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2006/07/24

「残り物」を総取りするAMDの戦略

 1月にApple、Intelといったホームユース側に期待を賭けるプレーヤーに視点を当ててこんなエントリを書いたが、どうもちょっと逆サイドのプレーヤーの戦略のほうが面白そうだ。というので、半年前の読み違いを反省しつつエントリ。

 AMD、ATIを55億ドルで買収へ(ITmedia News)

 フレームワークのレイヤーが上位層に移るほど、下層のレイヤーはプレーヤーの統合が進む。 今さら言うまでもないが、現時点のコンピューティングの中心的フレームワークは、ブラウザである。そしてこの流れは恐らく今後10年は変わらないだろう。

 だとすれば、ブラウザより下のレイヤーのプレーヤーは可能な限り統合され、シンプルなソリューション提供に徹するべきだというのが、このアクションに秘められたAMDの戦略と言えるのではないか。まさにIntelと逆さまのアプローチである。ちなみにIntelの戦略動向についてはayustety氏による先月のET研報告を参照のこと。

 Dual-Core、そしてgraphic processorまで入れたQuad-Coreへと、PCにおけるgrid computing技術の実装が急激に進む中で、AMDの生き残り戦略はなかなか巧みだ。graphic processorとの統合というのは、かつての90年代前半のCyrixの戦略のそっくり焼き直しといえばその通りなのだが、あの当時は誰もがPCの構成要素にconsciousだった。今は違う。ブラウザさえきちんと動けば、もう誰もPCの中身など気にしない時代になった。AMDは、池田信夫氏言うところの「ウェブには『三度目の正直』がある」をまさに地で行っている。

 Viiv、vProへと上位レイヤーのビジネスに必死で食い込もうとする戦略展開を図るIntelよりも、GPUチップメーカーを統合して「ボックスの中身をシンプルに」していこうとするAMDのほうが、少なくとも彼らのコア顧客であるビジネスユーザーから見れば魅力的に見えるだろう。ここは目の前の要塞構築の総仕上げにあたる。

 そして、2~3年後という中長期のスパンで見れば、敵の最後の牙城であるモバイル系プロセッサへの侵攻にもメドが立ってくる。まず、Intelがサーバ系技術の応用であるチップコアの複数化に、ホームPCへの実装で先鞭を付けてくれている。そのうえ、ITmediaの記事を読む限りでは、AMDはIBMとのアライアンスで対Intel戦略上の課題であった45ナノ以降のプロセス開発でも急激な追い上げをものにできそうだからだ。

 AMDといえば、今年3月頃にはサーバのビジネスクライアントとして恐らく世界最大のGoogleにも猛烈アプローチをかけていた話が報じられていたっけ。以前のエントリで僕はGoogleを「ホームユースに期待をかける」側に分類していたが、これは間違いだった。Googleはもちろんそちらの市場を収益源としてはいるのだが、Google自身のコスト構造から考えれば、GoogleがわざわざOSSで構築しているサーバのアーキテクチャーに口を出そうとするIntelよりも、grid computingに適切なハード・プラットフォームを提供してくれるAMDとアライアンスを組んだほうが、よほどメリットが大きい。

 AMDのこの的確すぎるアプローチを見ていて、PCビジネスを自社規格で覆い尽くそうとするIntelのポジションが、製品戦略上最終消費者とのタッチポイントを持たない彼らにとって実は画餅に過ぎないのではないかという懸念を感じているのは、僕だけだろうか。

03:18 午後 ビジネス コメント (14) トラックバック (2)

学校2.0

 はてブではなぜか産経の記事だけが盛り上がっているが、昨年の朝日の記事のほうがずっと詳しいのでそちらを読まれたし。

わがママに先生困った 保護者の「無理難題」(asahi.com)

 はてブからたどれる言及ブログでは「嘆かわしい」「教師より親のレベルの方が低いんじゃないのか」「この国の将来が心配だ」等々、知ったような口をきいてる方々が多数いらっしゃる。あはははは。みんなはあちゅうテンプレ、好きだなあ。今度は「絶対保護者改革」ですよね、やっぱ。

