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2006/02/26

映画評「THE 有頂天ホテル」

THE 有頂天ホテル 今頃になって観てきましたよ。まあそこそこには笑えたのだけど、東京サンシャインボーイズの「ラヂオの時間」を観てしまった人間としては、やっぱり何か違うなーと。全然あのレベルに届いてない。2時間半の長尺を見終わった時には、「三谷さん、どうしてこんな映画でそのあふれる才能を浪費するの、早く舞台に戻ってきてよ!」という切ない気持ちで一杯になった。

 でもそれからまた考えていたのだけど、三谷幸喜は自分が「ラヂオの時間」やら「ショー・マスト・ゴーオン」といった舞台作品を超える映画を作れていない、ということを自覚した上でこうした試みを延々繰り返しているのではないか。そして、舞台ではなく「映画」や「テレビ」という、それぞれの場でしかできないこととは何かを一生懸命考えているのではないかと。そんなことを思った。

 ただ、今回はその「映画でしかできないこと」が状況設定に寄りすぎているという気がした。確かに隣同士のスイートルームで起こる出来事が、壁一枚を通じて隣の部屋の人物に影響を与えるというのは設定として面白いし、舞台でこれをやってみせようとしても無駄に面倒なだけだ。だがそれが本当に「映画でしかできないこと」なのか。三谷のチャレンジは、何か方向が間違ってないか。

 Amazonに「有頂天ホテル」を非常に的確に批評したコメントが書いてあった。「三谷幸喜は、察するに和製のビリー・ワイルダーか、二ール・サイモンあたりを狙っているのだろうが、ひとつだけ彼らにあって、彼に足りないものがある。それは色気である。」いや、「狙っているのだろう」どころか、日芸時代の彼の仲間たち(今回の映画にもたくさん出ている)と作った劇団の名前が「東京サンシャインボーイズ」というぐらいだから(「サンシャインボーイズ」はニール・サイモンの劇のタイトル)、彼がそこを目指しているのは間違いないのだ。

 問題は、彼がコメディの脇筋の「泣かせどころ」として、登場人物が「自分の職務に狂おしいまでの必死さで取り組む姿」を描くという技しか持てないでいることにある。今回でいうと、例えば副支配人の新堂(役所広司)と受賞者の妻・堀田由美(原田美枝子)との複雑な情感を、この程度にしか演出できないというのだけで、彼がいかに脚本家・演出家として「愛や恋」が苦手かということが分かる。

 これだけのウェルメイド・コメディを描ける日本を代表する脚本家かつ演出家が「ほろ苦い愛や甘酸っぱい恋」を描けないというのは、もはや極めて深刻な事態だと思う。三谷幸喜は一度シチュエーション・コメディの路線から足を洗って、ガーニーの「ラヴ・レターズ」あたりの演出をじっくりやってみたりしたらいいんじゃないだろうか。大人の恋、人間の愛というものが三谷コメディで大笑いした後の余韻として感じられるようになったら、その時こそ日本最高の喜劇作者が誕生すると思うのだが。

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