例のテンプレレベルな憂国談義で盛り上がりたい向きはともかく、この問題については、昨年8月の読売新聞の記事がちゃんと解決策まで提案しているので、そちらを見るべし。逆に言うと、問題だけ投げ出して何の分析も解決へのヒントも提示してない産経は、ただの無責任なセンセーショナリズムと言われてもしょうがないんじゃないかと思う。それに見事釣られるはてなダイアラーおよびはてなブックマーカーの皆さんも、それはそれでアレなわけだが。ブロゴスフィアって楽しいっすね。
読売の記事が良いと思うのは、このテーマをめぐっては教師と親、それぞれの価値観が根本的に食い違ってることが問題の本質であることを、きちんと指摘している点だ。実際、はてなダイアラーの皆さんの言う「キチガイ親」のことを教師がどう批判するかを聞けば(読売には教師の側のコメントも書かれているが)、教師の側も同様に「キチガイ」に見えることは必定だ。この点を認識せずにどちらか一方だけを「レベルが低い」「キチガイ」と批判していても、何も始まらない。
問題の根源はそもそも教師と親の双方がお互いの価値観、もっと言えば「常識」を何ら共有してないところにあるわけだ。例えば産経の記事では、
小学校の1学年全クラスの担任配置表を独自に作成し、「この通りでなければ子供を学校に行かせない」と要求した保護者もいる。
と書かれていて、これだけ読むとエゴイズムの極まったDQN親のように見えるが、朝日の場合は同じ事例について、もう少し具体的な状況を書いてある。
関西の住宅地の小学校に勤務する教諭は、母親から1枚の紙を示された。見ると「1年1組 ~先生」「2年1組 ~先生」……。全学級の担任配置案だ。母親の子の学級には、力のある教師の名が書いてある。「この通りでお願いします」と親は屈託ない。「うちの子を~先生のクラスにと希望されたことはあったが、全担任案とは」と教諭は驚きを隠せない。
これを読むと、必ずしもこの親の“非常識”を責められないようにも思えてくる。
もしかして、この母親から見るとこの中学校は、子供との相性を無視した担任の変更を繰り返したり、特定の学級だけに「力のある教師」を張り付けたりして、教師の配置のマネジメントがてんでなってないように見えていたのかもしれない。「自分の子供に良い教師を付けてくれと主張するだけではエゴ丸出しと取られてしまう。それなら、全学年全学級の子供と相性の良い担任の配置をこちらで考えて提案してあげよう」と考えた可能性だって、ないわけじゃない。
そもそも、朝日の記事からは、表向きは「平等な教育機会」を標榜する義務教育にもかかわらず、この学校では教師ごとに指導力の差があることを学校側が認めているようにも読めるわけで、親の側に「平等と言いながらクオリティコントロールの努力さえ放棄するなんて、ふざけるな」と言われても仕方がないような気もする。
かくも「学校」にまつわる「常識」というのは時と場合と相手によってさまざまなわけで、これを埋める努力なくしてお互いを「キチガイ」呼ばわりしていても、現場の問題は何の解決にも至らない。この件に関して、実際の現場の教師の方からもブログで良識的な意見が表明されているが、その中で述べられている「この件は、もう少し慎重に考えたほうがいいのではないかと思ったわけです。下手をすると、教師と保護者との関係がますます希薄になってしまうことにつながるのではないかと心配しているのです」という危惧は、かなり的を射たものだと思われる(ちなみに、そのブログのコメント欄には小野田先生ご本人も降臨)。
個人的な経験から言えば、我が子のことを一途に考え、端から見るといくら何でもそれはあり得ないだろうというような要望を学校に持ち込んでくる親は、たいてい教師あるいは学校側責任者との1対1の場でそれを言う。親がたくさん集まっているような場所では絶対に言わない。なぜかというと、(1)回りに他人の親がいる場所で自分の子供のエゴだけ主張しても認められないことは分かっている、(2)たいていの人は周囲の空気を読み、それに合わせて振る舞おうとする、からだ。
