2008/05/26

書評『グーグルに勝つ広告モデル』

グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か 最近、久しぶりにテレビや新聞、雑誌などマスメディア各方面の関係者の集まる席に顔を出す機会があったのだが、なんだかそこで話を聞いていると、僕がメディア業界を離れてからまだ3年ばかりしか経っていないのに、マスメディアの内部というのはかなりひどい勢いで人材の劣化が進んでいるんだなあと思わされる話ばかりだった。出席している人たちはそういう業界動向からやや距離を置いていたり、既に引退されたりしている人が多かったのだが、僕よりもかなり前に引退された方にとっては、そこで関係者から次々報告されるエピソードや結構な地位の責任者の仰天発言などに、目を白黒させて「信じられない」といったふうだったので、まあ信じられない事態が進行中なのだろう。

 そういう最近のマスコミの絶望的な雰囲気に当てられてからこの本、『グーグルに勝つ広告モデル』を読むと、何という天使のような優しきオプティミズムに立った本だろうと感動する。皮肉で言っているのではなく、心からそう思う。帯には「消費者がわからない、モノが売れないと悩む人、広告・マスコミ関係者必読!」とあるが、ひたすら「あっち(ネット)側」の世界の知についてのオプティミズムを語る梅田本などより、それなりの責任ある地位にいるマスコミ人の方々には、帯のとおりむしろこちらの本をこそ熟読してもらいたいと強く思う次第だ。これを読んでまだ何か動き出さなければと思わないマスコミ人がいるとすれば、正直そういうマスコミ人にはマスコミに居る意味などないとすら思う。

 著者は広告代理店を経て外資系コンサルファームでメディア、エンターテイメント企業の変革に従事した経験を持つと略歴にあるが、書かれていることは見事なまでに戦略コンサルのロジック展開そのものである。マスコミ内部から見れば、ややことを単純化しすぎているように見えるかもしれないが、ロジックが単純化されているからといって、そこから導き出された結論に正面から論理的に反論できるマスコミ人など1人もいないだろう。そのくらい、単純明快な論理と快刀乱麻を断つがごとくの筆致が、最初から最後まで冴え渡っている。また、ものすごくロジカルに述べているにもかかわらず、「おっとどっこい」「ゼンゼン違う」「クリエイションしない」など、妙に崩れたギョーカイっぽい言い回しや多くの喩えも用い、努めて平易に書かれているので、非常に理解が楽である。

 とりわけ、1章「マスメディアの本質は『注目=アテンション』の卸売業」から3章「マスメディアの競合としてのインターネットメディア分析」までの議論は、ネットのことをかなりよく知っているマスコミ関係者でもきちんと整理して理解されていない論点が見事なまでにまとめられているので、このわずか20ページあまりのパートだけでも一読する価値はある。端的に言ってしまえば、著者は「インターネットは(特にGoogleは)マスメディアと直接競合しているわけではない」ということを明確に示している。今のマスメディアが「アテンションの奪い合い」という“仕入れ”の局面で競合しているのは、インターネットではなく、実は自らが生み出してきた「過去のコンテンツ」である。競合としての「過去」を浮上させるきっかけになった1つはもちろんインターネットかもしれないが、おそらくインターネットがなかったとしても、デジタル化技術が遅かれ早かれこうした事態を引き起こしていただろうと考えれば、マスメディアの地盤沈下はもはやインターネットを潰せば済むような問題ではないと言える。問題は、いかに自分の生み出した「過去」と戦うのか、あるいは戦い方を(収益モデルを)変えるのかということに尽きるわけだ。

 このあと、本書はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌の順に、4つのマスメディアがどのようにインターネットと戦うべきか、その行く末にはどのような将来像があり得るのか、これまた明快な論理で明らかにしていく。この本がただのマスコミ評論本と大きく異なるのは、その分析から導出された「このメディアが生き残るためにはこうするのが論理的必然」というところまで、具体的にきっちり踏み込んで書かれている点だ。著者は「ここに書かれていることが正解とは限らない」と述べつつも、ここまで論理的に明快に喝破されては、「そうじゃないでしょ」とはたぶん誰も言えないと思う。少なくとも、僕も彼の導いた結論以外の妥当な方向性を思いつかない。

 ちなみに、著者は決して「マスコミ不要論」に立脚しているわけではない。むしろ逆で、11章「なぜ、それでもマスメディアは必要なのか」において、「マスコミは健全な民主主義を維持するための最後の防波堤」「社会の中で知の拠って立つ基盤」と庇い、これに対して「ネットはアノミー」「ネットは寄生虫」とまで断言している。マスコミ人にとってある意味ジャーナリズム産業の最後の拠り所となる「健全な民主主義の担い手」という言葉を、堂々と主張してあるというだけでもきちんと読む必要のある本だろう。もっともその防波堤、基盤が今まさに突き崩されようとしている状況に対してどうすべきかということについては、恐らく最近のマスコミが取ろうとしている方向とはまったく逆を本書は指し示しているわけだが。

 今後、マスメディアがこの著者の導く論理的帰結を冷静に受け止められるかどうかが、マスメディアの拠って立つレゾンデートルである「健全な民主主義」を本当に守れるかどうかの試金石となるだろう。つまり、今後の日本のマスメディアの将来を占う時には、極端に言えば「この本の言うとおりになっていればセーフ、違う方向に進んでいたらアウト」と判断しても良いだろうと思う。その意味では、本書は数年後には偉大な「預言書」になっているかもしれない。

 また、マスコミ関係者以外も読んでおくべき内容として、12章「コンテンツ論」と13章「マーケッターに求められるパラダイムシフト」という稿がある。特に、コンテンツ論に書かれている「今後は、メディアの枠組みそのものを作っていく、そしてその枠組みが市場の文脈の中でどのような利用のされ方をするか素早くセンス(察知)して、枠組みとコンテンツの両方を進化させていく、といった能力が、クリエイターには求められるようになる」といった言葉は、その1つ1つの言葉の意味をしっかりとかみしめて受け止める必要があるだろう。

 また、この本のすごいところとして、各章や節の終わりに、さまざまな文献からの警句の引用がされているのだが、この引用元の幅がまたすごい。「徒然草」から「ガンダム」まで、古今東西あらゆる名言隻句が引き合いに出されている。本書を読み終わったときには、こういうさりげない部分にも、著者の言う「デジタル化時代」の恐ろしさの片鱗のようなものを感じることができるかもしれない。

 新書なのでさっと読めるが、それだけにスルメイカのように何度も何度も1語1句をかみしめて読み込んでおきたい、すごい本である。個人的には、織田信長がゼロサムゲームを抜け出した日本人の代表例として紹介されているのにびっくりした。なるほど、千利休が秀吉に殺されたのは、彼が当時の日本の事実上の「日銀総裁」だったからなわけですね(この意味の分からない人は本書24ページをどうぞ)。というわけで、最近読んだ本の中では高橋洋一の『さらば財務省!』と並ぶ、超お勧めの1冊。

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2008/01/07

書評『グラミンフォンという奇跡』

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 久しぶりのブログ更新に、特に意味はない。強いて言うなら、昨今の状況について、少し思うことをそれとなく語ってみたりみなかったりというところか。私のmixiに来ていない方で、まだこちらのブログを読んでいる人もいるかもしれないと思ったりもしたので。

 といっても、別に大上段に「今年の抱負」とかそういうのをブログで語るつもりもない。その代わり、年末年始に読んだ本の中で、特に印象深かった本の紹介をしておこうと思う。『グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換』という、昨年7月に出版された本である。

 出版されてから半年近くも経った時に、essaさんのところで知ったのだが、実はリアル知人たちがこの書籍の発刊に関わっていたことをそのときに初めて知った。そのとき「絶対読む」と備忘録に書いてあったものをようやく読んだ次第。著者、訳者の方々の意図とは異なる読み方だったかもしれないが、読んでいろいろと思うことがあった。

 大学時代の専攻が開発経済学だったこともあり、グラミンバンクやら適正技術やらといった話は、私のかつての知的関心のど真ん中の話題でもある。「かつての」と言ったのには、もちろん含意がある。essaさんやyohmeiさんのレビューは、どちらかというと開発経済学的な側面からストレートにこの本に共感を示している。それはそれでまったくその通りなのだが、私自身はそうしたことは理論的には既に大学時代の勉強で見聞きしていたので、特段新しい話という気はしなかった(ソフト化経済センターの町田氏は「途上国の経済開発はこの数年で様変わりした」とブログに書いているが、こうしたフレーム自体はグラミン銀行が登場した80年代後半以降の新成長論や持続可能性を論じる開発経済学の潮流の中では既に議論されていたことで、それが現実化しただけと思える)。

 この本を読みながら私が考えていたこと、それはもっと別のことだった。というか、私自身の過去の視野の狭さに対する痛烈な反省である。2000年頃、フィンランドまでNokiaをはじめとした世界最先端のIT産業の取材に行く機会があったのだが、そのときに「ITで世界最先端」と言われていた北欧諸国の企業(と国)の人々が、どんなビジネスをしようとしていたのかをちゃんと整理して理解せずにいたことを、この本を読むまでまったく気がつかずに今までいた。グラミンフォンが立ち上がるまでの経緯の中で、ノルウェーやスウェーデンの通信企業、コンサル会社、開発局(日本のJBICとかJICAみたいな組織)がちゃんと全部(人脈とか土地勘・ノウハウとか信用補完とかで)クラスター化していることが大きな役割を果たしていることがかいま見える。つまりNokia、Ericssonといった企業は、単独で世界規模の通信企業になれたわけではなく、国ぐるみで(欧米以外も含めた)世界市場にアクセスするための仕組みがあってそうなったのである。少なくともグラミンフォンやアフリカ諸国への通信ビジネスの展開に関する限り、米国は主人公のイクバル・カディーアのビジネス・キャリアであったり創業にあたってのシードマネー的なものは多少提供してはいるものの、途上国の通信市場におけるヒトモノカネの結合の中では(当初は)それほど重要な役割を果たしていたわけではない。つまり、新しい「世界市場」のピラミッドが米国を頂点としていたわけでは、必ずしもないということだ。

 まったく新しい市場、新しいビジネスのピラミッドは、多くの人々にとっては文字通りピラミッドの頂上の1つの石にしか見えない。砂の中に埋まっている巨大な石の構造物は、その存在に気づく能力のあるごく一部の人にしか見えないのである。見えない人があまりにも多く、見える人が1人しかいないところでは、その1人がどんなに巨大なピラミッドの存在に気づいていたとしてもそれは現実化しない。つまり新市場のピラミッドを早く見つけてその発見になるべく多くの人を巻き込み、ヒトモノカネをすばやく集めて動き出すためには、こぢんまりとした産業クラスターの中に、ピラミッドが見えるだけの前提となる知識のある人が集まっており、かつその中に「あいつの話ならまあ信じるに値するだろう」というような信頼関係のある人間のネットワークをきちんと構築しておく必要がある。

 もちろん、地中の構造物が見えたからといってそれを誰でも掘り起こせるわけではない。掘り起こすためには見えないピラミッドに対する信用を作り上げ、莫大な投資資金を集めてくる才覚と、そのスキーム組み立てのあらゆる段階で直面する「鶏か卵か」の議論をねじ伏せ、物事を前に進める力量が求められる。しかしこれらも個人でできる話ではなく、やはりそれをチームワークで成し遂げられる信頼関係のネットワークが必要だ。

 ネット業界でよく「世界展開できるサービスが日本から出てこないのはなぜか」という議論があるが、別に難しいことでも何でもないシンプルな話で、ウェブサービスに限らず「世界(日本以外)にいるお客のキモチが分からない人(たち)に世界向けの製品・サービスなんて作れるわけがない」のであって、それ以上でもそれ以下でもない。アフリカの人に使ってもらえるウェブサービスを作りたいなら、アフリカの消費者の生活事情に精通した人を連れてきて一緒にウェブサービスを作り、マーケティングする以外にないわけである。で、日本にそんな人がいるかというと、少なくともすぐに見つかるところ、声をかけに行ける範囲には誰もいないよねということで、単純に日本という社会のナショナリティに関する多様性の低さが「世界展開できるウェブサービスの出てこない最大の理由」だと私は思う(ネットでアフリカに詳しい人を探し出して尋ねれば良いという人もいるかもしれないが、ネット上で伝わる情報の量にはやはり限界がある)。

 この説明の「ウェブサービス」の部分は、恐らくそれ以外のあらゆる産業や製品・サービスの名前に置き換えてみるべきことだろう。自分の所属してる産業、作ってる製品・サービスはどうか?と考えてみると良い。そこでは世界規模のビジネスは意識されているのか?世界を視野に入れたピラミッドが掘り起こせるだけの力量、才覚のある人たちが信頼できるメンバーでチームを組めるほどの人数いる業界なのか?たぶん、これからの日本で世界に伍していくためには、この疑問を自問できるかどうか、それに判断基準を置いたアクションが起こせるかどうかが大事なのだろう。物理的にシリコンバレーに移住するだけがそうしたプロセスに必要な条件とは思わない。この本が示すように、米国にいたって世界という巨大なピラミッドが見えないことはいくらでもあるからだ。だが、周りに“日本”という国のレベルに収まらない、十分に大きな“ピラミッド”の見える人たちがある程度の数だけいないことは、日本の中で「世界標準」と「国内標準」にあらゆるものが二極化していくこれからの時代、大きなハンディになる可能性がある。元旦から始まった日経新聞の連載「YEN漂流」もまさにそうした未来を示すものだろう。私自身も今年からはそうしたことを意識して過ごさなければと思った次第。

 まあそんなわけで、今年もよろしくお願いします。

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2007/04/19

書評『超地域密着マーケティングのススメ』

超地域密着マーケティングのススメ 4月1日に発売されていたのを見て、気になってすぐに入手して読んだのだが、その後インフルエンザに罹って書評を書いている時間が取れなかった。Amazonでも売れているようだが、良い本だと思う。とても28歳の人が書いたとは思えない。

