« 3/31に緊急イベントやります:ソフトバンク×ボーダフォン | トップページ | 油断も隙もないですね »

2006/03/14

言葉の磁場

 以前のエントリにも書いたことがあるが、93年にタイで出家していたことがある。その理由は、1つには高校時代のホームステイ先のホストマザーを喜ばせたいということだったが、もう1つはこちらのサイトで彼が書いているようなこととそっくりな理由だった。彼が91年、そして僕が93年だから、京都と東京という違いはあれど、あれはちょうどあの時代の共通な空気だったのかも知れない、と思う。僕はたまたまタイで出家ができた。彼はそれを日本でやりたいと考えた。違いはそれだけだったのだろう。

 僧侶だった間、僕はずっと自分と世界とのかかわりの法則について考えていた。当時の僕の頭の中は、マルクスとかデカルトとかカントとかヘーゲルとかヴィトゲンシュタインとか、そういうものでいっぱいだった。そして、タイで先輩僧侶に向かって「マルクスはこう言っている」とか「ヴィトゲンシュタインはこういう説を述べている」とか、つたないタイ語で必死に説明して、西欧の哲学の巨人たちとブッダの教えとを比較して、どちらの矛が盾より強いか一生懸命試そうとしていたのだった。

 2カ月の間、ずっとそういう論争を先輩僧侶にふっかけ、「どうしてそうなるの?」「どうしてそれが正しいの?」と質問しまくっていたので、やがて寺院の中で僕はみんなからからかい混じりに「プラ・ダインガイ(どうして坊主)」と呼ばれるほどになった。他のタイ人の同僚僧侶たちは、中学・高校の国語でパーリ・サンスクリット語の基礎も習っているから、毎日唱えるたくさんのお経の意味がふつうに分かっているのだが、僕にとってはそれは暗号みたいなものだったので、自分の理解できる範囲の知識を元に質問し、それに理解できる範囲のタイ語で得られる知識をぶつけて考えるしか、仏教を理解するための方法がなかったのだ。

 僕が慕っていた先輩僧侶はとても人格の優れた人で、(マルクスぐらいは知っていたかもしれないが)ヴィトゲンシュタインとかヘーゲルとか、聞いたこともない哲学者のことを説明する僕に黙って耳を傾けては、「君のいうその哲学者はきっとこういうことを説明したかったのだろうと思うが、私の理解ではブッダはこのように世の中を見ていたと思うよ」と、静かにその議論につき合ってくれていた。

 延々と続いていたその議論に終わりが来たのは、以前のエントリで書いた虹色の渦巻きが現れて、消えた時だった。その時、僕の中で何かが氷解したのだ。溶けた氷の中から出てきたのは「宗教とは、個人的な問題だ」ということだった。それは社会と自分との関わりを「自分の側」から説明するのに役に立つが、「社会の側」からの説明として押しつけられることはないし、いかなることがあっても押しつけられるべきものでもないのだということだった。

 実は僕はその前年に宗教ではないが、ある非常に強烈な「宗教的」な体験をしていた。そこで、カリスマティックな人物が発する言葉というのが、ときに周囲の人々の意識をすべて巻き込み、その人々がその言葉を借りることでしか思考できなくなるほど強烈な「磁場」を形成すること、そして一度巻き込まれてしまった言葉の磁場とその人々の輪の中から逃れるのは、実際のところ、自分というアイデンティティを一度ほとんど喪失することになるため、死ぬほどの苦しみと努力を必要とするものだということを経験した。

 結局僕自身はある日突然その輪から逃げ出し、カリスマ本人はもちろん、自分と親しかった関係者からの電話や説得にも耳を貸さず、一切の関係を絶つという暴挙に出ることで、半年ほどかけてようやくその言葉の磁場から抜け出て「自分自身の言葉で思考する」ことができるようになった。それまでは、確かに思考のレベルはスリップストリームに入ったかのように凄まじく上がり、早くなるのだが、その一方で自分の考えることはすべてそのカリスマな人物の言葉の範疇でしかなく、まるで自分が自分でないかのようにものを考えていたのだ。半年間、必死でそのカリスマの使っていた言葉を使うのを自分に禁忌と課し、ようやく自分の言葉を取り戻したと思えるようになった。だから翌年のタイでの出家は、自分の思考だけでなく、世界と自分とのかかわりをもう一度自分の手元に取り戻すための試みだったのかもしれなかった。

 そういう経験をしたものだから、彼が資本主義の外部性としての原始仏教に心を動かされた気持ちもよく分かるし、頭が切れる人だったからこそ、カリスマ本人を目の当たりにして自分が急にものすごいスピード、レベルでものを考えられるようになったことに感激し、その虜になっていった気持ちもものすごく良く分かるし、さらには周りの人に何度諫められてもそこから何年も抜け出られなかった理由もよく分かる気がするのである。つまり、彼と同じあの時代、彼と同じあの空気を吸って生きていた自分が、今はたまたまこういうふうに生きているけれども、もしかして何かのはずみに彼であったかも知れないと強く思うのだ。

