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2006/03/24

劇評『ベケットライブvol.7 見ちがい言いちがい』

ベケット・ライブ (c)宮内勝 前回「95年に演劇に絶望した」みたいなことを書いて以来、オンライン・オフラインでいろいろな人から感想をもらい、本当に久しぶりに芝居を観に行ってみようかという気になった。

 久しぶりだけに何を観ようかかなり迷ったが、世間的に「面白い」と言われるような芝居に行くのは止めて、あらゆる意味でその面白さを観る側がすべて引き受けなければいけないような芝居を観たいと思った。で、選んだのがサミュエル・ベケットである。

 スリーポイント ベケット・ライブ vol.7 『見ちがい言いちがい』(宇野邦一訳・三浦基演出・鈴木理江子出演、下北沢「劇」小劇場)

 知らない人のために少し説明しておくと、サミュエル・ベケットというのは、20世紀のアイルランド出身の劇作家で、「不条理劇」と呼ばれる演劇ジャンルの代表とされる人である。不条理劇とは何かについて説明し始めると長くなるので省略。要するに、一般の人が演劇を観てイメージする「(社会的なコンテクストによる)意味の付与」を拒否するような、支離滅裂な芝居のことを言う。

ゴドーを待ちながら    ベスト・オブ・ベケット ベケットの代表作といえば、ウラジミールとエストラゴンという2人の男が、いつまで経っても現れない「ゴドー」という人物が来るのを待ちながら舞台上で延々と無駄話やどたばたを繰り広げる「ゴドーを待ちながら」という劇(1952)だが、この芝居は日本の戦後演劇にも多大な影響を与え、今もいろいろなところで引用されたりしている。読めばそれなりに面白い戯曲なので、興味のある人は原作を読まれると良いだろう。

 「ゴドーを待ちながら」は、いつまで経っても現れない人物を、なぜだか分からないけど待つことになっている2人の男という、不条理な状況を描いた演劇ではあるが、この芝居を上演する場所や演出によって、2人の男がなぜ「待つ」のかという理由が外部の社会コンテクストから与えられることになる。

朝日のような夕日を連れて 例えば鴻上尚史が85年に「第三舞台」旗揚げで上演した『朝日のような夕日を連れて』は、ゲーム会社社員4人の新製品開発に舞台を置き換えることで、際限ない消費と戯れの日々に飽き足りなくて恋愛、新興宗教といった形而上的な「救済」を求める現代日本の状況を「待つ」人たちを描いた。また、90年代に哲学者のスーザン・ソンタグがユーゴ紛争のまっただ中のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォで上演した『サラエヴォでゴドーを待ちながら』では、それは戦火の中で待てども来ないNATO軍を観る者に想起させた。

 劇それ自体に「コンテクストの意味」を持たない不条理劇は、観る者の社会的コンテクストをそのまま取り込み、映し出すことになる。「ゴドーを待ちながら」の場合は、「永久に来ない何かを待つ」という行為に対して、観客の側の社会的コンテクストが問われるのである。

この時代に想うテロへの眼差し 今回観た芝居は、後期ベケット作品の特徴である「観る側のコンテクストを問う」という不条理劇の働きを、さらに徹底している作品である。

 舞台上にはスピーカーや液晶テレビがあり、役者がしゃべっていない時にもそこから様々なトーンの台詞が流れる。または、スライド映写機によって意味があるようなないようなテロップが壁に投影される。役者もまた、それらと同じような台詞、シンクロする台詞、微妙にすれ違う台詞をしゃべることもある。

 しかし、それらの言葉は役者の動作とはほとんど関係がない。舞台美術も同じだ。壁には枕が1つ、つり下げられている。袖近くには鍬と椅子が置いてあり、舞台前方には写真アルバムと茶碗、スプーンが置いてある。舞台の中央右手には、枯れ木から出た枝にくくりつけられたハンガーに掛かったコートと、ブーツが置いてある。これらの舞台上のオブジェも、その存在や配置にも(おそらく)ほとんど意味がない。

 出てくる台詞、役者の動作、舞台上の物体には、それぞれに微妙に関係があるように思える場面もあるが、その意味合いが前後の言葉やシーンと何か関係があるわけでもない。観客の側は、舞台上で流れる台詞や動作、オブジェなどに何らかの関係、つながり、またはかすかな意味を求めようとするたびに、その次の瞬間にはその“希望”を断ち切られる。

