2006/06/19

映画評「インサイド・マン」

インサイド・マン 「前田有一の超映画批評」で90点という高得点を付けていたので、スパイク・リー監督の「インサイド・マン」を昨日観に行ってきた。本当は今年上半期に前田氏が95点を付けたタイのアクション映画「トムヤムクン!」を観に行きたかったが、さすがに休日は浅草まで行ってられないので家族を連れて近場で。

 結論から言うと、90点は伊達じゃなかった。サスペンス映画としては最高の出来。しかも、前田氏も書いているように「知的興奮を存分に味わわせてくれる、大人向け」の上質な娯楽映画だった。「年間何本もない、必見の一本」という賛辞は決して大げさではない。とにかくお勧め。

 語りたいことはいろいろあるのだが、結末の種明かしが面白さの大部分を占めるサスペンス物だけにストーリーのネタバレはしたくないので、前田氏の映画評以上のことは書きづらい。とにかく、ラッセル・ジェウィルスの脚本の素晴らしさはこれが処女作とは到底思えないほど。でも、それ以外にも褒め始めるときりがないぐらい良い点が多い。

 例えば、役者の演技。デンゼル・ワシントンやジョディ・フォスターなどアカデミー賞級の名優がぞろぞろ出ているのだから当然っちゃ当然なのだが、主犯格役のクライブ・オーウェンが言っているように、この映画の注目すべきところは主役から脇役に至るまであらゆる登場人物の「無言の演技」の凄まじさだ。皆、脳裏にさまざまな思いを隠しながら目で何かを物語る。どのカットのどの俳優の目にも、圧倒的な表現がある。もう、その演技力(とそれを引き出したスパイク・リー監督の手腕)を見るだけで、まず感動する。

 それから、ストーリーがほとんどマンハッタンのウォール街の銀行の中と外だけで進んでいくという変化のなさを補うため、ライティングやカメラワークスにはものすごく凝った趣向が凝らされている。事件が日中に起こり、事態が膠着するにしたがって夜の帳が降りる。そして謎めいた女弁護士の登場と犯人との交渉、続いて刑事の交渉。激烈な心理戦が交わされるのはまさに「丑三つ時」である。時間の経過にともなって変わっていくライティングと、その醸し出す息詰まるような緊張感とがぴったり合っている。

 また、ところどころで人物の回りをカメラが360度回転しながら撮影するという、サスペンス劇らしからぬカメラワークが実に巧妙な効果を狙って使われていたり、銀行内に閉じこめられている人質たちの様子を撮影するカメラワークに非常にダイナミックな工夫がされていたりと、心憎い演出が随所に見られる。ものすごい緊張感の中での映像なのでそのカメラアングルに違和感を感じることはないのだが、逆にそのアングルだからこそ得られる効果というものを計算し尽くして組み込んでいるのも、さすがといったところだ。

オリジナル・サウンドトラック「インサイド・マン」 あと、サウンドトラックもなかなか良かった。オープニングとラストの軽快なインド音楽「チャイヤ・チャイヤ」が、なぜか不思議とこの映画に合っているのである。普通の監督ならああいう選曲はしないだろう。だが、やはり彼、スパイク・リーだからはまってしまうのかもしれない。iTunesのサントラのページを観たら、「チャイヤ・チャイヤをシングルカットしてくれ!」という書き込みがあった。そのぐらいイケテる曲である。この映画にはまったら、これもお勧めかも。

 そしていつもの彼ならではの、人種差別に対する辛辣なユーモアと米国社会が抱える問題への鋭い批判の視線。ビターチョコレートを肴に香りの高い蒸留酒を舐めるように飲むかのごとき、そんな大人の楽しみを与えてくれる映画である。逆に言うと、派手なアクションとか撃ち合いとかが観たいガキは絶対見に来てはいけないと断言する。もう一度、レイトショーに1人で観に行ってみようかな。この映画、何度観ても楽しめる気がする。

05:26 午前 映画・テレビ コメント (2) トラックバック (9)

2006/02/26

映画評「THE 有頂天ホテル」

THE 有頂天ホテル 今頃になって観てきましたよ。まあそこそこには笑えたのだけど、東京サンシャインボーイズの「ラヂオの時間」を観てしまった人間としては、やっぱり何か違うなーと。全然あのレベルに届いてない。2時間半の長尺を見終わった時には、「三谷さん、どうしてこんな映画でそのあふれる才能を浪費するの、早く舞台に戻ってきてよ!」という切ない気持ちで一杯になった。

