2007/05/18

ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?

 磯崎さんのところで見た新語にちょっと興味を引かれたので、つらつらと思うことを。

 ポリバレントな人材(isologue)

 「Polyvalent」って本来は化学用語らしいけど、日本語にすると要するに「多能工」ってことでしょ。英語にすると新しい話みたいに聞こえるけど、日本の製造業はもう数十年以上前から多能工の持つ価値を見抜いていて、その生産性の高さを引き出すための方法すら編み出している。そう、いつものアレです、「トヨタ生産方式」です。

 こういう、耳新しいカタカナ語で語るとすぐに皆さん飛びつくんだけど、なんだかなあという感じ。いちいち英語で言われて気づく前に、日本オリジナルの知恵をもっとよく勉強して、大事にすればいいのに。そんなに難しいことじゃないと思うんだけどな。

 ものづくりの世界での「多能工」の意味には、まず作業負荷の平準化がある。つまり、ある工程の作業ができる人というのがライン内に複数いることで、その工程の作業の負荷が一時的に増えてもそれを前後の工程の人が分担できる、だから生産ライン全体で見るとボトルネックが生じにくい、というのがそれだ。

 ただ、多能工のメリットはそれだけではなくて、複数の工程をこなせるため仕事に飽きが来ない、複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができる、そして熟練すれば単工程の作業をこなせる人よりも多くの人から尊敬を集められる、といったこともある。言うなれば作業者のモチベーションそのものを高めることができまっせ、というのが多能工化の本質的な価値である、とトヨタ生産方式の中では言われているわけだ。

 これだけ明確に謳われているにもかかわらず、ものづくりの世界から一歩出ると、多能工化を嫌う人が世の中本当に多いのね。特にその傾向が顕著なのが、磯崎さんのブログでも書かれているような「士業」の世界、それから学問の世界の人たち。いわゆる「専門家ホワイトカラー」系の世界の住人である。この方々は1つの領域に深く深くはまってる人にこそ最高の価値があると思っていて、複数の領域を股にかけて何の専門家なのかよく分からないぐらいいろいろな領域に足を突っ込んでいる人を、ことさらに卑下するさげすむ傾向がある。

 「専門性」という名の下に隠蔽されたこれら「専門家」の視野狭窄、柔軟性のなさ、そしてもっとぶっちゃけて言うと「使えなさ」みたいなものは、最近とみに深刻だと思う場面が増えているのだけど、当の専門家の間にはそういう世間の評価に対する反省というのがまったくないというのがさらに深刻ですな。要するに、知的退廃というヤツでしょうか。率直に言って頭が悪いんですな、特定の「専門領域」しか持たない人たちというのは。あるいは現実の社会を知らないというか。

 個人的には、その元凶となっているのが「大学」だと思うわけで。アカデミズムの世界ほど、特定分野の専門性を掲げずにいろんな領域を横断的に考える人間の評価を、不当に貶めているところもないと思う。確かに純粋科学の領域などでは、特定の専門領域に深く深く入っていく、生涯をかけて取り組むことで達成できる何かもあるとは思いますよ。でも実際の世の中で役に立てようと思ったら、複数領域の専門性を併せ持っている「多能工」な人のほうがずっと高い価値を生み出せる。だったら、純粋学問と社会の間の「実務系学問」の領域ぐらい、多能工専門家の評価をもっと高くする仕組みとか、あってもいいんじゃないかと思うのだが。

 こと「士業」の世界では、純粋学問の人たちの人材に対する価値観がそのまま実務的専門家の評価にも滲み出してしまうものだから、社会的ニーズの高まりそっちのけで融通の利かない視野狭窄な専門バカが大量に生まれるという弊害が生まれているわけだ。そして、既存のアカデミズムに依存しなければ自分の目で人材が有能かどうかの判断すら付かない人たちが、その価値観をさらに再生産するという悪循環が延々続く。まったくもって、どうしようもない。

 まあ、既存のアカデミズムはそういうところは永久に変わらないかも知れないだろうけど、せめて実務家の側からでもそういう価値観に異を唱えることはしていくべきじゃなかろうかと。多能工の本質的価値というものを、もう少しホワイトカラーの人たちも考え直して、人材評価に反映させるとかした方がよろしいんじゃないでしょうか。なんてことを思ったですよ。そんな話はどうでもいいですかそうですか。では。

12:36 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (5)

2007/01/21

某えん罪事件の映画の件

 映画そのものは見てもいないわけですが、あちこちで盛り上がり始めているのでちょっと一言。例の、前田有一氏曰く「すべての男が見るべき大傑作」磯崎先生曰く「他人にどうすすめてよいのか分からない」と悶絶されるところの、あの映画でございます。

 まあ、いろいろな意味でフジテレビ亀ピーGJ、なんでしょうね。素直にそう思います。痴漢えん罪がどうこうというのでなく、司法というのがいかに不条理な世界であるかというのを、これから4年以内に「裁判員制度」が始まる前に、国民の皆さんがよく知っておいた方がよろしかろうと。 知ったからどうこうなるものでもありませんが。

 不肖私もこの前とある刑事事件で地元の警察に原告側証人として呼ばれ、調書作りにつき合わされたのですが、いやもうなんというか「職業としての司法」というのはこういうものかと絶句致しました(警察は厳密には行政ですがね)。最近は公務員に成果主義導入とか話題になっているようでございますが、警察には既に業績評価賃金が導入されているかのごとくでございます。とにかく明確で疑いを差し挟む余地のない事件を立件するのが職務ですから、そのために刑事さんってのはグレーもすべて「クロ」と断言させようと、誘導尋問しまくりなんですな。

 こちらは一応原告(被害者)の人にとって唯一の頼れる証人ということもあり、あいまいな証言をすると加害者が無罪放免になっちゃう恐れもあり、まあ多少の誘導尋問には目をつぶるしかないかと思ってもいたんですが、それにしてもこっちの話の意図や目撃内容を必死にねじ曲げて、あたかも犯罪があったのが自明であるかのようにでっち上げようとする様子が、本当に痛々しいことでございました。

 逆に考えると、自分が何かのはずみで事件に巻き込まれ、加害者の嫌疑をかけられたら、裏でこうやってものすごい勢いで周辺に誘導尋問されて罪をでっち上げられるんだろうなと思うと、とにかくああいう場にかかわりにならない生き方をするのが善良なる市民の責務でさえあると思うようになりました。

 以前にどこかで読んだ気もするのですが、満員電車の中で女性に手を捕まれて「あなた、痴漢でしょ!」とか叫ばれたら、「違う」と主張したり「出るとこ出てやろうじゃないか」とかバカなこと考えたりしないで、とにかく脊髄反射的にすぐに手を振り切って、脇目もふらずに電車を降りて(あるいは別の電車に飛び乗って)人混みに紛れて逃げるのが最上の策であるらしいですね。自分自身は痴漢したい衝動に駆られたことも痴漢したこともありませんが、万が一痴漢扱いされたら脊髄反射で脱兎の如く逃げられるように、いつも心構えはしているつもりです。

10:13 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (14) トラックバック (6)

2006/09/27

Google Mapで見るディズニーリゾートのトリビア

 Google Mapの日本の情報が更新された、という記事をCNETで見たので、どれどれと思いながらちょっとのぞきに。今回は地図データのアップデートだったらしいが、衛星からの写真データも7月に更新されていたらしい。

 そこで、前からその中身を見てみたくてしょうがなかった施設の上空に。そう、それは「東京ディズニーリゾート」。頭の黒いネズミの統べる王国。おお、中の施設から、駐車場の線1本1本に至るまではっきり見えるぜ。と思いながら、ふらふらと空中散歩していたら、面白いものを見てしまった。ディズニーシーのど真ん中に、まっすぐ1本の道路が走っているのである。

 メディテレーニアン・ハーバーの裏の水上パレード用ボート繋留所の横、キャラバン・カルーセルの裏側から、ミステリアスアイランドの山脈とマーメイドラグーンの間を通って、ポートディスカバリーのエレクトリック・レールウェイ駅裏側まで、ポートディスカバリー地域向けのロジスティックス用自動車道路が貫いている。ディズニーシーには3回ぐらい入ったことがあるが、こんな道路があるなんてまったく気がつかなかった。

 上空からは堂々とした道路が見えるのに、アトラクションのどこから見てもこの道路が見えない、というか存在自体にまったく気がつかないほど巧妙に隠されていることに、改めて驚いた。 たぶん、設計段階であらゆる角度からのランドスケープを計算して、ロジ関連施設は一切見えないように工夫を凝らしているのだ。この緻密な施設設計能力自体が、オリエンタルランドの最大の企業ノウハウなんだろうね。

