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2007/04/19

書評『超地域密着マーケティングのススメ』

超地域密着マーケティングのススメ 4月1日に発売されていたのを見て、気になってすぐに入手して読んだのだが、その後インフルエンザに罹って書評を書いている時間が取れなかった。Amazonでも売れているようだが、良い本だと思う。とても28歳の人が書いたとは思えない。

 何より良いのは、難しい理論をごちゃごちゃと書いたりしていないことだ。ところどころ、ジェフリー・ムーアの「キャズム」の概念とか、web2.0とロングテールがどうとか書いてあったりするが、そんなことは一言も書かなくても良かったとすら思う。

 商売の中で最も大事なことは心だ、時間だ、そして地域という場所なのだという、当たり前のことをしっかりと、実際の話を元に書いてある。タイトルには「マーケティング」とあるが、マーケティングの本ではない。これはれっきとした、そして最近まれに見る素晴らしい「営業」についての本である。

 読後の最初の印象は、「素晴らしい、やられた」というものだった。実は自分もこういう内容の本をかつて企画したことがあった。世の中の人が「マーケティング」と騒ぐ、そのレベルの話のなんと空しいことか、そしてそうした小賢しい企ての向こう側で、顧客とじかに魂を触れ合わせながら生きる「地域に根ざした」小売業の人たちの生き様の、なんと美しく心を揺さぶるものであるか。そういうことを、何とか伝えてみたいと思った。でも思いは果たせなかった。たぶん自分には、そのことが頭で分かってはいても、他人に伝えるだけの重みのある言葉が、足りなかったのだろう。

 本書の著者の平岡氏は、前書きで次のように書いている。

何度お客様めぐりをやっても、手配りで粗品を配っても、あなたがその人を知らず、その人があなたを知らない限りは、ただの通行人です。物語においても、登場人物は役の名前が付いて、初めて覚えてもらえるのです。

あなたが、お客様の「人生の登場人物」になること。

 これこそが、地域に根ざした商売のエッセンスなのである。そう言っても、実感として分からない人には絶対分からない話なのだけれど。

 この本を読んで、昔取材した九州のある小さな家電専門店のグループのことをずっと思い出していた。その家電専門店のグループの経営者は、どこにでもある昔ながらの家電店、大手の量販店が近くに店を出して客をごっそり奪われ、積み上げてきたものをすべて失って赤字を垂れ流し、「もう店を畳もうか」と悩む店主に対して、こう語りかけるという。「あんたが店を畳むのは、あんたの勝手だ。だが、あんたから商品を買っていたお客さんは、これから誰のところに相談しに行けばいいのか?お客さんを本当に大切に思っているのなら、売った責任を最後まで取らなければ」。たいていの人は、これで店を畳むのを思いとどまるという話だった。

 田舎というのは、そういう場所だ。「あなたは、ここに住むすべての人たちに対して、責任がある。ここに住むすべての人たちも、あなたに対して責任がある」、何もかもがそういう関係で成り立っている世界である。店は商売のためにあるというよりも、その「責任」の維持のために存在しているといった方が実感がある。

 平岡氏の「マーケティング」、あるいは営業論というのは、地域に根付くとはどういうことか、それを生業として生きていくとはどういうことか、ということを、ある意味とてもわかりやすく、彼自身の遍歴と経験に即してまとめたものである。読めばそんな突拍子もないことが書いてあるわけではない。だが、この「当たり前」を、すっかり忘れてしまった地域のお店というのも、結構多いのではないだろうか。

 この10年あまり、「田舎くさい人付き合いは嫌だ」、「ベタベタするのは若い人にはもう好まれない」などと言いながら、多くの人がこのような人間関係構築の技法をおざなりにするようになった。しかし、人は年を取れば孤独になる。したがって、日本にはますます孤独な人が増える。そうした時代の流れに乗じて、田舎くさい人付き合いを装って人を騙す詐欺師がますます跋扈するのを止められないのを見ても、その部分が何か新しいものによって埋められたわけではなく、ただポッカリと空いた「心の穴」となって広がっただけなのではないかと思わざるを得ない。ある意味、地域に根差す商人の「怠慢」の結果とも言える。

 この本は、地域密着の商売とはどのようなものかを語った本でもあると同時に、こうして空いた心の穴を埋める生き方をするための心掛けも教えてくれる、希有な本である。もっとも、かつては両者は同じものの表と裏だったに過ぎない。この穴を埋めることのできる人に対する、今後の世の中の潜在的ニーズは莫大なものがあると思う。あらゆるビジネスにおいてこの穴を埋める技法を知って、ビジネスの仕掛けの中に組み込むことが求められてくるのではないだろうか。

 「マーケティング」という言葉の入ったタイトルで、この本の価値を矮小化してしまう人が出るかもしれないのは、実にもったいないことだ。うまく言えないが、これは「人が他人の人生の物語に、モノではなく生きた登場人物として登場するにはどうすれば良いか」について余すところなくそのハウツーを語った、他に類を見ない希有な本である。

 企業に所属しているか、それとも独立自営しているかに関係なく、ビジネスというものを自分の人生にとって「カネを稼ぐための手段」以上の大切な何かだと少しでも思っている人であれば、今のうちにこの本を買って読み、自分の仕事にどう生かせるか、あれこれ思いを巡らせておいたほうが良いだろう。そういう、ビジネスに「魂の触れ合い」を求める人のための、素晴らしい1冊である。