 何より良いのは、難しい理論をごちゃごちゃと書いたりしていないことだ。ところどころ、ジェフリー・ムーアの「キャズム」の概念とか、web2.0とロングテールがどうとか書いてあったりするが、そんなことは一言も書かなくても良かったとすら思う。

 商売の中で最も大事なことは心だ、時間だ、そして地域という場所なのだという、当たり前のことをしっかりと、実際の話を元に書いてある。タイトルには「マーケティング」とあるが、マーケティングの本ではない。これはれっきとした、そして最近まれに見る素晴らしい「営業」についての本である。

 読後の最初の印象は、「素晴らしい、やられた」というものだった。実は自分もこういう内容の本をかつて企画したことがあった。世の中の人が「マーケティング」と騒ぐ、そのレベルの話のなんと空しいことか、そしてそうした小賢しい企ての向こう側で、顧客とじかに魂を触れ合わせながら生きる「地域に根ざした」小売業の人たちの生き様の、なんと美しく心を揺さぶるものであるか。そういうことを、何とか伝えてみたいと思った。でも思いは果たせなかった。たぶん自分には、そのことが頭で分かってはいても、他人に伝えるだけの重みのある言葉が、足りなかったのだろう。

 本書の著者の平岡氏は、前書きで次のように書いている。

何度お客様めぐりをやっても、手配りで粗品を配っても、あなたがその人を知らず、その人があなたを知らない限りは、ただの通行人です。物語においても、登場人物は役の名前が付いて、初めて覚えてもらえるのです。

あなたが、お客様の「人生の登場人物」になること。

 これこそが、地域に根ざした商売のエッセンスなのである。そう言っても、実感として分からない人には絶対分からない話なのだけれど。

 この本を読んで、昔取材した九州のある小さな家電専門店のグループのことをずっと思い出していた。その家電専門店のグループの経営者は、どこにでもある昔ながらの家電店、大手の量販店が近くに店を出して客をごっそり奪われ、積み上げてきたものをすべて失って赤字を垂れ流し、「もう店を畳もうか」と悩む店主に対して、こう語りかけるという。「あんたが店を畳むのは、あんたの勝手だ。だが、あんたから商品を買っていたお客さんは、これから誰のところに相談しに行けばいいのか?お客さんを本当に大切に思っているのなら、売った責任を最後まで取らなければ」。たいていの人は、これで店を畳むのを思いとどまるという話だった。

 田舎というのは、そういう場所だ。「あなたは、ここに住むすべての人たちに対して、責任がある。ここに住むすべての人たちも、あなたに対して責任がある」、何もかもがそういう関係で成り立っている世界である。店は商売のためにあるというよりも、その「責任」の維持のために存在しているといった方が実感がある。

 平岡氏の「マーケティング」、あるいは営業論というのは、地域に根付くとはどういうことか、それを生業として生きていくとはどういうことか、ということを、ある意味とてもわかりやすく、彼自身の遍歴と経験に即してまとめたものである。読めばそんな突拍子もないことが書いてあるわけではない。だが、この「当たり前」を、すっかり忘れてしまった地域のお店というのも、結構多いのではないだろうか。

 この10年あまり、「田舎くさい人付き合いは嫌だ」、「ベタベタするのは若い人にはもう好まれない」などと言いながら、多くの人がこのような人間関係構築の技法をおざなりにするようになった。しかし、人は年を取れば孤独になる。したがって、日本にはますます孤独な人が増える。そうした時代の流れに乗じて、田舎くさい人付き合いを装って人を騙す詐欺師がますます跋扈するのを止められないのを見ても、その部分が何か新しいものによって埋められたわけではなく、ただポッカリと空いた「心の穴」となって広がっただけなのではないかと思わざるを得ない。ある意味、地域に根差す商人の「怠慢」の結果とも言える。

 この本は、地域密着の商売とはどのようなものかを語った本でもあると同時に、こうして空いた心の穴を埋める生き方をするための心掛けも教えてくれる、希有な本である。もっとも、かつては両者は同じものの表と裏だったに過ぎない。この穴を埋めることのできる人に対する、今後の世の中の潜在的ニーズは莫大なものがあると思う。あらゆるビジネスにおいてこの穴を埋める技法を知って、ビジネスの仕掛けの中に組み込むことが求められてくるのではないだろうか。

 「マーケティング」という言葉の入ったタイトルで、この本の価値を矮小化してしまう人が出るかもしれないのは、実にもったいないことだ。うまく言えないが、これは「人が他人の人生の物語に、モノではなく生きた登場人物として登場するにはどうすれば良いか」について余すところなくそのハウツーを語った、他に類を見ない希有な本である。

 企業に所属しているか、それとも独立自営しているかに関係なく、ビジネスというものを自分の人生にとって「カネを稼ぐための手段」以上の大切な何かだと少しでも思っている人であれば、今のうちにこの本を買って読み、自分の仕事にどう生かせるか、あれこれ思いを巡らせておいたほうが良いだろう。そういう、ビジネスに「魂の触れ合い」を求める人のための、素晴らしい1冊である。

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2007/03/29

書評『勝ち馬に乗る!やりたいことより稼げること』

勝ち馬に乗る! やりたいことより稼げること この『勝ち馬に乗る!』という本、米国での発刊以来15年目にして邦訳を企画された三ツ松新氏から2月の終わり頃に献本をいただいて拝読したのだが、ものすごく印象に残る本であるにもかかわらず、「このブログの読者の皆さんにもぜひ読んでもらいたい」などという薄っぺらい推薦の言葉が、どうしても書けない。この猛烈にひっかかる抵抗感は何だろうと、この1ヶ月ほど考え続けていた。

 それで、さっきふっとその理由が分かった。なのでそれをまず書いておきたい。「自分の可能性を信じている奴、あるいは今いる会社で努力すれば報われるなどと考えている社畜は、絶対読むな。入手厳禁」。左記にあてはまる人は、読まずに今すぐブラウザの右上の×印ボタンを押すこと。まちがっても以下の文章は読まないでください。

 著者はご存じ、あの名著「売れるもマーケ 当たるもマーケ マーケティング22の法則」のアル・ライズとジャック・トラウト。何しろ、「リンドバーグがなぜあんなに有名になって、著書が売れて大金持ちになったか、リンドバーグの数日後に大西洋を横断した奴が名前さえ知られていないのはなぜか。リンドバーグが一番乗りだったからだ。一番乗りになれないなら、何をやっても無意味」などというみもふたもない話を書かせれば、世界中でこいつらの右に出る者はいないとされるコンビである。本書もさぞかし、みもふたもない話のオンパレードなのだろうと思ったら、やっぱりそうだった。

売れるもマーケ 当たるもマーケ ―マーケティング22の法則 ライズ&トラウトらしく、最初から最後まで、自分の能力ではなく他人の能力や発明にただ乗りして大儲けした奴らの話が、これでもかとてんこ盛り。15年前に出た書籍であり、取り上げられている事例はマクドナルド、マイクロソフト、ロータスなどやや古いネタが多いが、まあよくもこれだけ書いたものである。成功したベンチャー企業の経営者は、たいてい自分の能力が秀でていたことを強調して自分を伝説化したがるから、こういう書籍に例として取り上げられるのはさぞかし噴飯モノだっただろう。

 それはともかく、本書に書かれていることは事実であるというだけでなく、すべて真実である。真実だがしかし、あまりにみもふたもなさすぎる。

 マーケティングの分野であれば、ある程度の「みもふたもなさ」を分かっていなければ仕事ができないのは事実だし、多くの場面で自分の売りたいものよりもお客に買ってもらえるものを優先しなければビジネスにならないのは現実なのだから、そういう「みもふたもない」話を語るコンサルの本を読むことは大切だろう。しかし、その「みもふたもなさ」を、自分自身の人生にまで徹底して適用しようと思うだろうか?まあ、そういう人もいるのだろうな。カネ儲けのためには良心だって悪魔に売り飛ばさないと、だしね。

 最初から最後まで「カネを儲けた奴こそが成功者」という拝金主義が怒濤のように溢れかえっているのは、米国のビジネス本の愛嬌と思ってやり過ごすにしても、「成功するためにあなたがこれまで必要と考えてきた真っ当な努力はすべてムダである」というメッセージをこれだけぶつけられて、読後に多少なりとも不快感を感じない人というのは、よほど世の中を舐めきって生きてきた人だけだろう。まして、自分磨きやら昇進競争に少なからぬ資金を投じ、一生懸命取り組んできたという真面目な人にとっては、激しい怒りと脱力感に襲われること必至だ。

 しかし、あえて言うなら「世の中の現実なんてこんなもんよ?」という、最もどぎつい現実を突きつけてくれる良書であるとも言える。この本を読んで怒り出す人というのは、言うなれば子どもに向かってゆとり教育のスローガンそのままに「自分の好きなことをやりなさい」と諭しながら育ててきた挙げ句、子どもが就職もできずニートや引きこもりになってしまった途端、すべてを政府のせいにするようなものである。世の理不尽を正面から見つめ、受け止めるだけの心の鍛錬が足りない。

 鍛錬が足りない人は焦って宗教やイデオロギーという麻薬を求める、とマルクスは言った。イデオロギーは不都合な現実を見えなくする。我々が深く考えもせず何となく信じている常識のなんと多くが現実を包み隠す「イデオロギー」であることか、本書でライズ&トラウトに教えてもらうと良い。この程度の現実すら直視できないで、資本主義社会を無事泳ぎわたることなど、できるわけもないのである。

 しかし、本書は世の中に溢れる「自分磨きこそ成功への近道」という宗教的イデオロギーの皮をひんむいて見せるために、「成功至上主義」という別のイデオロギーを対置してみせた。この本を読むなり「そうか、こうやって成功すればいいのか!」と、頼れる馬を探して周囲をキョロキョロ見回すような人間は、キリスト教と資本主義というイデオロギーから抜け出ようとして、新たに共産主義というイデオロギーに染まるようなものである。つまり「アホ」である。

 他人のアイデアやコネ、親戚などが最も頼れる馬なのだということぐらい、30歳を過ぎればもう気づいてなければならない程度の「世間知」だが、若い時からそれらを頼ることばかり考えて生きる人もまた誰の相手にもされないのだということも、もう1つの世間知として知っておくべきだろう。

 この本を読んで「ああ、大金持ちになるということは、まあそういうことだろうね。しかし私は、自分の能力のできる範囲でこつこつやるよ。その方が長い人生、楽しいからね」と言えるような愚鈍な奴に、私はなりたいと思う。そして、そう思えるようなマチュアな30歳以上の人に、自分の過去30年以上の中で積み重ねてきた世間知が、魅惑の共産主義イデオロギーにどれだけ立ち向かえる強さを持っているか、試すために読んでみてもらいたいと思う。その意味では最もどぎつい類の「名著」と言える。

 だが、もう一度言っておく。はっきりした自分の立ち位置を持ち、悔いなき人生を送るための世間知を積み重ねようという自覚のないまま生きてきた社畜君、がっつき君、自己啓発オタクは、この本を決して買わないでください。以上。

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2006/12/13

書評『ヒューマン2.0』、または流動化のための心得集

ヒューマン2.0 web新時代の働き方(かもしれない) 最初に断っておく。先日出版記念パーティーにお誘いを受けた。久しぶりにお話しがしたい知り合いからのお誘いでもあったので、忘年会も兼ねてと思い、ひょいひょいと顔を出した。上はMSKKの古川さんから、下は僕のような舌禍ブロガーまで、ものすごいレンジの人が集まっていた。参加者が20~30代の男性ギークだらけだった梅田さんの『ウェブ進化論』の出版記念オフ会と比べて、渡辺さんのお客さんは幅が広いなあと感じた。

 で、本を受け取って渡辺さんにお祝いのごあいさつをしに行ったら、サンタ帽子をかぶったちょうかわいい渡辺千賀さんに「ここに来たからには5冊以上買うこと!」と笑顔で脅迫された。出版記念パーティーの席上で、サンタコスプレした著者が列席者に向かって「献本もらったんだからブログで紹介し、さらに1人5冊ずつ買え」とか脅すのを見たのは初めてだ。サンタにあるまじき所業。シリコンバレーのサンタっちゃ、えずか(恐ろしい)ばいね!というわけで、全部ネタばらしした上でアフィリエイト貼っておく。ディス・イズ・クチコミ2.0。

 で、本の中身なのだが、すでに「働き方」というコンテンツの本丸については、千賀さんの三菱商事時代の1年先輩かつ親友でもある岡島悦子センセイが「ヒューマン2.0的な働き方の波は日本にもやってくるか?」という命題について、余すところなく論じていらっしゃるので、僕が口を差し挟む余地は特にないかな、と思う。

 ただ、岡島さんが述べているのは、リアルなヒューマン2.0的ワークスタイル、つまり「フリーランス」あるいは「(非熟練ではなくプロフェッショナルワーカーへの)アウトソース」という事象についてであるが、僕はもう少し広い意味でこの本を座右の書にする人が多くても良いかな、と思っている。それは、帯で孫泰蔵氏も書いているように、「会社に依存しない」というメンタリティを持つ、あるいは持ちたいと思うすべての人々が身につけるべきマインドセットが、ここに極めて分かりやすく面白く描かれているからだ。

 この本を読むと、たとえば日本の昨今の教育における議論やそこで持ち出されるテーゼが、労働力の流動化する社会において本来持つべきマインドセットからいかにあさっての方向を向いたものであるかが、ものすごくよく分かる。本書の第8章「ヒューマン2.0のルール」では、「仕事」「転職」「楽にやる」「リスクを楽しむ」「サバイバルする」という5つの項目に分けて14のルールが紹介されているが、その中に「理論上の『本当の自分』を探さない」というルールがある。要するに、万物流転、情報混沌のシリコンバレーにおいては、「自分は本当はこういう人間だから、こういう仕事をすべきだ」といった発想で仕事を探してはいけない、むしろ小さく週末のバイトみたいな形でこっそりやってみたり、小さなプロジェクトベースで始めてみて、自分にできるのか、合うのか確かめていくべきだ、というのが渡辺さんの言い分だ。