 でもそれからまた考えていたのだけど、三谷幸喜は自分が「ラヂオの時間」やら「ショー・マスト・ゴーオン」といった舞台作品を超える映画を作れていない、ということを自覚した上でこうした試みを延々繰り返しているのではないか。そして、舞台ではなく「映画」や「テレビ」という、それぞれの場でしかできないこととは何かを一生懸命考えているのではないかと。そんなことを思った。

 ただ、今回はその「映画でしかできないこと」が状況設定に寄りすぎているという気がした。確かに隣同士のスイートルームで起こる出来事が、壁一枚を通じて隣の部屋の人物に影響を与えるというのは設定として面白いし、舞台でこれをやってみせようとしても無駄に面倒なだけだ。だがそれが本当に「映画でしかできないこと」なのか。三谷のチャレンジは、何か方向が間違ってないか。

 Amazonに「有頂天ホテル」を非常に的確に批評したコメントが書いてあった。「三谷幸喜は、察するに和製のビリー・ワイルダーか、二ール・サイモンあたりを狙っているのだろうが、ひとつだけ彼らにあって、彼に足りないものがある。それは色気である。」いや、「狙っているのだろう」どころか、日芸時代の彼の仲間たち(今回の映画にもたくさん出ている)と作った劇団の名前が「東京サンシャインボーイズ」というぐらいだから(「サンシャインボーイズ」はニール・サイモンの劇のタイトル)、彼がそこを目指しているのは間違いないのだ。

 問題は、彼がコメディの脇筋の「泣かせどころ」として、登場人物が「自分の職務に狂おしいまでの必死さで取り組む姿」を描くという技しか持てないでいることにある。今回でいうと、例えば副支配人の新堂(役所広司)と受賞者の妻・堀田由美(原田美枝子)との複雑な情感を、この程度にしか演出できないというのだけで、彼がいかに脚本家・演出家として「愛や恋」が苦手かということが分かる。

 これだけのウェルメイド・コメディを描ける日本を代表する脚本家かつ演出家が「ほろ苦い愛や甘酸っぱい恋」を描けないというのは、もはや極めて深刻な事態だと思う。三谷幸喜は一度シチュエーション・コメディの路線から足を洗って、ガーニーの「ラヴ・レターズ」あたりの演出をじっくりやってみたりしたらいいんじゃないだろうか。大人の恋、人間の愛というものが三谷コメディで大笑いした後の余韻として感じられるようになったら、その時こそ日本最高の喜劇作者が誕生すると思うのだが。

03:53 午前 映画・テレビ コメント (0) トラックバック (0)

2005/09/25

映画評「チャーリーとチョコレート工場」

チャーリーとチョコレート工場 休みに見に行ったんだが、来てるのはちょうど同じ年齢ぐらいの人たちばかり。ざっくり3分の1がティム・バートンファン、3分の2が昔原作の絵本を読んだクチじゃないだろうか。

 で、館内に子供がいない(笑)。観客の皆さん、よく分かっていらっしゃる。こんな映画、子供に見せたら気持ち悪がって卒倒するよ。小学生ぐらいになって絵本を読ませて、これがフィクションだって分かるようになってからしか連れてっちゃダメだろ。

 しかしそれにしても見事なまでに絵本の原作に忠実だ。絵本の内容を覚えている僕としては、あんなもん絶対映画化できんだろとか思っていたが、最先端のCG、アニマトロニクス、特撮技術を持ってすれば不可能はなかった。凄すぎる。

 しかも、ティム・バートンならではの演出がまた心憎いほどにうまい。オマージュ、パロディがてんこ盛り。ジョニー・デップ演じる魔法のチョコレート工場の主、ウィリー・ウォンカがマイケル・ジャクソンそっくりなのはまさにそれ。ウンパ・ルンパの顔が全部同じなのも凄い衝撃(笑)。いやーもう、やってくれます。

