日常の亀裂
このところ、更新が滞っております。理由はいろいろあって、1つはこのブログにウェブネタを3回も連続して書いてしまい、(ブログ用の)脳内が自家中毒に陥ってしまったこと。もう1つは本職で原稿執筆に追われまくっていること。そして最後に、このクソ忙しいのに長編マンガにはまってしまい、身動きがとれなくなっていたこと。
何のマンガかというと、実は「ガラスの仮面」だった。最近になってカミサンが文庫版23巻を買い集めていたのを盗み読みし始めて、気がついたら止まらなくなってしまったのだ。竹熊先生いわく「現代の合法ドラッグ」という意味がよく分かった。毎晩2巻ずつぐらいを床に入ってから読み続け、10日ほどかけてやっと全巻読破した。読破しないと仕事が手につかないとあって、もう必死だった(笑)。
詳しくは語らないのだけど、実は僕は高校から大学にかけて演劇青年だった。高校から大学にかけて、新劇から小劇場、高校や大学の演劇など年間50本以上の芝居を観に行っていたし、2年生の時には図書室にあった小田島訳のシェークスピアの全集37巻を読破したり、スタニスラフスキーシステムや鈴木メソッドの本なども読んだりしていた。
観るだけでなく、自分でやる方もかなり手を出した。高校時代に役者、脚本、演出はもちろん、大道具、小道具、音響、照明などまですべてこなし、「衣装以外の仕事は全部やれます」とよく自己紹介の時にしゃべっていた。おまけに大学の時はある大きな学生劇団で制作をやりながら、名前を隠して別のところで演劇批評も書いたりしていた。
それほど演劇にどっぷりはまっていたのに、「ガラスの仮面」は読んだことがなかった。当時は(というか先日まで)ただの少女マンガだと思っていたから。でも「ガラスの仮面」を読んで、そんな学生の頃の気持ちを思いだした。
今から思えば芝居にどっぷり浸かっていた学生時代だったが、ある時を境目にぱったりと演劇に関心がなくなった。そのきっかけは95年の阪神大震災だった。僕自身が関西出身だったので知り合いがたくさん被災した。大学時代の友人にはボランティアに行った奴もたくさんいた。マイノリティ言語の通訳ができる僕に「手を借りたいからボランティアに来てくれ」と連絡してきた人もいた。
僕は、神戸には行かなかった。冬休みだったし時間はあったから、行っても良かった。でも、みんなが押し掛けている渦の中に入って何かが見えなくなるような気がした。数週間ボランティアして帰ってきた友人の話を聞いて、僕の判断はある意味正しかったと思った。僕に言わせれば、彼らは震災の現場をただ「見てきた」だけだった。もちろんそれはそれで得られるものはあったに違いないが、そんなことは東京にいたって想像力の範囲内で経験できることだった。
僕は、神戸に住む親戚や知り合いから聞くことのできた話から、日常の世界にぱくっと開いた目に見えない深い亀裂のようなものを感じ取っていた。そして震災から数ヶ月も経つとその亀裂がまるで何もなかったかのように塞がれ、見えなくなっていったことも、感じていた。
その後、半年ほどしてある劇団がやった公演を観に行った。ここではその芝居の名を伏すが、内容は暗に阪神大震災をテーマにしたものだった。それまで結構その劇団が好きだったのだが、その芝居を観終わった瞬間に猛烈な怒りと虚しさがこみあげてきた。こんな舞台ごときで、あの震災に開いた「亀裂」のことが表現されてたまるか。こんなのは“ウソ”だ。
その時、僕は演劇によって生み出せると思っていた日常の「亀裂」がまったくのウソだということに気がついてしまったのだ。演劇だけでなく、ニューアカとか現代思想とか、それまで興味のあったものの多くに対して興味を失った。あの震災に比べれば何もかもが嘘っぱちとしか思えなくなったからだった。
