝縮されていなければならないのではないか。解釈の多様性と知の基盤の厳密性。これがより強く求められていくはずなのに、これまで社会的な知の基盤を担っていた「知の腐敗のペンタゴン」はそのまったく逆、曰く厳密で偏狭な解釈と知の基盤のずさんさを志向していた。今、それがまさに否定されようとしているのではないか。

 とにかく、我々は大勢の人を命令で同じ方向に歩かせることはできても、大勢の人々の思考を全く同時に同じことを考えるよう強制することはできない。とすれば、知を組織あるいは社会全体に敷衍したいと思えば、その方法はあちこちで同じような思考のループが創発的に大量発生するようにし向ける(させるのではなく)ということでしかあり得ない。

 創発的な思考のループ(フロー)は確たる知の基盤があってこそ成り立つものであり、組織や社会にはその断続的なループから常に澱が沈むように新しい知(ストック)が形成され蓄積されていく。この2つはどちらも欠かせないものであり、その区別と規律ができないままで続いてしまうぐだぐだのコミュニケーションというのはどうしようもなく不毛だ。そういうコミュニケーションしか存在しない会社も、組織も、社会も。決して同じことを延々議論することそれ自体が不毛なのではない、そこから何物も澱を残そうとしない風土の方が不毛なのだと僕は思う。

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2005/02/26

マスコミって一昔前の銀行業界みたいだよね

 NHKが、職員の給与削減を発表。でも28億8000万円って、職員1万2000人でならしても1人24万円ですよ。年俸300万円で24万円カットなら大騒ぎも分かるけど、年俸総額(1378億7000万円)÷職員数で計算したら平均年俸1148万円じゃないですか。24万円なんか耳くそ以下の額じゃん。そんな程度のことで経営陣の総退陣なんか求めるなよ日放労は。バカかてめえら。じゃああれか、社員の年俸1割カットしてCEOに昇格した経営者は公開斬首刑(以下自粛)。

 最近はTBSもリストラ敢行したみたいだし、表に出ないところでもマスコミ業界のあちこちでざくざくとリストラが始まってるわけだが、正直言って全然生ぬるい。しかし、辞めた人間がどうこう言うのも反則気味だな。じゃあ昔話でもするか。

 今のマスコミを見てると、一昔前の銀行業界を思い出すよな。不良債権が噴出して国会で大乱闘までして税金投入決めたのが山一、拓銀破綻のあった97年あたりだっけか。それから5年ぐらい、同期の銀行員の連中のボーナスや給料がみるみる減っていった。

 だいたい銀行ってのは30歳になって役付きになってから給料が跳ね上がるんで、それまでの収入は、実は大したことない。なのに、リストラのしわ寄せを受けるのはだいたい30代以下の連中ばっかり。取材の時に「僕も最近マンション買っちゃいましてね」と話していた広報担当のお兄さんのいた銀行、その後ボーナス90%カットとかになったんだよなあ。どうしてるかな、あの人。

 それでも若いうちは給料が多少減っても食っていけるものである。生活の給与弾力性(経済学用語で、○○の増減によって××がどのくらい大きな影響を受けるかというのを、「××の○○弾力性」という)は、学齢期の子供のいる中高年の方がずっとシリアスで、若者の生活なんて大した問題じゃない。だから若い連中の給料から削るというのは、ある意味経済合理性にかなったリストラ策だと、僕は思う。

 だが、数年前の銀行業界の若手社員を襲ったのは、そういうレベルの問題だけじゃなかった。給与カットとともに、人事制度も大きく変わったのだ。むしろあれの方がずっと悲惨だったと思う。

 僕の先輩で、大学を超優秀な成績で卒業して今はなき日本興業銀行に入った人がいた。当時、興銀といえば東大を除く国私立大学からは各数名しか入れないと言われていた、銀行界のスーパーエリート集団だった。ただ、ちょうど先輩が入った2年後ぐらいかに、不良債権処理などとともに「投資銀行として生き残る」みたいな新戦略が打ち出され、新卒社員の人事体系も大きく変わったといったことが伝わってくるようになった。

 僕が記者になって数年後、たまたまその先輩が赴任したという地方支店のあるところに取材に行く機会があったので、取材ついでに先輩と久しぶりに飲もうと思い、連絡を取った。そうしたら「忙しいけど、つき合ってやるよ」と返事をもらえたので、喜んで行ってみた。

 夜になって先輩に地元の居酒屋に連れて行ってもらい、「最近どうですか」と水を向けると、彼はおもむろに「本当にさ、忙しいんだよ。毎日、毎週。大変だぞ銀行員は」と言う。「どんなことしてるんですか?」と目を輝かせて聞く僕に、先輩は強い酒をあおってから口を開いた。「そりゃもう、夜は毎日寝ずに週末の仮装大会の着ぐるみ作りやんなきゃいけないとか、よその支店対抗のスポーツ大会の企画とか、本当に忙しいんだよ。日中は窓口にボーッと座ってジジババ相手にワリコー売ってるだけだけどな。先週なんか、課長が絶対にウルトラマンやれっていうからその衣装作ってて、寝る間もなくて本当に大変だったんだぜ…」

 それまで興銀は、新卒入社して2~3年は窓口業務、その後支店の営業や融資、審査などを経て、6~7年目から本店や大都市の支店に戻り、シンジケートやプロジェクト融資を手がける、というキャリアだったと思う。ところが先輩が入って2~3年後に人事体系が変わり、新卒入社後すぐに支店の融資担当や本店の債券運用などあちこちの職場を半年ぐらいのローテで回し、その中から本人の適性に合った業務を選んで3年目以降すぐにエキスパート職に就くというキャリアパスに切り替わった。

 一番悲惨だったのは、その人事体系変更の直前に入社した先輩のような人たちである。待てど暮らせど窓口業務を引き継ぐ新人社員は配属されず、4年も5年も延々と窓口業務と支店のイベント雑用ばかりやらされるはめになったわけだ。大学を出た時の彼の知的能力の高さは数年下の入社組と何にも変わらないはずだったのに、まさに不幸としか言いようがない。