 Amazonの批評を読むと、なんかしきりに教訓話を読みとりたがってる人とかもいるようだが、そんなんどうでもいいよ。この作品の面白さは、年端もいかないガキには絶対に見せられないようなぞっとするブラックジョークがこれでもかと繰り返されるところなのだ。ブラックジョークに道徳的教訓なんか読み取ろうとしないでくれって感じ。

 個人的には、一番最後のシーンが一番良かった。傾きかけのボロ家に降りしきる雪の正体を見て、唖然。あのエンディングは原作にはなかった。でもティム・バートンの創作によって、ブラックで恐ろしげなあの物語にすごく温かみが加わった気がする。

 チャーリー役の演技も素晴らしかったな。「子供らしい素直さ」というのはああいうことを言うのだろうが、さて実際あんな子供がどこにいるか。子供論を議論し始めるときりがなくなるのでこのあたりでやめておこうと思うが、エキセントリックな他の4人の子供とチャーリー、そして最も“子供”なウィリー・ウォンカの対比も、いろいろと考えさせる。いずれにせよ、秀逸な映画だと思う。

10:04 午後 映画・テレビ コメント (0) トラックバック (0)

2005/05/08

【映画評】交渉人 真下正義

交渉人 真下正義 好き好んで鉄道ネタばっかりエントリ書いてるわけじゃないんだが、何ともはや…(汗)またそっちネタですが申し訳ない。封切り初日でしたが、観てきましたよハイ。

 個人的に「踊る~」のファン、というか亀Pのファンなので、彼の製作指揮した作品はなるべく観に行ったろうと思ってます。彼の「商業主義が何だ、商業主義で悪いかコノヤロウ」的な徹底したマーケティングマインドと、1800円払って「損した」と客に決して思わせないだけのクオリティを見せ続けるというプロとしてのプライドに、心底敬服しているので。今回もそのあたりは完璧でした。ついでに言えば、撮影に全面協力してアーバンネットワークの車両とか出まくりなJR西日本が大事故を起こしている最中にマスコミお得意の「自粛」「延期」などものともせず堂々公開したその大胆さにも、脱帽。

 初日の館内を眺め回してまず驚いたのは、年輩の観客がすごく多かったこと。前回の「踊る~II」は、全世代の琴線に漏れなく触れるように配役や脚本が徹底的に練り込まれていたが、やはりそのあたりの効果は絶大だったようだ。しかし、今回は50代以上を「琴線ターゲット」としていた和久平八郎役のいかりや長介が亡くなったこともあり、前回獲得した年輩層をどうつなぎ止めるかがマーケティング上の1つのハードルだったと思う。

 5月に「交渉人 真下正義」、そして8月に「容疑者 室井慎次」の公開を予定していると聞けば、これが「Matrix」シリーズで確立された「どうせやるなら怒濤の三連荘」パターンの忠実な踏襲だということが分かる。実際、前回の「踊る~II」のDVDではしつこく「交渉人~」のPVが流れていたし、今回の映画の前後(エンドロール後にまでもう一度!)にも、これでもかというぐらい「容疑者~」の予告編が流される。つまりは、「踊る~II」のDVDをトリガーとした三連荘マーケティングの変奏形態なのである。

 ただ、「Matrix」がしょせんは3つ合わせて「単発」の企画だった(だから2(リローデッド)、3(レボリューションズ)は息切れ気味でさんざんな評価だった)のに比べ、こちらは「北の国から」の終わってしまったフジテレビの映画部門が、これから10年はメディアミックスで食いつなぎ続けなければならないシリーズである。しかも、この2作の興行収入が映画事業部の(ということはつまり亀Pの)来年の予算枠を実質的に決めるはず。スピンオフものと言えども、「手抜き」の評価に甘んじてコケるわけにはいかない。

 そういう意味で、製作チームには相当気合いが入っていただろうし、実際その気合いが感じられる作品だった。ネタバレしない程度の内容については前田有一氏の「超映画批評」あたりでも読んでもらうとして、個人的に少し感じたことを。

 前段でも述べたが、この映画のマーケティング上のハードルは、いかりや長介なしで年輩層の「踊る~」ファンをどうやってつなぎ止めるか、だったはずだ。それに対する亀P製作チームの結論が、小泉孝太郎以下若手チームの「デジタル&ハイテク」vs寺島進や國村準、金田龍之介といったベテラン陣演ずるところの「勘と経験」のオヤジたちという対立の構図だった。ユースケサンタマリア扮する真下は、その間に立って両方の橋渡しをする役どころである。