 聞けば当たり前のことのように思えるが、こうした「パラレルキャリア」「セカンドキャリア」の発想を持って人生を送ろうと考える人が、日本では意外なほど少ない。僕よりも上の世代は「天職」という概念、僕より下の世代は「あなたが一番好きなこと、やりたいことをやりなさい、仕事にしなさい」と教え込まれ続けてきたことが、職業選択やワークスタイルの極度の硬直化を招いている。会社が自分のことを必要としていないことを自分自身分かりすぎるほど分かっていながらそれでも会社にしがみついたり、「自分が本当にやりたいと思ってきた仕事」を高望みしすぎて目の前の労働機会と自分の人生に絶望し、無気力になってしまうといった不幸な人たちが数多く生まれてしまうのも、これまでの公的教育において教えられてきた誤ったワークライフ概念の結果のように、僕には思えるのだ。

 また、その次に書かれているルール、「時にはあきらめる」ことも、実際に見ているとできない人が多い。ここでの「あきらめる」は、無気力になるという意味ではなく、「戦略的撤退」のことである。自分の能力を超えた問題が目の前にある場合、耐え難く嫌な人間が職場にいてその人事権を自分の力ではどうにもできない場合は、「職場を変える」つまり自主的にその会社を去ることが大事だ、と渡辺さんは書く。これまた当たり前の話なのだが、実際には常日頃から刷り込まれてきた「とにかくがんばれ、為せば成る」という自意識の脅迫観念にさいなまれて、どうにもできないことが分かっている状況に突撃を繰り返し、燃え尽きてしまう優秀な人が後を絶たない。

 そういう、本当は蒙るべきでないはずの不幸を蒙っている多くの日本のビジネスパーソンに、1人でも多くこの本を読んでもらいたいと思う。前半だけ読むと、海賊みたいな超絶コンピュータ・ギークの跋扈するシリコンバレーの攻撃的な風土が鼻につきすぎるきらいがある。「別に俺ギークでもシリコンバレー信奉者でもないんだよ」という人は、前半はあえて読まなくても良い。ぜひとも読んでほしいのは後半だ。

 文系な方には、ぜひ6章の「人生とお金」あたりから読み始め、日本の生活環境のぬるさと幸せさを実感した後で、7章「シリコンバレーで誕生する4つの働き方」で未来の日本のナレッジワーカーの姿と自分のキャリアのあり方に思いを馳せ、8章「ヒューマン2.0のルール」でそれを実現するためのマインドセットと現在の自分の意識ギャップを測ってみる、というのがオススメだ。会社で日々上司と経営トップの悪口を同僚と愚痴っている人は、自分が人生の貴重な時間そのものを無駄にしていることに気がつくだろう。そこに気がつけば、それこそがあなたにとって「ヒューマン2.0」の第1歩。明日から、パラレルキャリアでもチャンクワーカーでも何でもいい、来るべき将来のワークスタイルをイメージして、自分をそれに合わせるための前向きな行動を起こせる。

 こういう言い方をすると新興宗教みたいでアレだが、この本に書かれている渡辺千賀式マインドセットをきちんと自分に言い聞かせ、実践できるようになれば、必ず「ラッキーになり」「ハッピーを最大化し」、冒険で自由な楽しい人生を送れるようになると思う。実際、僕自身も今の会社に来てから、このマインドセットと同じことを教えられたなあと、思い当たるところはたくさんある。シリコンバレーに行かなくても、「シリコンバレー的精神の自由」は手に入れられるものだと、僕は信じている。この本は、そういう「働くことの夢と楽しさ」を、落語のような軽快でユーモアにあふれた文体で教えてくれる本である。

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2006/08/19

書評:「マーケティング2.0」

マーケティング2.0 ブログの面白さについては個人的にひそかな仮説があって、「結構長く続けてきた仕事を、一念発起して転職/離職しようとしている、あるいはした若手リーダーレベルの人のブログ」っていうのが、やっぱり要注目だと思うわけです。なぜなら、もともと所属していた業界に対する批判的なものの見方というのが、取引先や所属組織のしがらみを切り離せることで一気にあふれて出てくるため、通常は絶対に出てこない一言というのがぽろっと出てくるから。

 ・・・というような意味で、この本なのだが、とにかくこれは絶対に読む価値がある。渡辺聡氏の監修による「Web2.0を使ったマーケティングの教科書」というべき本だが、その中に衝撃的な記事が入っているのを見つけてしまったのだ。

 もったいぶるようで悪いのだが、もろもろの配慮をした結果、それがどの原稿のことなのか、どういうことが衝撃だったのかはここでは具体的に書かないほうが良いだろうと判断し、書かないことにした。何が書いてあるのか知りたい人は、自分で買って読んで探してみてください。

 これは、さすがにネット上でもし本人がブログに書いたりしたら、ど派手な爆発・炎上は確実と思われる内容。でも真実を突いてるし、これからネットを相手にするマーケターにとって忘れてはならない着眼点だと思った。内容が内容だけに、いまだ似たようなことをずばっと書いたブログにはおめにかかったことがない。しかも、この記事は本人の前職でのプランニングの体験が元になっている(と、ほのめかされているわけではなくて本人が文中にそう書いている)わけなので読めば分かる。この原稿を読むためだけでも、この本を買う価値はある。

 思えば、ネットについてネット上で語り得ないことというのは、やっぱりあるのだなあという印象だ。自分の場合はネットでなければ理解者を得ることもできなかっただろうことを2年前に書こうと思ったのがブログのきっかけだったわけだが、今や紙でなければ語れないし(まっとうなかたちで)理解者を得ることもできないことというのが生まれてくる世の中になったのだなと思うと、何というか、複雑というか感慨深いものがある。

 というわけで、加藤ちゃん、あとでこの本貸すから絶対目を通してください。よろしく。(以上業務連絡)

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2006/05/19

書評:「ヒルズ黙示録―検証・ライブドア」

ヒルズ黙示録―検証・ライブドア なんか最近書評ばっかり書いてる気がするが、まあいいや。たまたま面白い本によくぶち当たるので、きっと幸せなんだろう。AERAの大鹿靖明記者が書いた、『ヒルズ黙示録―検証・ライブドア』。既にあちこちのブログで書評が書かれているので、特に内容そのものの総括レビューはしない。

 自分自身、このブログでホリエモンの日本放送買収の記者会見模様のライブエントリを書いたり、ライブドアやホリエモンについていろいろ考えたことを書いてきたこともあり、「あーなるほど、あのときの裏はこうだったのか~」とか、いろいろ考えながら読んだ。そして最後に大鹿記者が指摘しているように、ライブドアという会社がある意味で自分を含む団塊ジュニア世代の「パンク・ムーブメント」だったことを実感した。驚いたのは、実は自分もこの10年あまり、想像以上にその舞台上の登場人物たちの近くにいたことを知ったことだ。

 この本を読んでいて僕が一番興味を持ったのは、ホリエモンをはじめとするライブドアの経営陣の面々ではなく、最近シンガポールに国外脱出した村上世彰氏その人である。

 実は、僕は今から10年前駆け出しの記者の時代に、通産省(当時)にいた村上氏を見ていた。といっても、村上氏に会いに行ったわけでもなく、たまたま別件で取材に行った通産省で見かけただけだった。見かけたのも横顔ぐらいまでだったし、もちろんその人が村上氏だなんてことも教わらなかったし、その当時には知るわけもなかった。

 でもあのとき、あそこにいたのは間違いなく村上氏だったのだと確信している。通産省サービス産業課という表札の出た部屋の中で、ロッカーに貼られた座席表に「企画官」と書かれた席に彼は腰掛けていた。椅子にそっくり返って座り、窓際の机に向かって足を放り上げ、電話の受話器を肩で挟んで大声で話していた。その大声の会話は、10メートルほど離れた小さな会議スペースでパイプ椅子に腰掛けて取材していた僕にまで筒抜けだった。

 取材していた内容はほとんど記憶に残っていないのに、10年たった今も、その甲高い声ははっきり耳に残っていて、その内容さえはっきりと覚えている。「おお、久しぶりだなあ。元気か?そうだよ、中小企業庁なんて要らねえんだあんなもん。そうそう…」。会話の相手は、旧知だが別の部課あるいは省庁にいる同僚かと思われた。いずれにせよ、役所取材経験が浅い新米記者にとって、鮮烈すぎる光景だった。

 当時ヒヨッコ記者だった僕は、「通産省という役所はすごいなあ、まだ30かそこらのキャリア官僚が、自分の役所の出先機関を『要らねえんだよ』って一刀両断するのかあ」などと感心していたが、それはたぶん誤解だったのだろう。あんなことを大声で役所の中で、しかも机に足を乗せながら電話でまくしたてるような人は、その後僕が知り合ったどんな官僚にもいなかった。あれこそが村上氏だったのだと、この本を読んで分かった。もしかしたら、あの会話の相手が、本の中に出てくる(当時野村證券から通産省に出向していた)丸木強氏(現・M&Aコンサル副社長)だったのかも知れない。

 その2年後、彼は通産省を辞してファンドを立ち上げる。村上ファンドの投資手法に対する評価は賛否両論があるが、そのギャップの理由を大鹿記者は、

村上には、あざとく立ち回り、巧みに利益を追求する、したたかなファンドマネージャーの顔がある反面、株主への還元やコーポレートガバナンスなどを訴えるオピニオン・リーダーとしての「正義」の顔ももっている。その二面性は、前と後ろに2つの顔を有し、光と闇、善と悪などあらゆる対立物を象徴する古代ローマの神・ヤヌスを思わせる。(p.140)
 と述べている。ちなみに、この「ヤヌス神」の喩えは、大鹿記者のオリジナルではなく、2005年10月のAERAを見ると「(村上氏の)知人の金融機関幹部」の言だそうだが、言い得て妙という感じだ。そういえば今週の週刊東洋経済にも、彼の矛盾するこの2つの側面を徹底的に叩く記事が載っていた。

 「村上のやっていることなんてただの総会屋と変わらない」とか、「新手の仕手の一種だろう」とか指摘する人は僕の回りにも多かった。だが、総会屋というのは会社にこっそり取り入って金品を要求する人たちのことだし、一方仕手というのは複数の人間でつるんで株を買い上がり、個人投資家を食い物にして利食うことだ。大量の株を買って堂々と会社の経営者に経営改善を要求し、個人投資家が大損をこくような局面で株を売るようなずるいマネもしない村上氏は、総会屋でも仕手ではない。

 村上ファンドの動きは、阪神電鉄の時もそうだが、ちゃんと市場を見ている人間には予測もできるし、手口が分かるものである。逆に言えば、村上ファンドにつけ込まれるということは、その企業の経営者が資本市場からの監視に対してあまりに無為無策であることの証左なのである。その意味で、村上氏は株式資本主義の申し子そのものだし、磯崎氏のところで書かれているような、村上ファンドを潰そうとするさまざまな法規制は、結果としてそもそも資本政策に歪みのある日本企業を温存してしまうだけなんじゃないかというふうに思う。

 とはいえ僕も、一方で買収対象の企業を「改革せよ」と脅しながら、大株主として経営の改善を見届けるのでなく、その前にライブドアや楽天に持ち株を「はめ込んで」逃げてしまう村上ファンドのイグジット(投資回収)の手法が良いとは決して思わない。少なくとも、「健全な資本主義」という視点からは肯定できない。

 でもそれは、ウォーレン・バフェットのような長期投資ではなく、そういう短期勝負のイグジットでなければ投資資金を集めることも回収することもできない日本の株式市場のせいなんじゃないかと思う。巨大資金を持つ者がつるんで株をつり上げるインサイダー取引がはびこり、しかもそれを誰も摘発しない。摘発されないのなら、非対称な情報をもとに大きな資金を動かせる人間の方が儲かるに決まっている。本書では、今回のライブドア事件の意味を東京地検の元特捜部長の1人の言葉、

「今回の事件は、やりすぎの『すぎ』のところに光を当てている。(中略)自由な経済活動と車の両輪である遵法意識やモラルがこれまで軽視されすぎていたのではなかったか」
 によって総括している。

 そもそも検察が法律の埒外にある「モラル」をどうこうする権限があるのか、と言えば確かにそうなのだが、結局は証取委なり検察なり、誰かがそれをやらなければならなかったから仕方なかったのだろう。だが、それは本来なら、「見せしめ」的に行われるのではなく、もっと適切なプロセスを踏んできちんと「日本版SEC(米国証券取引委員会)」のようなものを作った上で行われるべきだったろう。でなければ今日も日々行われているインサイダー取引などはなくなるはずもない。

 個人的には、ライブドア事件でホワイトナイトを演じ、ホリエモンを「清冽な資本市場の流れを汚してはいけない」と喝破したSBIの北尾吉孝氏を、誰か引っ張り出して日本版SECのトップにでもしてくれないかなと夢想する。市場というのは、たぶん北尾氏の指摘するような、「誰でも入れる、だが悪意のある人間、義を守らない人間は永久にたたき出す」という鉄のルールが日々守られてはじめて機能する存在なのだ。であれば、より新参者にはハードルの高い(しかし既存のプレーヤーには甘い)法規制を次々作るよりは、不心得者を厳しく摘発する組織を作るべきだ、というのが、米国にならって始まった90年代の金融ビッグバンの教訓の1つではなかったのか。

 北尾氏はもう事業家としての孫正義氏に付いて行こうという気はないみたいだから、ポスト小泉政権の目玉政策として、日本版SECの初代トップとかになって「公益に尽くして」くれないだろうか。そんなことを、この本を読んでつらつらと考えた。

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2006/05/08

『技術空洞』を読んで考えたリーダーシップの意味

技術空洞 Lost Technical Capabilities このブログでもこれまで時々ソニーの経営について書いてきたが、ハコフグマン氏のブログで同世代の元ソニー技術者による告発本『技術空洞 Lost Technical Capabilities』が紹介されていたので、さっそく入手して読んでみた。

