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2007/05/18

ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?

 磯崎さんのところで見た新語にちょっと興味を引かれたので、つらつらと思うことを。

 ポリバレントな人材(isologue)

 「Polyvalent」って本来は化学用語らしいけど、日本語にすると要するに「多能工」ってことでしょ。英語にすると新しい話みたいに聞こえるけど、日本の製造業はもう数十年以上前から多能工の持つ価値を見抜いていて、その生産性の高さを引き出すための方法すら編み出している。そう、いつものアレです、「トヨタ生産方式」です。

 こういう、耳新しいカタカナ語で語るとすぐに皆さん飛びつくんだけど、なんだかなあという感じ。いちいち英語で言われて気づく前に、日本オリジナルの知恵をもっとよく勉強して、大事にすればいいのに。そんなに難しいことじゃないと思うんだけどな。

 ものづくりの世界での「多能工」の意味には、まず作業負荷の平準化がある。つまり、ある工程の作業ができる人というのがライン内に複数いることで、その工程の作業の負荷が一時的に増えてもそれを前後の工程の人が分担できる、だから生産ライン全体で見るとボトルネックが生じにくい、というのがそれだ。

 ただ、多能工のメリットはそれだけではなくて、複数の工程をこなせるため仕事に飽きが来ない、複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができる、そして熟練すれば単工程の作業をこなせる人よりも多くの人から尊敬を集められる、といったこともある。言うなれば作業者のモチベーションそのものを高めることができまっせ、というのが多能工化の本質的な価値である、とトヨタ生産方式の中では言われているわけだ。

 これだけ明確に謳われているにもかかわらず、ものづくりの世界から一歩出ると、多能工化を嫌う人が世の中本当に多いのね。特にその傾向が顕著なのが、磯崎さんのブログでも書かれているような「士業」の世界、それから学問の世界の人たち。いわゆる「専門家ホワイトカラー」系の世界の住人である。この方々は1つの領域に深く深くはまってる人にこそ最高の価値があると思っていて、複数の領域を股にかけて何の専門家なのかよく分からないぐらいいろいろな領域に足を突っ込んでいる人を、ことさらに卑下するさげすむ傾向がある。

 「専門性」という名の下に隠蔽されたこれら「専門家」の視野狭窄、柔軟性のなさ、そしてもっとぶっちゃけて言うと「使えなさ」みたいなものは、最近とみに深刻だと思う場面が増えているのだけど、当の専門家の間にはそういう世間の評価に対する反省というのがまったくないというのがさらに深刻ですな。要するに、知的退廃というヤツでしょうか。率直に言って頭が悪いんですな、特定の「専門領域」しか持たない人たちというのは。あるいは現実の社会を知らないというか。

 個人的には、その元凶となっているのが「大学」だと思うわけで。アカデミズムの世界ほど、特定分野の専門性を掲げずにいろんな領域を横断的に考える人間の評価を、不当に貶めているところもないと思う。確かに純粋科学の領域などでは、特定の専門領域に深く深く入っていく、生涯をかけて取り組むことで達成できる何かもあるとは思いますよ。でも実際の世の中で役に立てようと思ったら、複数領域の専門性を併せ持っている「多能工」な人のほうがずっと高い価値を生み出せる。だったら、純粋学問と社会の間の「実務系学問」の領域ぐらい、多能工専門家の評価をもっと高くする仕組みとか、あってもいいんじゃないかと思うのだが。

 こと「士業」の世界では、純粋学問の人たちの人材に対する価値観がそのまま実務的専門家の評価にも滲み出してしまうものだから、社会的ニーズの高まりそっちのけで融通の利かない視野狭窄な専門バカが大量に生まれるという弊害が生まれているわけだ。そして、既存のアカデミズムに依存しなければ自分の目で人材が有能かどうかの判断すら付かない人たちが、その価値観をさらに再生産するという悪循環が延々続く。まったくもって、どうしようもない。

 まあ、既存のアカデミズムはそういうところは永久に変わらないかも知れないだろうけど、せめて実務家の側からでもそういう価値観に異を唱えることはしていくべきじゃなかろうかと。多能工の本質的価値というものを、もう少しホワイトカラーの人たちも考え直して、人材評価に反映させるとかした方がよろしいんじゃないでしょうか。なんてことを思ったですよ。そんな話はどうでもいいですかそうですか。では。

12:36 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (5)