 金田龍之介の「ダイヤってのはな、ナマモノなんだよ。ほっとくとすぐ腐っちまうんだ」といった決め台詞などは、脳裏に去来する尼崎の事故とも重なり深い印象を残す。良い芸術は世の中の動きを予見すると昔から言うが、少なくともこの映画はそういう絶妙のタイミングで問題提起を投げかけていることは間違いない。

 ただ、僕はその構図に対するこの映画の結末には違和感がある。デジタルチームは携帯電話を使った犯人の足跡追跡程度しか成果を上げられず、犯人像の特定には結局失敗する。一方、勘と経験チームは爆弾の爆発と列車事故を食い止め、見事“勝利”する。最後に真下が木島警視(寺島進)にある判断の根拠を尋ねられて、こう答える。「いや、ただの勘ですよ!」デジタルの敗北、勘の勝利。年輩客にとっては溜飲が下がる瞬間だ。

 だが、本当にそれでいいのか。「ハイテクばかり頼るな、勘と経験が仕事の醍醐味だ」。それはまったくその通りだ。特にシステムが壊れてしまった非常事態においては。だけれど、僕らの日常は既にデジタルで埋め尽くされている。好むと好まざるとにかかわらず、デジタルとつき合っていかなければならないのだ。

 もちろん、最後の木島の質問に対して、真下が「それはかくかくしかじかの理由で…」と判断の根拠の説明を始めたら、ドラマにならないに違いない。だからあの「勘ですよ」の一言は、木島に対する真下のリップサービスとも考えられるし、勘を駆使して走り回った先輩刑事への感謝の言葉の代わりだったかもしれない。

 にしても、木島の「勘」頼りの捜査はしょぼすぎやしないか。同じ「勘」でも、TTRの指令室の面々や線引き屋の「勘」のほうが、ずっと大きな成果を上げているように見える。一見デジタルに埋め尽くされたように見えるあの部屋には、「鉄道屋の誇り」とも言えるアツイ心と「勘」が満ちている。

 今現実の若い僕たちが直面する問題は、あのアツイ心と勘を、デジタルに囲まれた日常の環境でどうやってまもなく引退する団塊の(あるいはもっと上の)世代から引き継ぐかということなのだ。真下正義は、僕たちのその悩みに何か解決のヒントを提示してくれたのだろうか。残念ながら僕にはそれが読めなかった。

 これまで「踊る~」のコアなファンは、今の30代だったと思う。織田裕二、深津絵里という同世代が出演していて、そしてやんちゃばかりする彼らを「俺は現場を信頼する」と、体を張って守ってくれる柳葉敏郎のような上司が最後に生き残るあの物語に、「組織がいかにダメダメでも、志のある人間は最後に生き残れるんだ」という夢を見て、僕らはうんざりするような日々の仕事に少しだけ希望を持てた。

 だけどこの「交渉人~」は、前作から「踊る~」の新たなファンに加わった中高年層のマーケティングに傾注するあまり、コアファンだった30代を置き去りにした感が否めない。確かにユースケサンタマリアは、自然な演技で良かった。だが、東大出のエリートでロサンゼルス市警に留学して日本初のネゴシエーターになって戻り、CIC準備室の部下5人を率いつつ美人の彼女からデートに誘われている真下正義という男に、いったいどうやって感情移入しろというのか。そりゃ無理というものだ。

 アクション映画としてのクオリティは確かに高い。ペアで観に行くにも、1人で行くにもとりあえずはお勧めだ。この調子なら、次回作もきっと期待できるだろう。だが、これまでベタベタな「全方位琴線マーケティング」を得意としてきた亀Pのチームの作品にしては、意外とも言えるほど基本的な部分での「ハズシ」に、僕は今、どうリアクションして良いのか分からず、戸惑っている。

 ちなみに、これからこの映画を観る方、特に首都圏以外にお住まいの方には、基礎知識としてこちらのページの中の「幻のトンネルの画像」というところを読んでおくことをお勧めしたい。

01:14 午前 映画・テレビ コメント (26) トラックバック (19)