つまり、ここから言えることは、親に学校というものに要求して良いことと悪いことを判断させる「常識」というのは、学校側と親が1対1で相対していては絶対に伝わらないけれど、親同士が集まっている場所ではその場の空気を「常識」とすることで伝達が可能だ、ということである。
であるならば、学校はもう、個々の親の「常識」が自分たちと一致していることを期待するのではなく、なるべく学校側にとって負担の少ない「常識」を、親を集めた場の中に醸成するにはどうすればよいかということを考えた方が良い。学校から一方的に情報を提供し、それに黙って従ってくれることを期待するのではなく、親をグルーピングしてそこにある適切な刺激を与えることで、自律的な状況判断がコラボレーションされるのを期待するのである。曰く「学校2.0」である。
例えば、親だけが参加できる「保護者SNS」を作り、コミュニティーの管理者には教師ではなく、複数の子供をその学校に通わせているような、経験と分別のある先輩保護者の代表(複数のチームでも可)をあてる。もちろん、その保護者には管理者としてのフィーを多少は払ったうえで、学校側と緊密なコミュニケーションを取りながらSNSの運営をしてもらうのだ。
SNS上では、管理者の親から、例えば季節の行事ごとに「初めて運動会に参加するお父さん、お母さんにワンポイントアドバイス!」とかそういうほのぼのトピックを流してもらい、参加している親の関心を惹く。また同時に学校の運営についての親同士の意見交換もどんどんしてもらい、ある程度意見がまとまれば管理者を通じて学校に提案を出すというかたちにする。
そうすると、多くの親はこれまでに学校にどんな提案がなされ、どういう経緯で実現してきたのかをログで確認することができるし、どんな提案がどういった理由で実現されなかったのかも知ることができる。つまり、どの程度の要求なら通り、通らないのかの「常識」が身に付く。また、他の親が自分と同じような悩みを抱えていることを知り、それをどう解決しているかも相談したり、一緒に考えたりすることができる。つまり、自分の悩みをストレートに学校にぶつけようと考えなくなる。
もちろん、そういうコミュニティーでの議論を飛び越して自分のわがままを学校側に直訴するような親もいるだろう。だが、その内容も学校側から管理者のグループがきちんと聞き取って、プライバシーが分からないような範囲でコミュニティーに「報告」としてアップし、親同士の議論のネタにすれば、そのうち誰も「抜け駆け」はできなくなる。「抜け駆け」を繰り返すような親は、逆に親同士の間で問題視されることになり、学校側もコミュニティーでの反応を理由にその親を「無視」できるようにもなるだろう。
実際の運用にはなかなかデリケートな部分も多々あるが、少なくとも管理者役の親と学校(教師)側がしっかり相互理解のもとに「握る」ことができれば、この仕組みは長期的には親からのクレーム対応に費やす学校側の負担を大きく減らすことにつながるはずである。
これまでも学校と保護者の連携の場としてPTAという建前があったが、実際にPTAと学校がどんなやり取りをしていてそれがどこまで「常識」的なのか、一般の親にはうかがい知ることはできなかったし、それらのやり取りが「ログ」としてどこにも残っていなかったので、過去にどんな積み重ねがあるのかも分からず、その結果自分の子供を預ける時の不安が解消されないという問題が残った。
SNSなどのネットワーク・コミュニティー機能を使い、集合知としての「常識」を代々の保護者に移転していく「学校2.0」の仕組みが実現すれば、学校は少なくとも親にとってずいぶん安心できるものになるのではないかというのが、ネットジャンキーな僕の妄想である。文科省も阪大の小野田教授の研究プロジェクトに上乗せして「学校2.0実験校」とかやってSNSシステムを開発して、うまく行ったらそのSNSシステムを全国の公立学校に横展開するようなカネの使い方をすればいいと思うのだけど。
ま、そこまで文科省や学校関係者のITリテラシーが高かったら、そもそもこんな問題が世の中に蔓延してませんかそうですか。それは大変失礼しました。