 ちなみに、Yahoo!でも地図情報の投稿サイトがスタートしていて、こちらにOLCの社内関係者とおぼしき人が施設の名称や機能、周辺エリアの建築予定の建物などについて細かいデータを投稿している。上記のロジスティックス道路の始まっているところは、「ロジスティックビル」という注釈がついているので、この道路がレストランの食材や物販用の商品のロジ道路であることは間違いなさそう。

 大学生の頃に、「ディズニーランドに観覧車が存在しないのは、消費者に魔法の迷宮をさまよう楽しさを与え、その世界を俯瞰するパースペクティヴを彼らに与えないため」という論文を書いたりしたこともあったんだけど、これを見るとディズニーリゾートは消費者に上空から見られることを拒否している施設だったんだなあと、改めて思う。

 ただ、不思議なのは、舞浜エリアに上空からの視線をものすごく意識している施設がたった1つだけあること。いったいこれって、何のためにこんなことしているんだろうか?誰かその秘密を知っていたら教えてください。

01:16 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (7)

2006/09/11

禿に関する一私論

 昨夜、10分1000円の散髪屋に行ったらもう閉店時間だというので、しかたなく近くの普通のフルサービス4000円の散髪屋に。そこはあんちゃんがおしゃべりでしかも僕とは割とフィーリングの合わないタイプなのであまり行きたくなかったのだが、背に腹は代えられない。

 で、のぞいてみると日曜日の夜なのに奇跡的に空いていた。で、40分ほどそのあんちゃんとおつき合いすることになったわけだが、あんちゃんは相変わらずこっちの気持ちをまったく読まず、心理的な間合いを詰めようという努力の気配も見せず、僕をシートに座らせて髪を切り始めた瞬間からいきなりセールストーク全開ですよ。

 「お客さん、結構頭の皮が日焼けしてますよね。頭皮の脂を落とさないと、髪がなくなりますよ。うち、10月まで皮脂を落とす特別マッサージ、1回2000円を1500円でやるキャンペーンやってるんですけど、いかがですか?」

 お兄さん、せめてもうちょっと禿の話を切り出す時には素振りだけでいいからデリカシーを見せようよ。いきなりそこまで突っ込んで話しかけられて「お、そうかい、俺の頭皮そんなに禿げそうかい。じゃあその特別マッサージとやら、いっちょやってくんな」なんていうキップのいいお客さん、いないと思うんですけど。いるんですかね。いたら申し訳ない。自分にデリカシーがないくせに他人にはそういうの要求するタイプなんですよ僕って。

 にしても、もうちょっと説得力のある勧誘というのはできないものか。一応これでもうちの血筋、誰一人として禿のいない家系なわけですよ。親父も爺さんも、お袋の親戚も男性はみんなフサフサ。だから自分も全然禿げる気がしない。そういう人に向かって「お前、頭皮が日焼けして禿げそうだからうちの商品を買え」ってのはいくら何でも説得力なさすぎ。せめて「お客さん、ご親族に頭の薄い方とか、いらっしゃいます?いやね、実はね、お客さんの髪の毛、もともとはすごく丈夫そうなんですけど、ちょっとこの日焼けがずいぶんひどいのが気になりましてね…」とか、言葉の綾の駆使の仕方ってもんがあるでしょうが。

 それともあれかな、やっぱり説得するには数字とビジュアルを使ってやらにゃ、てことかな。例えば頭に霧吹きで水をかけている最中に頂上の髪を1本プチッと抜く。んで検査機にかけ、毛根の成分比率とかをガスクロでさっと検査して、さらに顕微鏡写真を標準の毛根の写真と並べてインクジェットプリンタでプリントアウトし、カットの終わったお客さんに見せながら「お客様の頂上部と額上部の頭髪の毛根をちょっと調べさせていただいたんですが、標準の毛根に比べて皮脂や汚れが多くなっておりまして、頭髪年齢はもう56歳、あと数年でいっせいに定年退職じゃなかった、抜け毛が一気に増えるというサインが出てます。ま、危険信号ですね。これ以上の診断と処置のアドバイスをお求めになりますか?」などと語ってくれたりするとものすごい説得力と危機感が漂うな。

 理容店業界向けのサプライヤーで、そういう脅迫ソリューションを考えついて実践する人ってのは誰かいないのだろうか。そもそもQBネットの登場以降、理髪店では「髪を切る」以降のプロセスのサービス価値というのが急速に薄れている。お客からすれば、「だいたい髪だけ切ってくれれば10分1000円ですむものを、人が座って身動き取れないのを良いことに勝手に洗髪だのシェーブだの俺様が自分でもできるような余計なことばかりしやがって、俺様の顔中血だらけにしたうえに俺様の貴重な30分の時間と3000円の追加料金ぼったくるとは不届き千万」とか思われているわけだ。だったら気持ちよく4000円を払ってもらえるように、カット以降のプロセスに理髪店でなければできない付加価値というものを付けられないかどうか、もう一度考え直してみたらどうか。

 既に理髪店業界において使われている最も安易な手口は、「洗髪やマッサージを可愛い女性理容師がやってくれる」というもので、前に住んでいたところの駅近くにある理髪店はカット、洗髪、シェーブ、マッサージ、整髪をすべて違う女性理容師が入れ替わり立ち替わりやってくれるというシステムを導入していた。入口には怖い顔の置屋のお婆さんみたいな店長がどっしり構えており、店内を忙しく走り回る若い美人女性美容師たちを見張りながら「○○ちゃん!次、そこのお客さんに洗髪!早く!」とか時々叫んでいる。理容師たちは交替するたびにいちいち「よろしくお願いしま~す!」と黄色い声を上げながら客に向かって深々と頭を下げてあいさつするので、そのたびにワクワクするというか、まあ普通の男性なら若い女性に優しく頭や顔を触られたりなでられたりするのが嬉しくないわけがない。実際その理髪店はすごい勢いの流れ作業で進める30分のカット1回に対し4700円と法外な値段を取るにもかかわらず平日も客足が絶えず、土日ともなると黄色い声のお姉ちゃんたちに顔をなでてもらいたい男どもが朝から晩まで長蛇の列をなしていた。これはどうみても理髪店ではなくて風俗の一形態である。もうね、アホかと。バカかと。

 しかしこのシステムは一方で店の中に少なくともカット・洗髪・シェーブ・マッサージ・整髪役の5人の美人女性理容師が常駐していなければならないという欠陥を持っており、客が大量に集まる繁華街でならまだしも、うちの家の近くのそのあんちゃんの店のように、休日でも理容師が3人そこそこいるだけのようなヒマな店では到底成り立たない。やっぱりここは頭髪検査設備に投資して、今日は3000円ぽっきりと思って来店した1人のお客さんに、あれよあれよという間に皮脂含有量の検査データとびっしり汚れがまとわりついた毛根の拡大写真を見せながらパワーアップ・クレンジング・シャンプー・アンド・スカルプケア・マッサージのキャンペーンを納得させ、気が付けばコンサルティングフィーを含めて8000円を巻き上げて「これできっと髪の毛すっきり、毛根ぴかぴかですよ!」なーんてさわやかな声をかけて見送るような科学的理髪サービス営業システムを構築してみようという理髪店、あるいは理髪店向けのサプライヤー企業はないものだろうか。あったら面白いんだけどな。でもそんな店には僕は絶対行かないと思う。マジ怖いから。やっぱりQBネット最高。あれ、何の話でしたっけ?