 同じような憂き目にあった僕の同期の都銀マンは、ほとんど都銀を辞めた。でも興銀の先輩にはその後連絡が取れていない。今頃あの先輩はどうしているだろうか。

 がちがちの年功序列、新卒プロパー至上主義でやってきた会社がその人事体系を突如中途、引き抜き等何でもありの実績主義に切り替える時、一番悲惨な被害を蒙るのは旧人事体系の最下層か、そのちょっと上(管理職一歩手前)ぐらいにいた人たちである。人事体系が変わると、彼らの後ろから入ってくる新しい人たちは2種類しかいない。最初から幹部候補コースに乗って数年間でマネジメント予備軍としてのエリート教育を受けてどんどん出世していくごく少数の人たちと、従来の半分ぐらいの給料で黙々と単調な仕事をこなすアルバイターのようなその他大勢の人たちである。

 興銀は既にみずほに吸収されてなくなってしまった。今の都銀マンを見てみるといい。千人単位で採用しているが、幹部候補と言えるのはその中のほんの数十人であろう(人事もそんなことは言わないに違いないが)。残りは全部、従来とは比較にならないぐらいの安い給料でこき使われる永久支店営業マンだ。だから僕は、幹部候補待遇でならまだしも、今どき営業職待遇で都銀に入りたいと思う一流大学の大学生の気が知れない。

 今のマスコミを見ていると、まさに97年あたりから銀行業界で一斉に起こったこうした変化の波が5年ほど遅れて押し寄せているように見えてしかたがない。

 インターネットが「人と会い、話を聞き、そこから何かしらのアイデアを生み出し、それを他人に向けて発信し、再び出会いに結びつける」という、メディア人だけに許されていた特権を一般人に解放してしまった。ネットがメディアに求めることは究極的に言えば、1次情報を地道に集め、淡々と記事にして流し続けるという、面倒くさくて誰もやりたがらないような単調な作業だけだ。体系だった日本語の訓練を少し受けさせれば、バイト君をかき集めて半分以下の人件費でもできるような仕事である。

 実際、テレビ局や出版社の仕事はどんどん社外の格安の番組制作会社や編集プロダクションに流出し、社内には外注管理のスタッフと、仕事のために仕事する官僚しか残らなくなりつつある。新聞業界だけが取材執筆のチームを社内に抱えて生き残っているが、地方紙は既に経営が立ちゆかなくなりつつあるし、そこにニュースを配信している通信社は既に緩やかな縮小均衡に陥っている。大手全国紙クラスでも、紙面を外注に切り替え大リストラに踏み切る動きが出てくるのは、もはや時間の問題だろう。ライブドアvsフジテレビのドタバタなど、業界崩壊のほんの前兆にすぎない。

 この問題についてはいずれ続編を書きたいと思っているが、既にその兆候は新卒就職市場の動向に現れている。早い話が、人事制度の抜本的な変化の予兆が表れた業界には、実際に制度変更が行われるまで迂闊に入ってはいけないという「教訓」を、人材市場のプレーヤーたちは不思議にもちゃんと知っているということだ。ちなみに成果主義、実績主義の人事体系に移行した業界で勝ち組になる企業というのは、どこから人材を連れてきても自社のカラーに染められるシステマティックな社内教育のノウハウを持つ。外資系企業を見ればそれがよく分かる。
 
 どの業界でも言えることだが、人間というのは今年より来年の、来年より再来年の収入が下がると分かっていて元気が出る人などいない。たとえ今年の収入が半分になっても、これから10年間は右肩上がりでやっていけると思えた方が、どんなにか幸せなのだ。だが残念ながら左前になってしまった企業ほど、自分では抜本的な改革策を打ち出せず、小手先の給与カットでじわじわと従業員を不幸にしていくものである。頭では思い切ってばっさりやった方が良いことが分かっていても、いざ自分がばっさりやられる段になると拒否してしまう。経済学で言う「合成の誤謬(ごびゅう)」というやつですな。

 「合成の誤謬」から抜け出すためには、自家中毒に陥ってしまったそのシステムに思い切って経済外部性を持ち込むしかない。企業であれば、経営者のクビをまったくの外部からの人間にすげ替えるか、それとも個々の従業員(自分)が(物理的、あるいは精神的に)システムの外部に出て新しい血を取り込むか、どちらかしかないわけだ。

 ライブドアがニッポン放送を本当に手に入れたら、ニッポン放送の社員は一人残らず辞めてしまうだろうと言った人がいたらしいが、そんなことあり得ない。というか、それってフジテレビ株だけ手に入れて後はゴミ箱に捨ててもいいやって思ってるほりえもんの一番望むところだし、だいたい一流大学出の年俸1000万円もらってるマスコミ人が「1人残らず」辞めて皆さんどこに行くんですか。隅田川の川岸にでも?んなわけねえ。

 何の話だっけ?あ、そうそう。要するに銀行の方々もメディアの方々もがんばってくださいってことで(笑)。それでは。

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2005/02/15

伝統と誇るものに大した伝統はない

 これからしばらく仕事が大忙しになりそうな様子。昨年11月からほぼ毎日書き続けてきて、言いたいこともまだまだたくさんあるんだけど、ブログを書く以外のやりたいこと、やらなきゃいけないこともいろいろと出てきたので、どこまで意地になって継続するか、ちょっと悩み中。とはいえ、一度途切れると何かどうでもよくなってしまいそうだし。

 と、そんな状況ですが今日はちょっとまったりした話を。楠木坂コーヒーハウスさんのところで、東亜日報に掲載されたキムチの歴史の話が取り上げられていた。東亜日報の記事を読んで、「そんなことも知らんかったのか韓国人は」という感じだ。

 いったん過去の(日帝支配の部分の)歴史を全否定しなければいけないという負い目を背負った国のことなので、しかたないことなのかとは思うが、もし「伝統」という言葉をここ1~2世紀以内の発祥物に使わないというルールなのであれば、キムチは伝統食でも何でもないことぐらい、アジアの食の歴史に関心のある人ならたいがい知っているものだと僕は思っていた。

 東亜日報の記事は「1920年代、近代化とともにキムチが脚光を浴び始めた」以上のことに何も言及していないが、1920年代というのは日本が韓国を併合した後である。つまり日帝支配下のことだ。こちらの「辛いキムチの起源」というページが、この歴史を割と中立的に述べているのでご参考まで。

