2005/08/31

コピペレポート論議で思う大学教育の価値軸

 加野瀬さんのところ(ARTIFACT@ハテナ系)で、大学生のコピペレポートのことが盛り上がっている。

 大学のレポートのコピペ問題(8/28)
 レポートコピペする大学生は何のために大学行ってるんだろうか?(8/29)
 丸写しレポートとの戦い(8/30)

 コメント欄での議論も含めて非常に面白い。高等教育という権威が崩壊する過程の阿鼻叫喚を見るようだ、という意味で。特に、紹介されていた「ハッピーキャンパス」というサイトがあり、のぞいてみてびっくりした。凄いクオリティの膨大な量のレポート、論文が共有用に公開されてる。僕が大学生の時にこんなものがあったらもっと楽に(以下略)。

 冗談はさておき、そのエントリからのリンク先やコメント欄にコメントを寄せている大学の先生たちのとらえ方に、僕としてはやや違和感を感じる。

 「大学生のレベルなんて所詮どこかの他人が言ったことを引用するしかないんだし、コピペそのものはしょうがない」とか言ってる人がいるが、そりゃ個々の学問分野のヒエラルキーの中の話ではそうだけれどもさ、そもそも学問のヒエラルキーの中に位置づけてもらいたいとも思ってない学生たちにとっては、コピペする時にそんな言い訳じみた意識さえ持ってないと思うよ。完全に大学教員のマスタベーションですな。

 コメント欄のコメントを見ると、そのへんの教員と学生の根本的な意識ギャップが見えてくる。以下、コメント欄から一部引用。

ブラウザの印刷機能を使って、ボタンとかまで印刷されたものを出してくる人もいるんですって(実話)。ちなみに、ネット上にある私の文章を印刷して、私に対してレポートとして提出した人もいます(これも実話)。著者名を見なかったのか?あるいは教師の名前を知らなかったのか?(sarutora氏)

 「バレるって気付かないのか?」という疑問も以前はあったのですが、むしろタダのコピペをレポートとして提出することが悪いことであるという認識がそもそもないのであろうと思っています(webページを見せられて「これをコピペして提出すればいいですよね」と真顔で問われた経験もあります)。(jmk氏)

 まあ、そういうことですよ。他人の文章をそのまま提出するということがいいかどうかという常識以前に、学校の「知」というものに対する方法論がまるで違うと思った方がいい。正確に言えば「知」に対する認識自体は一致していて、だからこそそうなるのだ。

 既存の高等教育における「知」とは、ぶっちゃけて言えば「何を」知っているかで評価されるものだ。もちろん、新しい事実や知見を見つけることがもっとも評価されるわけだが、何が新しいかは過去のさまざまな学者の積み上げた「知」を知らなければ分からないので、結局は過去の「知」の蓄積をどれだけ広く知っているかが評価のベースになる。

 そしてそれを知るためには「本」という紙の束を延々とかき集めて読みまくるしかなかった。紙の論文の世界は、少なくとも「いつ書かれたか」のタイムスタンプが物理的に判別できるので時間的な前後から知見の「オリジナリティ」を決めることが可能だ。また、その論文がどこか別の紙から引き写されたかどうかを示すルールも厳密に決まっているので、ある知見や事実の「オリジナル」がどこにあるか、遡及して真偽を確認することもできる。そして、これまでの世の中は「紙こそがオリジナル、デジタルは真偽・時間ともに不明のコピー」というアカデミズムの価値観を追認してきた。

 ところが、今大学生の人たちというのは、ものごころついた時にはWindows95があり、中高生の時には授業そっちのけで携帯メールをバンバン飛ばし、ニュースは新聞より先に2ちゃんのニュー速で読んでいたら、雑誌や新聞に「インターネットの某掲示板によれば」とか言いながらまとめ記事が掲載されてた、みたいな人が多いんじゃないか。

 つまり、ディスプレーに表示される情報の方が紙よりも「早く」て「オリジナル」な時代に生きてきた人たちにとってみれば、「何を」で定義されるような「知」というのはほとんどの場合Google先生が知っているのであり、世界で最も物知りな「知の権威」とはGoogle先生にほかならない。