 舞台上には台詞が流れ、役者が動いており、それらと舞台上のオブジェの微妙なかかわりは「ある」ように見えているのである。にもかかわらず、観客がこの劇の意味を自分のいる社会的なコンテクストの中に探そうとする、あらゆる意識さえもが否定される。

 そこで問われるのは、純粋にこの劇を(社会に依存しない)純粋な「自分」としてどう捉えるのか、言い換えれば「社会的関係を絶ったところでの“自分”は、どのようなコンテクストの中にこの劇を置くのか」ということだ。「面白くない」と思うことは自分自身というコンテクストが面白くないと言っているのと同義だし、「すごい衝撃を受けた」と感じることは自分が自分というコンテクストに衝撃を受けたのと同じことなのだ。

 幸い僕はこの芝居を観て、普段考えもしないような様々な感情が浮かび上がってきた。特に、液晶テレビに舞台上の俳優の姿を舞台上の監視カメラで撮影した映像が映るというシーンがあったが、これに何とも言えない不思議な気分を味わった。目の前には舞台をゆっくり歩いていく俳優の姿が見えているのに、自分はどうしてもテレビに映る俳優の後ろ姿に意識を取られてしまうのである。目の前に生の人間がいるのに、それを監視カメラとテレビを通じて見るほうに意識を取られてしまう自分とは何なのだろうか。うまく言葉にできないが、舞台を見ながらぼんやりとそんなことを考えていた。

 あらゆる意味で「意味を付与される」ことを拒否する芝居を観ることによって、僕は少なくとも僕自身の中のコンテクスト、感受性のようなものが、普段の仕事や日常の生活を生きることですり切れてしまってはいないことを確認できた。これから少し、その感受性を大切に守りながら、もう少し他の芝居にも足を運んでみようかと思う。

10:24 午後 演劇

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消えるものは消えるし残るものは残る トラックバック Proving grounds of the mad over logs @2006/04/03 2:04:32
不条理劇とは何かについて説明し始めると長くなるので省略。要するに、... 続きを読む

Comments

↑「私」がやっていることと、どこがどう違うのかと。

POSTED_BY: @2006/03/25 0:38:12

「観て想う」ではなく、「やって想う」。
この差を追求されたし。>シャッチョサン

POSTED_BY: @2006/03/25 0:39:17

 クソでもいいから自力で開発しろと言うに、またそうやって中途半端にいいもの目にして安易に得心するから先が無い。
 出来合いの良いものを「見つける能力」は素晴らしいかもしれんが、それだけだと先が見えんよ?
 下手な知識は邪魔なんだよ。馬鹿でいいし無駄でいいから、自 力 で や れ 。

以上

POSTED_BY: @2006/03/25 1:35:45

>>シャッチョサン

 だいたいアンタ、いつまで経ってもお客さん根性が抜けんのはどういうことかね? 今どういう立場なんだ。

>感受性のようなものが、普段の仕事や日常の生活を生きることですり切れてしまってはいないことを確認できた。

 磨耗するような生き方をするな。日を追うごとに増えるような自然増毛法で生きろボケ。

 駄目なので人生やり直し。課題提出は30年内とす。毎日死んで毎日生き返って、日々精進するように。

POSTED_BY: @2006/03/25 1:52:08

観客に徹した、とてもいい劇評だ!
よく、あの空間が描けている。

ネットって、空間が異常に狭いし融通が利かない。
そのうえ、そういう人が注目を集めるよね。
肉体は不在で。

舞台が映画と違うのは、
肉体があること。

ネットの方も、よく観察していると、
その人なりの肉体は見えてくるんだよね。
とはいっても、演劇空間の経験がない人には難しいかもしれない。

そのあたりが、よく書けていた。
さすがR30チン、錆びていないぞ。
ついでに、また、ハゲになって黄色の服でも着る?

ま、気になるのは梅のできかな?
今年は、ここらは一斉にパッと咲いて、
ドバっと散ったから、
実に差がなくて、漬け易いのでは。
もし、中国ものも手に入ったら実験的にもつくってみるのもいいかも。
どうも、土がよさそうなんだよね。あっちの方が。

POSTED_BY:noneco @2006/03/25 9:50:26

私が思うヨーロッパにおける不条理劇の成立理由は、第二次世界大戦の戦時下で、多くの人たちが、さまざまな大本営発表ともいうべきものに振り回されて、戦場にかりだされたいう集合的無意識だと思う。