 それと、これはソースがうろ覚えなので確からしいかはちょっと自信が持てないが、もともとあった塩漬け白菜などの漬け物に唐辛子粉とにんにく、ニラ、アミの塩辛などを混ぜた「キムチ」ができたのは、当時の朝鮮総督府が敷いた食料統制の影響だという話をどこかで読んだ記憶がある。

 ま、この手の「どこが起源?」ネタにこれ以上深入りしすぎるとニダニダ叫ぶ嫌韓厨が大量に流入してきてコメント欄で収拾がつかなくなりそうなのでやめとく。言いたいのは、別にキムチなんて何世紀も続いた伝統食でも何でもないってこと。

 この手の勘違いっていうのは別に韓国に限らずあちこちにある話なんだけど、特に香辛料絡みの食べ物はそれが多い。普段あまりに食べ慣れてしまったものがつい数十年前は存在しなかったという事実は、やはりどこの国の人間にとってもにわかに信じ難いことだからだろうね。

 唐辛子に限って言うと、そもそもメキシコ原産のこの香辛料がアジア地域に入ってきたのは、クリストファー・コロンブスが東インド諸島を発見した際に手に入れた唐辛子を本国スペインに持ち帰ったのが15世紀末の1493年。その後16世紀初頭にインド・東南アジアへ伝わり、1542年にポルトガル宣教師が九州に持ち込み、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に韓半島にも伝わった。このへんの詳しいくだりはWikipediaの「唐辛子」の項を参照。

 アジア各国に唐辛子が流入したのは16世紀から17世紀にかけてだが、現在唐辛子を使った各国の代表的な料理ができたのは、もっと後になってからのことだ。唐辛子料理の歴史が一番長いのは、Wikipediaによるとインドとのことだ。僕が直接聞いたことがあるのはタイの話で、唐辛子を使った各種の料理(トムヤムクン、ゲーン(カレー)など)が主流になったのは、150年ほど前らしいということだ。

 タイ人は唐辛子を明確に「防腐剤」だと思っていたし、今でもそうだ。もちろん辛味が好きでもあるのだろうが、何しろ暑い地域なので、唐辛子を入れた食事と入れない食事では痛みかたが全然違うことを経験で知っているのだ。

 実際、今でこそ冷蔵庫が普及したのであまりそういうことはなくなったが、かつてタイではおかずというのは3日に1回ぐらい作って戸棚の中に入れておき、食事のたびに出してちびちび食べるものだった。当然ながら、唐辛子の入ってないおかずはあっという間に腐ってしまう。そこで常温で放置しても腐らないように、ペースト状に練った唐辛子をどんな料理にもたっぷり混ぜ込むのである。

 時には、この唐辛子ペーストそのものをおかずとして食べたりもするぐらいだ。日本でかつて「味噌」が家庭の味とされていたように、タイで「家庭の味」と言えば、各家ごとに作る「唐辛子ペースト」の味のことである。

 タイはベトナムや中国の四川省などとともに東南アジア大陸部文化圏に属するので、四川や福建などの料理で豆板醤(トウバンジャン)が使われるようになったのも、おそらくそのぐらいからだろう。そして、韓国のキムチは日韓併合後。唐辛子料理の歴史なんて、インドを除けばせいぜい100年かそこいらのものである。

 このほかにも、国を代表する伝統食と見られているが実は歴史の浅いものというのも少なくない。例えば寿司なんてその典型だろう。にぎり寿司が生まれたのは江戸時代末期。今から約150年前程度のことだ。うどんもそう。小麦粉を練って細く切ったものは室町時代からあったが、かつおぶしと醤油で作っただしに入れるという食べ方になったのは、元禄時代以降だそうな。

 食べ物なんて時代とともにすごい勢いで移り変わるものなので、伝統とか歴史とか、小難しいことを言っていても始まらない。ただ、何が本当においしいか、おいしくないかだけは判別できる舌を持っていたいという気持ちはある。そのためには、やっぱり(毎日でなくてもいいから)月に1回ぐらいは金と時間を惜しまないで良いものを食べに行く、あるいは自分で作るべきかなと思う。

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2005/02/12

手帳と品質管理と私。

 ぼんやりあちこちのブログを見て回っていたら佐々木かをりの「ミリオネーゼの手帳術」について書かれた橋本大也氏のブログにぶちあたる。手帳術ねえ。そう言えば1月に転職してから、まだ新しい仕事の時間管理ルールをきちんと決めてないなあ。どうしたもんか、悩む。

 スケジュール管理とはその人の職業観、仕事観そのものであるという、読んでもいない佐々木氏の著書の主張に激しく同意。よく言われる話だが、時間だけはどんな大金持ちにも貧乏人にも完全に平等に与えられた資産であり、それをどう生かすかはその人の人生観そのものでもある。

 記者時代、僕はPalmですべてを管理していた。元々は高橋書店の手帳だったのを、2000年末にすべてPalmに移行した。なぜ移行したかというと、僕の入社以来書き貯めた100冊以上の取材ノートはすべて時系列で書かれていて、スケジュール帳はそのノートの「目次」になっていたからだ。Palmはスケジュール、ToDo、メモ帳など端末内のあらゆるコンテンツをキーワードで検索できる。これがめちゃくちゃ便利だった。

 例えば、ある企業で大きな事業再編があったとする。確かあの会社の再編される部門のトップに会って話を聞いたことがあったような気がするが、もう何年も前の話でしかも何を言ったか正確には覚えてない。そういう時、その企業名でPalmのスケジュールを検索する。すると、その人と会った年月日が出てくる。それを見て、その時期のノートを机の中から引っぱり出してページを繰っていくと、その人物との会話内容がそっくり出てくるという具合だ。

 僕の知っている優秀な記者は、みんな何らかの形でこうした「過去の取材記録」を即座にたどれるような仕組みを自分で構築していた。だてに年を取らないというか、そういう心がけがちゃんとある人とない人では、何をやっていてもいつの間にか大きな差がつく。