 んでもって、自分が以前の取材などでも得ていた印象とほとんど同じだったので、がっかりといえばがっかり、納得といえば納得。今さらそれ以上書くこともないかなあと思いつつ、とはいえいろいろと思うところもある本だったので、書評でも書こうかと気を取り直してメモ作ったり他に書評しているブログを探したりして徘徊していたら、僕の思ったことと同じことをこれ以上ないくらいに簡潔にまとめたブログを見つけてしまい、書評を書く気が完全に失せた。そこで、今回はこの本を読んで思い浮かんだことについて書いてみたい。

 著者の宮崎氏は、こちらのブログでもまとめられているように、技術系ソニー社員の典型例みたいで、まあでも出井さんにもいろいろ事情はあったみたいよ、ということで事務系ソニー社員によるソニー批判の代表例である竹内慎司著『ソニー本社六階』なんかも引用していたりしているが、まあ要するに「俺たちをやる気にさせられなかった出井政権下のマネジメント連中が悪い」という結論。

 この手の愚痴はソニーほどの大会社ともなるとやはりそれなりに面白いが、しかしそもそも井深・盛田時代から続く創業家のドロドロとそれを覆い隠してきたソニー・ブランドを巡る暗闘まで書かなければ、暴露本としてはやはり物足りないし、そもそも単なるゴシップ以上の何でもないですねというAmazonのレビューの批判にも応えられないわけで、読んでも大して得られるものがあるわけでもない。

 もしこの本から得られるものがあるとすれば(そして僕の思考もまさにそこに向かっていたわけだが)、こういう30代の(経営を“見る目”はそれなりにある)それなりに優秀な若手・中堅社員をモチベートして会社に居続けさせるようなマネジメントというかリーダーシップというのは、どういうものなんだろうということへの思索かもしれない。

 じゃあいったい出井氏がどうすれば良かったのか、歴史に「if」を持ち出すのは禁じ手だし、僕にだってそれはよく分からないが、少なくとも2003年以降のソニーに見られなかったらしい「良いリーダーシップ」について、僕が最近感じたことを書きとめておくのも悪くないだろう。自分の勤め先の話なんでやや口はばったいのだが、ある意味心から「すごい」と思えたエピソードだったので。

 最近、一部の部署で担当役員が入れ替わったのだが、僕も多少関わりのある隣の部署の新任役員が新しい事業方針についてその部署に関わっている他部署の社員にも説明したいということで、僕も呼ばれた。それで、何の気なしに話を聞きに行った。

 1時間半ほどのミーティングだったのだが、その役員は自分から一方的に話したりせず、参加者の1人1人に「今、あなたは我が社のお客様にとってどのような役に立っていると思うか?」「これから、あなたは我が社のお客様や世の中にとって、どのような形で役に立ちたいと思うか?」といったことを、次々に尋ねる。居並ぶ社員は思い思いに自分の考えをしゃべるのだが、それを彼は「つまり、AさんとBさんとCさんの言うことをまとめると、こうなりたいということかな?」などと言いながら、一つのフレーズにうまくまとめて皆を納得させていく。そしてまた、次の質問を投げかける。

 しばらくそうやって、だんだん自分たち(とその役員の担当部署)が今やっている仕事の意味、目指すべき方向性などが言葉にされて、明確になってくると、次にその役員は「これまでの『ミッション』『ビジョン』を、みんなの意見に沿って言い換えてみると、こういうことじゃないかと思う」と、それまで社員に発言させて納得させた言葉を簡潔に並べたフレーズと、従来の部署の『ミッション』『ビジョン』とを並べて、プロジェクターでスクリーンに映写した。従来のものに比べて業務の方向性が格段に具体的にイメージしやすく、しかもこれまでの議論が見事に反映されていて納得するしかない。当然、プレゼン資料として事前に用意されていたものなわけだが、よく練られているなと感心した。

 また、次に「やるべきこと、やるべきではないこと」というタイトルの資料が投影された。これも非常に分かりやすい。事業を拡大させていこうとするとついついあれもこれもということで方向が拡散しがちになる(実際、これまでも何度もそういう議論をするたびに、もっと隣接領域のビジネスまで幅広くやるべきじゃないのかという話が出ては消えていた)が、少なくともこれで事業領域についての堂々巡りの議論に明確な線が引かれた、と感じることができた。

 すると、そこで彼が再び質問を投げかけた。「この新しいミッション、ビジョンをもし具体的な成果目標として設定するとしたら、どのような数字であるべきだろうか。我々は質と量、どちらを優先して追求すべきだとみんなは思う?」 これにも全員がいろいろな意見を言い始める。「自分は自分で質の維持できると思える仕事しか受注してこないようにしている」「質を落としたら量なんか取れっこない」「いや、量がないのにいくら質の良さを叫んでも、世の中が我々を認めるだろうか?」「まず量を追求して、質は仕組みで担保すべきだ」等々…。

 彼がそれを引き取る。「仕組みで担保、いい指摘だ。みんなの言うとおり、量と質、もちろんどちらも大切だが、我々の仕事の質は、受注した後に仕組みとして作り込み、維持していくべきものだ。まず受注がなければ仕組み作りも始まらない。俺は、その意味で量をまず追求したいと思う」。そして次のスライドが投影される。皆、そこで息を呑む。

 そこには、「今後×年間で××万人を我々の顧客にする」と書かれている。すごい数字だ。今の事業規模を単純に倍にしても追いつかない。彼がその数字の根拠を説明し始める。確かに正論だ。今まで話し合ってきたビジョン、ミッションから言えば、このぐらいの数字を目標に掲げなければ嘘になる。そして最後に彼は質問した。「みんな、どう思う?」

 指名されて、何人かが「目標は理解できるが、それは現状の体制から言ってかなり難しい…」的なことをつぶやく。確かに、今の事業内容の延長線上でこの数字は到底実現不可能だ。しかし、役員の彼はそんな反論が出てくることはとっくに承知の上でこの話を持ち出してきた。しかも、周到なステップを踏んで。

 「この数字と今の我々の現状にはもちろん、大きなギャップがある。それは恐らく目標期間内に何らかの大きなイノベーションを起こさなければ実現できない。でも、それをやろう。でなければ我々のミッション、ビジョンに偽りがあると言われても仕方ない」。そう力説されれば、聞いている側もだんだんと「この目標、達成はかなり困難だけど、挑戦のしがいはありそうだな。いっちょやってやるか」という気になってくる。少なくとも、自分たちがさっき意見を言い、納得したミッションとビジョンから導き出された数字だけに、「できない、やりたくない」とは言えない。

 「実際にどうやればいいかは、今後みんなでさらに深く話し合っていこう」と彼が締めて、ミーティングが終わった。うまく言えないが、この役員のやってみせたことこそ「リーダーシップ」の(全部とは言わないが)最も重要なポイントだと思った。

 「野心的な目標を掲げるのが理想的なリーダー」っていうのはよく言われる話だけど、僕が言っているのはそういう意味じゃない。無茶な目標をぶち上げることなんか、誰だってできる。野心的な目標を、自分ではなくて現場の人間から引き出して掲げさせ、当然同時にやる気にさせるのが、たぶん本当のリーダーなのだ。

 宮崎氏が『技術空洞』で批判している出井氏も、95年に就任して98年に絶頂に上り詰めるまでは、ソニー社内からも絶大な評価を得ていたと書かれている。たぶん、その時点では彼は大賀時代の負の遺産を覆い隠しつつ、「現場の人間をやる気にさせる」非凡なリーダーだったのだろう。ただ、あの当時すでにそうした出井氏のギミックを見抜き、「ソニーは市場を騙している」と激烈な口調で出井氏を批判する株式アナリストも、少ないながらも確実に存在した。

 ネットバブルが崩壊した2000年、ソニーの株価は暴落したとはいえ、出井氏個人の名声はまだ揺るいではいなかった。あのタイミングで大賀氏の禅譲を拒み、「経営陣の若返りを図る」とか言いながらスパッと社長を退任していれば、「名経営者」としての出井氏の評価は永久に揺るがぬものになっていただろう。しかし彼はそうしなかった。思えば、あの頃から出井氏は、自分で必死に演出したはずの幻想を自ら信じ始めてしまったのではないだろうか。つまり、現場をやる気にさせられなくなり、リーダーシップを失ったのではないか。そんな気がする。

 あと、もう1つ思ったこと。ソニーの出井氏があるときには非凡なリーダーだったが、その後リーダーシップを失ったということを、不自然に思う人がいるかも知れない。彼は優秀なリーダーだったのか、そうでないのか、はっきりさせろというような。世の中何でも白黒つけたがる人というのは必ずいるものだ。でもそういう人はリーダーシップというものに関して1つの大きな誤解をしていると思う。

 米国のウォーレン・ブランクというコンサルタントが、「リーダーシップは固有の能力から生じたり、継続的な状態として存在するものではない」という趣旨のことを言っている。世の中というのは何にでも慣性の法則が働くので、経営者として褒めそやされた人ほど自分にそういう「能力」が備わっていると思いがちなのかも知れないが、実際のリーダーシップとは「瞬間的な出来事」のようなものだ、というのがブランクの言い分だ。そして、「旬」の時期というのは本当に短い。自分がリーダーとしての「旬」を過ぎた、という予感がしたら、さっさとリタイアしてまたリーダーになれる新たなチャンスを探す、というのが正しいように思う。

 リーダーとは自分で何かを言い出す人なのではなく、部下から何かを引き出す人のことである。また、リーダーシップとは能力や継続的状態のことではなく、ある瞬間の出来事のことだ。僕が宮崎氏の『技術空洞』を読んで感じたのは、そんなことだったように思う。ああ、結局何が言いたいのかよく分からないエントリになっちゃったな。ま、いいか。

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2006/04/16

書評:「グーグル 既存のビジネスを破壊する」

グーグル Google 既存のビジネスを破壊する すでに小飼弾氏のブログおよびpal氏のブログで書評がアップされている佐々木俊尚氏の『グーグル 既存のビジネスを破壊する』を発売前に入手して読むことができた。月並みな言い方だが、読む価値は大いにある面白い本だと思ったので紹介したい。

 小飼氏も述べている通り、この本は単独で読んでも十分面白いし理解しやすいが、できればpal氏がやったように、梅田氏の『ウェブ進化論』と読み比べるのが一番良いと思う。本としての体裁については、小飼氏の『「ウェブ進化論」が、「“あちら側”から“こちら側”へのメッセージ」であるならば、本書は「“あちら側”にも“こちら側”にも属さない一ジャーナリストによる、“あちら側”がもたらす“こちら側”の変革レポート」となっている』という評が最も的確と思うが、『梅田氏が「ウェブ進化論」では割愛したGoogleの側面を過不足なく伝えている』というのはちょっと違うと思う。2冊ともGoogleという巨象をなで回した2人の著述家がそれぞれの考えを述べているに過ぎないのであって、全体を見ることができないGoogleに対して今「過不足なく」述べることができる人など、世界中どこを探しても存在するわけがないからである。

 この2冊の本から読みとれる産業論とかビジネス論については、pal氏がほとんどネタバレのレベルまでこってりと書いてくださっているのでそちらをお読みいただくとして、僕自身の感想と、あとこの本を「読むべき」とオススメする理由を述べておく。

 まず感想だが、2冊とも同じ対象について語っているにもかかわらず、梅田氏の『ウェブ進化論』とあらゆる意味で対照的なのが面白い。それは本の体裁もそうだし、小飼氏も指摘しているように販促のためのマーケティングもそうだ。だが最も特筆すべき対照性は、その文章の構成である。

 『ウェブ進化論』は、まず最初に梅田氏がこれまでの多くの論考からぎゅーっと絞り出した「インターネットの3大潮流と3大法則」という抽象的な結論が提示され、その論拠としてブライアン・アーサーの技術革命史観、「こちら側/あちら側」や「テクノロジー志向/メディア志向」、「パレート法則/ロングテール」といった二項対立的なフレームが並び、事実がそれらに沿って整理されていく。いわば、経営コンサルタントが使う典型的なプレゼンテーションの手法なのである。

 このタイプのプレゼンは、抽象的な結論が非常にすっきり頭に入ってくる一方で、そこに梅田氏の中であまりに見事に整理された構図だけを見せられるがゆえに、疑り深い人は「本当にそうなのか?これらの事実は、梅田氏が自分の説に都合の良いように選り分けたのではないか?」という疑念もよぎったりする。

 一方、佐々木氏の『グーグル』は、グーグルニュースの日本上陸という一年半前のシーンから始まる。大手から地方紙まで日本の新聞社が取った対応とその意図、中でも読売新聞の戦術について関係者の証言を交えた生々しい経緯が説明され、グーグルが既存のマスコミのビジネスを破壊する存在であることが明らかになる。そして、たたみかけるようにそれ以外の領域でもグーグルが既存のプレーヤーの脅威となるような動きを見せている事実が並べられ、その上で「なぜグーグルはこのような破壊をするのか?」という問いかけを立てる。書籍の後半は、この疑問に答えていくために、さらに様々なファクトが次々と並べられていく。つまり、ファクト→意味づけを繰り返して真相に迫ろうとする、伝統的なジャーナリズムの文章作法そのものだ。

ザ・サーチ グーグルが世界を変えた 両書とも、内容の3~4割はネットの中でさんざん議論になったことのまとめや、ジョン・バッテルの『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』あたりに書かれていることの引用だったりするので、言っていることも実は結構重複していたりもするのだが、それでも読んでまったく違う印象を受けるのは、そのプレゼンテーションのスタイルが正反対だからだ。