それはナチにおける情報操作だけではなく、連合国側でも、勝利への熱狂などから、多くの戦死者を招いた。

伝統的なドラマ手法が感動を目的にするならば、それは自らの社会を破滅に導いていることと無縁ではない。
ならば、感動をすてよう。劇空間が大衆にある一定の方向性を生み出すならば、それは新たな戦争に通じる。そういう嫌な感じを演劇人たちが感じ取ったからだと思う。

だからといって、言いたいことを何も言わぬことで、演劇が成り立つのだろうか。表現がなりたつのだろうか。
私は、21世紀にあって、何も表現しないことで表現するというのは、堕落だと思う。
多メディアの時代にあって、ドラマのないドラマ空間でなければ感じられないものなどないし、それを感じるためにはもっと効果的な時間の使い方があると思う。

POSTED_BY:スポンタ @2006/03/25 10:07:07

この構造って現代音楽にも通じますよね。

で、結局、難解さや放置で多くの顧客離れ起こしてしまったんで、今日的読み直し・焼き直し「物語」で大衆へ今巻き返してるトコ。

R30さんも一種後者の担い手なんでしょうね。
そりゃ感受性がすり切れてたらインタプリターとして廃業でしょう。
いやー良かった良かった。

POSTED_BY:トリル @2006/03/25 12:51:50

トリルさま。

私には自己肯定感という問題意識があるのだけれど、自分で自分の感性を賛美するのは、かなり無邪気だなぁ…。と、感じております。

まぁ、個人ブログなんだから許されることでしょうね。

POSTED_BY:スポンタ @2006/03/25 18:53:06

>スポンタさん

個人ブログということもありますが、自営業とは、他者に自己プロデュース・自己宣伝を行いつつ、自身はそれに溺れない必要があるんですよ。
後者はともかく、クライアントに交渉上「俺様これぐらいのグレードよ、金だけじゃ動かないよ?(はした金じゃ動かないよ)わかる?」ってハッタリが要る。
安いからって理由でコンサルタントなんて使いませんから、カリスマ性を匂わす必要があるんよ、嘘臭い宗教家のように自信に溢れる部分が無ければならん。

いやー微妙なポジションだナー。

POSTED_BY:トリル @2006/03/25 19:27:25

不条理劇ってのは、そこはかとなく自己啓発セミナーみたいっすね。人様のコンテクストを崩して不思議な感じを与えるあたり。

うまくはまれば非常に感動できるんでしょうね。 

POSTED_BY:bywordeth @2006/03/26 1:55:05

>そこはかとなく自己啓発セミナーみたいっすね。

違うのは、知的積極性が働かないと不条理劇は楽しめないけど、自己啓発セミナーは入ったら大抵「楽しめ?」ます。
不条理劇を楽しめる人は、多分進んで自己啓発セミナーなんて受講しないでしょう。
高いし。

POSTED_BY:トリル @2006/03/26 3:54:19

シェイクスピアは、ハムレットの中で、「演劇とは現実に向けた鏡だ」というセリフを書いた。だけど、そのまんま、現実に鏡をのっけていいのかなぁ…。てことっす。

でもって、鏡が舞台に載っているとしても、その鏡自体をめでないといけない。

舞台上の肉体や言葉をそのまま受け入れないで、自分の中の論理的展開に身をゆだねる。それって、本来の不条理劇の楽しみかたではないと感じています。
演出者も演技者も、戯曲に書かれた筋書きではないもので観客に感動を与える。そういうものを模索しているはずなんですが…。

POSTED_BY:スポンタ @2006/03/26 9:44:45

そうでもあるし、そうでもない。

大体、計算通りの反応を観客がするという事は少ないし、舞台に鏡を置くつもりでも舞台側の技術が追いつかなかったりそういうモノだったり。

舞台の幕が上がれば、もう、舞台は役者と観客のモノだし。
最後は煮るなり焼くなり好きにして、って感じス。 

と雑談部屋になりつつある今日この頃。

POSTED_BY:トリル @2006/03/26 20:17:51

スポンタさんは、まあこの舞台を見ずにここに書かれているのだと思うのですが、

> 舞台上の肉体や言葉をそのまま受け入れ

ろというのは、ぶっちゃけこの舞台に関して言えば「到底無理」です。「ゴドー待ち」は、舞台にいる2人の存在に「意味」は与えられてないかもしれないが、少なくとも舞台上で交わされる言葉そのものは「意味」がある。しかし、この舞台は開演から終演までの間に出てくる「言葉」と「身体」と「空間」と「時間」の、いかなる組み合わせにも「意味」が与えられていないのです。正確に言うと、ところどころ意味がつながりかけるたびに、すぐにその意味が「ぶち壊される」のです。