 これまで10年かけて、僕は割としっかりそういう仕組みを作って来た。でも転職してから、その"型"ががちゃがちゃに変わってしまった。

 新しい会社では、スケジュール管理のグループウエアASPが導入されていて、誰もがすべてその上で自分のスケジュールを公開している。透明なのはいいのだが、ウェブベースの管理が前提になっていて、個人の端末に落として書き加えたりToDoと一緒に眺めてひねったり、つまり「自分の時間」の部分を機動的に管理できない。

 じゃあ会社とは分けて個人スケジュールを手帳とかで管理すればいいじゃない、と言われそうだけど、会社のスケジュールは他人がどんどん追加したり時間を動かしたりしてくるので、シンクロさせるのが面倒だ。しかも持ち歩き用に手帳を持つというのならまだ意味があるが、そのグループウエアASPは携帯電話からも閲覧・操作できるので、手帳を持ち歩く意味がますます薄れる。なのにPalmとはシンクロできない。ぐああああ。

 あと、新しい会社の仕事は記者時代よりもっとタクトが長いし、急な仕事というのがあまり入ってこない。だからギチギチとスケジュール管理をする必要があまりないのだが、一方でアウトプットは記者よりはるかにレベルの高いものが求められるので、相当きちんと脳内で工程管理をして取り組まないと、品質面で要求されたレベルを満たせないリスクが高まる。

 見回してみると、そういう意味でのコンテンツの品質管理をやっている人というのが、周囲にあまり見あたらない。つまり参考になりそうな事例があまりない。困ったものだ。脳内品質管理を高める方法というのは、佐々木かをり氏の言うような「時間を分解して管理する」ことよりも、細切れの時間をなるべく減らして統合する方向に解があるような気もするんだけど、いややっぱり1つのタスクを個人の中で段階的にバラバラに分解して細切れに時間に割り当てていかなければいかんのかな。そのへんもまだよくわからん。うーむ。

 というわけで、しばらくは試行錯誤が続きそうな予感。だれか高度にコンセントレートされたコンテンツ制作を脳内で品質管理するための良い方法があったら教えてください。

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2005/01/15

僕のおつむは燃費が悪い件について

 羊堂本舗のブログを見ていて、「ゲーム脳っていうのは頭が良いってことなんだ」というエントリを読んで感心。

 こっちの分野はまったくの素人なのでゲーム脳がどうとか言われても「ふーん」という感想しか述べられないが、最新の科学の知見というのが実は昔から日常的に使っている慣用句などと感覚的にもぴったり一致しているとかって、よくあるよね。これなんか、その典型かなあと思った。

 例えば「頭に血が上った」っていう慣用句。深い考えもなく怒ったり焦ったりすることを差す言葉だが、これっていうのは要するに脳が目の前の突発的な事象をさらっと処理できなくて、神経回路を全部使って考えようとするから血が頭に全部集まるのだよね。でも、そのような出来事に頻繁に接するようになって対応になれてしまうと、脳の方も処理に慣れてきて少しの働きだけで処理できるようになり、結果として頭に血が上らなくなる。

 僕なんかも、よく難しい試験問題とかを解こうとしてうんうんうなってると頭がどんどん熱くなる感覚を持つんだけど、あれっていうのは僕のおつむがバカだからですね。実はこのブログのエントリ書くのにも、割としょっちゅう頭が熱くなったりするんですがあれって…(以下略)。ああ、僕の脳みそって燃費の悪い奴 orz

 で、羊堂本舗のエントリに感想付けるだけで終わったらそれこそi386並みに燃費の悪いCPUだなR30はとか言われそうなので、苦し紛れだがちょっと思ったことを。

 今に始まったことじゃないがコンピューター・サイエンスの分野ではこうした脳の働きを半導体で何とか真似できないかというのが「ニューロ・コンピューティング」とか呼ばれていろいろと試みられてきているわけだが、この「一度やり方をマスターした処理については次回以降最小の消費エネルギーで処理することが可能になる」という脳のすごい機能は、結構コンピューターの将来にとっても明るい話のように思う。

 最近、このへんの分野をウォッチしていないのでアナクロな知識かも知れないけど、一度処理した長大な命令セットを覚えておいて、2度目以降はそれを短縮化した命令セットとして処理するというCPU機能というのをインテルあたりが研究しているという話を以前に聞いたことがある。

 半導体集積回路自らが「学習」を重ねて頭が良くなっていくようなCPUが生まれれば、CPUの消費電力はますます下がり、しかも処理スピードはますます上がることになる。「ムーアの法則はもう破綻する」とか言われてずいぶんと経ったような気がするが、ハードとしての回路幅のミクロ化もさることながら、こうしたニューロマティックなアプローチが21世紀もコンピューターを延々進化させ続けると思うと、結構わくわくするよね。

 まあ、逆にそういう集積回路の自己学習機能が「ターミネーター3」や「Mr.インクレディブル」に出てくるような学習能力のある殺人兵器みたいなものに応用されないとは限らない(というか既に応用研究は相当進んでいるらしい)わけで、そっち方面の進化はあまり期待したくないしわくわくもしないわけですが。

 でもこういう未来話になると難しいことを考えるより先に素直にわくわくしてしまう、実はコンピューターフリークなR30でした。

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2005/01/01

とりあえず、今年の抱負など

 あけましておめでとうございます。0時ぴったりにあるMLにメールを送ろうと思って手ぐすね引いてたら、受信したサーバの時刻設定が狂いまくっていて、送信日時が12/31の11時過ぎになったorz こういうの、許されて良いのでしょうか。

 なんて元旦早々コンピュータ相手に怒りをぶちまけていてもしょうがないので、気を取り直して今年1年の抱負など。あと、まったく僕らしくないのですが、元旦だけデザインを思いっきりミーハーに変えます(笑)。一瞬違うサイトにアクセスしたんじゃないかと思ってF5キーを連打する人続出でPVアップでウマーを期待(爆)。

 冗談はさておき、今年の抱負。まずは、これでしょ。

(1) 新しい仕事をちゃんとできるようになる

 社会人になってほぼずーっと同じことを10年近くやってきたわけなので、最近だんだん仕事を「鼻くそをほじりながら適当にやる」ことに慣れきっていたきらいがある。いかんいかん。転職したので、きりっと気持ちを引き締めて、もう沸騰させた油の中に飛び込んだつもりでトナカイみたいにしゃかりきに仕事に取り組みたいと思います。