話は「ガラスの仮面」に戻る。あの出来事から11年が経ち、何かが変わったのかと最近考える。「ガラスの仮面」を読みながら、北島マヤが演じる芝居に心を打たれて何度か涙をこぼした。あれ以来演劇を見限った僕の心の中の何かが、元に戻ったのかも知れないし、そうではないのかも知れない。でも、今度時間のある時にでも、何か芝居を観に行ってみようかなと、ちょっと思った。
そんなことを思った時に、たまたま面白い記事を読んだ。「日経ビジネスX」の「イッセー尾形に学ぶ『自分』の見せ方」という連載記事だ。昨年6月に行われた、一人芝居で有名なイッセー尾形と、その演出を担当する森田雄三が、素人を4日間の稽古で舞台にのせるという前代未聞のワークショップの様子をレポートしたものだ。台本もなく、ただ集まった100人の一般人が、どのように「舞台で演じる」ことを学んでいったかを連載していくらしい。
1回目の内容からして、ものすごく面白い。詳しくはリンク先を読んでほしいが、既に1回目にして「演劇とは何か」「人間とは何か」「人生とは何か」ということをこれほど深く考えさせるワークショップはないのではないか、という気がしてくるから不思議なものだ。
大学の頃制作を手伝っていた劇団の主宰者が、よく「僕らの芝居は、劇場に入る前と見終わって出てきた後とでは、その人にとっての“世界”の意味が少しだけ変わっているような、そんなものを目指しているのです」と話していた。たぶん彼の言おうとしていたのは、劇場を出てもしばらくは観客にとっての日常にぱくっと空いた「目に見えない亀裂」が閉じずに残っているような、そんな体験を2~3時間の中で提供したい、ということだったのだろう。実際、僕らはそういう芝居を(ごく短い期間ではあったが)やっていたと、その頃は自負していた。
今の日本に、「観に来たあなたの日常世界にぱくっと亀裂を開いて差し上げます」と宣言する劇団がどれほどあるだろうか。残念ながらほとんどないのではないか。しかしイッセー尾形と森田雄三は、どうやらそれをやってのけたらしいということが、このレポートから分かる。日本の演劇もまだ捨てたものではないと、何となく思えた。もちろんこのワークショップだけが日本の演劇というわけでもない。今日もどこかで誰かが芝居を演じている。そして僕は北島マヤの演技に涙している。
そんなわけで近々また芝居を観に行こうかと思い立ったりしたのだが、さて芝居を観に行かなくなってからもう10年近いブランクが空いている。いったいどこの芝居を観にゆけばよいのやら。これだけインターネットで情報が入る時代だというのに、自分がどの芝居を観に行けば良いかも分からない。こういう時にGoogle先生は役に立たない。困った困った。
そうそう。言い忘れていた。20日に発売された、東洋経済から出た「ブログキャスター」という雑誌に、1本コラムを書きました。専門と全然違うところ(政治ネタ)になぜか有名ブロガー、カトラー氏とともに登場しています。ご興味のある方はどうぞ。
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コメント
> そんなことは東京にいたって想像力の範囲内で経験できることだった。
すごい想像力ですね。ある時期神戸で育ち、震災を神戸近くで経験した者としては、あれを外部でちゃんと理解している人はいないだろうと(漠然と)思っていました。なぜかというと、あのとき(地震前後)のほぼあらゆる言説を超えたところに震災があったからです(少なくとも、その後を含めて知っている範囲ではそういう雰囲気が濃厚だった)。
ちょっとびっくりしました。すごいですね。
投稿: ayustety | 2006/02/23 03:22
http://hobby8.2ch.net/drama/
投稿: カイジ | 2006/02/23 05:00
>ayustety
頭の中では、なんでも経験できた気持ちになれますからねw
投稿: 月夜の晩 | 2006/02/23 07:41