そういう芝居を観て、スポンタさんならおそらく「なんだこれは。何の感動もない。つまらない」と言うだろう。それは、たぶんこの舞台に乗っている「鏡」がいかなる感動も「与えてくれ」はしないし、「愛で」させてもくれないから。実際、そこにはただひたすら無意味な情報だけが散らばっているだけで、あまりに何も感じられるものがないので、舞台の最中に眠っている観客もいました。

しかし、僕はそこにこそベケット(と演出家の三浦氏と役者の鈴木氏)の仕掛けた罠があると思った。この舞台を「つまらない」としか思わないのは、その人自身が舞台に何を感じるかを、自分以外の社会的コンテクストから「与えられる」ことに慣れきっているからなのです。極端に言えば、

> 演出者も演技者も、戯曲に書かれた筋書きではないもので観客に感動を与える

という前提に自分を委ねきってこの舞台を見る人にとっては、この舞台はその「前提」を満たしていない、ことが分かるだけで終わるということです。もっと言うと、この舞台を批評する人間はその批評がすべて自分に返ってくるように仕組まれていることを前提として批評しなければならない、ということなんですよ。僕は、別に自己愛や自分の感性の賛美をするためではなく、この舞台が「とんでもない」舞台だった、ということを言いたいためにこの文章を書いたのですよ。

> 多メディアの時代にあって、ドラマのないドラマ空間でなければ感じられないものなどないし、それを感じるためにはもっと効果的な時間の使い方があると思う。

とあなたが言うならば、それこそ「私」さんがここの2番目や3番目のコメントで書いているように、僕とか他の誰かにここまで深く物事を考えさせるような何らかの表現を、スポンタさん自身がしてみることです。その時、初めてあなたのさまざまな表現が有意義なものになるのではないでしょうか。少なくとも、あなたがあちこちに書いている多くの文章が受け止めもされず、批判もされずにただスルーされているということが意味するものを、もう少し考えた方がいいように思います。上のようなことを書かれるということ自体、ご自分でもそのことに薄々気が付いていらっしゃるわけだから。

POSTED_BY:R30@管理人 @2006/03/27 0:13:28

前の日常の亀裂でも思ったのですけど、ネットの仕事をしている人間だと、芝居にしろ映画にしろ、一方の方向(時間軸)に流れる情報ロジックの美しさに圧倒されることはただありますよね。

表現手法の熟成に費やされた年月が違うだけかもしれませんし、最近ネットとの費用対効果でアレコレ言われてるテレビCMも情報を受ける側としてはCMの方が感性を刺激されるでしょうし。
まぁ感性を刺激されることで「商品が売れるのか?」って聞かれれば答えに困りますが・・・。

この手の話に仕事とかの話を持ちだすのは少々野暮でしたかな?
失礼しました。

POSTED_BY:児玉遼太郎 @2006/03/27 1:31:19

管理人さんは、私のコメントによって、気分を害されたようですね。

心よりお詫びもうしあげます。

POSTED_BY:スポンタ @2006/03/27 16:35:19

多分スポンタ氏は現代的な演劇の課題について直面している方ではないかと想像する。
単に否定でなく微妙な言葉の選び方から当事者(演劇関係)に近距離にある印象を受けるからだ。

R30氏の状況の記述はプロらしく情景が浮かぶので分かりやすく面白かった。
しかし内容の解説は何故観客のコンテクストを借景することが面白いのかという当然の疑問にも切込んでおらず、歴史的価値といった作品の持つ動的な側面を無視して普遍の前提で論じる姿勢にも自覚の無い投げやりさを感じずにはおれない。

重箱の隅をつついても仕方が無いが、私のような普段から罵声を浴びせやたら見下してみせる素行の悪いものはともかくスポンタ氏に噛み付くのはR30氏にとって損失だろうと思う。ウソばっかりつく見栄っ張りのIT関係者よりイイ人っぽいぞ。

と思ったら自分のブログでスネてんな。どうでもいいか、こいつも。

POSTED_BY:oo @2006/03/27 19:36:03

江戸の敵を長崎で討つ?って事ですかね~。
微妙~。

映画の方は不条理に対して違うアプローチでしたからな。

「朝日のような夕日を釣れて」なら私らも学生芝居でやりましたよ。

R30さんはシュトックハウゼンや山海塾へは興味はないのでしょうかね。

POSTED_BY:トリル @2006/03/28 1:14:20

>私(「私」?)のような普段から罵声を浴びせやたら見下してみせる素行の悪いものはともかく
↑ご意見ご尤も。「私」の場合、基本的に「いじり屋」なんで、罵声や見下しも相手がそれによって何らかの反応を出す(引き出せる)と判断したら、躊躇無く使いますよ。手法のひとつでしかないですから。