 次はこれ。

(2) 新しい住まいの周辺の人と仲良くなる

 3月に引っ越しする予定なので、新居の近隣と仲良くしなくちゃね。結構コミュニティとしての活動が盛んなところなので、イベントとかお手伝いとかにもなるべく積極的に顔を出したい。出しゃばりすぎず、さりげなく。

 そして最後に、これ。

(3) このブログで、インターネットの進化と楽しさに多少とも貢献する

 3番目なのに一番大それた抱負がこれかも。当初は仕事柄そこそこ知識のある企業ネタやマーケティングネタでてきとーに世間のニュースでもいじろうかと思っていたのだが、ジャーナリズムとかライフスタイル絡みの話で口角泡をとばすような議論しているうちに、何だかブログのコンセプトがだんだんずれてきた(笑)。

 ま、それでもいいかと思ってる。つぶやきシローみたいに1人でつぶやいているだけならこだわりテーマだけ追っかけていればいいけど、まがりなりにも公の場であり、Google先生によって不意に一番目に付くところに引き上げられる事態が頻発するブログという媒体(メディア)を通して文を綴るのだから、内容も読者の皆様あってのものだ。

 だから何となく今のブログの世界が突っつくべき道筋が見えればそこに突っ込んで行きたいと思うし、論争はなるべく受けて立ちたいし、テーマの範囲にあまり制約を設けずいろいろ試してみたいなと思うわけです。

 で、その結果としてインターネットで情報発信する人が数人ばかし増えたとか、僕の書いた文に着想を得て何かを作った人が出てきただとか、そういうものが生まれるとなおウレシイ。というかそのあたりを必死に目指すでもなく、何となく派生させてみたい。

 一応自分自身の中でのプライオリティは当然のように(1)>(2)>(3)の順なので、仕事に没頭するあまりブログの更新が少し滞ることなんかもあるかもしれませんが、最低でも週に2日はネタを投下するという方向で頑張ります。そんなわけで今年もR30にお付き合いいただけますよう、よろしくお願いします。

 後、業務連絡。年賀状ついに年内に投函できませんでした。送って下さった方には、受け取った順にお返事書きます。すいません。

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2004/12/17

リベラルぶりっ子<萌えヲタの時代

 忘年会に行って来た。

 相手は、会社の同僚のR嬢、S嬢。年齢は少しずつ違うが、3人で大きな仕事をいくつかやった「同志」。年末で辞める僕への送別会も兼ねた会だったが、いつも通り熱い議論からバカ話まで、4時間以上おしゃべりに花が咲いた。

 で、その話題の矛先が先日の「カノジョに働いていいよと言いつつ家事をやれとプレッシャーをかける男」というこのブログのエントリに。あれを読んでブチ切れたというR嬢の毒舌トークをひとしきり聞いた後、話は恋愛論へとなぜか急展開した。

 エントリのコメント欄に出ていた「リベラルぶりっ子」っていうのは、言い得て妙だよねとか大笑いした後に、「じゃ、ぶりっ子じゃなくて今本当のリベラル男ってどこにいるのか?」という話になった。

 ここで言うリベラルとは、言葉の本来の意味で「寛容な」とか「気前の良い」といった意味。つまり、男女の多様な働き方、生き方の選択に寛容で、「社会的ステータス」とか「男としてのメンツ」とかにこだわらず、たとえ自分より妻の給料が多くても自分の家事分担が多くてもニコニコしてそれを受け容れるような、働く女性にとって一緒に過ごしやすいそんな男性、という意味だ。政治的なウヨサヨの話ではないので念のため。

 それってもしかして、オタクとかニートとかの、「自分は結婚、就職などの社会的能力が他人に比べて足りない」と認識している、Loveless zeroさんの言葉を借りるなら“退却系”の男性のことじゃないだろうか。と、R嬢が言った。

 そういえば確かにそうかもしれない。AERAによれば「電車男」の本を買っている人の半分は女性だそうだし、最近発見してびっくりしたブログ(こちら)を見ても、ラブドールにいろいろな服を着せて妄想と一緒に写真を載せるという、普通なら「キモイ」以外に表現できない内容のブログ作者に女性からのデート申込みが相次いでいるというし。

 電車男がなぜ女性の人気を集めるのかについては、こちらのブログなどが「対人関係の煩わしさを嫌がるものぐさ女性の希望的観測」と斬って捨てているが、ま、確かにそういう部分はあるのだろうし、R嬢もS嬢もそれは指摘していたが、僕はそれってあながち悪いことでもないと思う。

 世の中には一方で先日のエントリに書いたような「生まれ育ちまでガチガチの保守主義者なんだけど、でも俺って女性に理解あるリベラリストなんだよ実は」みたいなことをひけらかす、危険な二枚舌の男性が少なからずいる。もし、それなりに自立して生きたいと思う女性がそうしたトラップから身を守ろうと思えば、自分の危ない性癖とか恥ずかしい趣味をありのままにさらけ出して、女性に尊敬と憧れのまなざしを向けてくれる男性とつき合った方が、どうみたってリスクは少ない。

 それから、もっとラディカルな見方をすれば、実はリベラルぶりっ子よりも萌えヲタ君のほうが、コンテンツ的にずっと深くて面白いということもあるかもしれない。

 たいてい、リベラルぶりっ子の男性というのは、俺はあれもできる、これも知ってると見栄をはりたがるくせに、実際にやらせてみると口ほどにもない奴というのが大半である。なんとなれば、彼らは「女性にダサイところを見せてはなるまじ」と思っているので、できもしないことを「できる」とつい口にしてしまうからだ。でも女性は趣味遊び系は男性よりずっと幅広い経験がある人が多いので、たとえ自分の知らない領域でも、一目見れば彼の達人度が大したことないレベルだというのは判断できる。それで女性の側は、「あれだけできるできるとか言っといてそのレベルかよ…」と萎えてしまうわけだ。

 前回のエントリで、「なぜそういう人たちはお見合いという、彼らの階級だけに許された手段を使わないのか」というコメントをもらっていたが、実際のところ僕もそう思う。だが、彼らは、「結婚はやっぱり恋愛結婚じゃなきゃあね」というリベラルな価値観を披露したいがために恋愛にこだわっているのだ。要するに、言葉だけでなく行為そのものもリベラルぶりっ子なわけだ。しかも、そのことを遠回しに非難されたりすると、あくまで一般論として受け止めて「理解を示」し、自分に向けられたものと感じて反省するなど絶対にしない。