 僕自身は、職業上この2つのプレゼンのスタイルを両方とも習得せざるを得なかったのでものすごくよく分かるのだが、この両方ともにそれぞれメリットとデメリットがある。小飼氏がいみじくも書評に書いているが、『どちらが共感しやすいかといえば「ウェブ進化論」だが、どちらがレポートとして信用に足りるかといえば、(佐々木氏の)本書である』ということになる。つまり、メッセージ性を持たせたいならテーゼ→「例えば」→ファクト、信頼感を高めたいならファクト→「なぜ?」→テーゼ(意味)という流れでものを言うといいわけだ。

 佐々木氏の本は、『ウェブ進化論』的なコンセプトを誰かに(胡散臭い営業トークのようにではなく)一定の信頼感を持たれるような語り口で説明したい、あるいは「現在のネットの潮流が実際にどんなビジネスにどんな影響を与えるのか、より実感を持って知りたい」と思っている人が買って読むと良いだろう。あと、仕事でコンサルタント的なプレゼン技法しか学んだことのない人にもぜひ読んでもらいたいと思う。

 この本の中には新聞社、駐車場サービス、町のメッキ工場などの、日本人にとって身近で親しみ深い人々が、Googleの登場で生活や商売にどんな影響を受けているのかが、実に生々しく描かれている。それは希望でもあり絶望でもある、つまり「生の現実」だ。だからこそ、そこから「なぜ?」で導かれるテーゼの方が、事実を単に都合良く切り張りして並べたように見えるコンサルタント的文章よりも、ある種の説得力を持つのだ。

 とはいえ、『グーグル』にも弱みはある。「なぜ破壊するのか?」という問いに対する明確な答えとしてのGoogleの「意思」の分析が、ここには書かれていないのだ。あえて言うなら「Googleにとってその方が儲かるから」というレベルの答えしかない。梅田氏は、それに対して「Googleにはビジネスの功利以上の何かを追求する、明確な意思やシステムがあるはずだ」と考えて、それが何か、どのようなインパクトのあるものかを一生懸命明らかにしようとしている。こうしたより深い経営学的な考察が、残念ながら佐々木氏の『グーグル』には欠けている。

 その意味で、身近な社会で起きていることの実感を伴った理解のためには『グーグル』の方が向いているが、一方で「ネットの司祭」の持つ根源的な可能性やその意思を深く深く考えたい人にとって、『グーグル』は『ウェブ進化論』を何ら超えるものではないと言っても良い。

 個人的には、『ウェブ進化論』にGoogleを使うことで生活や商売を根本から変化させた日本の中小企業や個人のルポルタージュが1つでも入っていればものすごく説得力が出たと思うし、逆に『グーグル』に実際のGoogle内部の技術者や経営者へのインタビューと、そこから読みとれる彼らの「意思」みたいなものへの突っ込んだ分析があれば、『ザ・サーチ』以上の本になったと思うが、百数十ページの新書ごときにそこまで求めるのは欲張りというものかも知れない。いずれにせよ、2冊とも読む者にそこまで欲を募らせる名著であることには変わりないと思う。

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2006/02/14

書評「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる」・下

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 前回の書評の最後に「明日続きを書く」と言っておきながら放置モードに入ってしまったのはいくつか理由があって、一つは仕事が猛烈に忙しくなった(正確に言うと梅田氏新著出版イベントに出るために棚上げしていた膨大な仕事が棚から崩れ落ちてきた)、一つはあと何回書けばこの話が終えられるのかが自分で分からなくなっていた(笑)。もう1つは、イベントをきっかけにいろいろなブログで論評が書かれていたので、それらを読みながら考えを巡らせていた。

 今も棚の上の仕事が全部無くなったわけではないので、実はこんなことを書いているヒマはないのだけれど、書くと言っておいて書かないとまたまた後でいろいろな厄災が降りかかってきそう(笑)なので、もう見切り発車で続きを書いておく。

 前回、「Googleの本当の功績とは、ネット上での情報の組織化の効率性を現実世界よりも高めるイノベーション競争に火をつけたことだ」と書いた。梅田氏の言葉で言うと「ネットのこちら側からあちら側へのシフト」だ。

 これに対して明確に「それは違う」という反論は、(Googleのやり方が好きかどうかはともかくとして)イベントから1週間たった現在でもまだ出てないようなので、まずはネット住民の共通理解になったと思っていいのだろう。で、問題は「だから、何なの?」ということだ。それがどういう意味合いを持っているのか。マスメディアを解体するのかしないのか、僕らの身近な社会を変えるのか変えないのか。

 実を言うと、イベントの席上で僕は梅田氏がそういう(マスメディアは滅びる、的な)論を展開するだろうと思って、「ネットのあちら側にすべてが移るわけではない」という論を、前日にいろいろな角度から反論を検討し、身構えていた。だが、いざ始まってみると、梅田氏はいきなり「マスメディアには何も起こらない」というベタな話を始めたので、慌てて僕は議論を面白くするためにと、あべこべにネット革命論を展開するはめになってしまった。

 結果として、「ネットに対する世代ごとの意識差を浮き上がらせる」という梅田氏一流の戦略的トラップに見事はめられたなあと思った。まあ、それでも皆さんが面白がってくれたなら良かったのではないかと。

 Googleの起こしたイノベーション競争の意味するところ、つまり「だから、何なの?」の部分に関しては、1つはファッションライターの両国さくらさんのブログが、僕の言いたかったことについてだいたいまとめてくれている。

 ファッションという、感性の領域の現場にいるライターさんから見た「生き残るオールドマスコミとそうでないもの」の区別が、面白い。彼女によると、ネットに単純に収斂しそうにないカテゴリーとして「外資系ラグジュアリーブランド、芸能人、スポーツ」という3種類のコンテンツが挙がっている。これらのコンテンツを扱うメディアは、ネットにはシフトしないだろうという。鋭い指摘だ。

 この3つのコンテンツに共通するのは、たぶん「絵(画像・映像)で見なきゃ分からない、面白くない」「言葉で説明しきれない、フィーリングがある」「情報提供元が一極に集中しており、しかも彼らがメディアチャネルごとの情報の出し方を強くコントロールしている(したがっている)」みたいなところじゃないだろうか。

 思うに、上記3種類のコンテンツを扱う以外にも生き残るメディアはいくつかあると思うのだが、いずれもこの3つのポイントを押さえられているということが条件になるだろう。

 なぜこの3つのポイントが押さえられれば生き残れるのか。それは、これらのポイントが「Googleの死角」だからだ。Googleは「現実世界よりも効率的に情報のマッチングができる空間をネット上に作った」と、前回僕は書いた。しかしこのマッチングの対象となる「情報」とは、テクノロジーであったりビジネスアイデアであったり、いわば「言語化」できるものの領域である。

 Googleの弱点は、(確か梅田氏も書籍のどこかに書いていたと思うが)「自然言語解析」のテクノロジーで対応できない領域、つまり理知的じゃない領域の話だ。

 で、世の中に飛び交う「情報」というもののうち、左脳的、理知的な内容のものって実は割合としてそんなに多くないような気がする。「外資系ラグジュアリーブランド、芸能、スポーツ」のどれにもほとんど興味がないので、僕自身はあまりそういう実感を持たないのだが、ネット上のトラフィックを見ているだけでもそれは言えるだろうと思う。

 まして、現代の情報消費社会は人間が本来必要とするレベルの何倍、何十倍もの情報が身の回りにあふれるところである。それだけの情報を流通させようと思ったら、それが「真実」かどうかなんてぶっちゃけどうでも良くて、限りなく嘘でもいいから「面白い」「快い」情報を次から次へとでっち上げるしかない。受け取る側も、真実ではないことを薄々理解しつつ「でも面白いからいいや」と割り切って情報に接する。

 その意味では、「電車男」なんてまさにそういう「右脳的コンテンツ」の典型だろう。あの話そのものは確かにネットから出てきたかもしれないが、「面白い」と思われた瞬間に既存のメディアチャネルでこれでもかと取り上げられた。あれを見ていると、マスコミが本当のところどういう“情報”を常日頃から欲しているのかがよく分かる。

 そういう右脳的、感情的なコンテンツをうまく扱えるマスコミは、メディアとしてちゃんと生き残ると思う。逆に言うと、メディアとして生き残りたければ右脳的、感情的なコンテンツをうまくコントロールできるようになってなければいけないんじゃないかな。

 むしろ、ネットを使ったビジネスを考えている人が、これから完全なオープンネットの領域で何かしようとするのは、もう止めた方がいいと思う。この前もある人が「著名ブログの執筆者にご協力いただき、ブログを使った新しい広告ビジネスを始めたいのだが」と相談に来られたが、「今からブログなんておやめなさい」と忠告した。

 ブログすなわちGoogleワールドの原理というのは、Google様の指先1つでビジネスのルール変更が可能な世界なのである。そこに会社としての基盤を依存するなんて、どう考えても正気の沙汰ではない。もちろん、それでも何かあるかもしれないと思ってチャレンジする「はてな」のような会社には男気を感じるし、がんばってほしいと思うわけだが、少なくとも既存のビジネスでそれなりのボリュームを持っている「失うもののある」企業が、オープンネットの世界に今から挑むなど、戦略的にあり得ない選択肢と断言しても間違いないだろう。

 むしろチャレンジすべきだと思うのは、同じデジタルでもGoogleによって「組織化」されてないメディアや情報の領域だ。Podcasting、SNSなんかはその例だろうし、今密かに注目を浴びているのは「企業内(イントラ)ネットワーク」だったりする。あと、僕が個人的に非常に関心を持っているのは、映像メディアの領域だ。映像というコンテンツが、どのような要素によって視聴者に感情的な影響を与えるのかを何らかのメソドロジーで解析することができないかというのを、最近ずっと考えている。

 なにしろ簡単に言語化できない領域の話なので教えてくれる人がいるのかどうかも分からず困っているのだが、たぶん映像の与える感情への影響が分析できるようになれば、つまり本当の意味で映像という表現形式を駆使したコンテンツを自分の手で作れるようになれば、かの「Googleワールド」から逃げる時間を稼げると思うのだ。

 そんなわけで、このテーマについて何か良い資料、情報源等をご存じの方はぜひ教えてください。マスコミってこういう「コンテンツのノウハウ」が極端にシステム化されてない領域だからな~。やっぱりテレビの現役ディレクターさんなんかに会って、直接いろいろお話を聞いたりしたほうがいいのかも…。

(ちなみに筑摩書房の福田さんから昨日メールで「書評の続きも楽しみにしてますからね!」と激しいプレッシャーをかけられたのはここだけのヒミツだ。あの方は本当に優秀な編集者だ…梅田さんも大変だったろうな)

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2006/02/07

書評「ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる」・上

 この本は、おそらく梅田氏が日本に来るたびになんども口を酸っぱくして説明している日本のエスタブリッシュメント層の人々、なかんずく大手メディア企業の幹部を想定読者として書かれたものだろうと思う。内容が過去3~4年ぐらいの間に梅田氏によって書かれたウェブや雑誌での連載、講演などをまとめたものであることや、あとがきの語り方からもそれは見て取れる。つまり、少なくともネットで梅田氏のブログや講演録をリアルタイムで読んでソーシャル・ブックマークしているようなネット住民たる僕たちに対して書かれた本ではない。

 ウェブの世界(とそれに絡むビジネス、広い意味での情報産業)において、今何が起きているのかがどうしても分からないという方々にはまず無心にこの本を読んでいただくのが一番良いと思う。僕ごときがくどくど言わなくても、ここにもっと分かりやすい言葉で書かれているからだ。で、僕たちウェブの世界にどっぷり浸かっている人間が考えなければならないこと、それは「この本に何が書かれていないか」ということである。

 一言で言うと、この本は「Google論」だと思う。Googleがどういう会社であるか、どんなパラダイム・チェンジをウェブの世界(とそれに繋がる情報社会)に引き起こしたのか、それがどのような思想的な特徴を持っているのか、そういったことが最新のキーワードをちりばめつつ書かれている。

 しかし、僕の目から見ると、ある非常に重要な1点のことが、なぜかこの本には書かれていない。正確に言うと、話が何度もそれに近いところまで接近するのだが、なぜかその1点を明言せずに通り過ぎてしまうのだ。梅田氏が自分のビジネスにもかかわることであるがゆえにあえて外しているのか、それとももっと別の理由があるのかは分からないのだけど。

 書かれていないこととは、Googleの本当の功績が、「ネット上での情報の組織化の効率性を現実世界よりも高めるイノベーション競争に火をつけた」ことにあるという点だ。

 90年代のインターネットブームが教えたことを、梅田氏は「ネットでは(世の中に革命的なことは)何も起こらない」だった、とまとめている。この総括は厳密には正しくない。90年代のインターネットブームでビジネスの人々が学んだのは「ネットはそれ自体でビジネスを完結させない(させにくい)が、現実のビジネスの強力な支援ツールになる」ということだったからだ。つまりこの時点では、インターネット(の少なくとも主流)はエスタブリッシュメントの掌中にある、と思われていたのである。

 このことは実はネットバブル崩壊などと関係なく、シリコンバレーという地域経済モデルを研究したことのある人なら分かっていたことだった。シリコンバレーの強みとは、無数のベンチャー企業やエンジニアの生み出した技術の「順列組み合わせ」をものすごいスピードで試行錯誤できることだった。そこにぶちこまれた技術は、必ずしも最先端のものばかりでもなかったが、万に一つの面白い組み合わせから巨万の富を生み出すビジネスが生まれる可能性があると、みんなが信じていたし、実際にそういうビジネスがたくさん生まれた。

 だが、実際の順列組み合わせを実現させているのはエンジニア同士の人的なつながりだったりベンチャー・キャピタリストだったりと、「ネットの外側」の原理だった。シリコンバレーの中は「るつぼ」でも、その外にこぼれ出てくるものはあくまで順列組み合わせの済んだ、完成品のビジネスだったわけだ。それは、ネットがそもそも技術同士、あるいは技術とビジネスの無数のマッチングを試みるための場(プラットフォーム)としては、シリコンバレーのカフェやベンチャー・キャピタリストの電話帳リスト、「サンノゼ・マーキュリー」などのマスメディアなどに比べると、全然不十分だったからである。