04:32 午後 書籍・雑誌 コメント (10) トラックバック (1)

2007/04/09

政治的に(ぎりぎり)正しいメディア・アート

 選挙期間が終わるまでは怖くて(自分も含めて)誰も言い出せなかったのかもしれないが、今回の都知事選で何が面白かったといって、それは「選挙」というものを素材にした、見事な国際的メディア・アートが登場したことであった。そう、「外山恒一の政見放送」である。ここには、ニコニコ動画にアップされたものを転載した、最もサウンド・エフェクトの秀逸なものを1つ貼っておいた。ほかにも、YouTubeで「外山恒一」と検索すれば、さまざまなエフェクトを施された秀逸な動画が無数に視聴できる。

 「メディア・アート」の定義については、このブログの2004年11月の記事でも取り上げているし、あるいは東京芸大の藤幡氏のインタビューを読んでもらえれば良い。狭い意味では、「我々を取り巻く新しいメディアやテクノロジーと、我々自身との関わりを意識化しようとする表現の試み」とでも定義すれば良いのではないか。海外ではそこに「社会批判的メッセージが込められていること」という条件が付くようだが、その定義をすべて適用しても、これは完璧な「メディア・アート」であるとしか言いようがない。

 外山恒一氏のこの政見放送を「政見放送」として聴た人は、おそらくドン引きしただろうが(ニコニコ動画のコメントにも「はぁ?だったら選挙に出るなよ」といったものが多かったが)、そもそも数十万円から数百万円の供託金さえ支払えば、誰でも複数のテレビメディアを5分間好きなように乗っ取れ、選挙公報の紙面の(朝日新聞の広告単価に換算すれば)1000万円以上の広告価値のあるスペースを利用することができるという仕組みそのものは、今に始まったことではない。

 東京都知事選挙は、夜間人口のみならず首都圏の人口を含めれば4000万人以上の人口に対する宣伝が可能で、しかも全国的にも最も注目を集める選挙でもあるため、立候補することによる広告効果は、うまくやれば300万円の供託金をはるかに上回るものが得られる。実際、他の立候補者の顔ぶれを見ても分かるとおり、この制度は当然のようにタレントや個人事業家の売名行為、広告目的に使われており、それは民主主義の代償として仕方ないことであるとはいえ、醜悪なものである。

 その点、外山恒一はこの制度を個人の商業目的には使わなかった。のみならず、彼はこの仕組みを利用して、(本人は意図せざる結果だったらしいが)古いメディアと新しいメディアの両方と社会の関わりとを、強烈な批判の俎上に晒してみせたのである。これをメディア・アートと言わず、なんと言おうか。

 彼がこの政見放送を「ネタ」として行ったことは、ちょっと考えればすぐ分かることだ。演説の中で「多数派」「少数派」といった、70年代新左翼運動のカリカチュアライズを強く意識したようなレッテル貼りの単語を多用していることでも気づくだろうし、「もし私が当選したら、奴らはビビる!私も、ビビる」と、最後に「種明かし」していることだけでもネタだと分かるだろう。また、右に貼り付けたように、実際に外山恒一に電凸した人のルポルタージュ動画がアップされているので、それを見れば政見放送でのしゃべり方が普段の外山氏本人とはまったく別の「演技」であることも分かる。

 この演説を聞いて「こんな危険思想の奴を放置しておいていいのか!」とか憤慨した人は、釣られましたねお疲れ様とお声掛けするしかないわけなのだが、面白かったのはこの動画がちゃっかり中国語韓国語の字幕までつけられてYouTubeにアップされていたことである。既に消されてしまっているようだが、中国語版を作ってアップした人の紹介コメントが、日本語と中国語の両方で書かれていて、日本語では「私には投票権がないが、こうした問題意識を持っている人がいるということを知って嬉しい。選挙後にぜひ彼とともに革命を起こしたい」とあり、中国語では「こんなに笑える滑稽な政見放送が、日本では公共の電波で放映された」とあったのを見て、この人はジョークの分かる人なのだと思って嬉しかった(韓国語版のコメント欄は残念ながらジョークの通じない人によって荒れているようだが)。この動画が、大衆社会の政治やそれを批判する人々自体をカリカチュアライズしたアートをきちんと許容できる文化レベルがあるかどうかのリトマス試験紙にもなっているところが、興味深い。

 そして、国内ではご存じの通り、政見放送という「著作権の生じない著作物」を、ネット上の無料動画共有サイトにアップすることの政治的是非が話題になった。一介の前衛アーティストが、豪快に権力を「釣る」のに成功した瞬間である。これこそ、日本に稀と言われた「社会批判のメッセージが込められた」メディアアートの、金字塔的成果というべきではないだろうか。

 今回の外山氏のパフォーマンスを、私は「政治的に(ぎりぎり)正しい政見放送(The Politically Barely Correct Election Broadcast)」と名付けても良いのではないかと思っている。外山氏には、こうしたラジカルなメディアアートに対する理解者が、東京都民だけで1万5000人もいたということを支えに、ぜひ国際的なメディアアーティストとして末永く活動を続けてほしいと期待するものである。

02:41 午後 文化・芸術 コメント (17) トラックバック (10)