 これに対して、ヲタク系の男性というのは、「いや、俺ただのオタクだからさ…」とか謙遜するくせに、それまで他の男性が女性の目を引くためになどに費やしていた労力のすべてを賭けた没入で、非常に狭い領域の知識・芸を極めている。だからその領域に聞き手が興味を持ってさえあげれば、常人の想像を超えたウンチクが滔々と流れ出てくるのだ。これは、考えようによっては汲めども尽きぬコンテンツの泉である。

 しかも当の男性は「自分はその分野だけしか究めていない」という自覚が明確にあるから、それ以外の部分では女性の言い分を割と素直に聞いてくれる。それがどんなに自分のこれまでの生活習慣となじまないものでも、「俺みたいなダメ人間は普通の人並みになるのに努力が必要だから」とか言いながら、ちゃんと合わせる努力を払ってくれる。

 R嬢、S嬢に共通する言い分は「ヲタク男性の方が、自分と他人に正直だ」ということだ。特に、電車男やラブドールブログの524氏のような、自分の恥ずかしい部分も含めて持っているコンテンツを他人のためのエンタテインメントとしてインターネットで晒せるヲタクには、女性から大いに共感を集めるチャンスが増えているということでもある。R嬢がその後送ってきたメールをそっくり引用しておこう。

ネットって、ある意味、恋愛における新興市場みたいなものかと。これまで、中小企業(オタク男)の存在そのものが投資家(女性)に知られておらず、資金(恋愛チャンス)集めが難しかったけれど、新しい市場のおかげで、小さくても魅力的な企業なら広く資金を集められる。良い世の中になったと私は思いますよ。
 いやはや、まったくその通り。3K、イケメン、リベラルぶりっ子の時代は終わった。これからは貧乏でもダメ人間でも正直で面白いコンテンツ力のある「萌えヲタク男」の時代なり!男性諸君、心せよ。

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2004/11/24

人の死を直視するということについて

 大学生の時、とある事情からタイの田舎で出家した経験がある。

 日本では出家というとびっくりされるが、タイでは20歳になった男子は必ず1回は出家することが文化的風習だ。つまりタイ式「成人式」である。キリスト教の広まった最近のバンコクではそうでもないらしいが、基本的に出家したことのない成人男性は「未熟者」と見られる。また、女性にとって人生で最大の功徳(善行をなして徳を積むこと)とは、「息子を出家させること」とされている。

 僕は高校時代にも一度タイにホームステイしていたことがあり、実は出家は日本では決してできない自分のための「成人式」のつもりであると同時に、その時に僕を実の息子同様に可愛がってくれたホストマザーに対する恩返しのつもりもあった。もちろん、彼女は自分の息子が出家するのと同じぐらいに、僕の出家をたいそう喜んでくれた。

 それで、タイで出家するとどんな暮らしをするのかというと、そちらの方面に興味のある人は文化人類学者の青木保の『タイの僧院にて』あたりを読んでもらいたい。簡単に言うと、頭髪を剃り、まゆ毛もひげも剃り、茶色の布1枚だけを身体に巻き付け、食事は午前中に2回だけ、早朝に重い鉄の鉢を持って村を托鉢して回り、帰ってきたら読経してそれを食べ、午後は読書や勉学でじっとして過ごす。時々、村のそこかしこで行われる冠婚葬祭(文字通り結婚式やお葬式、あるいは家の上棟式とか病人の治癒祈願とか)に呼ばれてお経を上げたりする。

 一般人はこれをだいたい短くて2カ月ぐらい、長ければ半年とか1年とかやってから「還俗」、つまり一般人に戻る。戻る時期は自分で決める。嫌で嫌でしょうがないという人はあまりいないが、たいていは仕事やらいろいろ用事があるのでしょうがなく戻る。でも仏門の生活が気に入った人はそのまま一生僧侶で居続けることもある。

 僕は日本の大学2年生の夏休みをフルに活用したので、7月に期末テストが終わってすぐにタイに行き出家して、9月の半ばに還俗して戻ってきた。3日ならぬ“2カ月坊主”である。

 食事が午前中だけというのは、僧侶はそれほど身体を動かさないし、慣れるとどうってこともない。有名な「女性に触ってはいけない」とかの禁忌も別に大した問題ではなかったのだが、一番辛かったのは早朝の托鉢だった。

 托鉢は、10kg近くある鉄のお鉢を抱えて、素足で歩いて村の集落を回る。距離は1時間で帰ってくるぐらいだから、だいたい3~4kmぐらいか。タイの田舎は幹線道路しか舗装されていないから、家の前の小道とかはほとんど砂利道だ。そこを素足で歩かなければならないのだ。

 しかも、手に持っているお鉢にはご飯やおかずなどの食べ物がどんどん放り込まれるので、どんどん重くなる。するとますます足の裏が痛くなる。他の僧侶は慣れているのか、皆平然とした顔だったが、僕は苦痛に歪んだ顔をしていたはずだ。あの時ほど日本人に生まれ育った自分を恨んだこともない。

 さて、毎朝しかめっ面で村々を歩いて回っていたある日の午後、先輩の僧侶が「病人の治癒祈願に行くからついてこい」と言った。特に用事もなかった僕は数人の僧侶仲間と一緒に先輩の後をついて行ったところ、彼が入っていったのは僕の高校時代に同じ学校にいた、同級生の家だった。

 家族や医者に囲まれて横たわっていたのは、まさにその同級生だった。彼とは高校の時以来会っていなかったが、当時一緒にサッカーやバスケットなどしたこともあり、元気な頃の彼の姿をはっきり覚えていた。内臓が悪いのか、やせ細って顔が黄褐色に変色し、目をつぶったまま不自然な荒い呼吸を繰り返す彼の変わり果てた姿を見て、唖然とした。