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2006/07/24

学校2.0

 はてブではなぜか産経の記事だけが盛り上がっているが、昨年の朝日の記事のほうがずっと詳しいのでそちらを読まれたし。

わがママに先生困った 保護者の「無理難題」(asahi.com)

 はてブからたどれる言及ブログでは「嘆かわしい」「教師より親のレベルの方が低いんじゃないのか」「この国の将来が心配だ」等々、知ったような口をきいてる方々が多数いらっしゃる。あはははは。みんなはあちゅうテンプレ、好きだなあ。今度は「絶対保護者改革」ですよね、やっぱ。

 例のテンプレレベルな憂国談義で盛り上がりたい向きはともかく、この問題については、昨年8月の読売新聞の記事がちゃんと解決策まで提案しているので、そちらを見るべし。逆に言うと、問題だけ投げ出して何の分析も解決へのヒントも提示してない産経は、ただの無責任なセンセーショナリズムと言われてもしょうがないんじゃないかと思う。それに見事釣られるはてなダイアラーおよびはてなブックマーカーの皆さんも、それはそれでアレなわけだが。ブロゴスフィアって楽しいっすね。

 読売の記事が良いと思うのは、このテーマをめぐっては教師と親、それぞれの価値観が根本的に食い違ってることが問題の本質であることを、きちんと指摘している点だ。実際、はてなダイアラーの皆さんの言う「キチガイ親」のことを教師がどう批判するかを聞けば(読売には教師の側のコメントも書かれているが)、教師の側も同様に「キチガイ」に見えることは必定だ。この点を認識せずにどちらか一方だけを「レベルが低い」「キチガイ」と批判していても、何も始まらない。

 問題の根源はそもそも教師と親の双方がお互いの価値観、もっと言えば「常識」を何ら共有してないところにあるわけだ。例えば産経の記事では、

小学校の1学年全クラスの担任配置表を独自に作成し、「この通りでなければ子供を学校に行かせない」と要求した保護者もいる。
 と書かれていて、これだけ読むとエゴイズムの極まったDQN親のように見えるが、朝日の場合は同じ事例について、もう少し具体的な状況を書いてある。
 関西の住宅地の小学校に勤務する教諭は、母親から1枚の紙を示された。見ると「1年1組 ~先生」「2年1組 ~先生」……。全学級の担任配置案だ。母親の子の学級には、力のある教師の名が書いてある。「この通りでお願いします」と親は屈託ない。「うちの子を~先生のクラスにと希望されたことはあったが、全担任案とは」と教諭は驚きを隠せない。
 これを読むと、必ずしもこの親の“非常識”を責められないようにも思えてくる。

 もしかして、この母親から見るとこの中学校は、子供との相性を無視した担任の変更を繰り返したり、特定の学級だけに「力のある教師」を張り付けたりして、教師の配置のマネジメントがてんでなってないように見えていたのかもしれない。「自分の子供に良い教師を付けてくれと主張するだけではエゴ丸出しと取られてしまう。それなら、全学年全学級の子供と相性の良い担任の配置をこちらで考えて提案してあげよう」と考えた可能性だって、ないわけじゃない。

 そもそも、朝日の記事からは、表向きは「平等な教育機会」を標榜する義務教育にもかかわらず、この学校では教師ごとに指導力の差があることを学校側が認めているようにも読めるわけで、親の側に「平等と言いながらクオリティコントロールの努力さえ放棄するなんて、ふざけるな」と言われても仕方がないような気もする。

 かくも「学校」にまつわる「常識」というのは時と場合と相手によってさまざまなわけで、これを埋める努力なくしてお互いを「キチガイ」呼ばわりしていても、現場の問題は何の解決にも至らない。この件に関して、実際の現場の教師の方からもブログで良識的な意見が表明されているが、その中で述べられている「この件は、もう少し慎重に考えたほうがいいのではないかと思ったわけです。下手をすると、教師と保護者との関係がますます希薄になってしまうことにつながるのではないかと心配しているのです」という危惧は、かなり的を射たものだと思われる(ちなみに、そのブログのコメント欄には小野田先生ご本人も降臨)。

 個人的な経験から言えば、我が子のことを一途に考え、端から見るといくら何でもそれはあり得ないだろうというような要望を学校に持ち込んでくる親は、たいてい教師あるいは学校側責任者との1対1の場でそれを言う。親がたくさん集まっているような場所では絶対に言わない。なぜかというと、(1)回りに他人の親がいる場所で自分の子供のエゴだけ主張しても認められないことは分かっている、(2)たいていの人は周囲の空気を読み、それに合わせて振る舞おうとする、からだ。

 つまり、ここから言えることは、親に学校というものに要求して良いことと悪いことを判断させる「常識」というのは、学校側と親が1対1で相対していては絶対に伝わらないけれど、親同士が集まっている場所ではその場の空気を「常識」とすることで伝達が可能だ、ということである。

 であるならば、学校はもう、個々の親の「常識」が自分たちと一致していることを期待するのではなく、なるべく学校側にとって負担の少ない「常識」を、親を集めた場の中に醸成するにはどうすればよいかということを考えた方が良い。学校から一方的に情報を提供し、それに黙って従ってくれることを期待するのではなく、親をグルーピングしてそこにある適切な刺激を与えることで、自律的な状況判断がコラボレーションされるのを期待するのである。曰く「学校2.0」である。

 例えば、親だけが参加できる「保護者SNS」を作り、コミュニティーの管理者には教師ではなく、複数の子供をその学校に通わせているような、経験と分別のある先輩保護者の代表(複数のチームでも可)をあてる。もちろん、その保護者には管理者としてのフィーを多少は払ったうえで、学校側と緊密なコミュニケーションを取りながらSNSの運営をしてもらうのだ。

 SNS上では、管理者の親から、例えば季節の行事ごとに「初めて運動会に参加するお父さん、お母さんにワンポイントアドバイス!」とかそういうほのぼのトピックを流してもらい、参加している親の関心を惹く。また同時に学校の運営についての親同士の意見交換もどんどんしてもらい、ある程度意見がまとまれば管理者を通じて学校に提案を出すというかたちにする。

 そうすると、多くの親はこれまでに学校にどんな提案がなされ、どういう経緯で実現してきたのかをログで確認することができるし、どんな提案がどういった理由で実現されなかったのかも知ることができる。つまり、どの程度の要求なら通り、通らないのかの「常識」が身に付く。また、他の親が自分と同じような悩みを抱えていることを知り、それをどう解決しているかも相談したり、一緒に考えたりすることができる。つまり、自分の悩みをストレートに学校にぶつけようと考えなくなる。

 もちろん、そういうコミュニティーでの議論を飛び越して自分のわがままを学校側に直訴するような親もいるだろう。だが、その内容も学校側から管理者のグループがきちんと聞き取って、プライバシーが分からないような範囲でコミュニティーに「報告」としてアップし、親同士の議論のネタにすれば、そのうち誰も「抜け駆け」はできなくなる。「抜け駆け」を繰り返すような親は、逆に親同士の間で問題視されることになり、学校側もコミュニティーでの反応を理由にその親を「無視」できるようにもなるだろう。

 実際の運用にはなかなかデリケートな部分も多々あるが、少なくとも管理者役の親と学校(教師)側がしっかり相互理解のもとに「握る」ことができれば、この仕組みは長期的には親からのクレーム対応に費やす学校側の負担を大きく減らすことにつながるはずである。

 これまでも学校と保護者の連携の場としてPTAという建前があったが、実際にPTAと学校がどんなやり取りをしていてそれがどこまで「常識」的なのか、一般の親にはうかがい知ることはできなかったし、それらのやり取りが「ログ」としてどこにも残っていなかったので、過去にどんな積み重ねがあるのかも分からず、その結果自分の子供を預ける時の不安が解消されないという問題が残った。

 SNSなどのネットワーク・コミュニティー機能を使い、集合知としての「常識」を代々の保護者に移転していく「学校2.0」の仕組みが実現すれば、学校は少なくとも親にとってずいぶん安心できるものになるのではないかというのが、ネットジャンキーな僕の妄想である。文科省も阪大の小野田教授の研究プロジェクトに上乗せして「学校2.0実験校」とかやってSNSシステムを開発して、うまく行ったらそのSNSシステムを全国の公立学校に横展開するようなカネの使い方をすればいいと思うのだけど。

 ま、そこまで文科省や学校関係者のITリテラシーが高かったら、そもそもこんな問題が世の中に蔓延してませんかそうですか。それは大変失礼しました。

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2006/05/25

ブログ封印

 ダメ。マジでやばすぎ。仕事が全然おわんない。なのでしばらくブログ封印します。ブクマには「あとでコメント」ネタがたまっていってるんだけど…。ここで下手に手出すともろもろ生産性が落ちそうなのであしからず。あ、封印期間中も無法系コメント・トラバは容赦なく削るのでそのようにご理解いただければ。では。

03:47 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (67) トラックバック (3)

2006/03/14

言葉の磁場

 以前のエントリにも書いたことがあるが、93年にタイで出家していたことがある。その理由は、1つには高校時代のホームステイ先のホストマザーを喜ばせたいということだったが、もう1つはこちらのサイトで彼が書いているようなこととそっくりな理由だった。彼が91年、そして僕が93年だから、京都と東京という違いはあれど、あれはちょうどあの時代の共通な空気だったのかも知れない、と思う。僕はたまたまタイで出家ができた。彼はそれを日本でやりたいと考えた。違いはそれだけだったのだろう。

 僧侶だった間、僕はずっと自分と世界とのかかわりの法則について考えていた。当時の僕の頭の中は、マルクスとかデカルトとかカントとかヘーゲルとかヴィトゲンシュタインとか、そういうものでいっぱいだった。そして、タイで先輩僧侶に向かって「マルクスはこう言っている」とか「ヴィトゲンシュタインはこういう説を述べている」とか、つたないタイ語で必死に説明して、西欧の哲学の巨人たちとブッダの教えとを比較して、どちらの矛が盾より強いか一生懸命試そうとしていたのだった。