 例のテンプレレベルな憂国談義で盛り上がりたい向きはともかく、この問題については、昨年8月の読売新聞の記事がちゃんと解決策まで提案しているので、そちらを見るべし。逆に言うと、問題だけ投げ出して何の分析も解決へのヒントも提示してない産経は、ただの無責任なセンセーショナリズムと言われてもしょうがないんじゃないかと思う。それに見事釣られるはてなダイアラーおよびはてなブックマーカーの皆さんも、それはそれでアレなわけだが。ブロゴスフィアって楽しいっすね。

 読売の記事が良いと思うのは、このテーマをめぐっては教師と親、それぞれの価値観が根本的に食い違ってることが問題の本質であることを、きちんと指摘している点だ。実際、はてなダイアラーの皆さんの言う「キチガイ親」のことを教師がどう批判するかを聞けば(読売には教師の側のコメントも書かれているが)、教師の側も同様に「キチガイ」に見えることは必定だ。この点を認識せずにどちらか一方だけを「レベルが低い」「キチガイ」と批判していても、何も始まらない。

 問題の根源はそもそも教師と親の双方がお互いの価値観、もっと言えば「常識」を何ら共有してないところにあるわけだ。例えば産経の記事では、

小学校の1学年全クラスの担任配置表を独自に作成し、「この通りでなければ子供を学校に行かせない」と要求した保護者もいる。
 と書かれていて、これだけ読むとエゴイズムの極まったDQN親のように見えるが、朝日の場合は同じ事例について、もう少し具体的な状況を書いてある。
 関西の住宅地の小学校に勤務する教諭は、母親から1枚の紙を示された。見ると「1年1組 ~先生」「2年1組 ~先生」……。全学級の担任配置案だ。母親の子の学級には、力のある教師の名が書いてある。「この通りでお願いします」と親は屈託ない。「うちの子を~先生のクラスにと希望されたことはあったが、全担任案とは」と教諭は驚きを隠せない。
 これを読むと、必ずしもこの親の“非常識”を責められないようにも思えてくる。

 もしかして、この母親から見るとこの中学校は、子供との相性を無視した担任の変更を繰り返したり、特定の学級だけに「力のある教師」を張り付けたりして、教師の配置のマネジメントがてんでなってないように見えていたのかもしれない。「自分の子供に良い教師を付けてくれと主張するだけではエゴ丸出しと取られてしまう。それなら、全学年全学級の子供と相性の良い担任の配置をこちらで考えて提案してあげよう」と考えた可能性だって、ないわけじゃない。

 そもそも、朝日の記事からは、表向きは「平等な教育機会」を標榜する義務教育にもかかわらず、この学校では教師ごとに指導力の差があることを学校側が認めているようにも読めるわけで、親の側に「平等と言いながらクオリティコントロールの努力さえ放棄するなんて、ふざけるな」と言われても仕方がないような気もする。

 かくも「学校」にまつわる「常識」というのは時と場合と相手によってさまざまなわけで、これを埋める努力なくしてお互いを「キチガイ」呼ばわりしていても、現場の問題は何の解決にも至らない。この件に関して、実際の現場の教師の方からもブログで良識的な意見が表明されているが、その中で述べられている「この件は、もう少し慎重に考えたほうがいいのではないかと思ったわけです。下手をすると、教師と保護者との関係がますます希薄になってしまうことにつながるのではないかと心配しているのです」という危惧は、かなり的を射たものだと思われる(ちなみに、そのブログのコメント欄には小野田先生ご本人も降臨)。

 個人的な経験から言えば、我が子のことを一途に考え、端から見るといくら何でもそれはあり得ないだろうというような要望を学校に持ち込んでくる親は、たいてい教師あるいは学校側責任者との1対1の場でそれを言う。親がたくさん集まっているような場所では絶対に言わない。なぜかというと、(1)回りに他人の親がいる場所で自分の子供のエゴだけ主張しても認められないことは分かっている、(2)たいていの人は周囲の空気を読み、それに合わせて振る舞おうとする、からだ。

 つまり、ここから言えることは、親に学校というものに要求して良いことと悪いことを判断させる「常識」というのは、学校側と親が1対1で相対していては絶対に伝わらないけれど、親同士が集まっている場所ではその場の空気を「常識」とすることで伝達が可能だ、ということである。

