Main

2006/06/30

夏の羊羹

竹水羊羹 暑い日が続きますね。今の仕事も軌道に乗ってみると、前の仕事に負けじ劣らず実は体力仕事だったということに気が付く今日この頃です。先週は水、木、土と1日飛ばしの3連荘、今週も火曜日から始まって1日おきの3連荘で、あいだの日は疲れ切って結構ぐったりモード。しかもそれ以外にも作らなきゃいけないドキュメントが山積しておりまして、またもやブログを書いてる場合じゃない状況に追い込まれてます。

 なので、せっかくご訪問いただいている皆様には申し訳ないのですが、ヒマネタでお茶を濁させていただくということで、最近食べたお取り寄せの水菓子のお話です。

 上の写真は、京都・二條若狭屋の「竹水羊羹」です。夏と言えばこのお菓子というぐらい、この季節は美味しい。ひんやり冷やして竹から押し出して食べると、上品なこしあんが何とも言えない感触とともに、フルフルと舌から喉の奥に落ちていきます。その瞬間、どんな夏の暑さも一気に忘れる涼やかな食感です。本当にすごい。

 うちのカミサンがどこかの雑誌に載っていたのを見て、ネットで調べてお取り寄せしました。ネット上にはほかにもいろいろなお店が類似の商品を売っているようですが、評判が一番高いYahoo!ショッピングの二條若狭屋のものは、8本入って5000円弱と、かなり高め。でも、それだけのお金を払ってでも食べる価値はあると思いましたですよ。

 冷蔵のままで品質を保ったまま届けるために、竹筒をプラスチックの簀の子に包み、さらにそれをウレタンシートで覆ったものをさらにウレタンの箱に詰めて送られてくるのですが、中に入っているプラスチックの簀の子が、まあ青竹に似せた色のものとはいえプラスチックなのがちょっと興ざめでした。簀の子を自然の竹や葦で作れよとまでは言わないのですが、竹筒を最初に包むものが別にプラスチックの簀の子じゃなくても良いような気もしました。中の羊羹の味は本当に申し分ないんですが、あえて言うなら包装はもう少し改良の余地があるかなあと。

 夏になるとよく自分で寒天ゼリーを作って冷蔵庫で冷やして食べてみたり、いろいろとやってるんですが、やっぱり水菓子でこのレベルのものは到底自分の手では作れませんね、残念ながら。

 そんなわけで京都二條若狭屋の「竹水羊羹」、7月31日までの限定販売だそうですが、お勧めです。読者の皆さまも暑さにめげないよう、羊羹でも食べてご自愛くださいませ。ではでは。

#業務連絡。リアル知り合いで近況を知りたい方は、mixiにどうぞ。見つかれば、の話ですが(笑)

09:02 午後 グルメ・クッキング コメント (1) トラックバック (2)

2006/06/25

動体視力

 渡辺さんとシンクロニシティがあったようなのでちょっと触れておく。

 マーケティング基盤:コミュニケーションとユーザー制空権(CNET・情報化社会の航海図)

 非常に強固なマネジメントサイクルを持つが完全に安定期に入ってしまったビジネスを、より精緻なsegmentationとtargetingによって何とか拡大軌道に戻そうとするようなマーケティング施策というのは、何か新しい取り組みをしているように見えて、実のところその完成されたマネジメントサイクルの為していた何かに対する理解と敬意が足りないが故に非常に危険であることが多いように思う。

 context targetingによってfocusされた顧客というのは、ぱっと見ると何やら非常に明確に特定された属性のように見えるが、実のところそのsegmentは非常に流動的であり、またcontextではなくそのダイナミクスこそがまさに顧客のニーズの本質であることがしばしばある。

 これをある一瞬のsnapshotによって個別のビジネスユニットに囲い込んでしまい、マネジメントサイクルの組織まで閉じてしまうことは、個別のビジネスの成否に関わるだけでなく、組織全体に対して顧客というもののダイナミズムを見失わせることにつながる。

 重要なことは、そうした刻一刻segmentを移動してゆく顧客のダイナミズムそのものをマネジメントの側が的確に受け止め、wholisticに把握できるかどうかであり、そこで必要なことはビジネスユニットのSegmentationではなくてむしろIntegrationである。

 しかし、組織というのは良くあろうとすればするほど落伍者よりも功労者を増やしたがるものだし、残念ながらあらゆる組織は常にパーキンソンの法則に従う。したがって人為的にそれに逆らったマネジメントを行わない限り、ビジネスユニットのsegmentationは自然法則である。CFTなどでどうにかなるものではない。CFTもまた組織の一種であるし、またCFTはtemporaryだというのであれば結局それは組織というものの自然法則を否定し得ない。