 2カ月の間、ずっとそういう論争を先輩僧侶にふっかけ、「どうしてそうなるの?」「どうしてそれが正しいの?」と質問しまくっていたので、やがて寺院の中で僕はみんなからからかい混じりに「プラ・ダインガイ(どうして坊主)」と呼ばれるほどになった。他のタイ人の同僚僧侶たちは、中学・高校の国語でパーリ・サンスクリット語の基礎も習っているから、毎日唱えるたくさんのお経の意味がふつうに分かっているのだが、僕にとってはそれは暗号みたいなものだったので、自分の理解できる範囲の知識を元に質問し、それに理解できる範囲のタイ語で得られる知識をぶつけて考えるしか、仏教を理解するための方法がなかったのだ。

 僕が慕っていた先輩僧侶はとても人格の優れた人で、(マルクスぐらいは知っていたかもしれないが)ヴィトゲンシュタインとかヘーゲルとか、聞いたこともない哲学者のことを説明する僕に黙って耳を傾けては、「君のいうその哲学者はきっとこういうことを説明したかったのだろうと思うが、私の理解ではブッダはこのように世の中を見ていたと思うよ」と、静かにその議論につき合ってくれていた。

 延々と続いていたその議論に終わりが来たのは、以前のエントリで書いた虹色の渦巻きが現れて、消えた時だった。その時、僕の中で何かが氷解したのだ。溶けた氷の中から出てきたのは「宗教とは、個人的な問題だ」ということだった。それは社会と自分との関わりを「自分の側」から説明するのに役に立つが、「社会の側」からの説明として押しつけられることはないし、いかなることがあっても押しつけられるべきものでもないのだということだった。

 実は僕はその前年に宗教ではないが、ある非常に強烈な「宗教的」な体験をしていた。そこで、カリスマティックな人物が発する言葉というのが、ときに周囲の人々の意識をすべて巻き込み、その人々がその言葉を借りることでしか思考できなくなるほど強烈な「磁場」を形成すること、そして一度巻き込まれてしまった言葉の磁場とその人々の輪の中から逃れるのは、実際のところ、自分というアイデンティティを一度ほとんど喪失することになるため、死ぬほどの苦しみと努力を必要とするものだということを経験した。

 結局僕自身はある日突然その輪から逃げ出し、カリスマ本人はもちろん、自分と親しかった関係者からの電話や説得にも耳を貸さず、一切の関係を絶つという暴挙に出ることで、半年ほどかけてようやくその言葉の磁場から抜け出て「自分自身の言葉で思考する」ことができるようになった。それまでは、確かに思考のレベルはスリップストリームに入ったかのように凄まじく上がり、早くなるのだが、その一方で自分の考えることはすべてそのカリスマな人物の言葉の範疇でしかなく、まるで自分が自分でないかのようにものを考えていたのだ。半年間、必死でそのカリスマの使っていた言葉を使うのを自分に禁忌と課し、ようやく自分の言葉を取り戻したと思えるようになった。だから翌年のタイでの出家は、自分の思考だけでなく、世界と自分とのかかわりをもう一度自分の手元に取り戻すための試みだったのかもしれなかった。

 そういう経験をしたものだから、彼が資本主義の外部性としての原始仏教に心を動かされた気持ちもよく分かるし、頭が切れる人だったからこそ、カリスマ本人を目の当たりにして自分が急にものすごいスピード、レベルでものを考えられるようになったことに感激し、その虜になっていった気持ちもものすごく良く分かるし、さらには周りの人に何度諫められてもそこから何年も抜け出られなかった理由もよく分かる気がするのである。つまり、彼と同じあの時代、彼と同じあの空気を吸って生きていた自分が、今はたまたまこういうふうに生きているけれども、もしかして何かのはずみに彼であったかも知れないと強く思うのだ。

 もちろん彼と僕が違っていたのは、宗教の場所を「大学の夏休みに行って2カ月で戻ってくるべき場所」と思っていたか、それとも「出家信者」という生き方を自分の人生の中軸に据えてしまったかということでもあるし、それはつまり「宗教とは個人的な問題だ」という悟りを得られなかったという不幸だったかも知れない。そして、その結果起こってしまったことに対して、過去を自己批判し続けない限り、常に社会的な制裁を受け続けなければならないという重い十字架を負ってしまったことかもしれない。ただ、このことについては、理不尽と言おうがなんと言おうが、日本社会というのがそういうものである以上、僕にはどうすることもできないし、仕方のないことだと思っている。

 彼らが本当に自分自身の信仰者、ここで言う「出家信者」としての人生を貫きたいと思うのであれば、そういう存在を地域のコミュニティーによってきちんと受け止められ、包み込んでもらえるタイやビルマに“独りで”行けば良いと思うし、宗教的なるものに対しては常に狭小で重箱の隅まで資本主義的でどうしようもなく現世崇拝的な日本という社会において、無理矢理自分たちの宗教を「社会化」させて生きようとするのはどうかと思うこともある。それは「出家信者」と称する彼ら自身に、実際にはエゴイスティックな自意識や嫌悪する日本社会と同じように狭小な仲間意識ばかりが強烈で、本当に信仰者に求められるべき「社会」へのまなざしが根本的に欠けてしまっていることの証左でもあるのではないかと思うからだ。

 ただ、僕という「個人的」な問題の範疇で言うならば、「あの時代において、僕はもしかすると彼であったかもしれなかった」という当事者意識のもとにこの出来事を受け止めるほかないのだと思っている。そして、こういう社会の中でひっそり生きるあらゆる宗教者、本当の信仰者の「こころにいつも太陽の」あらんことを祈るほかない。

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2006/02/22

日常の亀裂

 このところ、更新が滞っております。理由はいろいろあって、1つはこのブログにウェブネタを3回も連続して書いてしまい、(ブログ用の)脳内が自家中毒に陥ってしまったこと。もう1つは本職で原稿執筆に追われまくっていること。そして最後に、このクソ忙しいのに長編マンガにはまってしまい、身動きがとれなくなっていたこと。

 何のマンガかというと、実は「ガラスの仮面」だった。最近になってカミサンが文庫版23巻を買い集めていたのを盗み読みし始めて、気がついたら止まらなくなってしまったのだ。竹熊先生いわく「現代の合法ドラッグ」という意味がよく分かった。毎晩2巻ずつぐらいを床に入ってから読み続け、10日ほどかけてやっと全巻読破した。読破しないと仕事が手につかないとあって、もう必死だった(笑)。

 詳しくは語らないのだけど、実は僕は高校から大学にかけて演劇青年だった。高校から大学にかけて、新劇から小劇場、高校や大学の演劇など年間50本以上の芝居を観に行っていたし、2年生の時には図書室にあった小田島訳のシェークスピアの全集37巻を読破したり、スタニスラフスキーシステムや鈴木メソッドの本なども読んだりしていた。

 観るだけでなく、自分でやる方もかなり手を出した。高校時代に役者、脚本、演出はもちろん、大道具、小道具、音響、照明などまですべてこなし、「衣装以外の仕事は全部やれます」とよく自己紹介の時にしゃべっていた。おまけに大学の時はある大きな学生劇団で制作をやりながら、名前を隠して別のところで演劇批評も書いたりしていた。

 それほど演劇にどっぷりはまっていたのに、「ガラスの仮面」は読んだことがなかった。当時は(というか先日まで)ただの少女マンガだと思っていたから。でも「ガラスの仮面」を読んで、そんな学生の頃の気持ちを思いだした。

 今から思えば芝居にどっぷり浸かっていた学生時代だったが、ある時を境目にぱったりと演劇に関心がなくなった。そのきっかけは95年の阪神大震災だった。僕自身が関西出身だったので知り合いがたくさん被災した。大学時代の友人にはボランティアに行った奴もたくさんいた。マイノリティ言語の通訳ができる僕に「手を借りたいからボランティアに来てくれ」と連絡してきた人もいた。

 僕は、神戸には行かなかった。冬休みだったし時間はあったから、行っても良かった。でも、みんなが押し掛けている渦の中に入って何かが見えなくなるような気がした。数週間ボランティアして帰ってきた友人の話を聞いて、僕の判断はある意味正しかったと思った。僕に言わせれば、彼らは震災の現場をただ「見てきた」だけだった。もちろんそれはそれで得られるものはあったに違いないが、そんなことは東京にいたって想像力の範囲内で経験できることだった。

