大学ビジネスのポジショニング
例のコピペレポートの話題で知った「大学教員の日常・非日常」というブログが、大学論を語る時には自分がどの領域の大学について語っているのかを明示すべきという提起をしている。
大学の区分け(大学教員の日常・非日常)
マーケティング的に言うなら、市場にある商品群をいくつかのタイプに分類して比較することをポジショニングという。上記のブログ筆者のフラスコ氏は、大学論が論じる対象を「理系←→文系」「一流←→二流以下」という2つの軸でポジショニングすることを提案している。
一見、非常に分かりやすい軸のように見えるが、よくよく考えてみるとこれってどうよ?という気がしてくる。もちろん、理系と文系で教授の求められる成果の内容とか研究のための費用、研究室の学生に与える課題もかなり違うということは分かる。だが、理系と文系を切り分けて議論しようとすることで、何が新たに発見できるというのだろう?
表面的な現象形態による分類は、表面的な打ち手の差にしか表れない。こういうポジショニングをするとき、マーケターはやはりその分け方そのものからからもっと深い何かを読みとりたくなってしまうものだ。
また、「一流大学←→二流以下の大学」という分け方も微妙に主観的だ。一流大学の定義を「優秀で学習意欲の高い学生が集まり(入試の)倍率も上がっている」としているが、これって全然定義になってないと思う。
まず代ゼミや旺文社などの発表している毎年の大学の入試倍率と偏差値を見比べてみればすぐにでも分かることだが、入試の倍率と大学の知的水準やブランド価値とは、何の相関もない。東大より亜細亜大や立教大の方が実質倍率の高い学部なんていくらでもある。
あえて言えば、倍率が1以上とそれ未満(つまり実質無試験)の場合には偏差値と多少相関があるかも知れないが、学生の学習意欲に至ってはもっと何の相関もないだろう。トップ私大にいて勉強する気のないやつなんていくらだっているし、マイナーな小規模校だって学生に学ぶ意欲を持たせるのに成功しているところはある。つまり、学生の学習意欲を入試という入り口のせいにすること自体が、ある意味ですごく旧弊にとらわれた考え方と言えなくもない。
人の考えたアイデアにあれこれケチつけてこき下ろすくらいなら、てめーのアイデア聞かせろや、という声がそろそろ飛んできそうなので、僕なりの大学ビジネスのポジショニングを考えてみたい。
僕が考える「大学ビジネス」のポジショニングとは、上のようなものだ。
「入口ブランド」「出口ブランド」とは、大学が卒業生の品質をどこの段階で担保しようとしているかを指す。例えば東大は「東大に合格した」ことが今も昔も最大のブランド価値であり、誰しもが「東大生」というのは入試に合格した人のことを指す、と考えている。たとえホリエモンが一見どんな素行不良のワルだったとしも、東大中退という彼の履歴は、彼が「常人とは頭の出来が違う奴」であるというシグナルを発する。
一方、「出口ブランド」とは、卒業資格を持ってなければ何の意味もない大学のことだ。アメリカの大学はたいていの場合そうだ。アイビーリーグクラスともなると入学したことも多少のブランドにはなるのかも知れないが、そもそも卒業資格を持っていないと加われない「OB人脈」というのもある。従来の日本にこの手の大学はほとんどなかったが、最近は卒業する=国家資格を取ることであり、資格がなければ何の意味もないという「職業大学院」などが出てきつつあるので、少しずつそういうところが増えるだろう。
一方、横軸は文字通り、その大学が研究に重きを置くのか、教育に重きを置くのかという、ブランド作りウェイトの位置である。こうしてみると、例えば東大とは、卒業生の品質は「入口」で担保しつつ、大学としては「研究」水準の高さを売りにするという、Bのポジションにあったことが分かる。
一方、フラスコ氏が言う、日本に数多くある「教育に力を入れないと卒業生の能力が保証できなくなってブランドがやばくなりそうな入試定員割れ寸前の二流大学」というのは、Cのポジションにあると言えるだろう。そう日本の大学というのは、これまで東大を先頭として、B←→Cという対角線上のどこなのかという序列を形成していたのである。「入試の倍率がその大学の研究水準と一流/二流の物差しとなる」というフラスコ氏の考えは、B-Cの対角線上のフレームから一歩も出ていない。
だが、先ほども言ったように、入試の倍率とはそもそも、研究業績や学生の学習意欲とは相関がない。なぜなら、入試にどれだけ人を集めて、どれだけ合格させるかというのは、大学のブランドイメージ以外のレバーでいろいろ操作可能だからだ。
一番簡単なのは、受験料や授業料を上げたり下げたりすることである。下げすぎて経営が成り立つかどうかという問題は別にあるものの、本当に定員の何十倍もの受験者を集めたければ、受験料も授業料もタダにして、広告を打ちまくればいいのである。その代わり、卒業までに猛烈なカリキュラムを課して本当に能力があると認めた人しか卒業させないようにすれば、(何度も言うが、経営が成り立つかどうかはともかくとして)圧倒的な「出口ブランド」の大学ができるだろう。
そんな暴論を、それでは経営が成り立たない、という反論が出るだろう。まったく仰せの通り。Cの部分は、よほどしっかりした教育システムと、集まってくる学生の質を入試を行わずにふるいにかけ、期待値をそろえる巧みな「ディ・マーケティング」の技術がないと、手間とコストばかりかかって成果の出ない教育機関になってしまうと思う。
研究水準で高いブランドを持つ大学ほど、Bのポジションに行きたがる。何となれば、ここが一番収益性が高いからだ。なにせ、入試でがっぽり受験料を取り、入学した後は適当なマスプロ授業に押し込んで高等教育といううなぎの香りだけ嗅がせ、ところ天方式に学生を押し出していればいいからである。その代表が東大を筆頭とする日本の既存のエスタブリッシュの大学だった。