 Integrationの必要性に気づくのは常に顧客と接している現場である。なんとなれば彼らのミッションは顧客を追尾(trace)することだからだ。現場が顧客を追尾することをミッションとしないような組織はそのmomentumが起こらない。

 したがって良い組織と悪い組織を見分けるためには組織が顧客のsegment移動のダイナミズムを的確に追尾するのを妨げるようなユニットに分かれているかどうかを見れば良い。顧客の移動は常にマネジメントの側の想像を超えて起こるので、完璧な組織デザインというものはあり得ない。とはいえ、その組織デザインが外部の人間が見ても明らかにsegment移動のダイナミズムに反していると思われる場合は、どう見てもダメである。

 もう一つのクライテリアは、商品そのものである。そして商品こそは今もっともintegrationの問われているものである。ネットの登場で商品が極めて細かくSegmentされるようになった。そして顧客はそのsegmentを喜んで受容/需要しているように見える。だがそれは何度も言うようにcontext targetingの魔術に嵌った見方だ。segmentaionが容易になり、一見膨大な商品が切り刻まれて市場に出回っているように見えているからこそ、integrationにより生まれる価値はますます高くなる。

 それはビジネスがmediaであればaggregation、retailingであればmerchandisingと呼ばれるもののことである。retailingの比喩で言えば、それは単なる「品揃え」ではない。全体を紡ぐ大きな「物語」の流れのことである。Marketing of Integrationを成す根本の力は顧客に対する動体視力である。止まっているものは見ない。動いているものだけをそのベクトルにおいて見る。自然法則に反した意思決定のできるマネジメントのある組織でなければ、顧客に対する動体視力を持つことの意味は活かされない。これは勇気の有無の問題ではなく、ある種の動物的な勘の有無の問題かもしれない。少なくとも今そのことが理解され、仕組み化されている企業はそれほど多くないように思う。

12:52 午前 ビジネス コメント (10) トラックバック (2)

2006/06/19

映画評「インサイド・マン」

インサイド・マン 「前田有一の超映画批評」で90点という高得点を付けていたので、スパイク・リー監督の「インサイド・マン」を昨日観に行ってきた。本当は今年上半期に前田氏が95点を付けたタイのアクション映画「トムヤムクン!」を観に行きたかったが、さすがに休日は浅草まで行ってられないので家族を連れて近場で。

 結論から言うと、90点は伊達じゃなかった。サスペンス映画としては最高の出来。しかも、前田氏も書いているように「知的興奮を存分に味わわせてくれる、大人向け」の上質な娯楽映画だった。「年間何本もない、必見の一本」という賛辞は決して大げさではない。とにかくお勧め。

 語りたいことはいろいろあるのだが、結末の種明かしが面白さの大部分を占めるサスペンス物だけにストーリーのネタバレはしたくないので、前田氏の映画評以上のことは書きづらい。とにかく、ラッセル・ジェウィルスの脚本の素晴らしさはこれが処女作とは到底思えないほど。でも、それ以外にも褒め始めるときりがないぐらい良い点が多い。

 例えば、役者の演技。デンゼル・ワシントンやジョディ・フォスターなどアカデミー賞級の名優がぞろぞろ出ているのだから当然っちゃ当然なのだが、主犯格役のクライブ・オーウェンが言っているように、この映画の注目すべきところは主役から脇役に至るまであらゆる登場人物の「無言の演技」の凄まじさだ。皆、脳裏にさまざまな思いを隠しながら目で何かを物語る。どのカットのどの俳優の目にも、圧倒的な表現がある。もう、その演技力(とそれを引き出したスパイク・リー監督の手腕)を見るだけで、まず感動する。

 それから、ストーリーがほとんどマンハッタンのウォール街の銀行の中と外だけで進んでいくという変化のなさを補うため、ライティングやカメラワークスにはものすごく凝った趣向が凝らされている。事件が日中に起こり、事態が膠着するにしたがって夜の帳が降りる。そして謎めいた女弁護士の登場と犯人との交渉、続いて刑事の交渉。激烈な心理戦が交わされるのはまさに「丑三つ時」である。時間の経過にともなって変わっていくライティングと、その醸し出す息詰まるような緊張感とがぴったり合っている。

 また、ところどころで人物の回りをカメラが360度回転しながら撮影するという、サスペンス劇らしからぬカメラワークが実に巧妙な効果を狙って使われていたり、銀行内に閉じこめられている人質たちの様子を撮影するカメラワークに非常にダイナミックな工夫がされていたりと、心憎い演出が随所に見られる。ものすごい緊張感の中での映像なのでそのカメラアングルに違和感を感じることはないのだが、逆にそのアングルだからこそ得られる効果というものを計算し尽くして組み込んでいるのも、さすがといったところだ。