クラシック音楽の世界で、日本人の間に
「日本人がクラシック音楽を本当に理解できるのか?」
と起こる問いに似てますね。
渦中の人達にしか解らないこともありますし、
渦中の人達には解らないこともあると思います。
もう一方、別の方面で。
湾岸戦争の時、ビートたけしが久米宏に
「久米さんにイラクに行ってもらって、報告して欲しいですね」と言ったら久米さんが
「いやぁ、東京にいるから詳しいことがわかるんであって、バグダッドに行ったら何にもわからなくなる」と
返事してました。
組織の力がカバーできることと出来ないことの境界線をはっきりしたほうが良いですね。
投稿: てんてけ | 2006/02/23 08:52
ちゃんと嫁。
>彼らは震災の現場をただ「見てきた」だけだった。
>もちろんそれはそれで得られるものはあったに違いないが、
>そんなことは東京にいたって想像力の範囲内で経験できることだった。
あの中に居た人と同程度に理解できたとは言っていない。
投稿: bowwho | 2006/02/23 09:59
今回のエントリーに村上春樹を思い出しました。
投稿: 日光 | 2006/02/23 10:29
> いったいどこの芝居を観にゆけばよいのやら
歌舞伎とか能狂言じゃないの
人気のある人の公演ではなく、実力のある人のやつネ
投稿: マルセル | 2006/02/23 10:52
> 震災を神戸近くで経験した者
これと同等ものを「想像力の範囲内で経験」できたとは書いてない。
ayustetyさんの言葉を借りるなら、震災ボランティアも所詮「外部」。
投稿: riot | 2006/02/23 13:15
忙しい時のマンガって面白いんだよな。
夜中、まずいと分かっていて益々読みたくなる。
背徳の悦び。
では、阪神大震災は笑えた! の続きをどうぞ。
投稿: g | 2006/02/23 14:44
思いっきり地震の直撃を受けた元神戸市民です。
丸焼けになった鷹取商店街を見たときも、崩れた家同士が混じり合って廃材のカオスのようになった芦屋の津知町をみたときも、涙を溜めながら何だかバカ笑いしてしまった記憶があります。
あの感情を「裂け目」というならまさにそれなんだなと思いました。納得です。さかしらを感じさせてしまうような見せ物からはそういったものは生まれないと思います。
投稿: noname | 2006/02/23 16:05
とりあえず、新宿梁山泊がいいかなぁ。
それとも飛行機に乗って、イギリスの演劇も良さそうだよ。
あとは、犬も歩けば棒にあたる方式で、
無名の劇団とか、
東大の駒場で、学生演劇をみちゃうとか。
投稿: noneco | 2006/02/23 20:21
>>シャッチョサン
当方の読みどおり、関西人で文学系(演劇までは読めんかった)青年でしたか。判り易いご人格ですな。私如きに粗読みされるようでは、まだまだ演出力が足りませんよ? 文学系青年なら、自分が文学系だってバレないようにしないと。
なんつったりして。
世間を見る商売をするときは、何よりまず人間を見ろってことですね。人間を見ないと世間は分からない。逆も真なりで、人間に迫ろうと思ったら世間を知らないといけない。
で。
人間・世間、って区分けのほかに、自然が加わると、いいかもしれませんな。
諸外国はいざ知らず、日本に限って言えば国土の8割が山地(田舎)なんですよ。平地は2割しかないし、そのなかでも都市部に限定すると、国土の1割も利用してないでしょう。
そこに1億2000万国民の過半がぎゅうぎゅう詰めになっている。私らは、逆に8割以上の土地をのんびり徘徊している。
モノの見方考え方感じ方に差が出るのは、当然かと思いませんか?
投稿: 私 | 2006/02/23 23:58
ガラスの仮面、懐かしいですな。20年前に読んで以来なんですけど、あれって完結してるんですか?