 であるならば、学校はもう、個々の親の「常識」が自分たちと一致していることを期待するのではなく、なるべく学校側にとって負担の少ない「常識」を、親を集めた場の中に醸成するにはどうすればよいかということを考えた方が良い。学校から一方的に情報を提供し、それに黙って従ってくれることを期待するのではなく、親をグルーピングしてそこにある適切な刺激を与えることで、自律的な状況判断がコラボレーションされるのを期待するのである。曰く「学校2.0」である。

 例えば、親だけが参加できる「保護者SNS」を作り、コミュニティーの管理者には教師ではなく、複数の子供をその学校に通わせているような、経験と分別のある先輩保護者の代表(複数のチームでも可)をあてる。もちろん、その保護者には管理者としてのフィーを多少は払ったうえで、学校側と緊密なコミュニケーションを取りながらSNSの運営をしてもらうのだ。

 SNS上では、管理者の親から、例えば季節の行事ごとに「初めて運動会に参加するお父さん、お母さんにワンポイントアドバイス!」とかそういうほのぼのトピックを流してもらい、参加している親の関心を惹く。また同時に学校の運営についての親同士の意見交換もどんどんしてもらい、ある程度意見がまとまれば管理者を通じて学校に提案を出すというかたちにする。

 そうすると、多くの親はこれまでに学校にどんな提案がなされ、どういう経緯で実現してきたのかをログで確認することができるし、どんな提案がどういった理由で実現されなかったのかも知ることができる。つまり、どの程度の要求なら通り、通らないのかの「常識」が身に付く。また、他の親が自分と同じような悩みを抱えていることを知り、それをどう解決しているかも相談したり、一緒に考えたりすることができる。つまり、自分の悩みをストレートに学校にぶつけようと考えなくなる。

 もちろん、そういうコミュニティーでの議論を飛び越して自分のわがままを学校側に直訴するような親もいるだろう。だが、その内容も学校側から管理者のグループがきちんと聞き取って、プライバシーが分からないような範囲でコミュニティーに「報告」としてアップし、親同士の議論のネタにすれば、そのうち誰も「抜け駆け」はできなくなる。「抜け駆け」を繰り返すような親は、逆に親同士の間で問題視されることになり、学校側もコミュニティーでの反応を理由にその親を「無視」できるようにもなるだろう。

 実際の運用にはなかなかデリケートな部分も多々あるが、少なくとも管理者役の親と学校(教師)側がしっかり相互理解のもとに「握る」ことができれば、この仕組みは長期的には親からのクレーム対応に費やす学校側の負担を大きく減らすことにつながるはずである。

 これまでも学校と保護者の連携の場としてPTAという建前があったが、実際にPTAと学校がどんなやり取りをしていてそれがどこまで「常識」的なのか、一般の親にはうかがい知ることはできなかったし、それらのやり取りが「ログ」としてどこにも残っていなかったので、過去にどんな積み重ねがあるのかも分からず、その結果自分の子供を預ける時の不安が解消されないという問題が残った。

 SNSなどのネットワーク・コミュニティー機能を使い、集合知としての「常識」を代々の保護者に移転していく「学校2.0」の仕組みが実現すれば、学校は少なくとも親にとってずいぶん安心できるものになるのではないかというのが、ネットジャンキーな僕の妄想である。文科省も阪大の小野田教授の研究プロジェクトに上乗せして「学校2.0実験校」とかやってSNSシステムを開発して、うまく行ったらそのSNSシステムを全国の公立学校に横展開するようなカネの使い方をすればいいと思うのだけど。

 ま、そこまで文科省や学校関係者のITリテラシーが高かったら、そもそもこんな問題が世の中に蔓延してませんかそうですか。それは大変失礼しました。

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2006/07/18

「メディアイン」というパラダイム

Think20060718 単著どころか単に特集にちょろっと寄稿しただけで、自慢にも何にもなりませんが、明日(もう既に今日)発売の「Think!」に拙稿が掲載されましたので少々ご紹介させていただきます、ハイ。ご興味のある方は買ってお読みください。