オリジナル・サウンドトラック「インサイド・マン」 あと、サウンドトラックもなかなか良かった。オープニングとラストの軽快なインド音楽「チャイヤ・チャイヤ」が、なぜか不思議とこの映画に合っているのである。普通の監督ならああいう選曲はしないだろう。だが、やはり彼、スパイク・リーだからはまってしまうのかもしれない。iTunesのサントラのページを観たら、「チャイヤ・チャイヤをシングルカットしてくれ!」という書き込みがあった。そのぐらいイケテる曲である。この映画にはまったら、これもお勧めかも。

 そしていつもの彼ならではの、人種差別に対する辛辣なユーモアと米国社会が抱える問題への鋭い批判の視線。ビターチョコレートを肴に香りの高い蒸留酒を舐めるように飲むかのごとき、そんな大人の楽しみを与えてくれる映画である。逆に言うと、派手なアクションとか撃ち合いとかが観たいガキは絶対見に来てはいけないと断言する。もう一度、レイトショーに1人で観に行ってみようかな。この映画、何度観ても楽しめる気がする。

05:26 午前 映画・テレビ コメント (2) トラックバック (9)

2006/06/14

世界観と経済圏

とがダイレクトに結びつく企業というのは、とてつもなく厄介な存在だということ。

米Google,自身が「evil」であることを認める(ITpro)

 しかし、逆に言えばそこがGoogleの弱点でもある。つまり資本主義を採用している限り、経済圏だけなら拒否できないが、世界観は明確に拒否することができる。少なくともシステム上では。

 前に右脳がどうとか書いたけど、どうもそこまで大げさな話でもなかった。Googleに対抗するためには単に「Googleとは違う世界観を持ち、Googleの世界観を拒否する」だけでいいのかもしれない。後は、隣の芝生が青くないことをどうやって納得させるかだが、世界観というのは宗教のレベルにまで高まれば、人に隣の芝生を見せないようにすることもできる。要するに対抗する世界観を宗教にしてしまえば良い。それだけのこと。難しい話ではない。

 隣の芝生は情報がタダだ、という言い分もあるかもしれないが、実際のところ、タダより高いものもないわけで。つまり異なる宗教の範疇でリアルの取引コストに結びつくような情報をちゃんと環流させることが大事。Google教の通じる範囲というのは取引コストのとてつもなく高い世界であると言い切ってしまえばいい。というのは、今度出る本の中でもWeb2.0時代のビジネスの要諦としてさんざん書いた話。

 残念なことにというか幸いなことに、Googleというのは意外なほどネットワーク外部性とのリンケージが弱い。なぜならばレイヤー内での相互互換性は決して否定できなくて、商品それ自体の品質だけが唯一無二の競争優位性だったから。しかもサプライサイドから見れば世界規模のスケールが働くのかもしれないが、ユーザーから見れば単に個別市場のプレーヤーでしかない。それらのことは日本の状況を見れば一目瞭然

 してみると例の有名な標語を掲げて構築した世界というのは、そもそもある意味莫大な「裏金」が動く原理をその成功とともにビルトインしていたわけで、実はその原理自体が某掲示板住民さんたちあたりが毛嫌いするところの「evil」な世界観だった、と言えるかもしれない。何とも皮肉な倒錯。しかし、これからどうなっていくのでしょうね。よく分かりませんが。

09:39 午前 メディアとネット コメント (5) トラックバック (7)

2006/06/10

烏賀陽さんがぶち切れている

 やや亀レスなんだけど、コメント欄・はてブともに盛り上がってるみたいなので。

みなさん、さようなら。ブログ連載から降ります。(烏賀陽(うがや)弘道の音楽コラム)

 失礼ながらこの記事がはてブのトップページに出ているのを見て、烏賀陽さんがAFPBBでコラム書いているのを初めて知った(笑)。だって「烏賀陽」でぐぐっても1ページ目にそのコラムの片鱗さえ出てこないんだもん。しょうがないじゃん。

 かつてならこの記事を読んで「Web2.0時代に何を今さら。烏賀陽さん、梅田本ぐらいちゃんと読んでください」みたいな感想しか持たなかったんだけど、自分自身もまたじわじわと書き手・編集者・メディア設計の側に多少踏み込みかけていることもあり、今回については思うこといろいろ。

 烏賀陽さんのお気持ちは分からなくもないのだが、例えば今は「原稿料タダ」の媒体(ネットじゃないよ)だって出てきてるわけで、ライター業を取り巻く状況全体はより悪い方向へと加速度的に転がっていってるわけです(もちろん、そんなのは烏賀陽さんの書くような媒体じゃないけどさ)。