2005/04/04

NHK「日本の、これから」は逆啓蒙電波だ

 パーパの死んだ話とか、弾道先生が少し柔らかくなってきた話とか、書きたいことはいろいろあるんだがオチを考えるとうまく書けない。なんだかお笑い芸人みたいになってきた。

 なんでもうめんどくさくなってきたので、とりあえず週末に珍しく見てしまったテレビの感想でも述べておこうか。散人先生のブログを見て放映中だってことを知った、NHKの「日本の、これから」。既にあちこちのブログで感想が述べられている。

 見た、といっても実は最後の30分あまりしか見てなくて、しかもちょろっと見ただけで最高につまんなかったしくだらなかったのだが、その全体的なくだらなさというかバカっぷりが妙に気になった。まったくなあ、こういう番組に参加する奴は事前に内田センセイが「このところずっとこのことばかり考えてる」って書いている階層化社会についてのエントリぐらい、前知識として読んでから来いっつーの。

 普通にくだらないテレビ番組にはいちいち感想を言おうとか思わない人間なので、何で感想を書こうと思ったのか自分で考えていたんだが、そう思いながらあちこちのブログを見て回っていたら、僕の言いたいことをずばり書いてくれていたところ(ここここ)があったので紹介しておく。むちゃくちゃ鋭い論考だ。

 番組の感想を書いているブログのほとんどが「堀江の言い分は分かる、努力もしない貧乏一般人は嫉妬し杉」とか「奥谷みたいな人身売買で稼いだオバハンに『それなりに頑張れば幸せになれる』とか言われたくねー」とか、個別の登場人物に対する意見表明だった(あるいはただ単に日刊スポーツの嫉妬系まとめ記事に釣られただけ)のに対し、id:Arisanは「競馬場でたまたま勝ってる客と負けてる客が言い合ってる感じ」と一刀両断。や、まったくその通り。

 2つのエントリともそんなに長い論考ではないので、詳細はぜひリンク先を読んでほしいが、今「格差社会」という言葉が急速に注目を集めている理由というのは、内田センセイも書いている通り、実際の経済的な格差とか学歴による差別がどれくらい固定的であるか、ということよりも、そもそもそういう格差以前のところで「やる気の持てる人、持てない人」という格差が固定化されてんのじゃないか、という話である。

 少々くどいかもしれないが、その意味で山田昌弘の『希望格差社会』という本は、内田センセイも暗に指摘している通り、苅谷剛彦の『階層化日本と教育危機-不平等再生産から意欲格差社会へ-』の焼き直しに過ぎない。NHKの番組の議論は、まずこのレベルの水準にさえ達してない。Arisan氏の言う通り、資本主義社会という競馬場で負けた客が勝った客に向かって「俺は一生懸命予想したけどたまたま外れただけなんだ。お前の大穴馬券の上がり少し寄こせ」って言ってるだけの話で、それ自体が論者の知的水準の低さを物語る格好の証左だ。

 「努力すれば誰だって俺みたいになれる」って言うホリエモンもホリエモンだし、それに対して「あなたみたいな成功者には(僕らの気持ちは)分からない」って食ってかかるフリーターもバカ。ホリエモンは内田ブログ嫁。それからフリーターのお前、資本主義って言葉の意味、分かってます?今すぐ泳いで北朝鮮かキューバに逝っていいよ。お前の理想郷だ、楽しいぞきっと。

 あの番組が露呈した真の問題は、2つある。1つはNHKや番組の感想を述べているブログを含めて、多くの人が経済格差以前のやる気(or希望)格差が今論じるべきテーマであるという論理的認識を持っていないということ。もう1つは、Arisan氏の言うように「自分が相手の立場に立つ可能性を想像し、相手の言い分を聞いてそこから普遍的な論理を抽出する」という知的能力が、日本人の大人に致命的に欠如しているということである。

 前者の問題は、多分にNHKと三宅アナのファシリテーションやコメンテーターの議題設定能力に問題があったと言うべきだろうが、気になるのはそういう「うまく立ち回った奴とそうじゃない奴の間に知的能力、教養、そして経済力で格差ができるのは当たり前じゃねーか」という資本主義の原点がそもそもインプットされてない参加者がやたら多かったこと。