投稿: 私 | 2006/02/24 00:15
友達の家で30巻くらいまで読んだ記憶しかない…
投稿: 私 | 2006/02/24 00:16
>私 さん
よく分かりませんが、とりあえず落ち着いて下さい
投稿: 通りすがり | 2006/02/24 09:24
いまだと池袋かなぁ、シアターグリーンのフェスティバルあたりに参加してるところが旬でおいしいんじゃないでしょうか、若いし
投稿: 名無 | 2006/02/24 10:32
>私さん
> 文学系青年なら、自分が文学系だってバレないようにしないと。
なんで?
投稿: 774 | 2006/02/24 10:59
言葉の遊びじゃないんですが、非日常の中に亀裂があって、それが日常じゃないかと思うことアリです。
いや、この世界は殆ど意味ないけど、たまに意味ある「かも」しれないってことですが。
R30さんの言ってることとおんなじことですかね。
投稿: somuchfor | 2006/02/24 14:49
>>774
なんで? とか言ってる時点で馬鹿確定なんですけど。手の内を簡単に読まれるような人間のやることを、真っ当な他人が信用するわけねえだろっつうか。騙されやすい純真ボーイしか信じねえっつーか。物珍しさに寄り付くのが精一杯だろっつうか。そういう状況で働いてたら、どう頑張っても馬車馬人生が精一杯だろっつうか。折角実力あるのに勿体ねえだろっつうか。
そんな感じ。
だいたい、シャッチョサンと同じカードを持つ人間(同級生・友人等個人情報に詳しい人)が行動パターンや人間性を読み切るならともかく、まったく何の縁も所縁もない私に読まれたら痛いだろっつうの。
まあ、関西人・文系、みたいなどーでもいい部分しか見てないからどーでもいいっちゃいいですけど、世の中には悟りの妖怪的に見抜いちゃう人なんて幾らでも居る。
そういう連中のことを思えば、まだまだ手ぬるいとしか。
「そういう連中」を見事煙に巻くからこその「演出」なんですけどね。分かんねえか。まあいいや。
投稿: 私 | 2006/02/25 01:40
他人に対してある程度の行動パターンなり誠意を示すのは、「それ見て信じてノコノコ付いてくる馬鹿がいる」のを見越してからじゃないと、やっちゃダメ。
思うが侭に行動してそれで他人に付いて来られたら、今度は他人の予測なり期待感なりに自分が縛られて、以後段々と思うが侭に動けなくなるんだよ。そうなったら、どんなに才能や知恵に恵まれていても、いずれ老いた麒麟と化すんだわ。
そんなんだったら、誰からも信頼されない代償としての自由を満喫するほうがよっぽどマシ。
麒麟も老いれば駑馬にも劣る
そうなったら、ポイ捨てよ。世間は厳しいんだ。
十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人 とは古人もよく言ったもので。
投稿: 私 | 2006/02/25 02:01
シャッチョサンは根が真面目すぎて三味線上手に弾けないっぽいんで、だったら馬鹿正直路線のほうがいいかもね。
身の丈に合わせて無理しない・それでいてやるべきこと(自分に出来るなりのこと)をキチンとやる。それだけで、周囲の見る目なんざナンボでも変わってくるもんです。
そして、そういうところから伸びた人のほうが、将来有益。それならこっちも見る価値ありと判断するし、金出して可と思うでしょうよ。
投稿: 私 | 2006/02/25 02:20
ガンバレ
投稿: 私 | 2006/02/25 02:26
名手名伯楽成らず 凡手百間先に通ず
大賢小愚を兼ねるも大愚小賢に及ばず
がんばれ
投稿: 私 | 2006/02/25 02:31
R30のバカヤロウ!芝居なんて騙されに行くんだろうが。
今なら迷わずここだ!これを観に行け!公演も近いし。
http://www.siberia.jp/
というわけでシベリヤ少女鉄道。オススメ。
投稿: 孝好 | 2006/02/25 02:45
「私」さんのニュアンスがR30さんに伝わるか微妙だと思った。
ま、物書きなんて人生の切り売りしてるような部分はあるんで、こういうエントリーもアリになっちゃうでしょう、書いてるうちに。
燐光群のチラシは今でもウチに来るし、新聞に劇評が出るくらいだから、まー悪くないんじゃないかと。
私も長い間観劇してないナー、舞踏の方は時々見に行ってるけど。
新感線は、この要求には合わないんだろうな。
唐組はもう終わったんだっけ?