でも世界的に見れば、そんなレベルで儲かったなどと言って喜んでいるバカは日本の大学ぐらいのものである。海外の大学で世界ランキングに入ってくるようなところは、みんな学生がどんな研究成果を上げたかをしっかり見て卒業資格を与えている。その目利きの力と、超優秀な学生はすぐにでも師匠を飛び越えて教授になり、卒業生はそのネットワークを駆使して学外で活躍するという実力主義とが、大学のブランドを決めるのである。つまり、本来大学が最終的に目指すべきはDのポジションだ。
では、Aのポジションとはどういう大学だろう。個人的な考えだが、教育熱心さをもって入口のブランドを構築するという戦略は、ダイレクトにはあり得ないのではないかと思う。これは、日本が高等教育の内容に対する格付け評価などのインフラが全然整ってないことも大きな理由だが、購入してみなければ分からないサービスの品質の高さをもって、試験で振り落とさなければならないほどの希望者を集めるというのは、よほど特殊な教育方法を持っている学校でない限り不可能ではないかと思う。
最近、一部の既存大学が設立する職業大学院(法科、会計など)が、大した教育メソッドもないくせに資格が取れることをエサに学生を釣って、受験料で儲けようとたくらんでいるようだが、はっきり言っておこう。Aのポジションは絶対に無理。成り立たない。まずは地道にCのポジションで教育メソッドを磨くべきだ。どちらにしろ、少子化がどんどん進むこれからの日本で、入口ブランドで大学の価値を訴求する戦略など、旧帝大やそれと並ぶ私立大レベルのブランド資産があるところしか取りようがないのである。
だから二言目には「入試の倍率が」とかいう大学の先生というのは、自分の大学が旧帝大・名門私立大と張り合えるはずという密かな自信をちゃんと持っている人か、それとも東大と文科省が作り上げた戦後教育のイデオロギーに相変わらずどっぷり思考を冒されているか、どちらかでしかない。自分自身がどういうポジションでものを言っているのか、そういうふうに考えてみると分かりやすいのではないだろうか。
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コメント
なんか、ニホン人の学生数の激減が考慮に入っていないなぁ。
スゴイ減り方をしていて、
大学だけでなく、高校の方もかなりヒーヒいっている。
大学は、国際化も果たさないと、経営はなりたたないはず。
ま、私立大学と国立大学の区分を完全になくして、
どんどん大学を潰していけば、
そこからが、経営課題がでてくるような。
底辺的なところで言えば、
大学構内のスラム化が起きそうだよ。
投稿: 野猫 | 2005/09/22 16:50
Aって一貫校とかお嬢様女子大かも。
見た感じオツムの出来ではないらしく私には理解できない価値観で
構成されている様子。しかも無自覚なので探りを入れても良く
分からなかった。アレは一体何のためにあるんだろう。
自分が通ったという理由だけで突っ込む親は上品なDQNなのか?
投稿: 下等市民 | 2005/09/22 17:30
お嬢様はお嬢様であることに価値がある。
よって、今後のトレンドとしては
A=私立ジャニーズ学園
投稿: ne | 2005/09/23 00:34
ポジショニングっていうよりレーダーグラフとしてみたほうが面白いかなと思った。
投稿: bywordeth | 2005/09/23 01:11
「理系と文系を切り分けて議論しようとすることで、何が新たに発見できるというのだろう?」
という疑問を呈してから,自分のClassify論理,「入口←→出口」,「教育←→研究」という分け方を提案しているが,これからも何も新しいものは発見できないと思う.
このようなことは,昔からわかっていることだし,いまさらわざわざClassifyする必要は無いと思う.
むしろ,「大学の...」で述べたかったのは,大学関係者に対する批判が,分野(文系,理系,その他さらに分離される)によって全く異なる状況を無考慮のまま寄せられることが多い,という事実に対する緩和療法の提案であると思われる.
決して,大学改造論そのものの論議ではない.
投稿: じろう | 2005/09/23 03:11
Classifyは意味あると思う。
「入口←→出口」「教育←→研究」による切り分けは、大学関係者に対する批判が、「議題(問題点)設定」なり「理想像」があいまいなまま寄せられることが多い、という事実に対する緩和療法の提案であると思われ、「筆の滑りまくるリベラルブロガーのネタ日記」の提言として適切なんじゃないすかね。
って僕が書いてもしょうがないんだけど。
それより
『世耕さん、福山さんに会ってきましたよ(´・ω・`)ノ』
続報期待してます。
投稿: bywordeth | 2005/09/23 09:49
ここは面白いインターネットでつね。
(ひそかにのまネコ問題を期待)
投稿: のまネコじゃないよモナーだよ | 2005/09/24 04:07
「教育志向」よりも「実務志向」のほうがこの場合は適切。
それなりに「研究志向」のところは、教育も重視していますから。
投稿: ま | 2005/09/24 22:50
SWOTもドメイン設定もせずに全部を一緒くたにして議論しても不毛だし意味ないよ、金太郎飴的解決策はないんだから各自事情に適した認識を持ち方法を模索しようね、って話かと思いました。
投稿: ぱぱら | 2005/09/27 20:36
Cで多少なりとも成功してるのが中央大学
(経団連次期会長とか公認会計士協会会長とか中央)
Dは帝京医学部とか(教授陣は一流だが医学部としては入学偏差値は低い。しかし卒業して医師になれることがブランドを与える)
しかしAの成功例が思い浮かばない。
Aで失敗したのが早稲田の法科大学院(未修+早稲田ブランドを狙ったが大敗)、
投稿: hot | 2006/04/03 08:02