 これは、もともと日本の国が数年前までは実質的な社会主義国みたいな前提で動いていたのだから誤解が残っていて当然と言えば当然なんだが、それをきちんと解毒する対策をどうやっていくか(主に教育の部分で)という議論も必要なんじゃないか。

 後者の問題については、もう少し話はややこしいだろう。Arisan氏は、それが東浩紀の言う「ネオリベ的環境管理型権力」のなせる技ではないかという仮説を立てている。一方内田センセイは、恐らくこうした階層間の認識断絶そのものが、所得格差(とそれに伴う家庭環境、両親の知的水準の格差)によって生じているという苅谷説を支持し、(その前の『希望格差社会』の書評のエントリを読む限りでは)コミュニタリアニズムに救いを見出そうとしているようだ。

 僕自身はどう思っているか?Arisan氏にも内田センセイにもそれぞれ一理はあると思うが、僕自身は前回のエントリでも述べたように、こういう「他人の話を聞いて、自分がその立場に立つ可能性を想像しながら論理を抽出する」能力というのは、教育(それも、小さい頃だけではなくて恐らく生涯続く教育)としてインプットされなければできないことだと思うし、そういう努力を是とする社会規範、言語空間をきちんと作り続けなければならなかったはず、という意味でマスコミが一番その責を負うべきなんじゃないかと思う。

 つまり、世の中で一番声の大きい奴が人の言うことを聞かずに論理を組み立ててしゃべりまくっているというのに、いったい他の誰が「他人の言うことを聞いたうえで論理を構築しなければいけないなあ」なーんて思うんだよ!ってこってすよ。しかも一番問題なのは、マスコミの中でも一番啓蒙主義的な立ち位置を自認してきた朝日とNHKがこの体たらくであるということで(笑)。

 というわけで、こういうクソの役にも立たない、一般大衆の資本主義原理に対する無知蒙昧と知識人の議題設定能力のなさ加減をあまねく天下に知らしめ肯定するようなバカげた「逆啓蒙」番組を電波に乗せるNHKに、最大限の侮蔑と冷笑をお返ししたいというのが僕のささやかな感想である。つーか、いい加減に受信料払うの止めるぞコラ。

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2005/02/28

最低映画単位[kDm]の創造者、世を去る

 今の日本にラジー賞が存在していれば、間違いなくこれから10年以上は連続で「ワースト・オブ・ワースト作品賞」を毎年受賞し続けると絶賛罵倒され、実際に先月ラズベリーを翻訳しただけのベタな(というかこの映画を表彰するためだけにわざわざ作られた)「きいちご賞」をお約束通り受賞した、邦画史上最高のクソ映画「デビルマン」の那須博之監督が、何と亡くなったらしい。おそらく、というか明らかに、これもデビルマンの呪いであろう。

 これで那須監督の名前は、映画のつまらなさの単位である「キロ・デビルマン(kDm)」の創始者として永久に歴史に刻まれることになるのだろう。亡くなった直後に歴史に名を遺すことが確定する人というのは、本当にうらやましいものだ。僕もかくありたいものである。

 彼の次のターゲットとして既に昨年中に撮影も終了していた次作「真説・タイガーマスク」は、いったい公開されるのだろうか。個人的にはまったくどうでもいいことだが、古くからのタイガーファンを恐怖のどん底に陥れていたことでもあるし、今後の東映の動きがなかなか興味深い。(棒読み)

 それにしても享年53歳ですよ。業績云々はともかくとして、最近若死にする人が多いね。回りにも40代とかで亡くなる人があっちこっちにいるのでどうするよという感じ。

 個人的には子供が成人するのを見届けたら、あとはあまり長生きしたくないなあ。僕らの世代って生まれたときから化学調味料たっぷりなジャンクフードばっかり食ってきて、どうせ体の中にダイオキシンとかいろんな有害物質がたくさん蓄積されまくってるんだろうし、まず気持ちの問題以前に生理的にろくな老後過ごせないと思う。あと、雀の涙みたいな年金もらうはるか前に、サラリーマンなら50歳ぐらいでクビ切られてる気もするし。だったら何もかも子供の世代に譲り渡して、自分はさっさと世の中から消えるのが一番いい気がするなあ。