 といっても僕にはどうすることもできない。ろくな医療機関もないその村の自宅に寝かされていること自体、彼が大した医者にもかかれずにここまでなってしまったことを示していた。家族と先輩僧侶の会話をちらりと耳にした範囲では、彼の命ももう長くはないようだった。僕を含む僧侶たちは15分ほど治癒を祈願するお経を上げてその家をあとにした。

 1週間ほど経った頃、僕の出家していた寺で葬式が行われた。「仏様」は、あの同級生だった。雲一つなく晴れて輝く太陽の下で、蓮の花で飾られた棺の前で僕らがお経を上げ、香が焚かれ、やがて棺は火葬場の中に入っていった。おそらく闘病期間が長かったのかもしれない。母親は涙ぐんでいたものの、彼の親族は皆割と平然とした様子で、静かに葬式に参列していた。

 その時、ふいに僕は目頭が熱くなった。高校の時に少し知り合いだっただけの彼の死に、どうしてだか分からなかったが、何かが胸の中からこみ上げてきた。すると、目を押さえた僕の様子に気づいた先輩僧侶が僕に向かって静かに諭すように言った。

 「僧侶なら、泣いてはいけない。死は誰にでも訪れる。だから彼の死をただじっと見つめなさい。そして泣くのは止めなさい」

 それからしばらく、僕は夜眠ろうとすると、頭の中を虹色の光がぐるぐると飛び交って眠れなくなる日が続いた。光は日をおうごとに少しずつ増えていくようだった。僕の心を邪魔しに来ているような感じだった。毎晩寝つかれなかったが、翌朝早くからまた起きなければならない。何とかして眠ろうと、一生懸命他のことを考えたりしようとした。でも眠れなかった。

 ある夜、光があまりにもすごい勢いで渦巻きはじめた。どうしてこんなことになるのか分からなくて、無我夢中で先輩僧侶の部屋に行って「助けて下さい」と叫んだ。でも先輩は出てこない。気が狂いそうになり、思わず毎日唱えているお経を唱えた。すると、それまで毎日唱えていたのに何の「御利益」もなかったサンスクリット語の経の言葉が、突然意識の中にすーっと吸い込まれて、そして虹色の光の渦は音もなく消えた。心の中には、真っ暗な静寂が広がっているだけだった。その瞬間、先輩僧侶に言われた言葉の1つひとつが、とても自然に思えるようになった。

 これは、たぶん「宗教的体験」と言われるものなんだろうと思っている。だから同じことを他人が体験できるとは思わないし、だから他人に上座部仏教への入信を勧めようとかも思わない。

 ただ、1つ思うのは、最近2ちゃんねるあたりで流行しているそうだが、どこぞの殺人動画を見ることが「死を直視する」ことでは、決してないということだ。僕なりに考える「死を直視する」ということの意味は、ある人の死を通じて、それがいつ何時自分であってもおかしくないと思うこと、そして「死は誰にでも訪れる」という現実をただじっと見つめて、そこから自分の生きる意味を考えるということである。もっと言えば、メディアを通したのではない、目の前のナマの死を見て、それと自分を対比することだ。

 例えば、卑近な話で言うと「もし今あなたが何でも3つ夢を叶えられるとしたら、何を望みますか?」という質問に対して「何も望まない」と答えることだと、カッコつけでも何でもなく、僕はそう思う。女性だと「美貌、男、カネ」とか望むのが定石だそうだが、別に僕は「カネ、カネ、カネ」とか「女、女、女」と唱えようとか全然思わない。カネ、容姿、男(女)、そういったものは自分に死が訪れる時のことを直視すれば、どれも空しいからだ。

 この程度で悟ったなどと言うつもりは全然ない。けれど「死を直視する」という言葉の深い意味を、いい年した大人がきちんと自分の言葉で説明できなくなっている日本って、本当に寒い国だと思う。マーケティングとはまったく関係ないが、そんなことを思う今日この頃だ。まっ、2ちゃんやブログあたりでぐだぐだ言ってるのは20歳以上の大人じゃない、のかもしれませんが。

07:30 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (2) トラックバック (1)

2004/11/11

運命という才能

 「マスコミとコンサルの奴はモラトリアムを続けたいだけだ」と、いとーさんにコメント欄で一刀両断にされたものですから、倒れてもタダじゃ起きないのがポリシー(嘘)の僕としましてはこれも何かネタにしなきゃなぁと。

 そこで引っぱり出してきたのがこれ。故・小此木啓吾著『モラトリアム人間を考える』(中公文庫)。懐かしいね。1980年にブームになり、その後高校・大学の国語の受験問題にも頻繁に引用されるようになったこの本、R30の読者なら、読んだことはなくてもこのタイトルぐらいは聞いたことがあるはず。

 今になって読み返してみて、面白いことに気がつく。

 まず、この本で小此木教授が言っているモラトリアム人間の定義を確認しておくと、「現実原則(Reality Principle)ではなく執行原則(Exective Principle)として環境を理解し、『断念する苦痛に耐える心』(フロイト)のなくなった人間」という意味である。

 彼は決して悪い意味にこの言葉を使っているのではなく、マスメディアが肥大化し、物質文明が発展した結果として、若い人ほど「自分は本来全能であり、目の前の現実はいくらでも変えられる」と考える精神傾向を持つようになったことを指して「モラトリアム」という言葉を使っている。

 面白いなあと思ったのは、本の後半でライフサイクルについて述べた部分で、現代人の職場・仕事への適応問題として「上昇停止症候群」というものを挙げている点だ。実はこの本で述べられていることとまったく同じことを、「極東ブログ」のfinalvent氏が印象的な言葉で11月7日の日記に書いていたことを、思い出した。

人生って中年以降は匿名として消えていくか、権力ゲームのプレーヤーになれるか、の、どっちかで、99%くらいは前者。私もその組。才能の問題もあり運命の問題もあるが、畢竟、才能とは運命だな。
 「モラトリアム人間」の本の中では、一般にこの種の「上昇停止体験」を経て、サラリーマン人生における下降カーブの現実を受け容れる時期を「40代」としている。当時(80年代)、部長から役員、社長へと登る階段のスタートは40代後半、役員の座に就くのは普通50代後半だった。だからその「1%に入れない」という諦めが、99%の人々には40代で訪れたのだ。