 だから烏賀陽さん1人がブログに書くことを止めても、その穴はまた他の誰かが劣化した原稿で埋めるだけのことであり、AFPBBという場全体の質の劣化にはつながっても付加価値の向上、まして原稿料のアップとかには絶対つながらない。ま、烏賀陽さんにAFPBBの質の劣化を防ぐ義務など何もないのだけどね。

 ただ、ひっじょーに気になったのが以下のフレーズ。

ライターが書く原稿は「商品」ではありません。知的財産です。知財です。シャツやフリースとちがって、コストダウンには限界があります。製造原価(つまり原稿料)を安く叩くと、ライターが離れてしまう、クオリティが低下するのを避けられないのです。
 「知的財産」というのは、そのコストによって定義されるものではない。何もしてない時にふっと思いついた事業アイデアだって「知財」だし、10年以上の研究を重ねてついに生み出した画期的な医薬品の化学組成だって「知財」。

 では、烏賀陽さんの言う「Tシャツみたいな商品」と「知財」を分かつものは何かというと、商品はそれを売ってしまえばお終いなのに対して、知財というのは「そこから派生してくる成果(アウトカム)に対して正当な対価を要求できる」ことだと思うわけだ。

 もし「自分の原稿は知財なのだ」と烏賀陽さんが思うのであれば、「原稿料」というかたちでブログに書く記事の対価を受け取るべきじゃない。それはつまり、自ら「商品」としてそれを売り渡しているに過ぎないんだから。それで安すぎるとか文句言っても、しょうがないでしょ。

 そもそも新聞メディアの(それも烏賀陽さんみたいな超のつく良心的な)記者の書く原稿というのは、その作成プロセス自体がネットメディアの要求するものよりはるかにオーバークオリティなのだしね。裏取りしてないでいい加減なこと書いても、誰かがそれで怒り出さなければとりあえずそれでオッケーなわけだし、仮に一生懸命裏取りしたところでPVが増えるわけでもなく、誰も褒めてくれない。

 自分の原稿が知的財産だと思うなら、「原稿料は要らない。その代わり、俺の記事を掲載して生まれるPVに対し、1年間は1PVあたり1円の対価を払ってくれ」とか何とか、そういう契約を要求すればいいんじゃね?と思うわけだ。僕が編集長なら、上限キャップはめたりとか多少のリスク管理はすると思うけど、そういう契約も実験してみてもいいかなと思う。PVだけが成果の尺度とは限らないけど、まあそういう考え方もアリだろう。

 というところまで考えて、さらに思ったのだけど、そもそも知財であるはずの原稿を「商品」扱いして、一番ウレシイのは出版社や新聞といった「チャネル」側の人たちなんだよね。だって、その人たちって本来は知財である原稿から生まれてくるはずの成果を、すべて独り占めにできるのだから。なのに、どうしてそんな美味しい業界が「ヨレヨレであります」ってことになるの?という疑問が生まれた。

 つまりそれって、自分だけ美味しい思いをしようとして、結果的にライターのモチベーションを下げ、より低コストで「商品」を調達できるインターネットに負けちゃったから、そうなってるってことじゃないのだろうか。エコシステムとして非常に無理が来ていたところに、インターネットという強力な競合エコシステムが生まれて、それでダメになったとも言える。

 でもよく見ると、インターネットだって実は既存メディアのエコシステムを「劣化コピー」してるだけに過ぎない。原稿を「商品」として買い取ってるし、それをすごい勢いでフローとして費消している。知財としての原稿のストックからアウトカムを生み、それを最大化するようなマネジメントをやっているとは、到底思えないわけだ。

 だったら、エコシステムとしてもっと原稿を「知財」として扱うような仕組みを作ったら、うまく行くんじゃないの?なんてことを、ちょっと思ってみたですよ。どんな仕組みなのかは分かりませんがね、ええ。そんなわけでライターの皆さん、頑張ってください。

10:36 午前 メディアとネット コメント (20) トラックバック (9)

2006/06/09

公共WebAPIとか

こんな法改正が成立してたんだ。面白い。

落とし物検索、ネットで可能に 改正遺失物法が成立(NIKKEI.NET)

よく考えたらこれって公共機関が提供するWebサービスとして、一番ありそうでなかったネタ。考えて法案化した官僚、偉い。素直に褒めてあげたい。「遺失物WebAPI」とか公開してくれてマッシュアップさせてくれたら、もっと褒めてあげたい(笑)

03:33 午後 メディアとネット コメント (5) トラックバック (2)