 そう言えば今塩野七生の「ローマ人の物語」の最新巻(13巻『最後の努力』)をチビチビ読んでるんだけど、ディオクレティアヌス帝の老後っつーのが、これがまた泣けるわけですよ。権力の頂点にあった人ほど、潔い引退とともに悲惨な仕打ちが待ち受けているんだよね。だから人間ていうのは、権力の座に座った瞬間に死ぬまでそこにしがみつこうと考えるわけで。

 だから潔い引退なんて、あり得ないわけですよ。あるのは老醜晒してしがみつく奴と、権力なんかと何の縁もなくそーっと世の中に現れては消えるだけの奴と。願わくば後者でありたいものです。

 最低映画単位からずいぶんと遠くまで話が来てしまいました。今回のネタのつまらなさは120[kR30]ぐらいでしたかね。単位の中に数字が入ってるのは、あまり見映えよくないですな。ブログのつまらなさを測る単位もそのうち考えなければ。ではこれで。

02:08 午前 映画・テレビ コメント (2) トラックバック (3)

2005/01/06

紅白FLASH合戦にみる、コンテスト型企画のイノベーション

kohaku_flash 本当はブログ定休日のはずだったが、昨日更新しなかったので軽いネタふりを。

 毎年年末に楽しみにしているのが、「紅白」である。歌番組の紅白ではない。2ちゃんねる動画板が主催する、「紅白FLASH合戦」だ。これが始まってから、僕は本家のNHK紅白をまったく見なくなった(笑)。

 僕は動画板の住人でもないのであまり詳しくは知らないが、紅白FLASH自体は3年前の第1回からずっと見ている。もともとは動画板のFLASH職人さんたちが「年に1回ぐらいまとめて成果を発表し合おうよ」というような話から始まったイベントだったように思うが、大会前のCM用FLASHからしてものすごいクオリティのものが続々寄せられ、身震いするほど感動したのを覚えている。

 で、本戦の方も超有名コテハン職人さんから無名の新人まで、PV(プロモーション・ビデオ)系から10分をはるかに超えるストーリー物まで様々なジャンルの、30本を上回る数の超力作が集まった。それを1つ1つクリックして出てくる映像を眺めるのは、NHKの紅白を見ているよりずっと面白かった。

 その後、公式スポンサーにマクロメディアが名を連ねるなど、イベントの規模もますます大きくなり、昨年末の第3回ではとうとう出品者も130人+飛び入りを数えるまでになった。僕もさすがにこれだけ並んだFLASHを1つ1つ見ていられないと思い、結局大晦日にはつまみぐい的に3~4点ほど見たところで挫折して寝てしまった。

 130点以上もの作品見て紅か白かに投票しろなんて、もう素人には参加できないイベントになっちゃったな…と思ってしょぼくれていたんだけれど、年が明けて紅白FLASH合戦の公式サイトをもう一度見に行ったところ、団体賞としての紅/白以外に、MVPからストーリー、素材、デザイン、感動、ユーモア、システム、技術まで13もの部門賞が設けられ、それぞれに優れた作品が選出・表彰されていた。

 さすが、名もなき人々の声を受けて果てしなきスクラップ&ビルドが繰り返される世界、2ちゃんねる(笑)。第3回を重ねるまでになったFLASH業界最大のイベントは、今や「紅白」と称しつつその実は「アカデミー賞」に限りなく近づいていたのである(笑)。

 これなら素人である僕のような人間でも、イベントの上澄みの最もいいところだけ味わえる。しかも部門賞に選ばれた各作品を見て改めて感動し、紅白FLASHの作品レベルも年を追うごとにますます上がっていると感じた。(以下FLASHの置かれているサーバが頻繁に変わる場合があるため、個々の作品にいちいちリンクしません。公式サイトから見に行って下さい)

 まずもって、BGMやシナリオのクオリティがすさまじい。感動賞を受賞したnae氏@N-GRAVITYの「ハクシャクノテンシ」は、原作、BGMのクラシックギターともプロによるものだし、システム賞を取った和茶氏@なにかがだめぽの「クリスマス中止撤回!」のJラップは、2ちゃん用語を盛り込んだクリスマスラップソングだが、歌だけでも十分格好いいし、それに映像もばっちり合っている。