 もちろん彼と僕が違っていたのは、宗教の場所を「大学の夏休みに行って2カ月で戻ってくるべき場所」と思っていたか、それとも「出家信者」という生き方を自分の人生の中軸に据えてしまったかということでもあるし、それはつまり「宗教とは個人的な問題だ」という悟りを得られなかったという不幸だったかも知れない。そして、その結果起こってしまったことに対して、過去を自己批判し続けない限り、常に社会的な制裁を受け続けなければならないという重い十字架を負ってしまったことかもしれない。ただ、このことについては、理不尽と言おうがなんと言おうが、日本社会というのがそういうものである以上、僕にはどうすることもできないし、仕方のないことだと思っている。

 彼らが本当に自分自身の信仰者、ここで言う「出家信者」としての人生を貫きたいと思うのであれば、そういう存在を地域のコミュニティーによってきちんと受け止められ、包み込んでもらえるタイやビルマに“独りで”行けば良いと思うし、宗教的なるものに対しては常に狭小で重箱の隅まで資本主義的でどうしようもなく現世崇拝的な日本という社会において、無理矢理自分たちの宗教を「社会化」させて生きようとするのはどうかと思うこともある。それは「出家信者」と称する彼ら自身に、実際にはエゴイスティックな自意識や嫌悪する日本社会と同じように狭小な仲間意識ばかりが強烈で、本当に信仰者に求められるべき「社会」へのまなざしが根本的に欠けてしまっていることの証左でもあるのではないかと思うからだ。

 ただ、僕という「個人的」な問題の範疇で言うならば、「あの時代において、僕はもしかすると彼であったかもしれなかった」という当事者意識のもとにこの出来事を受け止めるほかないのだと思っている。そして、こういう社会の中でひっそり生きるあらゆる宗教者、本当の信仰者の「こころにいつも太陽の」あらんことを祈るほかない。

|

« 3/31に緊急イベントやります:ソフトバンク×ボーダフォン | トップページ | 油断も隙もないですね »

コメント

「解脱・悟り」を概念としたか体験したかの違いではないかと。


投稿: cyberbob:-) | 2006/03/14 14:31

本文の内容とは逸れますが、

>世界と自分とのかかわりをもう一度自分の手元に
>取り戻すための試みだったのかもしれなかった。

この一文、自分の身に降りかかる例に
脳内変換して読んでました。

そういうのを反芻してばっかりで。
自己嫌悪したり。無かったことにしてみたり。

投稿: Dt8yue31 | 2006/03/14 14:56

>思考のレベルはスリップストリームに入ったかのように凄まじく上がり、
>早くなるのだが、その一方で自分の考えることはすべてそのカリス
>マな人物の言葉の範疇でしかなく、まるで自分が自分でないかの
>ようにものを考えていたのだ。

最近、そんな経験をしています。
反社会的でないカリスマでもだめですか?

ちょっと、自分自身混乱してきちゃいました。

投稿: はちゃあど | 2006/03/14 16:37

人間は大体において完結できないので社会を構成する。
嫁さんの前では腹出して尻を掻いても平気だ。多分。
そういった信頼関係を構築して生きる上での手抜きをしている。
ゴルゴはやっぱりフィクションなわけで。

つまり、賢明な人類はその信頼の輪を広げることはできても
全てを信用することはできないから万人の闘争というやつが
必ず残る。
世間知らずも甘ちゃんもキチガイもヲタクもオカマ野郎も月給取りも
信頼の輪の中では生きていける。
しかしその外側があることは知ろうと知るまいと現実なのだ。

宗教なんて問題ではない。
認識しようとしまいと敵か味方かという世界がすぐそこにあるんだ。
信頼の内側で語れば終わるわけではない。
もし敵ならそれこそが狙いになる。

投稿: ss | 2006/03/14 17:14

↑「ノーモアヒーローズ!」って言葉がありますよ

投稿: INU | 2006/03/14 17:42

ありゃ?上のははちゃあどさんへのレスです。失礼。

投稿: INU | 2006/03/14 17:43

僕は20歳のころキリスト教にどっぷりつかった生活をしていた。結局、僕たちの集団のリーダーだった人物のカリスマ性のなさからキリスト教から離れることになったけど・・・。その後、ながーい大学生活(笑)の中でもっとも感銘を受けたのがマルクス主義だった。みんな同じような道をたどってきているんだなあ。

投稿: 湯川 | 2006/03/14 17:52

「ウェブ進化論」のときコメントしました美術系ブログを運営しているものです。たくさんの方からアクセスしていただきありがとうございました。

美大生やすでに画家となられている人や専門家が多く訪れるブログですが、宗教と美術は違いますが、どこかで繋がっています。
横断的な領土間の接続が殆ど無い村社会的な閉塞社会日本です。特に何かをはじめるのは勇気と洞察力が必要かも知れません。

投稿: 有人彗星 | 2006/03/14 21:41

まだまだカミングアウトとは言い難いね。もちっと頑張ってね。

投稿: 私 | 2006/03/14 21:44

心にいつも太陽なんかあったら暑苦しくてしょーがねーっちゅの!