 「インターネット技術のイノベーション」と言いつつ、実際のイノベーションのスピードはカフェ・サロンや友人のネットワークに依存するという矛盾が、2000年のインターネットバブル崩壊の遠因だったと、僕は思っている。

 ところが、Googleとブログが登場したことによってこの様相が根本から覆った。そのことに多くの人が気づいたのは、たぶん2003年頃だったと思う(ここは梅田氏も指摘しているとおり)。個々の技術者やビジネスマンの持つ、無数の技術とアイデアの順列組み合わせ、つまり「情報の組織化」が、ある日突然現実世界を介さずともネット上だけで効率的にできることを、人々が発見してしまったのだ。

 ここで初めて「ネット上で完結するビジネス」というのが出現する。これはECのことではない。楽天などのECモデルは、顧客とモールの商取引はネットで行われるかもしれないが、店舗の運営や商品のデリバリーには現実世界のビジネスが介入する。だからこそ楽天のモールビジネスはネットバブル崩壊にも強かったし、これまで着実に業績を伸ばしてきた。

 ところが、ビジネスにおいて最大の課題である「売り手と買い手のマッチング」が、どのような規模でもネットの中だけで効率的に行われるとなると、あらゆる商行為がすべてネットで完結するようなビジネスが爆発的に増える。それがAdsenseのような広告ビジネスであったり、さまざまなWeb2.0的サービスであったりするわけだ。

 個人的には、Googleは「ひとりシリコンバレー」だと思う。梅田氏の本を読んで、ますますその意を強くした。社内に5000人ものPh.D取得者がいて研究開発を行っており、情報共有をしてイントラネット上で「順列組み合わせ」を試す。いけると直感したら小さなチームで猛スピードの開発を進め、それらの中から「マーケットにインパクトがありそうなもの」を順番に“上場”(サービスリリース)していく。

 これって、「シリコンバレー」の仕組みそのものではないか。かつて多くの技術者とキャピタリストが集まっていたサンノゼのカフェは、今やGoogleのイントラネットの中、そしてGoogleが提供するインターネット・アプリケーションのプラットフォーム上に移ったのだ。恐ろしいことである。

 …というわけで、話がまだまだ長くなりそうなのでとりあえずはここまで。明日、梅田氏がこの本に書かなかったもう1つのことについての続きを書きたいと思う。

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2005/11/19

【書評】スティーブ・ジョブズ-偶像復活

スティーブ・ジョブズ-偶像復活 既にあちこちで告知され始めてますが、どういう経緯でだかよく分からないうちに今月のET研「アップルコンピュータ」にパネリストとして出席することになりました。なんつーかものすごいミスキャスティングな悪寒。だって確かにエントリは何本も書いたけど、自身は未だにiPodを持っておらず、それどころかアップルを取材したことさえこれまで1度もない僕がアップルについていったい何を語れるのだろうか。はなはだ心配。

 このままだと渡辺さんが呼んだもう1人の相方パネリストの方に木っ端微塵に撃破されるのではないかと思い、不安の余り11月5日に発売されたばかりの「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」(ジェフリー・ヤング、ウィリアム・サイモン共著、井口 耕二訳、東洋経済新報社)を取り寄せて死にものぐるいで読んでみました。ET研の参考になったかどうかは自分でも分からないが、とりあえず感想をまとめてみる。

 こういうイベントの事前準備というプレッシャーがなければ、この本は本当に面白いものだったに違いない。いや、実際のところ激しく面白い。当たり前だ。スティーブ・ジョブズについて書いた本は、 何だって面白いに決まっているのである。スティーブ・ジョブズ自体が面白いんだから、当然なのだ。

 付け加えて言うと、僕の大好きなピクサーについても、その成立初期からIPO、「Mr.インクレディブル」の公開に至るまでに社内でどんなことがあったか、事細かに書かれている。これを読むと、「Mr.インクレディブル」のDVDの特典映像の中に、さんざんピクサー社内の風景やジョン・ラセターを初めとするスタッフの紹介がされているにもかかわらず、CEOのジョブズについてだけまったく姿が見えず、その存在がヒラのスタッフの「CEOは僕らに何でも任せてくれて、自由にやらせてくれているよ」という一言でスルーされているのがなぜなのかも、とてもよく分かる(笑)。スタッフ全員が、彼について極力触れたくないのだということが。

 元マイクロソフトの古川享氏もブログで3回ほどこの本について言及しているが、そこでもさらに披露されている、日本でのジョブズの恐ろしいエピソードの数々。古川さんに限らない。彼について語った本、ブログ、雑誌、その他あらゆるものはジョブズのイカレたエピソードでてんこ盛りになるのである。誰が見ても彼はキチガイなのだ。そして、そのキチガイがビル・ゲイツに次ぐ大金持ちであり、しかもビル・ゲイツにも成し遂げられなかった数々の成功と名声を得ているというその事実自体が、世界最大の不思議の1つなのである。

コンピューター帝国の興亡 ちなみに、僕が最初にジョブズについて書かれた本を読んだのは、いにしえのアスキーから出版された名著、「コンピュータ帝国の興亡―覇者たちの神話と内幕〈上〉」「同(下)」(いずれもロバート・X. クリンジリー著)という2冊の本だった。1993年に発売されたこの本は、1975年に世界初のパーソナル・コンピュータ「Altair(アルテア)」が作られて以来、コンピューター産業というものがどのような人たちによって作られ、どう発展してきたのかを、ユーモアたっぷりの筆致で余すところなく描いた傑作である。この中でもスティーブ・ジョブズはとにかくボロクソに書かれている。最近、「上司は思いつきでものを言う」といったタイトルの本が確かヒットしていたようだが、ジョブズは「常に思いつきでクビを言い渡す」タイプの経営者である。よくこんなむちゃくちゃな人格破綻者が経営をやれるものだと呆れるが、常軌を逸した人格破綻者でもカネさえ握ればあらゆる権力が握れるのが資本主義国米国の良いところ(恐ろしいところ?)である。

 そんなことはどうでもいい。で、僕がこの本を読んだ理由は、そういうスティーブ・ジョブズという人間のキチガイぶりを堪能するためではない。そんなことは10年以上前から知っていたし、どうでもいいことだから。大事なのは、iPodとiTunesという大ヒット商品を出したAppleがいったいどこに向かおうとしているのかという、11/27のET研のテーマに対するヒントを知るためである。

 これまたApple Fellowsの1人であったアラン・ケイの有名な言葉「未来を予測する最も優れた手段は、それを創り出すことである」という言葉に、今も昔ももっとも忠実な企業とはやはりAppleだろう。この本でも述べられているように、「歴代CEOの中で、暴れ馬のようなAppleという企業を御し得たのは後にも先にもスティーブ・ジョブズその人しかいなかった」。それは常軌を逸したマイクロ・マネジメントと、それが誰のものだろうと未来を創るのに必要な成果は必ず奪い取ってくるのが、ジョブズという経営者の、そしてAppleのやり方だからである。Appleという会社は何があってもジョブズの持つキャパシティよりは大きくならないだろうが、当のジョブズがどこまで大きくなるかはたぶん世界中の誰にも想像がつかない。きっと彼を止められるのは、寿命という名の自然法則だけだろう。

 この本の著者であるヤングとサイモンは、2005年時点のジョブズが目指しているのは「コンピュータ業界の覇権をビル・ゲイツから奪い返すこと」だと指摘している。現実問題としてそんなことが可能かどうかは分からないが、70年代からジョブズの回りを取り巻いている「現実歪曲フィールド」からすれば、それはあながちあり得ない話ではなさそうだ。そして恐ろしいことに彼の回りの現実歪曲フィールドは、時々その歪曲を世界全体に敷衍してしまうことがある。これからも、もしかすると神のいたずらによってそういうことがまた起こるかも知れない。

 現実歪曲フィールドの行き着く先のことは分からないが、少なくとも80年代よりも今の時代のほうが、ジョブズの持つ「マイクロ・マネジメント」の魔法の力が威力を発揮する場が増えているということは事実のような気がする。そしてそのことをジョブズ自身が割とよく分かっているのではないかと思う。

 Appleを、Microsoftのようにロジカルな事業戦略に基づいて動く会社として理解しようとすると、大きく予測を誤ると思う。だが、彼らがたどり着くところは、やはり常にその強みが生きるロジックが存在する場所であることは間違いなく、そしてスティーブ・ジョブズという経営者は、そういう場所を嗅ぎ当てる能力、そこに漂着する運の強さという意味では世界に並ぶ者のない人物でもあると思う。来週のET研では、そうしたことを念頭に置きながら議論に参加してみたい。ご興味のある方はぜひご参加ください。

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2005/10/14

インタビューする技術

アルファブロガー なんか企画元のFPNをはじめ出演者、編集協力者入り乱れて宣伝されまくっているので、今さらAmazonアフィリエイトのリンクなど張ってももはや誰もここからは買ってくれないだろうと勝手に諦めたりしている「アルファブロガー」の本(と言いつつ一応アフィリエイトリンク)。何も触れないのも不自然だしなー、どーしよー。本のインタビューを受けた感想でも書いておくか。

 僕のインタビューを担当してくださったのは、本では徳力さんのクレジットになっているが、実際には3分の2かそれ以上渡辺さんだった。渡辺さんとは以前にも2人だけでネットやメディアの未来とかのディープな話題で2~3時間話し込んだりしたことが数回あり、こちらの手の内はかなりばれている。ので、まあ今回はきっと身ぐるみ剥がされるんだろうなあと思って四谷の翔泳社に行ったら案の定2時間で身ぐるみ剥がされました(笑)。

 僕の出てるパートは前に織田さん、後ろに磯崎さんと錚々たるメンツが並び、いったいここで1人だけ顔隠して後ろ向いて背中で語ろうとしてるイケてない男ダレこれ?みたいな感じでちょう恥ずかしい。ま、それはどうでもよくて、僕が今回感心したのは渡辺さんのインタビュアーとしての卓越した能力の方だった。

 これまでずっと自分がインタビューする側だったので、どういうふうにインタビューの質問をぶつけるかということは自分なりの手法では必死に考えて10年ぐらい過ごしてきたつもりだし、今でもマスメディア出身じゃない人と一緒に誰かにインタビューをしに行くとよく「話を聞き出すのが絶妙にうまいですね」とか感心されたりするのだが、もはや自分でもなぜそういう絶妙な質問を繰り出せるのか形式知化できないぐらいに体に染みついてしまっていて、あるいは自分が絶妙なのかそれとも大して絶妙でもないのかさえも判断できないようになってしまっていて、褒められても感心されても嬉しくない。

 一方、インタビューを受ける側の経験というのももちろんしてきてはいるのだが、なまじ自分が相手をうまく調子に乗せてしゃべらせる能力をそれなりに持ってしまっているので、ああこの人はこっちがしゃべろうかどうしようか悩んでいたことまで全部引っこ抜いて持っていきそうだ、と思わせるようなムードを醸し出してもらえたインタビュアーというのはこれまでほとんど会ったことがなかった。

 ところが、今回の本のインタビューは、そのあたり渡辺さんに見事にしてやられたなという印象である。上がってきたゲラをざっと通読してうちのカミサンが一言、「このインタビューした人、誰?すごい人ね」と感嘆の声を上げたのだから間違いはない。ネットとメディア、という最近おきまりのネタではあるが、R30の本音をここまでしゃべらせてしまうインタビュアーというのは、分野は違えど似たような文筆の仕事をしているカミサンから見てもやはり凄腕に見えたようだ。

 もちろん、聞き出した内容や雰囲気がビビッドなままにうまく読み手に伝わるように原稿を書く能力というのもこれはこれでまた別に必要なのではあるわけだが、インタビューというのは、さすがに相手がしゃべってもいないことを書くわけにもいかないし、いくら鉛筆なめがうまくてもそもそもの素材(つまりテープ)がつまらなければ飾り立てるにも限界がある。というわけでこの本のR30インタビューの面白さは、やはり渡辺さんの卓越した「口滑りを誘発する」能力のゆえかなあと。

 思うに、自分がしゃべろうかしゃべるまいか悩んでいたこと、あるいはしゃべるまいと思っていたことをしゃべってしまうきっかけというのは、やっぱり今一番頭の中にこびりついている問題認識、考えなきゃと思っていることについてネタを振られるというか、それを引き合いに出して語らざるを得なくなるような質問をされることなんだろうと思う。

 人によってはそういう問題意識ずばりそのものを突っ込まれると、警戒して貝のように口を閉ざしてしまう人もいる。だからそのものずばりではなく、そこから微妙にずれたところをくすぐらなければいけない。インタビューは、この微妙さ加減が難しい。1時間という時間を無難に過ごして出て来たいなら、へらへら笑いながらおべんちゃらを言いつつ話を聞いていればいい。だけどそれでは表面的な話以上は聞けない。だからやっぱり相手が一番悩んでいそうな部分をぐさっと刺さなければいけないのだ。

 「アルファブロガー」の本の中で、僕が質問に対してきちんと答えられていないというか、ぬるい答えを返して終わっているところがいくつもある。そこは、まさに渡辺さんの質問が核心を突いていて、非常に苦しかったところだ。そしてそれこそが、これからのブログやネットの夢だったり課題だったり可能性だったりする部分でもある。

 僕自身まだ全員のインタビューを読んだわけでもないが、この本は単に2004年末の日本で有名だったブロガーを11人集めましたというアイドル名鑑のような本ではなく、近江商人JIN氏が言うように「ブログ、SNS、Web2.0、これから10年のインターネット」を11の視座から多面的に考えることのできる、ものすごく刺激的な思考実験の本になっていると思う。僕が見た範囲だけでも結構なボリュームがあるので、これで1600円というのは(収録されている人の顔ぶれだけでなく、編集に携わったメンバーの労力から言っても)かなりお買い得な本ではないだろうか。