 だがどうだろう。恐らく10年後、日本の大企業の社長の3分の1ぐらいは40代になっているに違いない。高くても50代前半か。とすると、1%を選抜する出世レースは遅くとも30代後半、場合によっては30代前半で、ある程度の決着がつくことになる。

 とすれば、小此木教授の言った「上昇停止症候群」は、現在においては40代ではなくまさに30代の精神症状と言ってもいいんじゃないだろうか。経営者の若返りという現象は、銀の匙を加えて入社するわけではないその他大勢のサラリーマンの挫折時期の前倒しという副作用も、当然ながら伴っていたわけだ。

 彼はこの症状の解決法について、「個人心理的な内面の成熟」「それまでに身につけた仕事、職業、役割と何らかの連続性を持つことのできるような仕事、職業、社会とのかかわりを保てるかどうか」「望ましくない仕事をやむを得ず強いられるくらいなら、自分自身の意志で退職し、それまでとの連続性が得られるような仕事、職業を獲得する方が望ましいのではないか」といったようなことを述べている。

 30代の僕らは、まだまだ新しいことを覚えることのできる能力があるという意味で、ここで彼が言っているような「それまでの仕事との連続性」はあまり気にしなくてもいいのかもしれない。だが、「運命という才能」を持たない99%に入る人間であるという自覚を持って、「望ましくない仕事をやむを得ず強いられるより、自分自身の意志でやりたい仕事ができる職場に転ずる」ことを目指すというのも、30代の重要な選択かという気もする。

 やりたい仕事をやれるかどうか、あるいは自らのコントロールできない現実の「苦痛に耐える心」を強いられる程度が多いか少ないかという意味においては、マスコミもコンサルも別に他の職種より特に優位性があるかと言えば、そんなことはない。単に、しがらみだらけで変化対応の遅い会社は世の中の現実に向き合ってない分社員もお気楽、というだけの話で、そういう会社は業績が傾くとエゴ丸出しで消えゆくパイの取り合いという地獄が現出するので、それまでほとんどなかったはずの「自分でコントロールできない現実の苦痛」が、突然急拡大するというデメリットもある。

 マスコミ、コンサルをより「モラトリアム」と思わせるものがあるとすれば、それは単にその社会的イメージという“幻想”の部分に過ぎないんじゃないかと思う。むしろ“幻想”にとらわれて自分が「運命という才能」のない99%であるという現実を直視するのが遅れる分、後々のリカバリーが辛くなるような気がするんだけど。人間万事塞翁が馬の如し

01:57 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (0) トラックバック (0)

2004/11/02

「釜ゆでうどん」であること

 再開後最初のエントリにまず、なぜ再開するのか少し考えを書いておきたい。

 もともとこのブログは、リアルでほとんど会えない友人に、僕が今考えていることを伝えるために始めたものだった。ただ、仕事柄ネットの世界の技術動向を理解していなければという思いもあり、「ブログ」というものがどんな影響を及ぼし得るのか自分で体験してみようという気持ちもあった。

 半年間ブログをやってみて感じたのは、ぶっちゃけて言うと「自分で思ったことを好き勝手に書ける場所があるって楽しいねえ」ってことである。知っている人は知っているから今さら隠し立てしないが僕はマスコミの片隅で飯を食っていて、普通の人に比べれば「自分で思ったことを書いて他人に読ませる」チャンスがべらぼうにたくさんある。それでもブログをやってみて、改めてそう思った。

 と同時に、大マスコミのブランドの傘が外れてしまえば、他人に向かって偉そうなご託を言えるほど知識のあるネタというのも自分には実はほとんどないということにも気がついた。切込隊長氏のエントリでうまくまとめてくれているので、それにリンクしておこうと思うが、彼の言葉を引用して曰く、

人間、好きなことを語るってのはどんなに忙しくても文章が長くなっても苦にならないのだなあという感嘆。あと、自分がどんな糞マイナーな趣味だと自負しているものでもその方面に長じている、より極めた男というのが存在していて立ちはだかるという現実の厳しさ。
 といった感じである。

 一方、当初想定していたのをはるかに上回る数と範囲の人がこれを読むようになって、以前書いたことが少し無防備すぎたなあという反省が出てきた。それでいったんブログを閉鎖した。

 ただ、閉鎖して改めて思った。こういう、自分が偉くも何ともないと思える場所をきちんと持っておかないと人間がダメになるなあということだ(特にマスコミに長くいると、この感覚が鈍る)。それに、少数ではあれこのブログを楽しみに読みに来ている人もいる。そういう人たちとささやかに意見交換ができることも、ブログで知った楽しさの1つである。

 ここしばらく、今の自分の仕事に悩み続けていた。他人のやることにあれこれ文句をつけるだけで、自分が何かビジネスの価値を生み出すわけじゃない。取材先でよく「そこまでお知りならぜひうちでコンサルしてくださいよ」とか言われるが、僕にコンサルなんかできっこないと思う。ふだん言っていることとやっていることのギャップの大きさにいつも悩む。特にビジネス・ジャーナリズムっていうのはそのジレンマに陥る。

 そんなとき、ある人からこう言われた。「世の中には言うだけの人ってのも必要なんですよ。その人の発言で他の人たちがカタルシスを感じてるんだから、それで十分価値を生んでるじゃないですか」。まあ、そうかもしれない。偉いことを言っているわけでもないけど、誰かのカタルシスになっていればそれでもいいか。最近、ちょっとそう思うようにもなってきた。

 関西出身なので小さい頃、生返事をしてだらだらしていると祖母などに「あんたは釜ゆでうどんやねえ」とたしなめられた。そのココロは「湯~(言う)だけ」である。でもその時以来ずっと釜ゆでうどんそのままの人生を過ごしている。でも釜ゆでうどんでもいいじゃないの、と言ってくれる人がいる限り、おいしい釜ゆでうどんで過ごすのも悪くないかもしれない。

 偉ぶらない釜ゆでうどんになる。このブログを通じて僕がやりたいことの1つはそれだ。自分にどこまでそれができるか、もうしばらく試してみようかと思っている。

 それから、以前のブログのネタで「もう一度読みたい!」っていうリクエストがあれば、ものによっては加筆修正して再アップすることも考えます。リクエストがあればコラムの内容を指定してコメントしてください。

11:03 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (0)