投稿: 私 | 2006/03/14 22:13

信仰心なんぞどーでも宜しいから天然で頑張りなさい。

投稿: 私 | 2006/03/14 22:16

>>シャッチョサン

天然で見下していいですか?

投稿: 私 | 2006/03/14 22:30

>時代の空気だったかも
「時代」とか「世代」とかで、
くくるべきものではないと思いますよ。
別に、一人で眉毛を剃る分には構いませんけどね。

投稿: 月夜の晩 | 2006/03/16 06:35

誠に勝手ながら当ブログに御ブログの
リンクをはらさせて頂きました。

不都合でしたら、即刻外します。

どうぞヨロシクお願い致します。

投稿: ビジネスブログ研究所 | 2006/03/16 08:39

日本社会とか、その時代とか言うもののせいにして生きられれば、それはある意味幸せかもね。

投稿: ahaha | 2006/03/16 19:36

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16309/9084681

この記事へのトラックバック一覧です: 言葉の磁場:

» 「だから私は逃げ出さなかった 誰でもない自分から」 [売文日誌]
 「渦巻く空が呼んでいるの 何より大きな声で」   鬼束ちひろ 「嵐が丘」   http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/9084681  R30氏のエントリ。この前の劇団の話もそうだが、氏の個人的な 体験から来ている言葉という意味で貴重なエントリだし、書かれて いる内容にも重要な点があると思える。だが、ここでは関連するようで 関連しないような書き方をする。何故そうするかは置く。書く内容は 「ツァラトゥストラ」について。知っている人は知っているだろ... [続きを読む]

受信: 2006/03/14 14:56

» 「ことのは」の背負ったもの----許さなければならないこと。許してはならないこと。 [BigBang]
私としては、その人の素性に関して言えば、「かつてなんだったか」はもうどうでもいい [続きを読む]

受信: 2006/03/14 15:24

» 人はすべてシメールを背負う [時事を考える]
シャルル・ボードレールの「パリの憂鬱」だったと思いますが、「人はすべてシメールを [続きを読む]

受信: 2006/03/14 21:20

» [雑文]信仰告白 [早く人間に成りたーい。right]
言葉の磁場 http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2006/03/religion_28b9.html あの時代、サリン事件の頃 http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/03/post_3708.html なんか、オウムが騒がれていた頃に関して色んな人が振返っていらっしゃる。 自分は今は24歳なので、自分的にあの時代と言えばオウムより酒鬼薔薇聖斗。 あの事件が起こったことをテレビで知った時、14歳の... [続きを読む]

受信: 2006/03/14 23:10

» 今日は真面目に書きます [霊能者のひとりごと]
霊能者と言うとオカルトの世界の住人としか考えない方も多いのですが現実には宗教と密接な関係があります。心霊の世界が心の投影である以上は霊能者であるとしても心の働きに精通していなければ本当の霊能力を発揮することは困難となります。しかし宗教に関心のない人に宗教とは何か、仏とは何か、神とは何かを説明するとなると非常に困難なことでした。  何人かの人たちと話していて気が付いたのは神仏と一人の人間としての自分の存在の関係を理解できないことが理解できないことにあるのではないかと考えるようになりました。 ... [続きを読む]

受信: 2006/03/15 01:13

» 松永英明氏の記憶痕跡 [生きてみた感想]
いつわりの よになかりせば いかばかり ひとのことのは うれしからまし これは松永英明氏が「絵文録ことのは」を立ち上げた際にかかげたものらしいです。氏をめぐる状況がどのようになっていくのか、また氏の「実態」がどうであるのかについてはわかりませんし、僕にはなんとも言えません。最初、野田氏がきっこ=松永英明説を論じている(http://espio.air-nifty.com/espio/2006/02/mvproject_honda.html)のを読んだときに咄嗟に思ったのは、「なんだ、推理小説か?」... [続きを読む]

受信: 2006/03/15 01:19

» 宗教、共同体、1995年、9.11、コミュニケーション [six a plus one o - jp]
元オウムのブロガー云々のことに関しては、先日、わざと論点をずらしたようなエントリ... [続きを読む]

受信: 2006/03/15 05:24

» 「ことのは」の背負ったもの(2)----GripBlogのことなど [BigBang]
GripBlogが非常に残念な結果になってきている。正直心中穏やかではないが、下 [続きを読む]

受信: 2006/03/16 13:21

» 「ことのは」の背負ったもの----許さなければならないこと。許してはならないこと。 [BigBang]
私としては、その人の素性に関して言えば、「かつてなんだったか」はもうどうでもいい [続きを読む]

受信: 2006/03/17 00:18

« 3/31に緊急イベントやります:ソフトバンク×ボーダフォン | トップページ | 油断も隙もないですね »