いや、研究生募集してるな。
中西和久の京楽座、糸繰り人形の結城座などはどう?
R30さんは主にオリジナルを演ってらしたのかしら?
投稿: トリル | 2006/02/25 05:48
初めまして、記事と関係ないコメントですいません。
以前こちらでニートに関する記事を書かれていたと思います。
自分は大学4年でして、卒論を書くに当たって、こちらの記事を参考というかインスパイヤというか、させてもらいました。
ブログで卒論公開しているんですが、リンクなどを勝手に貼ってしまいました、すみません。
いちおリンクを付けておきます。よかったら見てやって下さい(o_ _)o)) ペコリ
ではではブログ頑張って下さい。
投稿: ぱど | 2006/02/25 11:07
>私さん
なるほど。
でもblogとかweb2.0とかってコミュニケーションの性質としてその「煙に巻く」の反対をいくものなんじゃないかと思った。
「煙に巻く」のがいいっていうのは、自分のカードは伏せといて相手のもってるカードを読んでから最適なカードを提示しろ、みたいな理解でいいのかな?
自分のつたない理解だと、blogっていうツールのイメージは、まず自分の方からたくさんのカードを提示していくとどんどんレスポンスが帰ってくるので、それを読んだ上で的確なカードを早くたくさんきっていくイメージ。
自分の手の内を読まれることがあっても、その倍の速度で的確なカードを切り返せれば問題ない、みたいな。
とここまで書いてみたんだけどr30、最近更新少ないよね。
カードをきる速さよりもカードの的確さを重視してる?
投稿: 774 | 2006/02/25 11:35
なるほど。
>でもblogとかweb2.0とか(中略)反対をいくものなんじゃないかと思った。
↑基本はソレでいいと思うけど、なんぼなんでも自分のカード丸見えや読まれすぎは遺憾でしょ。アカギ麻雀でも一部の牌は真っ黒だから、そこに駆け引きが生まれるわけで。全部透明牌だったら引きの良し悪しだけですべてが決まる。そういうのは、見てて面白くない。
「アカギ」が分かんなかったら、本屋で立ち読みでもしてね。
>「煙に巻く」のがいいっていうのは(中略)みたいな理解でいいのかな?
↑正解。
>自分のつたない理解だと、blogっていうツールのイメージは(中略)。
↑同感。
>自分の手の内を読まれることがあっても、その倍の速度で的確なカードを切り返せれば問題ない、みたいな。
↑手の内を読まれまくってる(人間性など見切られまくってる)状態で「的確なカードを切り返す」なんてあり得ませんから。理屈倒れ。残念。
>とここまで書いてみたんだけどr30、最近更新少ないよね。
>カードをきる速さよりもカードの的確さを重視してる?
↑関係ないでしょ。別に私らの与太話を中心にしてるわけじゃないし。単純に、エントリーに書かれている通り忙しいからじゃないんですか?