 購入される方は、ぜひ僕以外の10人のブロガーがどんなことに悩み、希望を見つけ、行動しようとしているのかという、個人のダイナミズムに注目して読まれることをお勧めしたい。きっと得るものがたくさんあるはずだ。僕のところは質問文以外読まずに飛ばしてもらえると、なおありがたい。

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2005/08/18

書評:「中村邦夫 『幸之助神話』を壊した男」

中村邦夫 『幸之助神話』を壊した男 7月末から8月のお盆にかけて、夏休みの読書と思って4冊ぐらい本を読んだ。その中の1冊を、ご紹介しておこう。「中村邦夫 『幸之助神話』を壊した男」(森一夫著・日本経済新聞社)である。内容についてはここではとやかく紹介しない。リンク先のアマゾンのエディターズ・レビューでも読んで下さい。全然エディターズ・レビューになっていないというか、単に内容を要約しているだけの記事なので。

 実は僕自身、かつての記者時代に松下電器の「創生21」改革やその前史については相当深く取材したことがあり、中村社長を始めこの本の中に登場する過去・現在の松下電器グループの経営トップの方々の多くとも1度どころか何度も実際にお会いしてお話しさせていただいていたので、正直なところこの本に書いてあることの半分以上は既知の話だった。

 しかし、その僕にとってもこの本はものすごくためになったと思う。それは、おそらく著者の森一夫氏が、この本を通じて「企業にとって戦略とは何か」ということを問い続けているからだ。実はこのこと自体が、いかにこの本に書かれている事実のほとんどを知っていたとしても、この本を一度は読む価値があると言い切れる最大の理由である。

 そして、著者が「経営戦略とは何なのか」ということを考え続けたということこそが、まさにこの本の主題である「中村邦夫とはいかなる経営者なのか」というテーマに対する答えでもある。それほど、中村邦夫という経営者は、周囲にいる者に「戦略とは何か」を考えさせる経営者なのだ。

 なぜだろうか。僕らは普通、明快な経営戦略とは、社員や取引先、顧客の誰にでも分かる明快なビジョン(理念)を打ち立てるところから出発する、と思っているからだ。その典型が、まさに松下幸之助であった、と森氏は言う。

 よく知られているとおり、幸之助は、家が没落したために小学校を中退し、火鉢店と自転車店の丁稚から身を興した苦労人である。だが、たたき上げの経営者には珍しく、原理原則を非常に重視した。
 (中略)著書『実戦経営哲学』(PHP研究所)の冒頭に「まず経営理念を確立すること」と書いている。「『この会社は何のために存在しているのか。この経営をどういう目的で、またどのようなやり方で行っていくのか』という点について、しっかりとした基本の考え方を持つ」ことから始めなければ、経営の健全な発展はないと言っている。
 (中略)創業から11年目の1929年(昭和四年)に「綱領」と「信条」を作る。(中略)どちらも、いかにもクラシックな社是社訓という趣で、読み方によっては単なるきれいごとに聞こえる。しかし、当時三四歳の中小企業の経営者が日々の仕事に追われながら、「社会正義」や「社会生活の改善」などを考えていたとは驚きである。
 そして、経営思想家たる松下幸之助が唱えたこの経営哲学は、日本中どんな中小企業に行っても「社是」「経営理念」といったものが額に入って社長室の壁に飾られているという、今の日本の姿を生んだ。

 しかし、中村邦夫という経営者が真にイノベーティブだった、もう少しひねて言えば「イノベーティブたらざるを得なかった」のは、まさにこの「スーパー常識」を、根本から覆したところにある。

 2000年6月に社長に就任した中村が、その経営改革「創生21」の最初に発したメッセージとは「創業者の経営理念以外には聖域を設けず、破壊と創造を徹底的に進める」だった。しかし、実際に中村が「21世紀に引き継ぐべき創業者の理念」として示した言葉は、わずか3つである。その3つとは「日に新た(常に革新的であれ)」、「企業は公器なり(すべての経営資源を効率的に使え)」、そして「企業は顧客のためにある(顧客中心主義)」だ。

 しかしよく考えてみれば、この3つは株式を上場している企業であればどんな企業にも言える原則だ。資本主義市場における株式会社の生存法則といってもいい。ぶっちゃけ「企業なんだから当たり前だろ、んなこと」のレベルの話であって、企業理念でもビジョンでも何でもない。これ以外全部変えていいというのは、つまりは文字通り「すべてまっさら」と言っているのと同じである。「まずしっかりとした経営理念を確立すること」と説いた幸之助の経営哲学に、根本から逆らっている。

 中村がなぜこのようなことをしたのか。森氏は、その原点が中村の87年から97年まで約10年間の海外勤務経験、なかんずくその時に目の当たりにしたIBMのドラスティックな変革にあるのではないかとしている。以下、再び引用。

巨象も踊る 93年、コンピューター業界の巨人として長いあいだ高収益を謳歌してきたIBMは、経営再建のためRJRナビスコのCEO(最高経営責任者)だったルイス・ガースナーを、会長兼CEOに迎えた。期せずして、松下の社長が谷井から森下に代わったのとほぼ同時である。日米両国を代表する企業のビジネスモデルがそろって時代遅れであることを告げる、象徴的な出来事だった。
 ガースナーは、最初の記者会見で興味深い発言をしている。著書の『巨象も踊る』(山岡洋一・高遠裕子訳、日本経済新聞社)によると、「皆さんに申し上げたいのは、今のIBMにもっとも必要ないもの、それがビジョンだということだ」と言って記者たちを戸惑わせた。
 「今最優先すべきは収益性の回復だ。会社のビジョンを掲げるのであれば、その最初の項目は、利益を出して、収益を回復することにすべきだ」。御託を並べているときではない。「ほんとうの問題は、市場に出ていき、市場で日々行動を起こすことだ」
 これらの言葉は、松下にもそっくりそのまま当てはまる。
 7年遅れて、中村はガースナーと同じことを松下に対して言ったのではないか。「ビジョンなど要らない。御託を並べる暇があったら、収益を回復すべし」と。

 「まず経営理念あるべし」という、松下幸之助によって打ち立てられた20世紀企業経営の「鉄の常識」は、ガースナーによって疑われ、中村邦夫という経営者によって完全に覆された。これは実はかなりショッキングな事実だと僕は思う。もし、企業の戦略が経営理念やビジョンから演繹されて出てこない(少なくとも、そんなものから演繹されるような戦略はクソなのだ)とすれば、我々は次に「いったい経営戦略とはどのように構造的に構築されるのか?戦略とは何か?」という、経営学の難問にゼロから答えなければならなくなるからだ。

 では、この本の中で「戦略とは何なのか」という疑問に対する答えは、どのように出されているのだろうか。これまた非常に意味深な中村語録が紹介されている。三度、引用。

 中村は2005年の社内での年頭の挨拶で、厳しい生存競争を予想して、「高いシェアを獲得して生き残りを賭ける競争と、それまでの局面を一手でひっくり返すオセロゲーム型競争が同時に起こっている」という認識を語っている。オセロゲームでは、たくさん石を並べても、打ち方を誤ると敵の石に両端を挟まれ、大量の石が一気にひっくり返され敵方の石になってしまう。最近の競争は、たしかにそれに似ている。
 石全体のつながりを読みながらどこに石を置くのかが、きわめて重要なのだ。中村を見ていると、非常に戦略的に判断して手を打っていることがわかる。「エンパワーメント」を鼓吹し、組織戦略に重点を置いているようでいて、ここぞというときは自ら果断に動く。
 そしてこの後、社長就任後数ヶ月経った頃に敗退寸前のデジタルスチルカメラ市場への再挑戦を指示したエピソードが続く。

 事業部制の時代には、個々の事業には「売上高を伸ばし、収益を上げること」という意味しかなかった。松下のデジタルカメラ再参入の背景には、SDメモリーカードのネットワークでデジタル家電分野をどれだけ包囲するかという、一段上の戦略的意義が与えられている。

 こうしたネットワーク外部性を前提とした製品戦略、あるいは技術経営戦略を考えれば、「オセロゲーム型競争」の意味はある程度分かりやすく見えてくる。だが僕自身には、まだ中村邦夫という経営者の示す「戦略」の本質が何なのかはよく分からない。森氏が書いているように、単なる「管理」を主軸とした組織戦略というわけでもない。

ソニーと松下 中村就任以前の松下電器を分析して評した経営書の代表といえば、立石泰則の『ソニーと松下』(講談社)であるとされてきた。2001年1月に発売されたこの本は、会長の森下洋一を「松下家の言うなりになって周囲にイエスマンばかりを集めている」と痛罵し、松下の「戦略の欠如」をあげつらっている。「12年もの間、松下を取材してきた」という立石氏の言い分も分からないでもないが、彼にとっての「戦略」とは、「他人が賞賛するもの」という以上の意味はない。

 『中村邦夫』と読み比べると、個々の経営者の性格描写も多分に極端に走りすぎの嫌いがある。個々の経営決定に黒白をはっきりつけようとするあまり、その決定を下した経営者の人格まで批判したり褒めちぎったりしているのだ。MCA売却など負の遺産処理に追われて業績が低下した森下洋一率いる松下には「戦略がなく」、出井伸之CEOの絶妙なイメージ戦略で社員の意気が揚がっていたソニーを「戦略的である」とする評価方法は、ぶっちゃけて言えば「後出しジャンケン」に過ぎない。

 今のソニーと松下がどうなったかを見れば、こうした経営者の人格とその意思決定をごっちゃまぜにして論じる立石氏の批評方法に対して歴史がどういう審判を下したかが自ずと分かる。だからここではこれ以上立石氏に対する批判はしない。むしろ、これまでのどんな経済ジャーナリストも立石氏と似たような判断基準しか持たずに企業取材をしていたと思うからだ。

 僕個人の考えで言えば、森氏が言うように松下創業家の世襲阻止に長い時間をかけて周到な準備と根回しを重ねて「中村改革の基礎」を築き、中村社長を生んだ後も会長におさまって創業家の経営介入に対する無言の重石役となった森下会長には、「戦略的経営者」の呼称はつけられないかも知れないが、経営者として決して無能というわけではなかったと思う。

ハーバード・ビジネス・レビュー9月号 ただ、中村社長以前の歴代の松下電器トップにはない何かが中村社長にはある。そういえば中村社長は今年9月号の「ハーバード・ビジネス・レビュー」にも、『「ものづくり日本」の一翼を担って 「メイド・イン・ジャパン」を鍛える』と題する論文を寄稿している。これまた僕にとってはほぼ既知の内容で、特に驚きなどはなかったが、多くの浅薄な「出羽の守」系マクロ経済評論家には耳の痛い、素晴らしい内容と論理構成の論文であった。それにしてもたしか中村社長自身の論文がHBRに掲載されるのは、これが3回目ではなかったか。日本人の大企業経営者でこの雑誌に論文を寄稿できるということ自体が、彼が従来型の経営者ではないことの証でもあろう。

 裏返して言えば、中村邦夫以降の経済ジャーナリズムには、単に周囲の評判や人格的イメージの良し悪しのみで経営戦略の巧拙を論じる従来型の評価軸から抜け出して、新たな「戦略とは何なのか」という論理武装を図らねばならなくなったとも言えるだろう。21世紀とは、もはや素人がジャーナリストたり得ない時代なのかもしれない。

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2005/06/30

南の島についてのブンガク

 ずっと前にURLを上書きしてしまい、吹っ飛ばしてしまったエントリを再度必死で思い出して書いてみる。

 もう10日近く前になるけど、isologueの磯崎さんのブログを読んでいて、「将来は南の島で暮らしたい」って書いてあるのを発見。いいですよね、南の島って。僕もあこがれます、南の島暮らし。とか言うと、ご自身はナイチャーなはずなのにウチナー暮らしについて滔々と語るfinalvent氏に「ふーん」とか鼻で笑われそうですが。ま、笑われてもいいので、少し南の島ネタでエントリを書いてみようかな。

 磯崎氏がどうなのかは知らないのだけれど、僕が南の島にあこがれるのは、分刻みのスケジュールに追い立てられて神経をすり減らす生活から逃れられたら、といった理由ではない。今の会社の仕事は、それなりにマイペースが可能だし、しゃかりき出したければ出せるという自由度の高い仕事なので、逃避系願望は特にない。

カオハガンからの贈りもの 高校時代から南の方に関わりがあったし、社会人になっても八重山諸島をフィールドワークする機会などもあった僕の興味は、たいていの南の島に存在する「アニミズム」的な不思議な雰囲気にある。島を実際に訪れて、島の人たちと話しながらそういう雰囲気を感じたり、歴史を見聞きしたりするのも好きだし、実際に南の島に移り住んだ人たちの直面した現実、体験した精神世界の話を本で読むのも好きだ。というか、南の島に行った人たちって、深く考える人であればあるほどそういう部分にすごく影響されるというのが、また不思議で面白い。

  バリバリの資本主義ど真ん中からアーリーリタイアして精霊飛び交う南の島に移り住んだ人の代表例として面白いのは、この人の本かな。崎山克彦氏の「カオハガンからの贈りもの」。著者は元講談社インターナショナルの役員か何かだったと思う。

 「何もなくて豊かな島」という、彼が91年にカオハガン島に移住してから書いた最初の本は、今新潮文庫で読むことができるが、こちらはまさにバリバリの資本主義に生きる現代人が異次元にタイムスリップしてどんなことを見聞きしたか、という驚きを綴った記録だった。それに対して、処女作から10年近く経って書かれたこの本には、島の生活に息づくスピリチュアルな何かと、それを守るためにはどうすればいいかを考える著者の姿とが書かれていて、より思索的な内容になっている。

ヤマト嫁―沖縄に恋した女たち たぶん、南の島の話を読んで癒されたいという人には、「何もなくて~」の方がお勧めなのだろうと思うけれど、僕らがあこがれる南の島の本質とは何なのか、それは社会的にどのようなものなのかということを考えたいと思っている人には、「カオハガンからの贈りもの」はお勧めだ。