 素材だけでなく作品全体の芸術性ということでも、1回目、2回目に比べて明らかにレベルは上がっている。MVPを受賞したみ~や氏の「NIGHTMARE CITY」は(最初のオープニング見てネタ系かと思ったが)最初から最後までこれでもかというほどのスピード感に圧倒されっぱなしだし、素材賞受賞の伊織氏@ミラーボールサテライトの「ベラドンナ」には美麗な写真やデザインがふんだんに使われており、ここまで来るともはや「アート」と形容するほかない。

 ま、あえてわがままを言うなら、テクニックやセンスが高品質過ぎて、絵は適当なコラージュだったりしょぼいだけだったりだけど見ていて吹き出すようなゲリラ風ナンセンス系FLASHが見られなくなったことかな。例えば、G-creatorsで2004年の年間グランプリを受賞していたこちらのような作品は、もはや紅白FLASHには出て来られなくなったということなのかもしれない。これは、出展作品全体のクオリティを上げるためにはある意味仕方ないことではあるのだろうけど。ま、それでもこのイベントは、今年以降もますます進化を続けるのだろうな。

 第3回の紅白FLASH合戦を見ていると、逆にNHK紅白の視聴率がなぜ落ち込み続けているのか、逆によく分かる気がする。紅白FLASHは、観客の楽しみを最大限に引き出すイベントの「仕組みのイノベーション」をたえず試みているのに対し、NHKの方はJ-POPからお笑い、海外のアーティストまで引きずり込んでおきながら、実際のところもう何十年も「出演者が2チームに分かれて出し物を出し合い、最後にどちらかのチームを選ぶ」という仕組みから1歩も出てないのである。

 観客の価値観は常に多様化し続ける。FLASH紅白だって、PV系が楽しみで見るという人もいるだろうし、FLASHと言えばゲームでしょ、という人もいる。僕みたいに、PVも2ちゃんキャラオンパレードもいいけど、それよりかはアート系やストーリー系の秀逸な作品も楽しみたいというわがままな客もいるだろう。

 たいがい、コンテストやランキングの企画というのは、その評価の仕組みそのものがコアバリューなので、1度やって当たったとしても未来永劫同じことをやっていけるわけはないのである。恒例になった企画そのものを盛り上げようと思えば、観客が前回の仕組みに飽きる前に、次の仕組みを考え出してリニューアルし続けなければならない。

 ところが、NHKもそうなんだろうと思うが、コンテストやランキング企画が大当たりすると、たいてい誰もが「今年も同じ企画をやれば、また当たるに違いない。少なくとも大きく外れることはないだろう」と思いこむ。成功体験が長ければ、それだけこの思いこみから逃れられなくなる。

 ところが、観客の方は毎年出てくる表彰者は違っても、評価の仕組みが同じである以上は「傾向と対策」を頭の中でシミュレーションできてしまうことになり、「ま、今年は○○と××がノミネートだろうね」とか「どうせこういう作品が出てくるよ」とか予測する。で、結果がよほど大きく事前予想を外さない限り「なーんだやっぱり思った通りだよね」という感想を持つ。そして、次の年からはもう関心さえも持たない。

 大当たりしたコンテスト形式の企画こそ、常にコンテンツではなく評価の仕組みのイノベーションが必要なのだ。NHKも、いっそ来年から紅白戦を止めて、というか止めなくてもいいけどそれと同時並行でアカデミー賞のような部門賞を作り、「演歌」「J-POP」「アイドル」「コメディ」などジャンルごとのノミネートを並べて選ぶ方式に変えたらどうかと思ったりする。ま、エビジョンイル首領様がいる限りはそんな冒険もできないだろうけどね(ところで、彼の本当の名前って海老何だっけ?)。

 ああ、軽いネタのつもりだったのに全然軽くなくなっちゃったよ。ゴメン>読者の皆さん

(18:00追記)って書いてからエキサイト・ブログニュース見に行ったら、似たようなことを書いていたブログを発見→眠れぬ夜はふりーぱと・・さんのこのエントリ。やっぱり昨年の紅白は相当に寒かったみたいね。しかも既に勝手にアカデミー賞化するサイトまで存在している。ネットってすげえ。というわけで、見ないテレビ番組の批評しかできないR30でした(笑)。

05:09 午後 映画・テレビ コメント (3) トラックバック (0)