 言い換えれば、Google先生に対してどう質問するか(=検索ワードをどう選ぶか)こそが、「何を」知ることができるかの決め手となる技能だっていう理解なんじゃないのかな。だからこそ、彼らは検索した結果を「自分の能力の証明」としてそのままプリントアウトして提出してくるのだ。ここで問われているのは、そういう課題を出す大学の教員の質とか他人のウェブサイトをそのままプリントアウトする学生の質とかそういうことではなく、大学教育という「知」のヒエラルキーの価値軸の問題だと思う。

 そういえば、似たようなことを半年ぐらい前にも議論していたような気がする。とある人と社会人教育のある分野について話していた時に、「その分野の人たちは自分たちのやっていることについて今さら大学の先生に何か教わりたいとは思ってないんですよ。だって自分はそれなりにやってきたという自負があるから」っていう話になって、それを教えてくれた人はアカデミズムに片足突っ込んでいることもあってたいそう憤っていたが、僕から見ると「そりゃ当然だろ」って思えた。

 だって、今の大学が教えてくれることって所詮は知識の量に過ぎないのであって、それを知ったからといって学問のヒエラルキーの中でより上位に位置づけられる以外の意味なんて、別にないわけだからねえ。大学に認められてハクをつけたいと思う人はともかく、そういうニーズを全然感じない人に向かって何を言っても、無駄だ罠。

 今の大学生も含めて、高等教育機関で学ぶ「知」の評価軸をどうするかっていうのは、これから結構深刻な問題になると思うよ。たぶんこれまでの議論を見るに、2つの方向性があると思う。

 1つは「大学にハクをつけてもらいたいと思う人をたくさん集める」、つまり既存のアカデミズムの共同幻想をなるべくたくさんの人に植え付ける、あるいはそういう幻想を持ちつづけてくれる人たちの中で圧倒的なブランドを持つようにマーケティングすること。これはたぶん内田樹センセイなども含めて、人文系の学者が目指すべき方向性だろう。市場全体の縮小傾向は避けられないかもしれないが、その中で生き残りを目指すという戦略である。

 もう1つは教育機関自身がこれまでの「知」の定義を変えて、Google先生が一番偉いという評価軸を別の評価軸にすり替えることだ。ぶっちゃけ、「たくさんのことを知っている」「オリジナルを知っている」こと自体には積極的な価値を認めず、「自分で考えられる」とか「強い意志を持つ」とか、Google先生に勝てそうな別の何かを価値軸にし、それを評価できるような仕組みや学習の体系を作るという戦略だ。

 これは既存の学問体系を、全部とは言わないまでもかなり否定してしまうことになるので結構大変なことではある。だが、社会学系の学問分野の人たちは、「実学」を掲げる以上、ある程度こちらの戦略をミックスしてお客様たる学生に訴えていかざるを得ないんじゃないかな。

 ぶっちゃけ、やっている教育がどこまでの「高等教育」なのかっていう問題にもなってくるのだけれど、本来自分の頭で考えたことをロジカルに組み立てて他人に分かってもらえるように表現するっていう作業は、教育を受ける中で一番ベースの能力として教えてもらわなきゃいけないものでしょう。だとしたら、レポートの書き方というか、自分の頭を使って文章を書く方法ぐらい、レポート課題を課す前にこってり教えればいいのにね。

 他人に理解してもらえる文章を書くことなんて、もちろんどういう分野のどんなレベルの内容かにもよるけれど、1年間訓練すれば相当のことができるようになると思う。僕も、自分の文章力ってもちろん記者時代に培われたっていうのもあるけど、それ以前に中学校の国語のクラスで毎回最初の5分間、与えられたテーマについて考えたことを200字で書く「5分間作文」をやらされ続けたことがベースになっていると思うし。

 携帯メール以上の長文を書いたことのない学生に「1600字程度でレポートを提出せよ」っていきなり言ったって、できるわけないんだから。大学でそのくらいのこと、教えてあげればいいんじゃない?社会に出て一番役に立つのって、どんな内容もそれぐらいの字数できちんとオチまで付けて述べられる論理構成力と表現力だと思うんだけどね。

06:17 午後 学問・資格 コメント (36) トラックバック (22)