2004/12/01

過保護の親に子育ての資格はあるか?

 「マーケティング社会時評」と題してブログを再開してみたものの、以前に比べて自分の関心領域がビジネスやマーケティングのフィールドからかなり遠ざかってしまっていることに気がつく。その代わり最近やけに気になってしかたがないのは、ニートや負け犬、専業主婦といったライフスタイル系の話と経済の境界線的な部分のことである。

 以前のように、仕事と会社に対して悪態をつくネガティブ・パワーがもう自分の中に薄れてきてしまっていることも理由としてはあると思うのだが、もう一方で自分の息子が少しずつ意味のある言葉をしゃべるようになってきて、「ある日突然こいつに人生の真理について尋ねられたら一体何て答えればいいんだ」といったことに恐怖を感じるようになったからかもしれない。

 そういうわけで、最近熱中して読んでいるブログも、ビジネスやらIT系の仕事絡みや世間の流行を追いかけたものよりも、人生の真理や家族の心など、不易のネタを軽妙に表現したものが多い。

 最近読んでいて妙に感動したのが、今や有名ブログの仲間入りしている「悪徳不動産屋の独り言」の中の、このエントリ。ブログの記事はどれも生々しい人間模様が描かれていてとても興味深いが、自分の息子の家出の一部始終を綴ったこのエピソードは、息子の将来の教育方針に今頃から頭を悩ませている僕にとっては、大変心を打つものだった。

 内容は読んでいただくとして、僕が興味深いなと感じたのは、ブログの筆者が息子や娘の取るだろう行動を見抜いていて、その上で反抗期の子供たちが間違いをしでかさないように、注意深く「本来してほしいこととは反対の指示や態度をわざと取っている」という点だ。

 家出しようとする子どもに「してもいいが、するなら二度と敷居をまたぐな」と言う。家で留守番して待つ娘には「お兄ちゃんが帰ってきても絶対にカギを開けたり、食べ物や着るものを渡すんじゃないぞ」と釘を差す。どちらも、本音は「バカなことしていないで、早く戻ってこい」、「親が留守にしている間に食べ物や服を渡してやれ」なのだ。

 どうせ反抗期だから、子どもは親の言いつけなんか守らず、親の目を盗んで子ども同士助け合う。それで兄弟姉妹の絆が強まる。それに、子どもは家出したら親が困って探し回るだろうと思ってするのである。「その手には乗らないから」とあらかじめ言い放っておくことで、再発やエスカレートを防ぐことになる。こう言ったら褒めすぎかもしれないが、この筆者は一種の「親の鑑」であろう。

 人間というのは面白い。道理を道理としてただ説けばいいわけではない時がたくさんある。わざと危険な目に遭わせなければ身をもって学べないこともある。人が人として恥ずかしくないように生きるための、そういう様々な情や掟を教えてくれる相手や場所というのは貴重である。社会に出てからでは人はみな他人だ。そんなことを赤の他人にわざわざ身をもって教えてくれる人などいない。

 学校というのはもともと人が社会集団や組織の中で生きていくための(職業的な)スキルを教える場所に過ぎない。先生が面倒を見なければいけない子どもの数も多い。だから全員でいっぺんに学べる「道理」だけを教え、世間の人とつき合って生きるための「情」や「掟」を教えてはくれない。それを教えてくれるのは地域か家族だけだ。

 しかし、かのブログに登場する様々なお客さんの様子を見ていても、日本の家庭にそれを教える機能はますます失われてきているような気がして仕方がない。地域はどうか。これもシステマティックになればなるほど、そうした「わざと危険な目に遭わせて学ばせる」といったことができなくなっていく。

 僕は以前(6~7年前)、ボーイスカウトのリーダーをやっていた。小学生のレベル(カブスカウト)の夏休みのキャンプに同行したのだが、その時に目を疑った覚えがある。

 ドラム缶と竹材を組んだイカダに乗って、湖に漕ぎ出そうというプログラムがあった。山の中の湖なので、水温は多少冷たいが、落ちて死ぬほどではない。水の深さだって岸から20m離れた程度の場所なら、せいぜい2~3mぐらいがいいところだ。しかも川ではなく湖で、急な水流があるわけでもない。僕が子どもの頃なら、一番ガタイのでかそうな年長の少年数人にオールを持たせ、「自分の後輩の頭数だけはちゃんと数えてろ。それと、あまり岸から離れるなよ」とだけ耳打ちしてあとは飛び込むなり何なり、適当に遊ばせるところだと思った。

 ところが、実際にはイカダに4本ものぶっとい救命ロープを結わえ、岸にいる父兄がそのロープの端を持っていつでも岸に引き戻せるようにしている。イカダの上の子どもが少しでも湖に腕など突っ込もうものなら、「○○ちゃん!危ないわよ!手を引っ込めなさい!」と、岸から母親の悲鳴が上がる。少年たちはただ、ボーっと湖の上のドラム缶イカダに座って湖面を眺めているだけだ。水遊びの楽しさ、怖さ、溺れないための知恵など、身につくはずもない。

 過保護もいい加減にしろと思ったが、その時のリーダー曰く、子どもの誰かが溺れでもしたら父兄やボランティアのリーダー全員が訴訟リスクに直面する、だから危ない真似は一切させられないのだそうだ。なんだそりゃ。命の守り方を教えている最中にたまたま事故があったからって、善意の父兄やリーダーを訴えて何になるんだろ。そんなボーイスカウト活動なら家族旅行に行って、親がつきっきりでも自由に遊ばせた方がよほどためになる、と心の中でつぶやいた。それ以来、僕はボーイスカウトの手伝いをしていない。

 最近はボーイスカウトどころか、家族の中でさえ危険なことには子どもに指一本触れさせない親も増えている気がしてならない。他人に自分の子どもが叱られると、詫びるのでなく子どもと一緒に叱った大人をにらみつける。叱りつけた人はわざわざ他人の子どもに良かれと思ってしつけをしてくれているのだ。親としてお礼を言うか詫びるかするのが当然だと思うのは、僕だけなのだろうか。

 子育てに限らず、他人とのつき合いを「損か得か」「こっちの論理か相手の論理か」みたいなゼロサムでしか考えない人が増えた。それはやはり、人づき合いはゼロサムではないと教える地域内や年代を超えた人の絆がなくなったからだろう。

 昔はドラマなどで「アンタなんか、子育て失格の親だよ!」とかおばあさんに怒鳴りつけられる若奥様が屈辱にうち震えて…みたいなシーンがよくあったような気がするが、今どき町中ですれ違う若い人たちのうち、いったいどれだけがまがりなりにも「子育ての資格がある」人と言えるのか、眺めていてはなはだ心許ない。

 ま、僕を含めての話だけど、そういう人たちに何を学べと言えばいいかというと…難しいよな、実際。以前は、子育ての資格なんて言葉で教えられるもんだと誰も思ってなかったしね。ただ、1つの解決策としてはこういうブログを読んで、大人として知っとくべき人の心の機微を学ぶっていうのもあるんじゃないかと。こちらの結論も甚だ心許ないですが。うーん眠いし何言ってるかよくわかんないかも。ごめん。

02:25 午前 育児 コメント (3) トラックバック (2)