>スポンタ氏に噛み付くのはR30氏にとって損失だろうと思う。ウソばっかりつく見栄っ張りのIT関係者よりイイ人っぽいぞ。
↑私も、特に変なことを言ってるようには見受けられませんでしたが。それこそ、「私」よりはなんぼかマシでしょ。なんつって。

POSTED_BY: @2006/03/28 1:52:08

 シャッチョサン意外と細かいことに拘る性質やね。思索的というか、思い詰めてアレコレ考えて考えたなりの結論を出したがるっつうか。
 そういう部分も必要ッちゃ必要なんだけど…特にシャッチョサンみたいに「それ」を商売の種にしてる場合は超重要なんだろうけど、でもまあ、あんま拘らない面も必要かもねって感じ。
 大要・大枠は勘でガッと掴んだほうがいいよ。

 幼稚園とか団地の砂遊びで、「砂山に旗立てて砂取って、砂を沢山取った奴が勝ちで旗を倒した奴が負け」ってゲームがあるじゃん?
 シャッチョサン、ああいう遊びをやるときに、どうすれば最後の最後まで砂山を崩さないで居られるかって、そっちメインに考えちゃう系統の人に見受けられる。
 私の場合、「そんなもん沢山砂取れば勝ちなんだから”最初のジャンケンで勝てばいい”んちゃう?」って考えるクチなんよ。始めに目一杯取ってしまえば、あとは砂一粒ずつ取って時間切れ狙いでいいやっていうか。卑怯と呼ばれようが何だろうが気にしねえっつうか。相手が取るときになったら罵詈雑言浴びせて集中力かき乱して、失敗したら手ェ叩いて大笑いでもして、とりあえず「精神的に優位に立つ」ことをメインに考えるっつうか。他にどうにかなる要素なんてないし(笑)。

 そこに思索や戦略の入る余地はないっつうか、別物の戦略が入るでしょ。そっちを考えるのが重要かな? って思ってみたり。
 それが、「とりあえず行動」だったり「お客さん視点からの脱却」だったりするわけで。「私」の言い方だと。ほかにもっとグッとくる言い方があればそれでいいけど。

 そういう方面では、ホント「下手な考え休むに似たり」なんよね。とりあえず行動。最初のジャンケンで負けたらぐうの音も出ないけど、それはそれでいいじゃんっていう開き直り。再戦上等なんだから。遣り通せばいいんだ。

 組織に頼らず自力で生きるって、多分そういう行為の繰り返しだと思うのよ。失敗してもいいし、滑って転んで頭打ってもいいじゃん。私とかここぞとばかりに罵詈雑言を浴びせたり平気の平左で見下しまくったりするけど、それやられたからって、どーってことないやん。
 別にリアルで関わった挙げ句にそういう真似するわけじゃないんだからさ。

 それはそうと、もうそろそろ初筍がニョッキするシーズンがやってきたんで、閲覧賃・遊び賃も兼ねてまた進呈しますわ。前回同様、「会わない路線」で。多分、そのほうがいいと思うわ。

 頑張ってね。

POSTED_BY: @2006/03/28 2:16:02

 組織の庇護から抜けて自分や人の繋がりで生きるようになったら、今度は自分が生きるために「己の力」を「自分が」庇護するんかもね。
 そういうもんかもね。

 で、他人様が一番欲しているのって単純に「己の”力”」であって、「それを守る”自分”」じゃあないんだ。所詮見世物であっても。

 剥き出しで生きるって、大変ですね。そんな感じ。

POSTED_BY: @2006/03/28 2:27:20

”力”ってのは、”生きる力”ね。

POSTED_BY: @2006/03/28 2:30:36

>スポンタさん

別に気分を害したりしてませんよ。
単にご指摘の点について議論すると面白いかなあと思って、のこのこ出てきてみただけなんですが。
スポンタさんこそ、コメント欄に議論するために来たんじゃないんですか?