 移住者本人が書いたものではないが、彼らにインタビューを重ねて南の島の精神世界をかいま見ようとしたのが、フリーライターの吉江真理子氏による「ヤマト嫁―沖縄に恋した女たち」。南の島に嫁いだ女性たちの目から見た沖縄社会、その精神世界を描こうとした力作だが、ほとんど沖縄でしか売ってないのが残念だ。でもこの本は、男性の目から見ても非常に面白い。

南の島に暮らす日本人たち 特に印象的だったのは最初の来間島のマンゴー農家に嫁いだ女性の話だった。村のウタキにあるガジュマルの樹(沖縄ではガジュマルは神の宿る神聖な樹)の元で不思議な体験をしたのが、嫁ぐ決心をしたきっかけだったという話は、沖縄のウタキのあの雰囲気を知っている人なら誰も事実と疑わないだろう。そういう話を事実と思わせてしまう何かが、南の島にはあると思う。超自然的な話はそれぐらいだが、それ以外の5人のエピソードも、南の島が抱える社会問題と女性、精神世界といったものがどう関わるのか、関わらないかをルポしていった力作である。

 そして、沖縄ではなく日本国外の南の島に暮らす日本人を書いた力作ということであれば、井形慶子氏の「南の島に暮らす日本人たち」は外せないだろう。ちくま文庫で出ているので手に入れやすい。こちらもお勧め。

 ちなみに、新しい家は白を基調とした空間に、カーテンではなく木製のブラインドをはめたり、壁にハワイの木の皮を延ばして作った工芸品を飾ったりと、カミサンがお気に入りのハワイアン風に着々と飾っている。今年の夏はハワイに住んでいる気分で夏を越せるといいな、なんて思っているところ。さっそくCREAの「秘密のハワイ」特集とかも買ってみた(笑)。皆さんも夏を過ごすのにいい本があったら、ぜひ教えてください。

12:39 午後 書籍・雑誌 コメント (8) トラックバック (0)

2004/11/03

書評:「ビジネス・エシックス」

ビジネス・エシックス 1ヶ月以上も書かないとネタが大量にたまってしまうのだけれど、とりあえず書評から始めよう。最近気になっていたテーマ「ビジネス・エシックス(Business Ethics:経営倫理学)」で少し手ごろそうな本を見つけたので、手にとって読んでみた。「ビジネス・エシックス」(塩原俊彦著・講談社現代新書)。なぜこのテーマかというと、これが海外のMBAコースでは必ずといっていいほど履修科目になっており、日本のビジネススクールなどでもやらなきゃね、的な議論が起こっているという話を耳にしたからだ。

 読んでみた感想を一言で言うと(Amazonのレビューにも書かれているが)、これはお手軽なMBA的ビジネス・エシックスの入門書ではない。なぜ今米国でビジネス・エシックスの必要性が叫ばれており、しかるにビジネス・エシックスとはどういう学問なのかを根本から解き明かそうとしているからだ。

 僕がこの本を手に取った時に期待したことも、まさにそういった根本的な解説であって、別にエンロンがあーだとかワールドコムがどーたらといった、大前研一大先生の言うような「こんなことデキるビジネスマンの常識だぞ」的ご託ではなかったので、とっても満足できたと言っていい。むしろ、世の中の多くの人は「そんなこと知りたかないよ」って思うんだろうけどね(笑)。

 まあいい。で、そのミソの部分を惜しげもなく(あるいは誤解を恐れずに)強烈に要約してしまうと、少々長くなるけどこういうことだ。

 米国のMBAでビジネス・エシックスが必須科目とされているのは、別にエンロンやワールドコムの不正経理事件があったからだったり、そのせいでサーベンス・オクスリー法が成立したからではない。日本で「大企業の取締役になるのに、商法を知ってるのは当たり前でしょ」といった程度の、ビジネスマン(なかんずく経営者)にとっての“常識”の範疇の話だからである。

 なぜか。実はその本質的な理由は、日本しか知らないビジネスマンには絶対想像できない、米国の「契約」にまつわる法律の構造にある。日本(や欧州、すなわち大陸法の国々)では、契約というのは例えば、「AさんとBさんがモノを売り買いする約束をしました」=「AさんはBさんにモノを渡し、その代わりBさんはAさんに代金分の“債務履行の義務”を負う」という一連の関係ができることを指す。ところが米国の法律では、AさんとBさんの間の売買契約とは「AさんがBさんにモノを渡す」というのと「BさんはAさんにお金を払う」という、2つの約束から成ると考える。

 まあ、モノの売買契約だと「何が違うの?」という感じだが、これが雇用から株式会社の仕組みまであらゆることに展開されるのだ。米国では、労働者と企業の関係は基本的に「随意雇用」であり、気にくわない社員は理由もなくいつでもどこでも解雇できる。だって雇用とは「言われたことやる」+「給料やる」の2つの約束に過ぎないから。株主と取締役の関係もしかり。「経営任せる」+「株価or配当で儲けさせる」の2つの約束だから。俺が辞めた後に会社が潰れようが社員が路頭に迷おうが知るもんかい、と。

 なぜこんな(日本人に言わせりゃ極端な)法律が正しいとされてきたのかと言えば、資本主義の原則として「労働者にはいつでも別の企業に転職する権利がある」「株主は取締役をいつでもクビにする権利がある」からだ。つまり「嫌なら、辞めてもらっていいんですよ」ってやつである。

 誤解を恐れず言えば、米国というのは「政府と国民」の間には人権があったが、「企業と従業員」の間にはつい最近まで(今も一部で)人権はなかったのである。これに比べれば、日本のサラリーマンなんて長時間残業はあるけど社内外で上司や会社の愚痴言うわ(=表現の自由)、決められた以外のことも平気で首突っ込むわ(=知る権利)、でもクビにもならず(=働く権利)といった案配で、基本的人権を謳歌しまくりなのだ。

 米国の契約概念は資本主義の理想状態ではあるが、現実の社会はそうではない。労働者も、別に日本だけじゃなくて、米国だってそう簡単にほいほい転職できるものではないし、転職が決まるまでの自分や家族の精神的な負担だって大きい。つまり労働者側の不利を想定せずにこうした対等な契約だけで物事を決めちゃいかんだろ、という声が米国でもこの20年ほどの間に高まり続けてきた。

 個人情報保護とかセクシャル・ハラスメントとかアファーマティブ・アクションとかコンパラブル・ワース(別の職種でも職務価値が同じなら給与水準は同等でなければならないという考え。主に男女の給与格差解消を指す)といった最近日本でも流行の言葉の数々は、みーんなこうした「企業の人権蹂躙やりたい放題」を止めさせるというコンセプトから生まれてきたものだ。日本ではそのへんの悲惨な歴史が全く理解されず、職場で絶大な権限を誇るお局OLが気の弱い部長を「セクハラですよ!」とか怒鳴り上げてたりする。まったくもって本末転倒である(笑)。

 そしてもう1つ、契約オンリーの発想が起こした大事件というのが、エンロンやワールドコムだった。GEを引退したジャック・ウェルチが数百億円もの退職金を受け取ったと非難されたのも、この流れの中でのことだ。つまり「辞めた後なら企業がどうなってもいいのか」という問題である。単にインサイダー取引どーたらの話ではない。

 こうした、2つの片務的な“約束”の対に過ぎない米国的「契約」を補う概念として、もともと米国にあり、最近になって重要性が増して来たのが「信認関係(fiduciary relationship)」という考え方だ。例えば、会社は労働者を雇う時、彼らがクビになってもすんなり別の雇用が決まるわけじゃないんだから、解雇する(=圧倒的に強い)立場の企業は、従業員からの信認に応える相応の義務があります、というものだ。株主との関係について言えば、圧倒的にたくさんの情報を持つ取締役は、利益さえ上げれば好き勝手経営していいわけじゃなくて、ちゃんと株主からの信認に応える義務があります、ということになる。

 で、この「米国流契約」の概念だけではカバーしきれない部分の「信認されたものの義務」というのが何であるか、どの程度法的に「義務あり!」とされるかを学ぶのが、ビジネス・エシックスという学問なのである。その1つである、株主に対して、つまり「コーポレート・ガバナンス(企業統治)」に関する「義務」の追加内容が、2002年に成立したサーベンス・オクスリー法だったりするわけだ。

 長々と説明したが、要するに要するに、ビジネス・エシックスというのは、たとえて言うなら日本人が大企業の取締役になる前に商法のイロハぐらい一応知っておきなさいよね、と言われるレベルに過ぎないのだ(と僕は理解した)。なーんだ。そう、なーんだ、なのである。MBAだからってビビらない!これ鉄則(笑)。まあ、もちろん日本で商法をきちんと理解して取締役になってる人なんて大企業にさえどれだけいるんだろうかと思うし、ましてや米国のビジネス・エシックスまで理解して取締役になっているグローバル企業の役員なんてほとんどおらんやろうね。そういう意味では、米国がビジネス・エシックスを今頃叫ぶのをあざ笑うのは、目くそ鼻くそ以下のレベルの話ではある。

 特に僕も不満を感じていたことだが、日本のほとんど唯一の経済メディアである日経新聞が、この件については偉大なる「反面教師」になってしまったため、正面からビジネス・エシックスとは何であるかを論じる経済系のマスコミ人がいなくなってしまった。だから、いっこうにビジネス・エシックスについての本質的理解が進まない。で、これが分からないということは、前述したような様々な企業に対する規制や運動の意味も分からないということになってしまったのだ。

 本書の著者の塩原教授は、実はもともと日経新聞の記者だったようで、米国のビジネス・エシックスがどのような背景のもとに成り立っているのかを解説した後で、日経新聞の例の事件(TCワークス問題)に題材を取りつつ、日本でビジネス・エシックスがいかに成り立ち難いものかを説明している。このへんの解説が、文章の行間から溢れてくる彼の出身企業に対する思いが読めて、なかなか面白い。

 だが、著者はやはり大学教授という身分ゆえか、結論として「日本のビジネス・エシックスは米国の制度を輸入してくるだけではやはりダメで、日本のビジネスマン1人ひとりの意識が自立した“主体的個人”に変わらなければ始まらない」と述べて終わっている。そもそも法律体系がまったく違うにもかかわらず、国民全員が米国式「契約」の主体になるだとか、カントの言う「自らの不自由を意識した自由な個人」になるなんてことはあり得ないわけで、さすがにこの結論だけはそんな無茶な、というほかない。というわけで、この本は「実用書」ではありません、という書評になってしまうわけだ。

 でもそれで終わっちゃつまらない。ここで、R30なりの実用的「誤読の可能性」に挑戦してみる。

 塩原氏は「日本には主体的個人同士の契約概念がないから、その不備を補う信認の概念も理解しようがない、したがってビジネス・エシックスは日本には根付かない」と結論づけるが、実際のビジネスの現場ではむしろ逆のことが起きているんじゃないか。

 日本は、むしろ顧客との関係の部分でこうした売買の“契約”から一歩進んだ“信認”の概念がかなり早くからシステマティックに導入されてきたように思う。米国と違って、日本の顧客には商品の不良が買った後(あるいは保証期間が切れた後)で分かったとしても、店側の「これは売買契約が切れた後ですからお客様がご自分で対処なさるべきです」といった筋論が通らない。「お前ンとこが売りつけた商品だろ!お前ンとこで何とかしろ!」という話になる。

 で、この(米国であれば「アホ」の一言で一蹴される)難癖を、企業の側もしたたかにシステム化することで、顧客と「売買契約」でなく「信認」の関係を築く仕掛けを作り上げてきた。その端的な例が家電量販店がよくやる「保証期間延長サービス」であったりするわけだ。顧客も、モノを買うたびに契約契約言われるのがめんどくさいので、こういう「私どもにただお任せ下さい」的な、無条件の信認関係を作って迎えてくれる企業の懐に喜んで落ちる。

 消費が「モノ」ではなく「コト」つまりサービスやソフト中心の時代になってきて、この傾向はますます強まっている。そして、消費者と契約ではなく信認の間柄になることは、企業にとってもメリットが大きい。というのは、いったん信認関係を結んでくれた顧客は、継続的に企業にコミットしてくれるからだ。

 実はこれは、もともと日本的経営の中で最大限のメリットを生み出してきた「終身雇用」という仕組みのアナロジーでもある。成果主義導入を声高に叫ぶ昨今の企業も、その裏で「うちは終身雇用を捨てた」とは誰も言わない。むしろ本音としては「年功賃金」は止めたくても、「終身雇用は捨てたくない」というのが、企業の本音だからだ。それはなぜかと言えば、従業員と短期的「契約」ではなく長期的な「信認関係」を持つことが、結果的に雇用関連のコストをもっとも抑えることを知っているからである。

 塩原氏が言うような意味での英米的「契約」を経た信認ではなく、日本ではむしろ「損して得取れ」的な古くからの商道徳としての信認の概念がビジネス・エシックスとして存在し、かつ勢いを増しているのだろうと思う。塩原氏に言わせればそれらの商道徳は、「世間」という日本独特の狭いコミュニティーの中でしか通用しない論理だったのかもしれない。だがしかし、国民国家の分解と人々のより狭小なコミュニティー化は、欧米社会でも生じつつある現象だ。コミュニティーとの信認関係をビジネスモデルのベースに置くようなベタベタの日本的企業が欧米で大成功する可能性だって、ないわけじゃない。

 MBA的ビジネス・エシックスは、株式市場とコーポレート・ガバナンスという、グローバリゼーションの浸透しつつある部分については適用されざるを得ないかもしれない。しかし、だからといってそれが日本企業にとってのビジネス・エシックスのすべてではあり得ないだろう。著者の意にはまったく反するかもしれないが、そろそろ松下幸之助とか稲盛和夫の哲学あたりからビジネス・エシックスを組み立てる人も、出てきていいんじゃないの?というのが、この本のR30的読後感である。

01:27 午前 書籍・雑誌 コメント (0) トラックバック (1)