2006/03/24

劇評『ベケットライブvol.7 見ちがい言いちがい』

ベケット・ライブ (c)宮内勝 前回「95年に演劇に絶望した」みたいなことを書いて以来、オンライン・オフラインでいろいろな人から感想をもらい、本当に久しぶりに芝居を観に行ってみようかという気になった。

 久しぶりだけに何を観ようかかなり迷ったが、世間的に「面白い」と言われるような芝居に行くのは止めて、あらゆる意味でその面白さを観る側がすべて引き受けなければいけないような芝居を観たいと思った。で、選んだのがサミュエル・ベケットである。

 スリーポイント ベケット・ライブ vol.7 『見ちがい言いちがい』(宇野邦一訳・三浦基演出・鈴木理江子出演、下北沢「劇」小劇場)

 知らない人のために少し説明しておくと、サミュエル・ベケットというのは、20世紀のアイルランド出身の劇作家で、「不条理劇」と呼ばれる演劇ジャンルの代表とされる人である。不条理劇とは何かについて説明し始めると長くなるので省略。要するに、一般の人が演劇を観てイメージする「(社会的なコンテクストによる)意味の付与」を拒否するような、支離滅裂な芝居のことを言う。

ゴドーを待ちながら    ベスト・オブ・ベケット ベケットの代表作といえば、ウラジミールとエストラゴンという2人の男が、いつまで経っても現れない「ゴドー」という人物が来るのを待ちながら舞台上で延々と無駄話やどたばたを繰り広げる「ゴドーを待ちながら」という劇(1952)だが、この芝居は日本の戦後演劇にも多大な影響を与え、今もいろいろなところで引用されたりしている。読めばそれなりに面白い戯曲なので、興味のある人は原作を読まれると良いだろう。

 「ゴドーを待ちながら」は、いつまで経っても現れない人物を、なぜだか分からないけど待つことになっている2人の男という、不条理な状況を描いた演劇ではあるが、この芝居を上演する場所や演出によって、2人の男がなぜ「待つ」のかという理由が外部の社会コンテクストから与えられることになる。

朝日のような夕日を連れて 例えば鴻上尚史が85年に「第三舞台」旗揚げで上演した『朝日のような夕日を連れて』は、ゲーム会社社員4人の新製品開発に舞台を置き換えることで、際限ない消費と戯れの日々に飽き足りなくて恋愛、新興宗教といった形而上的な「救済」を求める現代日本の状況を「待つ」人たちを描いた。また、90年代に哲学者のスーザン・ソンタグがユーゴ紛争のまっただ中のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォで上演した『サラエヴォでゴドーを待ちながら』では、それは戦火の中で待てども来ないNATO軍を観る者に想起させた。

 劇それ自体に「コンテクストの意味」を持たない不条理劇は、観る者の社会的コンテクストをそのまま取り込み、映し出すことになる。「ゴドーを待ちながら」の場合は、「永久に来ない何かを待つ」という行為に対して、観客の側の社会的コンテクストが問われるのである。

この時代に想うテロへの眼差し 今回観た芝居は、後期ベケット作品の特徴である「観る側のコンテクストを問う」という不条理劇の働きを、さらに徹底している作品である。

 舞台上にはスピーカーや液晶テレビがあり、役者がしゃべっていない時にもそこから様々なトーンの台詞が流れる。または、スライド映写機によって意味があるようなないようなテロップが壁に投影される。役者もまた、それらと同じような台詞、シンクロする台詞、微妙にすれ違う台詞をしゃべることもある。

 しかし、それらの言葉は役者の動作とはほとんど関係がない。舞台美術も同じだ。壁には枕が1つ、つり下げられている。袖近くには鍬と椅子が置いてあり、舞台前方には写真アルバムと茶碗、スプーンが置いてある。舞台の中央右手には、枯れ木から出た枝にくくりつけられたハンガーに掛かったコートと、ブーツが置いてある。これらの舞台上のオブジェも、その存在や配置にも(おそらく)ほとんど意味がない。

 出てくる台詞、役者の動作、舞台上の物体には、それぞれに微妙に関係があるように思える場面もあるが、その意味合いが前後の言葉やシーンと何か関係があるわけでもない。観客の側は、舞台上で流れる台詞や動作、オブジェなどに何らかの関係、つながり、またはかすかな意味を求めようとするたびに、その次の瞬間にはその“希望”を断ち切られる。

 舞台上には台詞が流れ、役者が動いており、それらと舞台上のオブジェの微妙なかかわりは「ある」ように見えているのである。にもかかわらず、観客がこの劇の意味を自分のいる社会的なコンテクストの中に探そうとする、あらゆる意識さえもが否定される。

 そこで問われるのは、純粋にこの劇を(社会に依存しない)純粋な「自分」としてどう捉えるのか、言い換えれば「社会的関係を絶ったところでの“自分”は、どのようなコンテクストの中にこの劇を置くのか」ということだ。「面白くない」と思うことは自分自身というコンテクストが面白くないと言っているのと同義だし、「すごい衝撃を受けた」と感じることは自分が自分というコンテクストに衝撃を受けたのと同じことなのだ。

 幸い僕はこの芝居を観て、普段考えもしないような様々な感情が浮かび上がってきた。特に、液晶テレビに舞台上の俳優の姿を舞台上の監視カメラで撮影した映像が映るというシーンがあったが、これに何とも言えない不思議な気分を味わった。目の前には舞台をゆっくり歩いていく俳優の姿が見えているのに、自分はどうしてもテレビに映る俳優の後ろ姿に意識を取られてしまうのである。目の前に生の人間がいるのに、それを監視カメラとテレビを通じて見るほうに意識を取られてしまう自分とは何なのだろうか。うまく言葉にできないが、舞台を見ながらぼんやりとそんなことを考えていた。

 あらゆる意味で「意味を付与される」ことを拒否する芝居を観ることによって、僕は少なくとも僕自身の中のコンテクスト、感受性のようなものが、普段の仕事や日常の生活を生きることですり切れてしまってはいないことを確認できた。これから少し、その感受性を大切に守りながら、もう少し他の芝居にも足を運んでみようかと思う。

10:24 午後 演劇 コメント (28) トラックバック (1)