 んでもって話はあっという間に自分の原稿よりももっと別の記事へと移ってしまうのだけれど、今号のThink!の見本誌が届いたのでぱらぱらと読んでいたら、久しぶりに目からウロコがぽろぽろと落ちた気分のする記事にぶち当たってしまった。ブーズ・アレンの山口周シニアアソシエイトによる、「ポストWeb2.0時代の広告・マーケティング戦略」というタイトルの論考である。

 山口氏の論考は、Googleの登場によって食い荒らされ、このままだとどうなってしまうのかと不安に思っているマスメディアの人々に最後通牒をたたきつけるがごときストレートな結論で始まっている。曰く、「Web2.0がもたらす広告へのインパクトを一言で言えば、広告のROIが下がるということになります。それも若干とか少々とかいうレベルではなく、(中略)平たく言うと『広告が全然効かなくなる』恐れがあるのです」。

 その理由も、論文の中では平易な言葉と論理で理路整然と述べられていていちいち納得できるが、ここでは省略する。興味のある人はぜひ買って読んでみてほしい。まあ、その内容は彼も文中に述べている通り、米国では既に大きな問題として提起されているので、頭の中がきちんと整理されている人はとうの昔に知っている類の話ではある。

 僕が何よりも惹かれたのは、むしろそのあとの部分だ。既存のマスメディア広告の凋落の結果として起こっている、企業側の根本的な認知の誤りを、「メディアアウト」という言葉で明確に定義していることである。メディアアウトとは、まず製品ありきで売り込みを考える「プロダクトアウト」の変化形で、「マス広告やセールスプロモーションの企画がまず先にあり、それに見合わない特性の製品やターゲット顧客はマーケティング戦略の初めから除外されてしまう」ようなビジネス展開の枠組み(パラダイム)を言う。

 これに対して、Web2.0を前提とした世界では、「どんな情報を消費者に伝え、あるいは伝えないかという決定権が企業から失われている」という現実を認識したうえで、既存のメディアとインターネットとを混同せず、インターネットからは消費者の意見・動向を吸い上げて製品改良や企業活動全体に反映させていくような「メディアイン」のパラダイムに転換すべき、というのが山口氏の言い分である。

 頭では分かっていても、実際にマーケティングプランを切るとなると、やっぱりインターネットで「露出」することを考えてしまう、というのが世の中の多くのマーケターの現実だろう。その意味で、山口氏の論考にある「メディアアウトではなくメディアインになれ」という言葉は、多くのマーケターにとって痛烈な警句であり、大きな衝撃を与えるものではないだろうか。

 とはいえ、実際にマーケターの思考をメディアインに切り替えることは、言うほど簡単ではない。ことの影響がアフターサービス体制の構築から製品の開発プロセスの変更にまで及ぶだけに、企業がメディアインのパラダイムに対応した社内の仕組みを作り上げるまでには、今後かなり時間がかかるだろう。しかし、山口氏が言うようにこれはマーケターという職業の「情報テクノクラートとしての権力」の終焉であると同時に、「消費者と等身大の目線を獲得」する手段の獲得でもあるわけで、発想の転換をものにできたマーケターにはチャンスが広がっているということなのかもしれない。

 空中戦的な話のサワリだけ引用したが、ほかの論考に比べて具体例もたくさん盛り込まれていて、それらを例に引きながら実際の「メディアイン」のやり方の解説がされているので、とても分かりやすく参考になる。最近の消費財マーケターの本音をズバリ言い当てる内容だし、理屈としてはよく分かるのだが、「そうは言っても、実際の成功例があまりないんだよねー」と愚痴っていた向きには、かなりお勧め。何より山口氏がこのトレンドを「メディアイン」といううまいキャッチフレーズで整理してみせているのが、秀逸だなあと思った。

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2006/07/17

悪夢のロングテール考

 いつも興味深く読ませていただいている池田信夫氏のブログだが、一昨日にちょっと首肯しかねるエントリが上がったのでそれについて。

 マルクスとロングテール(池田信夫Blog)

 最近よく聞くのだが、どうもあちこちでロングテール論を悪用する人たちが増えているようで、ITの時代に入った途端に突然あらゆるところでパレート法則が無効になってしまったかのような物言いがされる。んなわきゃーない。ニハチの法則はいつまでたってもニハチなのだし、だいたいたまたま自分がニハチのニだからって偉そうに「キミたちもぜひハチでもロングテールに」とか言わないでくださいよお願いします。