 僕は、神戸に住む親戚や知り合いから聞くことのできた話から、日常の世界にぱくっと開いた目に見えない深い亀裂のようなものを感じ取っていた。そして震災から数ヶ月も経つとその亀裂がまるで何もなかったかのように塞がれ、見えなくなっていったことも、感じていた。

 その後、半年ほどしてある劇団がやった公演を観に行った。ここではその芝居の名を伏すが、内容は暗に阪神大震災をテーマにしたものだった。それまで結構その劇団が好きだったのだが、その芝居を観終わった瞬間に猛烈な怒りと虚しさがこみあげてきた。こんな舞台ごときで、あの震災に開いた「亀裂」のことが表現されてたまるか。こんなのは“ウソ”だ。

 その時、僕は演劇によって生み出せると思っていた日常の「亀裂」がまったくのウソだということに気がついてしまったのだ。演劇だけでなく、ニューアカとか現代思想とか、それまで興味のあったものの多くに対して興味を失った。あの震災に比べれば何もかもが嘘っぱちとしか思えなくなったからだった。

 話は「ガラスの仮面」に戻る。あの出来事から11年が経ち、何かが変わったのかと最近考える。「ガラスの仮面」を読みながら、北島マヤが演じる芝居に心を打たれて何度か涙をこぼした。あれ以来演劇を見限った僕の心の中の何かが、元に戻ったのかも知れないし、そうではないのかも知れない。でも、今度時間のある時にでも、何か芝居を観に行ってみようかなと、ちょっと思った。

 そんなことを思った時に、たまたま面白い記事を読んだ。「日経ビジネスX」の「イッセー尾形に学ぶ『自分』の見せ方」という連載記事だ。昨年6月に行われた、一人芝居で有名なイッセー尾形と、その演出を担当する森田雄三が、素人を4日間の稽古で舞台にのせるという前代未聞のワークショップの様子をレポートしたものだ。台本もなく、ただ集まった100人の一般人が、どのように「舞台で演じる」ことを学んでいったかを連載していくらしい。

 1回目の内容からして、ものすごく面白い。詳しくはリンク先を読んでほしいが、既に1回目にして「演劇とは何か」「人間とは何か」「人生とは何か」ということをこれほど深く考えさせるワークショップはないのではないか、という気がしてくるから不思議なものだ。

 大学の頃制作を手伝っていた劇団の主宰者が、よく「僕らの芝居は、劇場に入る前と見終わって出てきた後とでは、その人にとっての“世界”の意味が少しだけ変わっているような、そんなものを目指しているのです」と話していた。たぶん彼の言おうとしていたのは、劇場を出てもしばらくは観客にとっての日常にぱくっと空いた「目に見えない亀裂」が閉じずに残っているような、そんな体験を2~3時間の中で提供したい、ということだったのだろう。実際、僕らはそういう芝居を(ごく短い期間ではあったが)やっていたと、その頃は自負していた。

 今の日本に、「観に来たあなたの日常世界にぱくっと亀裂を開いて差し上げます」と宣言する劇団がどれほどあるだろうか。残念ながらほとんどないのではないか。しかしイッセー尾形と森田雄三は、どうやらそれをやってのけたらしいということが、このレポートから分かる。日本の演劇もまだ捨てたものではないと、何となく思えた。もちろんこのワークショップだけが日本の演劇というわけでもない。今日もどこかで誰かが芝居を演じている。そして僕は北島マヤの演技に涙している。

 そんなわけで近々また芝居を観に行こうかと思い立ったりしたのだが、さて芝居を観に行かなくなってからもう10年近いブランクが空いている。いったいどこの芝居を観にゆけばよいのやら。これだけインターネットで情報が入る時代だというのに、自分がどの芝居を観に行けば良いかも分からない。こういう時にGoogle先生は役に立たない。困った困った。

 そうそう。言い忘れていた。20日に発売された、東洋経済から出た「ブログキャスター」という雑誌に、1本コラムを書きました。専門と全然違うところ(政治ネタ)になぜか有名ブロガー、カトラー氏とともに登場しています。ご興味のある方はどうぞ。

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2006/01/09

新年のごあいさつとメディア業界についての予感

 あけましておめでとうございます。更新再開が大変遅くなったのは、ごらんの通り1年ぶりのデザイン&コンセプト・リニューアルをくわだてていたからでした。今年もよろしくお願いします。

 今年の年末年始は家の中とか持ち帰りの仕事とかいろいろあり、ずっと自宅で過ごしていましたが、そしたら思いっきり寝正月というか冬眠正月というか。外があまりに寒いものだから家族全員で引きこもり三昧、体重も爆増で、年明けから激しく焦りまくりの2006年です。

 メディア業界は、さっそく年初から何やら雲行きが怪しい。そんな状況を象徴する2つの記事を見つけたのでちょっとご紹介。

 1つは、日経ビジネスが年明けから連載開始した「TVウォーズ」の本誌連動企画。本誌のほうはまだ読んでないが、ウェブには大リーガーの松井秀喜と、橋本NHK会長、氏家日テレ取締役会議長3人のインタビューが掲載されている。

 テレビ業界の経営トップ2人の発言は、要旨をまとめると「今のフレームは変えたくないし、変わらない」という一言に尽きる。それをNHK的にやんわりと言うか、ナベツネの盟友らしくべらんめえ調で脱線しながらしゃべるかだけの違いなのだが、氏家氏の脱線ぶりが結構面白い。これが、テレビに限らずメディア業界のトップの典型的な本音というかレトリック、といってもいいと思う。

 ツッコミを入れる記者の質問もちょっとぶれていて、初めのほうで「通信と放送が融合したら、コンテンツをタダで流すだけでなく有料販売などで2次利用していくべきではないか」って振っているのに、途中から氏家氏が「メディアの最も重要な役割とは報道の内容についての客観性、信憑性の検証だ」という、テレビ業界の現場が誰も信じてもないようなテーゼ(笑)を掲げて記者を煙に巻いたために、ツッコミの矛先がうやむやになってしまい、結局話が核心に触れずに終わってしまっている。

 テレビ業界の今後を考える場合の「核心」とは何だろう。それは広告だ。氏家氏もその発言の中で「広告売り上げは成長から安定に入ったが、経済成長率と同じ程度は成長していく」と見通しを語っている。まあ、映像広告という点で見ればその通りかもしれない。だが、問題はそのパイの分配の構図だ。

 昨年、すでにラジオがネットに広告売り上げを抜かれた。そのネットがいよいよブロードバンドの普及と共にマス化し、映像コンテンツにまで本格進出し始めたのも2005年の特徴だったと思う。

 今のネットには個人や組織の著作者名がついていない、「どこの誰かも分からない」人の作ったテキストコンテンツが大量に氾濫している。ネットがコンテンツで強いのは、こういう「コンテンツを作る権利」を一般人に解放する機能を持っているからだ。今はまだ一般のユーザーが映像コンテンツを気軽に作ってアップするような状況はどこにもないが、Googleがオンデマンド映像配信を有料で請け負うサービスを始めるとリリースしたから、この市場も立ち上がりのためのインフラは確立しつつある。

 となると、氏家氏の言うような、市民記者だか一般人だかが作った嘘だか本当だかも分からないネタ映像のネット上での大量洪水に、たぶん視聴者から見たら大して区別のつかないレベルのテレビ局の映像コンテンツが押し流されるような時代が来るのも、もはや時間の問題と言って間違いないだろう。

 で、その頃にはGoogle様かどこぞのベンチャー企業が、他人の作った映像の内容をセマンティックに解析してその間に適切なCMを挟む技術を開発しているだろうから、映像広告の市場のテレビと広告代理店による独占が破れるのも、これまた時間の問題だろうと思う。

 というように、ほぼ最後の「寡占メディア市場」と思われていたテレビ業界にさえ、ネットとの市場のパイの分配争いがひたひたと迫ってくる足音が聞こえ始めたのが2005年だった。

 年後半にはNHKの民営化という話題もあったが、今の動きを見ていると、政府は少なくともNHKに「コンテンツ」の市場は開放しても、「広告」の市場への参入は許さないような気がしている。つまり、NHKは適当にコンテンツを有料販売することで生計を立てつつ、事業規模の縮小を粛々と進めましょう、というのが政治的な落としどころになるんじゃないだろうか。民放連会長としての氏家氏の“仕事”は、NHKの広告市場への参入を断固阻止する、これだけだろう。したがって、テレビ「業界」の今後を考えると、NHKの存在は大した問題ではないようにも思える。