POSTED_BY:R30@管理人 @2006/03/28 5:51:37

>スポンタさん

あえて少し言葉を足しておくと、あなたが自分のブログに書いた申し開き、
http://www.doblog.com/weblog/myblog/12516
読んで思ったのだけど、「エスタブリッシュメント」という言葉で他人と自分の間に線を引いて自由な議論を潰してるのは、あなた自身だよ。少なくとも僕から見ると、ずいぶん不自由なこと考えてるんだなあと思う。
僕はブログで別に予定調和的なコメントを期待してるわけでもないし、予定調和を良いようにぶっ壊してくれる「私」さんのコメントを、いつも苦笑しながら楽しく読んでるタイプです。
彼は別にエスタブリッシュメントでも何でもないよ。てか、別にエスタブリッシュメントだからコメントを許可されるわけでもないし、エスタブリッシュメントじゃないから議論の相手にされないわけでもない。
梅田さんも湯川さんも、単にそこでの議論がそれなりの自分の思考と時間を費やすに値するだけの面白いものになりそうかどうかだけを見て、コメント論戦に参戦するかどうかを決めてるんだと思います。で、今回のしっぽの巻き方でも分かるように、あなたのコメントには「ここで知的生産性を高めるような論争をして、管理人やオーディエンスのナレッジに貢献したい」という気概が、全然見えないわけなのね。それじゃあ、単に言いがかりコメントと見られて削除されても仕方ないでしょ。うちのブログはそういうコメントも削らない方針でやってきてるから、単に放置してますが。

彼らは「エスタブリッシュメントだから」あなたのふっかける議論に応じなかったりコメントを削除するんじゃなくて、「(エスタブリッシュメントかどうかを延々問いただすような)あなたの議論の姿勢があまりにも不毛&非生産的だから」相手しないor削除するだけなんですよ。
そこんとこ、ご自分で自覚されたほうがいいよと申し上げてるわけなのです。分かります?

POSTED_BY:R30@管理人 @2006/03/28 6:03:24

エスタブリッシュメントとは何ぞや。
どこからがエスタブリッシュメントなんだろうか?
厳密には本庁課長級以上、東証一部上場事業部長以上、もしくはそれ同等の影響力を持つ個人という事で良い?
層で言えば、そういうポジションになり得る人々の事で良い?

範囲広く下世話に言って「貴方の社会的生殺与奪権を握っている人は皆エスタブリッシュメント」って論でいけば、ブログ主が管理人と論者を兼ねてるのは反対論を持つゲストにとってはエスタブリッシュメント。
ま、これは実体としては言い掛かりだろうな。
援用しすぎ。

私はやたらと使う言葉じゃないと思ったりする、エスタブリッシュメント、長ったらしいし。

POSTED_BY:トリル @2006/03/29 2:01:10

「観る側のコンテクストを問う」のは演劇人にとって自殺だと思うんだけど
何に希望を持って演じてるんだろう?
啓発者になったつもりになって満足なんだろうか?

POSTED_BY:通りすがり @2006/03/29 8:25:48

幸い僕はこのブログを観て、普段考えもしないような様々な感情が浮かび上がってきた。特に、コメント欄でブログ上の筆者が姿を現して議論している様子が出るという機会があったが、これに何とも言えない不思議な気分を味わった。すぐ上では演劇をほんわか語っている筆者のエントリが読めるのに、自分はどうしてもコメント欄に降臨する筆者の語り口に意識を取られてしまうのである。目の前にメインエントリがあるのに、それをコメント欄と論戦を通じて見るほうに意識を取られてしまう自分とは何なのだろうか。うまく言葉にできないが、ブログを読みながらぼんやりとそんなことを考えていた。

POSTED_BY:ne @2006/03/29 10:56:17

ツァラトゥストラ以降の思想とか、その表現形態である演劇とかってものは、多分ハイデガーの言う「形式的指標」という言説作法を用いてるのかなぁと思ってみたり、みたいな。
最低限のindexを与えておいてその後は己自身で確かめなさい的な形式、みたいな。
劇作者や演出者や役者がなんらかの意味を付与しようと思っても、観劇者は自らの意味連関の中でしか世界を解釈し得ない、つまりみんなにとって受け取るものは異なってしまう。んなもんで最初からそういう意味を剥ぎ取ってしまって、いっその事触媒として皆に働きかけようとする、そんな所かと思うんですが、みたいな。(ハイデガーは「道」という表現使ってると思います)

そう考えれば、こうやってブログ書いて、それなりの影響を与え与えられてるって事はそれなりに触媒としての役割を果たしてるってことなのかも、みたいな。出来ればこれからもこういうイマジネーションを刺激する記事を期待したいです。ビジネスものの隙間にでもw

POSTED_BY:名無しさん @2006/03/30 0:10:02

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