 池田氏のコラムについての反論は、山形浩生氏の「ネットワークのオプション価値」という、古い論文でも見ていただければ十分ではと思う。ロングテールはテールにあるものがある日何かの弾みにヘッドのほうに飛び上がってくる「可能性」において成り立っている。山形的に言えば「オプション価値」である。

 通常の企業活動ではある一定値以下の可能性しか持たないものは、手を付けるだけ無駄と考えられるので切り捨てられる。つまり初めからロングテールなどという場に出てこない。ところが、ネットの世界ではロングテールの列に並ぶだけなら誰でも何でも(ほぼ)タダで並べる。つまり無限に小さいオプション価値に対してコストのほうも無限に小さくなったので、切り捨てられるものが減りました、というだけである。

 ここでロングテールが成り立つために大事なことが、2つある。列に並べるのは、並ぶコストが無限に小さいものだけであるということ。つまり並んでいることによって保管のコストがかかったり人間が時間を確保しておいたりする必要が一切ないものでなければならない。もう1つは、それが単に列に並んでいるだけではいつまで経ってもオプション価値が顕在化しないので、並んでいるものをテールからヘッドに飛び上がらせるよう、何らかの工作をしなければいけないということだ。

 と、いう条件を考えると、池田氏の言うように、ロングテールによって人間がネット上で適当な情報生産を行う「自由な時間」だけで暮らしていけるようになるためには、そこでやり取りされる“商品”が長期間保存可能でしかも保管コストがかからないものであることと、“商品”の取引そのものにも人手が一切かからない(=取引に備えて時間を確保しておく必要もない)ことの2つが最低限成り立つ必要がある。つまり、例えば書籍や(パッケージ)ソフトウェアみたいに、手離れの良い商品じゃなきゃダメだということだ。

 残念ながら、このどちらも実は「手離れの良い商品」にするために、高いハードルが存在し、結構な初期コストがかかる。もちろん、適当なことを書き散らしたり、適当な動きをするソフトウェアなら、誰でも作れるだろう。だがそれを「手離れの良い商品」のかたちにできる(チャンスと能力に恵まれた)人は、ごくごくわずかしかいない。それでも、世の中に出る商品の「8割」以上は思ったよりも全然売れないので、サンクコストに目をつぶり、ロングテールのテールのほうに並ぶことで何とか敗者復活を期するわけだ。

 そういうわけで、ロングテールは「コンテンツとしてクオリティの高いものでありながら、マスマーケティングのタクトに乗っかれずたまたま発売当初のタイミングではうまく売れなかったもの」を救済するためのロジックであり、もっと言えばそういう商品を「流通させる」側のロジックである。たとえば、そういうものがゴロゴロしている分野を見つけたら、おたくもAmazonみたいに儲かるビジネスが作れまっせーという説明の中で使われるべき言葉なのである。

 ところが最近、この言葉がなぜか商品を「作る」側を説得する材料のために使われていたりするらしい。「これからはロングテールですから、売れない商品も作っておけばいつか売れるかも知れませんよ」とか。あるいは、商品ですらなく、赤字のサービスやどうでもいい顧客の存在に目をつぶらせる呪文にさえなっているらしい。「今はあまり買い手がいませんが、いやなにロングテールですからそのうちそれなりにお客さんが付くようになります」とか、「こういう、ちょっとしか買わないお客さんも、今はロングテールのテールですが、いつかはたくさん買ってくださるようになるかと」など。

 そんなわけは未来永劫ないのであって、不採算のサービスや顧客に対してロングテール論を適用するのはほとんど詐欺だと言ってもいい。

 もっと言えば恋愛や職探しのような人間のマッチングにロングテール論を適用するのは、詐欺を通り越してほとんど犯罪だと思う。なんとなれば、ロングテールの列に並び続けようとする人に対しては断続的な負担が強いられるうえに、列に並びながら同時にテールからヘッドにジャンプアップしてオプション価値を顕在化するための「裏工作」が実は必要という、場合によっては人間を信じられなくなるような努力をしなければならないことも起こるからである。