 ただ、問題は氏家氏が意図的に触れなかったのかどうかはともかく、現実の問題としてテレビ業界に「広告のパイの分配方式を現状維持する」ための経営努力が可能なのか、ということにある。むしろここはテレビ業界と表裏一体になって広告の市場構造を維持してきた電博という広告代理店の側の問題であるとも言える。

 この点で、昨年末に電通からGoogleに転職したタカヒロ氏のブログmediologic.comの「広告業界の人材枯渇に関する一文」という今月6日のエントリが、広告ビジネスの置かれた状況を非常にストレートに指摘していて面白い。というか、この文章、昨年3月に僕が書いていたこんなコラムとそっくりだと思うのは僕だけか。

 インターネットが普及した結果、一介の個人や事業会社にとっても適切な戦略さえ立てれば「メディア」的になることは簡単にできるようになっている。つまり、広告でもテレビでも雑誌でも、「メディア」業にかかわったことのある人材がその能力を生かせる可能性の領域というのは、飛躍的に広がっているのだ。

 逆に言えば、これまで多くの事業会社にとって「こんな良い製品、良いサービスがあるのに、まだ見ぬ顧客へのコミュニケーションの手段が『既存のマスメディアに露出すること』しかないので、その価値を届けられない」という事業戦略上のボトルネックはどんどん緩くなっていると言える。そのことを直感した経営者と、メディアビジネスを経験したことのある人材とが出会えば、すごくハッピーなことが起こると思うのだけどな。

 というわけで、これからもマーケティングやメディアという切り口から世の中を見て思ったことを、綴っていきたいと思います。今年もぜひご愛読をよろしくお願いします。

02:03 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (5)

2005/12/19

メディアについて何となくいろいろ

 年末進行の世界からは去年で足を洗ったはずなのに、年末に向けていろいろとやらなきゃいけないことがあってやけに忙しい。どうなってるんだまったく。

 この1週間もいろいろとブログ上で言いたいことがあったのだけど、どれもうまくエントリの文章に昇華できないでいる。ただ、今の世の中を非常に象徴しているなあと思ったメディア批判言説がたまたま2つ、シンクロするように出てきたので、ちょっとそのことについて書いておこうか。まとまんなさそうだけど。

 強度偽装事件については、加野瀬氏@ARTIFACTから盗作電波ブログ認定されたきっこブログにイーホームズの藤田社長まで釣られて大変なことに。まあ、でも電波でも何でも釣った奴が勝ちだわね、世の中というのは。

 ちなみにきっこ氏の匂わせるに、ブログ上での一連のリークの裏には自民党から口封じの圧力を受けた記者連中がいるって言うらしいんだけど、加野瀬氏のそれが本当かどうか分からないが、こういうかたちで個人ブログがリークの回路に使われるのってどうよ、という気がする。

 てか、きっこ氏の言うことがもし本当だとしたら、これってメディアの自殺行為だよ?ときの政権の圧力で記事に書けないようなことを、芸能界のおしゃべりヘアメークごときにばらしてどうするっつーの。本当だったらその記者が文春や新潮に原稿を持ち込むことも知らない相当なお人好しの間抜け記者か、それともその新聞の社会部デスクの目が特ダネに目をつぶってでも政治部のプレッシャーを受け入れるヘタレどあほうか、どっちかですよ。てゆーか、どっちも普通あり得ないってば。

 とはいえ、こういう、メディアが書くネタを巧妙にパクって、あたかも自分のネタのようにして世の中を煽り立てるブログの存在感が高まってる(イーホームズという、渦中の人間でさえもそれに釣られてしまう)ということは、とりも直さずマスメディアの議題設定能力を、ブログを初めとするネット陣営が着々と奪い取りつつあるということを示しているように思う。

 大手のマスメディアだってもちろんウェブサイトを立ててはいる。しかし、もはやネット上にいる人たちの多くは、いちいちメディアサイトを巡回することなく、Google先生の検索やブログを初めとするXML系のウェブアプリケーションを通じてそれらの存在や話題を知る。

 と、いうところで思い出したのが、今話題になっているもう1つのブログサイト、「月刊FACTA」の阿部重夫編集長のブログだ。ソニーの販促ブログやCDへのrootkit組み込みの話などをネタにばっさり斬ってネットで話題になっている。だが、その人気ぶりも辛辣なソニー批判によって、というよりは「意識的または無意識の世論操作装置と化している既存ジャーナリズム」とか、「新聞が資本の論理に屈してコストのかかる「調査報道」は見る影もなくなった」とかいうような、マスコミ批判のボルテージによって共感を得てるんじゃないのか、という気もしないでもない。

 それが証拠に、「本当のニュースとは何かをプレビューしていただきたい」と銘打って掲載されてるロシアの資源戦略外交の話の方が、ソニーのゲートキーパーネタなどより記事としてはずっと価値があるはずなのに、TBが1つも付いておらず、ほとんど無視されているかのようだ。なんだかなあ。

 自分でも何が言いたいのかよくわかんなくなってきたが、要するにこの2つの話のどちらも、なんか腑に落ちない部分があるってことが言いたかった。腑に落ちないということは、そこに見えてる関係者の誰かが読者を騙してるか、あるいは本当のことをしゃべってないってことなんだと思う。誰が、どういうふうに騙したりしてるかは僕にもわかんないけど。

 それと、どうでもいいことだけど、ブログってやっぱり燃えやすいネタを投入した時のバイラル・マーケティング効果ってものすごいんだなと改めて納得した。そういう意味で、そろそろバイラル・マーケの舞台になりそうな一部の有名ブログには「裏」からの資金の流れが発生していくんではないかと思ったり。FACTAがバイラル・マーケだけを狙ってブログをやっているとは思わないけれど、この雑誌がこれからどうやって収益モデルを作っていくのか、興味津々で見守りたいと思う。

 書くことがまとまらないのに書いたんですっごく疲れた。中途半端だけどもう頭もまわんないし、今日はこんなところで。

03:54 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (18) トラックバック (12)

2005/11/27

財布バトン

 というのが、栗先生から回ってきた。そこに全財産を持ち歩いている俺が来ましたよ。

Q1.どんな財布使ってはります?

小銭とお札とカード類が全部入る、2つに折りたたむやつ。ブランドはRYKIEL homme。色は焦げ茶色。

Q2.ズバリ、現在中身の金額は?

1万1025円。たいてい1~2万円の間。

Q3.ポイント・メンバーズカードあったりして?

ヨド、ビック、祖父のポイントはid:matsunagaさん同様、常備。それ以外は時々ベストとか。あと、ツタヤと近くのショッピングモールのポイントカード。

Q4.診察券あったりして?

腰痛で通っている接骨院と整形外科のもの。

Q5.なにかレシートあったりして?

毎年青色申告していた父親の「領収書は1枚たりとも捨てるな」という教えを忠実に守り、コンビニからタクシーまで、あらゆる領収書は全部財布に入れて取ってある。今はセブンイレブンのが最多。

Q6.なにか割引券あったりして?

図書券500円。もう1年以上入ってる。いつも本屋に行くたびに使うのを忘れる。

Q7.その他あんなものこんなものあったりして?

クレジットカードはJCB系2枚、VISA系2枚。キャッシュカードはみずほ、UFJ、三井住友の3枚。あと、変わったところでは10年以上使っていない赤十字の献血手帳とか。それ以外はひ・み・つ

Q8.財布おとしたことある?

ない

Q9.財布拾ったことある?

あったっけな?あったかも知れないが過去のことは覚えてない。

Q10.誰の財布の中身知りたい?