投稿: 私 | 2006/02/25 14:01
>>シャッチョサン
>関西出身(中略)ボランティア(中略)マイノリティ言語の通訳ができる僕
↑カミングアウト5秒前ということで宜しいか。
投稿: 私 | 2006/02/25 14:03
>>シャッチョサン
全部透け牌で麻雀やっていいのは、私みたいに微妙な豪運に恵まれて山勘だけで3割打てるバッターだけですよ。
考えて行動して努力して、そういう部分があなたの人生の基盤になって、その上で「実力」ある人は、中途半端に人生切り売りなんかしちゃダメよ。そういうのを「勿体無い」と言うんだ。
投稿: 私 | 2006/02/25 14:09
ここが勝負どころ、と感じたら打つ手が豪快極まるくらいじゃないと。エントリー3連投したくらいで自家中毒起こしてたらダメよ。
正露丸でも飲んどけ。
投稿: 私 | 2006/02/25 14:11
http://www.geocities.jp/whatcolor1999/
これ、いかがでしょうか。共演いただく予定だった(笑)小野寺氏のプロデュースです。小劇場ですが、くろいぬパレードのイケタニ氏が作・演出されており、楽しみにしています。EDを書かせていただきました♪
私さん、元気ですな。
投稿: 丹 | 2006/02/26 02:14
↑あなたが私に話しかけるとは思わなかった。世も末。
投稿: 私 | 2006/02/26 11:53
そんなわけで「私」さん的には要ダメだしなエントリだったみたいだったのですが、学生演劇に首をつっこんでる自分には面白いエントリでした。最近稽古が不調で演劇に対するテンションが下がってたけどやる気でた。
ああそっか、R30の中の人も演劇やってるひとだったんだっことがわかったのがうれしかった。
「私」さんのレスは面白かったです。でも長くなりすぎるようだったら文章削って投稿するかブログもってトラバにしたほうがいいと思うよ。個人的には。
投稿: 774 | 2006/02/28 01:16
うんこさんの微妙な豪運に恵まれて山勘だけで3割打ててたバッター時代を知りたい。
何に書いてた頃だろう?
投稿: め | 2006/02/28 14:30
↑ないよ、そんなもん。だから「三味線」だっちゅーてるの。分かるかな?
投稿: 私 | 2006/03/01 12:32
>>「め」さん
私の場合は小心者で他人に変な期待掛けられたりするのが苦手だし、田舎在住でいわゆる「欲得の世界」とは無縁。それでいて茶化したり騙したりけなしたり駆け引きする技法だけは持ってるから、そういうのを「ただ使ってるだけ」なんだよ。
だから、例えば丹さんのような「真っ当な人」からは胡散臭がられて当然だし、信用なんか無くて当然。話しかけられるなんて以ての外。地元の友人からも「お前が込み入ったこと言ったら嘘だと思う」って20年近く言われてる。20年よ? よくそれで友達関係続いてるなって不思議でしょうがないけど。何回か喧嘩したけど。
それでいて、日曜日とか一緒にゲームで遊んで騙しっこばっかりやってるの。内角球投げるからって言いつつ外角球投げて三振とか、桃鉄やって使えるカードがあるのに教えてあげないとか、与太吹いて相手が混乱してるときに総攻撃仕掛けたりとか。酒飲んで人生について熱く語りつつ猫の金玉いじって遊ぶとか。
まあ、私がネットの中の人に対して唯一誠心誠意なのは、「自分はそういう人間だ」って正直に言ってることくらいかな? あとは、与太ですよ。信じてもしゃーないんだ。信じたいっていう自分の清らかさを信じれば? みたいな。
そんなもん。
あとまあ、基本的にあちこち出歩いていらんこと言ってるけど、ここのシャッチョサンや緑のあんちゃんみたく、(自分がその手口を使うかどうかは別にして)私みたいな人を許容できるか否か。そこを基準に人見てる。
包容力の有無、ですかな。何がともあれそれが無いと、仕事しても大きくなれんのですよ。
そういう人相手にクダラネーちょっかい出して遊んでるだけなんだわ。
だから、私のことなんかどうだっていいの。
自分のこと頑張ってね。
了解?
投稿: 私 | 2006/03/01 13:02
今週公演中なのでチケットあるかわかりませんが是非。
http://chelfitsch.net/
あと、観劇ガイドとしては去年のユリイカ7月号は便利かと。
http://www.seidosha.co.jp/eureka/200507/
投稿: wbw | 2006/03/11 22:29