 分かりやすく言えば、例えば悪質なお見合いサービスを想像すると良いと思う。「ロングテールな人にもご希望のおつき合いの相手が見つかります」というような売り込みで列に並ばせておき、期待を裏切るように女性が誰も寄ってこない人に対して「もっと着飾らなくてはモテませんよ」と言って服を売りつけたり、「うちにお金を払ってもらえれば優先的に美人の女性が紹介されます」とか言ってさらにお金をふんだくる、といったようなことが、ロングテール論を悪用することによって起こりうる。

 ロングテールは贈与経済ではない。まして、オープンソースなど決して贈与経済ではない。あれはただのインフラ・プロモーションの一手法である。ネットは歴然とした市場原理の、場合によってはリアルな世界よりももっと透明で苛烈な市場原理の働く世界だ。リアルの世界は目の前の仕事、目の前の女性だけが自分にとって最高の選択肢だったと思い込んでいればいい。だがネットの世界は常に他の誰かとの競争が存在する。自分がニハチのハチの部分にさえ入らない、圧倒的なテールに位置する人間なのだと否応なく認めさせられる。そこでは自分のことを疎外された物的存在だと自分で諦めてしまわない限り、永久に動き続ける市場から「もっと最適な存在たれ」と要求され続ける。これが「マルクスの言う自由時間」なわけがない。むしろ強迫神経症一歩手前の世界だ。

 マルクスの言わんとしていたことは、自分がホーリスティックに自分であるような、そして同時に他人がホーリスティックであることを否定しないような、そういう生き方を見つけなさいということなんだと、僕は思っている。自然発生的な分業をアウフヘーベンしろということは、つまり市場原理から自分を遮断し、自分を自分で切り刻んで生きるのではない時間を持てということだ。ロングテールは、自分の生産物を自分と完全に切り離して流通させられる人間にとっては福音かもしれないが、それとても市場原理の一変態であることに変わりはないのである。

02:54 午後 メディアとネット コメント (20) トラックバック (8)

2006/07/08

YouTube-Google型企業になるための4つの法則

YouTube 横目で見ているはずだったイノベーション勉強会になぜか引きずり込まれて、宿題もやってないのに飛び入り参加。でもなかなか面白かった。

 他人の褌を借りまくって分析した結果分かったのは、YouTubeが非常に良い意味でプロシューマ、あるいはgeek向けのインフラサービスに特化しているなあということだ。よく考えたら、テクノロジー面の「強み」と思えるようなものが何もない。ある意味全部オープン、それでいて圧倒的なユーザー数を抱える。まさにCGMの王道を行く会社である。

 また、その戦略のそこかしこにGoogleに投資したVC、セコイア・キャピタルの影響を見て取ることができる。ある意味「ネットベンチャーはGoogleから何を学ぶべきか」というテーマに関するショーケースのような企業とも言える。

 結論を言ってしまうと、YouTubeはGoogleが象徴する「ネットインフラ型企業」と、Web2.0と称される「CGMビジネス」のエッセンスをうまくハイブリッドさせた、「インフラ志向型消費者参加型メディア」である。僕がそう考えたポイントを、以下にまとめてみよう。

1.標準技術ばかりをパッチワークのように使い、高付加価値なサービスを目指さない

 動画処理はそっくりMacromediaのFlashだし、通信プロトコルも何の衒いもなくHTTPだ。既存の資産を膨大に抱えるCPやそれを保護しながら送受信しなければならないCDNみたいに、secureであろうという姿勢を初めから放棄しているので、Protocol上の特殊性もない。あるとすればあれだけの転送量をさばくload balancingやcacheの技術あたりだろうが、それとても他社が絶対に真似できないものでもない。その結果、非常に低コストでスケールフリーなサービスを実現した。

 つまりGoogleと同じで、技術的にはデファクト・スタンダードなものばかりを使い、いつでも誰でもやろうと思えばやれることをやっているのである。ところが、それが曲者なのだ。著作権侵害、暴力・グロ・エロ、検索やインターフェースの不便さ、不親切さ。「失うものを持つ」既存プレーヤーは、怖くてそんなところに手が出せない。それこそが彼らの思うつぼというわけだ。既得権者の資産を負債化する戦略である。