藤代さん(id:gatonews)
切込隊長(id:kirik)
オーシマさん(id:nekoprotocol)

てか、これ聞いて何かいいことあるん?よくわかんないけど。

08:05 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (14) トラックバック (2)

2005/11/25

今週は特になし。つれづれ雑感のみ

 ネタをいろいろと考えたりもしたが、どうにも筆が進まない。先週からずっと1つ下のエントリが大人気ですが、「どっちもやれぇ」とかはやし立てるコメント、TBがてんこ盛り。皆さん本当に揉め事が好きですな。ブログ界=ネット野次馬というか。どうでもいいけど。

 それはさておき、今週の話題の中心は、マンションか。これについては、ウチダ先生からbewaad instituteFIFTH EDITION五号館のつぶやき松本のコーヒー屋氏に至るまで、あちこちのブログで秀逸な情報収集、批評エントリが上がっている。新聞も雑誌もテレビも一切見ずに、この件についてこれだけの情報とこれだけの考察がタダで読め、自分の知恵にできる時代。僕はなんと幸せな時代に生きているのだろう。

 建築についてはいろいろ思うところもあるのだが、うまくまとまらない。というか、もうこれだけエントリが書かれているのに、今さら付け加えて言うことなど何もないかもしれない。

 世はバブル。お金があちこちでうなりを上げて、目先の欲に目がくらんだ人々を地獄に巻き込んでいく。怪しいバブル紳士がまたぞろ跋扈し始める。なんつーか、景気が良くなると人間って悩みが増えないか。これが幸せな事態とは、とても思えないんだが。

 で、こういうマネーゲームってお金持ちの人たち同士でやってくれれば一般庶民には何の関わり合いもないことでござんす、で終わるのだが、世の中よくできたもので、めったに見ない札束やらチャンスやらに目がくらんで欲の皮を突っ張らせてその上で滑って転ぶ役どころってのはたいてい一般庶民に回ってくる。お金持ちな人というのはそういう鉄火場で巧みに経ち振る舞って、あらかた滑って転ぶ人続出する頃には手仕舞って雲散霧消。

 それを考えると、一般庶民にとって景気がいいと嬉しいことなんてほとんどない気がするのだが、どうなんだろ。かく言う僕も実はバブルの渦中の経験というのは2000年のITバブルに続いてまだ2度目でしかないので、その中での人間の振る舞い一般法則であるとかバブル経済状況に対する一般庶民的対処法であるとかについては、何とも言えず分からないのだけど。

 ある経営者が、「従業員に渡すお金は、少なすぎても多すぎてもその人をダメにする」と言っていたのを思い出した。たくさんカネを手にした時の人間のしでかすことって、本当にろくなことじゃない。自分がそういう人間にならないように、欲の灯を滅する修業は日々怠らないようにしないといけないよなー。

追記:そうそう、bewaadさんが悩んでいらっしゃる奥田ヒロシ君の例の「カルテル」発言ですが、アレですよきっと、ドラッカーに遅れること1週間、ついにお亡くなりになったヨシツネ先生にインスパイヤされたトリビュートものだとおもうわけですよ。そゆことで、よろしく。(やっぱりカタカナ使いまくり><)

03:49 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (4)

2005/11/20

消費者は偉大だ

 久しぶりに見た「オレが消費者だ文句あるか」って感じの日記。禿しく心を揺り動かされた。ネットの外側の世の中のほとんどの人はアルファなんとか言って本まで出しちゃう連中をイタイ奴扱いするんだろーなーという悟りと目覚め。しかもコメント、TB一切拒否。これぞはてダの鑑。そして自分はこういう人から「分かんねえ」と言われてしまうような文章を書いてしまったことに、反省しきり。ネットって、こういう「何の関係もない人からの容赦ない言葉」が素で聞けるっていうのが、本当にすごいと思う。

 弊ブログは通常どのようなネットユーザー様に対してもまったくのタダでご提供、お読みいただいているものではありますけれども、そういったことを言い訳にせず、この件をきっかけと致しまして今後はより一層の品質およびお客様満足の向上と信頼関係の構築と強化に努めて参る所存でございます。(棒読み)

 それはともかく、この日記の中の人にはこれからも末永く消費者ブログ日記を続けていただきたいものだ。いや、これは冗談ではなく。ネットも世の中も多様性が大事ですよ。いや、ほんとに。

08:46 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (44) トラックバック (14)

2005/10/13

生きて帰京

 何とか生きて帰京した。

 でも冷や汗が出続けていて、PCに向かって座っても、何をする気力も起こらない。廃人みたい。とっとと早く帰って寝ようと思ったが、帰ってメールボックス見たらまた面倒な要件が。しかも週末に向けてやらなければならないことを突然思い出したりするし。ぐあーーーーーーー。

 ところで今日の日経新聞の1面トップ、何これ。「固定並み料金、動画も滑らか、携帯IP電話2007年から――総務省、3―4社認可」

 お手盛り工業だったかのケイマンあたりの株主を2年越しで調べ上げてアゲようとしてる証取委と裁判所に対して「おらっちの書いた記事は、決してただ単に仕手屋の煽りに載せられて株価つり上げに荷担したわけじゃなくて、技術的な根拠と役所のお墨付きがあったんだよー」とアピールするための記事ですかそうですか。ケッ

 てか、素直に謝れよまったく。懲りないやっちゃのう。しかも記事の内容はただ「ベストエフォート」って言えば1行で済むものをわざわざ20行も費やして。こんなもん、1面トップに書く記事かっつーの。あほらし。無線LAN通信やろうとしてるライブドアを「通信ベンチャー」とか言って名前伏せるし。新しい内容ゼロ。よくこんなもん1面トップに載せるな。ま、裁判所に対する言い訳だからしょうがないか。

 しかしビデオiPod、60ギガで399ドルですか。で、ドラマ1本2ドルと。これじゃ今までいったい何のためにDVDレコーダー買ったのかわかんないじゃん。アップルすげえ。アメリカの放送局、すげえ。ソニーと松下ちょうやばい。これやったらもうDVDレコーダーとかケーブルテレビ要らないじゃん。

 あとはビデオiPodを差し込んで中の映像を自宅テレビに映写できる専用ドックを作ればいいだけだなあ。テレビで見たら、画質どうなのかなあ。60ギガで150時間って、2年前のHDDレコーダーより若干画質が悪い程度だから、普通のテレビでも十分見られそう。テレビの市場構造もこれでガラガラにぶっ壊れるんだろうか。メディア業界も大変だ。南無。

10:09 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (11) トラックバック (5)

2005/10/12

出張先のホテルで高熱+人生の正念場

 最近過労がたたり+気温が急に下がったのに相変わらずTシャツだけでソファにひっくり返って寝ていたことなども災いして2日前ぐらいから激しく具合が悪かったのだがなんとかリポビタンDと風邪薬を交互に飲むという荒技で持ちこたえさせてきたものの昨日からの出張で過労がピークに達しているにも関わらず酒席に付き合わされて、宿泊先のホテルに着いた時には頭はもうろう、悪寒がぞくぞく、そのまま大理石のロビーの床にへたり込んでしまいたいほどの病状。気力を振り絞って部屋にたどり着きベッドに潜り込むも体温が38度を確実に超えている(当社比推定)と実感され、自宅にカミサンの声を聞きたくて電話するものの当たり前だが起きているわけもなく孤独なままホテルで死ぬんじゃないか新聞休刊日明けの明日の夕刊あたりにホテルで30代とみられるブロガーが死亡とか記事が出ちゃったらやだなどうしようとかぼんやり考えながらとにかく水をがぶがぶ飲んで汗をかきまくって何とか熱は少し下げたものの頭痛が痛い。もうだめぽ、死ぬる。ヤバイ。ブログに書きたいことはあれこれあるんだけど人生の正念場がかかってるのでこれから年末までカネにならない文章など1行たりとも書く気になれないほど追いつめられているような気がするとか言いつつ夜中に起き出して頭痛の頭を抱えながらこんなだらだらしたエントリ書いたりしてるわけだがこれはストレス解消と私はここにいます、でももしかしたら明日は死んでるかも宣言だったりするわけで、ぶっちゃけこの記事の続きだれかこのブログに代わりに記事書いてくれ。口述筆記とかでいいから。でもうわごととか出そう。しかもこんな夜中にメール書いてくる奴誰だおいってただのスパムメールかよマジ氏んでくれ。俺が死ぬかスパマーが死ぬかやあ勝負勝負。倒れる10秒前。ちなみに携帯電話は電池切れましたゴメンナサイ。

04:15 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (4)

2005/08/30

「ふるさと」という贅沢

sakana 夏休み最後の週末は更新をgoo選挙特集の方にお任せして、お金持ちな某氏のお招きにあずかって僻地へと遠征しておりました。データ通信カードのPHSどころか、携帯電話も通じない。東京からたった1時間のところにこんなすげえ僻地があるのか。もう、焦る焦る。完全にネットワーク中毒者でございます。

 で、そこでバーベキューと相成ったわけだが、表に出てビールとか飲んでると、横にたまごの形をした巨大なかまどがプスプスと煙を上げている。「何焼いてるんですか?」と聞くと、中を見せてもらってびっくり。70~80センチはあろうかという巨大な魚を2匹も丸焼きしている。

 うひゃーこれが今日のメインディッシュ?とか思っていたら、違った。魚は前菜、メインディッシュは和牛のサーロインステーキでした。これがまた何枚も、次から次へと出てくる。食べきれねえええええ。

 さっすがお金持ちは違うねー、とか思っていたんだけど、聞いてみたら魚も肉も、地元の漁師さんとか昔ながらの肉屋さんとかから格安でいただいたものらしい。確かにゴージャスなんだけど、別に贅沢しようとしてそうなったわけではなく、普通に「お客さんが来るんで、おいしい食材を」と地元の知り合いに頼んだら手に入った、ということのようだ。最後に出てきたおにぎりも、聞いてみたらやっぱり地元産の新米に、自家製の梅干しを握ったものだった。

 そうなんだよね。本当の贅沢っていうのは、別に難しいことじゃないんだな。東京のど真ん中にいるとどうしても難しいけれど、田舎でその土地で取れた旬の食べ物を、人づてにタダみたいな値段で買って来て食べていれば、それって十分贅沢なんだと思うのだよね。

 前に親しくさせてもらっていたあるコンサルタントの人が引退して、「これからどうされるんですか」って尋ねたら、山陰地方の水のきれいなコメどころに第2の居宅を構えることに決めたと言われた。「米と野菜がうまいところに居れば、生活費もかからないしそれ以上何も要らないよ」というのがその人の言い分だった。

 僕自身は、東京ではないけれど都会生まれの都会育ちなので、生まれてこの方「ふるさと」というのを持ったことがない。結婚したカミサンも、「ふるさと」の田舎はあることにはあるが、盆暮れに里帰りするような習慣はなかった。お盆に周囲の人が里帰りしているのを見ると少しうらやましくなる。

 個人的には、人生の次の目標っていうのは、40歳か50歳ぐらいまでに、くだんのコンサルタント氏のように気が向いた時に里帰りできておいしいものを食べられる快適な「ふるさと」を持つことかなあ。といっても、そんなもんどうやって持てばいいのか皆目わからんのだけど。これから時間をかけて、少しずつ調べてみようかな。

 というようなことを考えながらおにぎりを頬張りつつ、梅干しの漬け方談義に花を咲かせた楽しい週末でした。

04:57 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (10) トラックバック (2)

2005/08/15

コードレス掃除機に燃料電池を!

 日曜日、家族でふらふらとちゃりんこに乗って遊びに出かけた。するとカミサンが突然「新しい掃除機が欲しい」と言い出す。

 今の掃除機は確か結婚した時に近くのヨーカ堂で売価の半額以下で在庫処分大安売りしていたのを衝動買いした奴で、当時流行始めたサイクロン方式。一応まだちゃんと使えてるんだけど、新しい家に移ってきてから、いくつか困った点が出てきていた。

 一番困ってるのは、掃除機が結構大きくて重いので、ダイニングテーブルの子供の座るところの床(食い散らかした食べ物のかすでしょっちゅう汚れる)を掃除するために引っ張ってくるのに骨が折れるってこと。

 あと、掃除機の電気コードが微妙に短くて、家中に掃除機が届くコンセントというのがなく、3カ所ぐらいを差し替えつつ掃除しないといけない。前の家は2カ所差し替えれば済んでいたのだけど、新しい家はそれより広くなったのだからしょうがないと言えばしょうがないが、これも結構面倒だ。

 で、カミサンいわく「だからコードレス掃除機がほしい」。家電量販店に行って物色しつつ店員さんにオススメを聞いてみると、松下電器の「MC-BB1」と三菱電機の「HC-Z11」、そして日立の「PV-BM2」の3機種だった。店員さんいわく、「日立は集塵ケースの構造があまり良くない。三菱はハンドルを立てすぎるとスイッチが切れるので背の高い人には向いてない。よって松下がオススメ」ってことだったが、実際に操作してみると松下のは確かに便利そうではあるが、集塵タンクがハンドルの中程にあって不格好。よって三菱が第一候補に決定した。

 ただ、その後家にあった商品券を持ってきて買おうと話して店を後にし、夜にもう一度行って買おうとしたところ、何と売り切れに。ガーン。掃除機の売り切れなんて初めて見た。お盆だから在庫の取り寄せにも時間がかかるという。

 まっ、しょうがないやっと思って帰宅してから、ネットでいろいろ情報収集してみた。だいたいはkakaku.com経由。それで分かったこと。

  • 三菱の「HC-Z11」のデザインは、実は松下の2000年発売のコードレスモデル「MC-B25M」のパクリだった。でも、吸引力は三菱の方が評価が全然上。三菱製品は2002年の発売から3年以上経った今も評判が落ちてない。
  • 松下は、三菱の改良版を見てかどうかは知らないが、先端部に電池と集塵ケースを集めることを放棄し、「小さなすき間も掃除できる」小型ヘッドタイプにデザインを変更。しかしユーザーからは「15分しか動かないのは不便」「刀型ノズルがないとすき間や毛ぼこり掃除できない」など不満が出ている。刀型ノズル付けて吸引力が改善できるような代物じゃないんだってば。
  • 日立のは2000年発売のモデル。当初から集塵ケースの構造が悪いことは指摘されていたみたいだが、バッテリーの持続時間と軽さとでそこそこ売れ、そのまま放置。哀れ。
  • 三菱の「HC-Z11」は2002年2月発売で、その前のモデルは1999年発売。99年当時のプレスリリースに「コードレス掃除機の98年の国内市場は年間92万台、前年度150%の伸長」とあるのに、その3年後の2002年の製品のプレスリリースには「市場は年間50万台の需要と予測」とあり、2000~01年頃以降大きく落ち込んだもよう。
 ニッチな業界だけど、調べてみると面白いもんである。

 ちなみに、掃除機の国内市場規模は年間約560万台程度で安定しているようなので、2000年以降伸びるかに見えたコードレス掃除機に一転して不利な状況が現出し、掃除機市場内のシェアを取られたと思われる。不利な状況とは、たぶんサイクロン掃除機のブームと吸引力競争、排気ゼロ掃除機など、コード付き掃除機の分野での性能向上のイノベーションだろう。

 実際、三菱電機も今年はサイクロン掃除機の新機種を発売して人気は上々のようだから、もうしばらく吸引力競争は続くのかもしれない。ただ、そろそろサブカテゴリであるコードレス分野にも目を向けてほしいなあと思う次第だ。

 コードレス掃除機は、部屋の隅に立てかけておいて、掃除したい時にさっと掃除するという用途が主だ。つまり、収納しなくてもいいというインテリア性と、電気コードをつないで伸ばして…といった面倒の要らない手軽さが、主流の掃除機に対する優位性である。

 一方、電池で駆動させるために、長時間使ったり吸引力を強くするのは不得意だ。だから現行機種の多くはノズル部分のローラーでゴミを集めたりといった工夫で、機能を高めている。だが、これらはもしかするとどれも「電池性能の向上」で解決できる問題なのではないかと思う。

 だとすれば、家庭用電池の性能が劇的に向上するこれから数年が、コードレス掃除機においてイノベーションを起こすチャンスである。何で電池の性能が向上するのかって?燃料電池が実用化されるからだ!

 既に東芝やNECが燃料電池を使ったノートパソコンのプロトタイプを発表したりしており、総重量1~3kg程度のモバイル機器にも使える燃料電池は作れることが明らかになっている。ただ、問題はある。ノートパソコンに使った場合、発生する水(蒸気)をどうやって排出するかが解決されてないのだ。実際、これに各メーカーとも頭を悩ませている。

 その点、掃除機なら話はより楽になる。掃除機の上から蒸気で空気中に放出してしまってもあまり問題にはならないだろうし、ちょっと発想を変えて、発生する水をノズルの後ろで床にすりつけて「掃除と水拭きがいっぺんにできる」とかいう機能に仕立ててもいいかもしれない。

 いずれにせよ、ノートパソコンに水蒸気を吹き上げさせたり排水タンクを付けたりするよりは、掃除機の方が燃料電池のずっとましな使い方ができるだろう。まじめな話、家庭用掃除機というのは数年後には「電気コードをコンセントに差し込んでから使う」のではなく、「燃料タンク口にメタノールを100ccほど注いでから使う機械」になっているかもしれない。

 …なんて夢想をしながら結局まだ掃除機は買ってないのだが、なぜかというとどのメーカーも2000年から2002年にかけてコードレス掃除機を発売したまま、新機種が発売されていないことに気がついてしまったからだ。だって、それってば今年あたりがコードレス掃除機の3~4年ぶりの新モデル投入のタイミングってことだよね?

 まじめな話、三菱電機がHC-Z11の後継をいつ発売するのか、すっごく気になるんですが。もし今年中だったら、現行機種を買わずにそっちを待ちたいんだけどなー。関係者の方がいたら、誰かこっそり教えてくれませんか?(^-^;)

02:14 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (11) トラックバック (0)

2005/07/16

そういえばモヒカン族って…

 こちらのテストをやってみたのですが、わたくしめは「非攻撃的モヒカン族」であるという判定が。

 ところで、モヒカン族って何なんですか?パプアニューギニアの山奥にいるインターネットユーザーのこと?

01:33 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (6) トラックバック (2)