2.コンテンツ置き場というインフラに徹し、ポータル=「編集」の機能は外部に任せる

 勉強会では何人かのアップロード利用経験者から一様に「YouTubeのUIはアップロードは非常に簡単だが、サイト内を検索したり動画をいじろうとしたりすると決して便利とは言えない」という指摘が出ていた。これもまた、彼らの戦術だろう。あえて映像を見つけにくくし、Napsterのようにポータルサービスとして完結させないのだ。

 ポータルの機能をあえて持とうとしないのは、いくつか理由があると思われる。1つは、映像という、Google以上に著作権侵害にナーバスにならざるを得ないサービスであるがゆえだろう。ポータル的な機能を備えて、コンテンツの整理やおすすめの表示などの「編集」を行った瞬間に、著作権者から「他人の著作物を勝手に売り物にするな」と訴えられる。であれば、「編集」の機能は世界中のブログやSNS、掲示板などに任せ、YouTubeは動画のホスティングと最低限のタグ付与など、Folksonomy機能だけ持てばいい、という割り切りだ。

3.トラフィックという「余計なもの」ではなく、コンテンツの蓄積に徹底集中する

 ポータル機能を持たないもう1つの理由が、「それは余計な機能だから」というのがある。YouTubeには世界中のブログ、掲示板から大量の人がなだれ込んでいるが、YouTube側のページにはトラックバックなどの機能がないため、同じ映像を紹介している他のサイトを探し出すことが極めて難しい。つまり、YouTubeに入ってくる方向のトラフィックはたくさんあるが、YouTubeから外部へのトラフィックは発生しない。それどころか、YouTubeに来なくてもブログなどに映像を貼り付けて見ることもできる。初期のGoogleがよく言っていた、「ユーザーには、Googleにとどまらずなるべく早くサイトを通り抜けてほしい」というサービスポリシーに酷似している。

 ここから分かるのは、YouTubeがトラフィック(PV)の獲得よりも動画コンテンツそのものの蓄積を最優先しているということだ。CGMなのだからある意味当たり前だと思われるかもしれないが、トラフィックの方がマネタイズが楽なので、かなり有力な資金源がバックに付いており、しかも経営者の肝が相当据わってなければ取れない戦略である。

4.視聴者ではなく、表現者の囲い込みと“経済圏”の構築が今後カギ

 ここからは多少僕自身の推論が入る。YouTubeがGoogleと異なるのは、彼らが映像を勝手にネット上から集めてくるのではなく、ユーザーにアップロードしてもらって初めて意味をなす「CGM」である、という点である。この点で、ひたすらオーガニックサーチの研究に没頭していれば良かったGoogleとは、少し向かうべき方向が変わってくる。ユーザーがアップロードするコンテンツをたくさん蓄積するためには、当たり前だがアップロードするユーザーをリスペクトし、囲い込むことがまず必要だ。彼らが今、最も戦略的にフォーカスしているのは、だから恐らく「映像をアップロードするユーザーの数」を増やすことだろう。

 そのためにはまず、表現者たる彼らに最大限の自由と利便性を提供することだ。そして、e-Mailアドレスをしっかり把握することで、緊密に連絡が取れるようデータベースを常に洗い替えしておく。おそらく、今後数ヶ月以内にYouTubeは動画への広告の自動挿入とコンテンツ-広告の自動マッチングの技術を開発し、動画に挿入された広告が視聴された回数に応じて表現者のユーザーに広告収入を還元する「動画版Adsense」をリリースするだろう。

 面白い映像をアップしてたくさんの人に見てもらえた表現者の手元に、1本で何万円という広告収入が転がり込んでくる可能性がある。すでにNBCがPodcastingで配信している有料番組では、1DLあたりのマージンが$1.50という数字で「美味しすぎる」という話が出ている。プロの制作した動画でもこの程度のリターンがあれば「十分すぎる儲け」と言えるのであれば、仮に動画に挿入する広告のフィーをこの10分の1とし、YouTubeが50%のマージンを取ったとしても、1000PVを獲得した動画をアップした表現者の取り分は8000円ぐらいになる。トップページに載っている、何万というPVをたたき出した動画などは、何十万円の収入にもなるのではないか。

 というわけで、次にネットで小銭を稼ぎたい人は、今のうちに面白い自作のショートフィルムをたくさん作り貯めておくか、そういうものを作るノウハウを研究したほうが良い。コンテンツは初動がすべてである。今年の後半から来年にかけて、「YouTubeバブル」の津波がやってくる気がする。

参考:ブロードバンド2.0(池田信夫blog)
   YouTubeを強くするのは動画版AdWordsと家電連携だ(キャズムを超えろ!)

12:26 午後 メディアとネット コメント (6) トラックバック (21)

2006/07/04

フラット化するニッポンの象徴としてのNAKATA

 HBSの入学資格は四大卒業同等以上の最終学歴なんですがねといった野暮なツッコミはさておき。

 中田英寿、MBA取得 第2の人生は実業家(gooニュース)

 彼ほどの才能があれば特例で入れてあげても良いと思うし、米国の大学というのはそのへん野暮なことは言わないと思うのでまあ期待して待つが吉。で、思ったのは彼がそういうものを目指すと公言することの2つの社会的な意味である。

 1つは、ビジネス社会の中のさらに中央官僚とか外資とか超大手グローバル大企業とかの人たちだけの世界のブランドであった「MBA」、そして「ハーバード・ビジネス・スクール」が、彼の一言によって一気に日本のお茶の間に広がった点である。

 サッカーでも同じだった。それ以前にも奥寺や釜本など名選手で欧州のリーグで活躍した人は多数いたが、結局のところサッカー界の中の話に過ぎなかった。だが98年に彼がペルージャに移籍した時から、「トップクラスの人間は日本ではなく世界に行く」ということが、サッカーだけでなくあらゆるスポーツ、そして日本のお茶の間の常識になった。

 自らの行為で示しただけでなく、それをムードとして日本社会に浸透させてしまったこと、これこそがNAKATAの最大の功績であった。日本人にとっては、これからは「MBA」が好むと好まざるとにかかわらず、ある種の「常識」化するだろう。欧米を初めとする世界がそうであるように、日本も彼のおかげでグローバルスタンダードの価値観を社会常識とせざるを得ないようになるに違いない。

 そしてもう1つ、(彼が今後HBSに入学でき、卒業できればの話だが)大きな意味を持つだろうと思うのは、「MBA」あるいは「ハーバード・ビジネス・スクール」というブランドを持っていれば何でもかんでも一流なのではなく、やはりそこに明らかに個人の素質が必要だ、と世間が認知するだろうということだ。

 サッカーでも、NAKATAの後に多くの選手が欧州のトップクラブに移籍したが、その中で芽が出なかった者もいたし、また大きな成果を挙げた者もいた。要するに「欧州のクラブへの移籍」がブランドなのではなく、そこで個人が何を成し遂げるかがブランドになるのだという、フラット化した世界の冷厳な事実が日本のお茶の間に突きつけられることになったわけだ。

 よく考えればそんなことは当たり前のことなのだが、舶来のブランドと言えばそれだけで思考が止まってしまう日本人にとって、NAKATAが突きつけるこの事実は大きな意味がある。当然ながら、今後ハーバードMBAを取った人間は、「NAKATAと比べてどうなのか」というベンチマークを一生突きつけられ続けることになるわけだし、またそれが社会に明らかにされるだろう。公費で留学している中央官僚は、その異様なドメスティックな凝り固まりぶりを白日の天下に晒されるだろうし、自分のキャリアについて深い考えもなく漫然とMBAを取った人は常にそのダメっぷりをNAKATAと比較対照されるかもしれない。そして、多くの日本人に「MBAだからって特別でも何でもないんだ、そのうえでちゃんとNAKATAみたいに努力しなきゃダメなんだ」ということを思い知らせるだろう。

 いずれにせよ、彼の通る道はこれまで確実に日本人の意識をグローバル化する先鞭を果たしてきた。今度の発言も実現するか否かにかかわらず、日本の社会をトム・フリードマンの指し示す世界へとまた1歩いざなうきっかけになるに違いない。

 追記:尊敬するスポーツジャーナリスト、増島みどりさんの「中田英寿の現役引退によせて」の記事が出ていたのでリンク。

11:36 午前 ビジネス コメント (16) トラックバック (11)