コピペレポート論議で思う大学教育の価値軸
加野瀬さんのところ(ARTIFACT@ハテナ系)で、大学生のコピペレポートのことが盛り上がっている。
大学のレポートのコピペ問題(8/28)
レポートコピペする大学生は何のために大学行ってるんだろうか?(8/29)
丸写しレポートとの戦い(8/30)
コメント欄での議論も含めて非常に面白い。高等教育という権威が崩壊する過程の阿鼻叫喚を見るようだ、という意味で。特に、紹介されていた「ハッピーキャンパス」というサイトがあり、のぞいてみてびっくりした。凄いクオリティの膨大な量のレポート、論文が共有用に公開されてる。僕が大学生の時にこんなものがあったらもっと楽に(以下略)。
冗談はさておき、そのエントリからのリンク先やコメント欄にコメントを寄せている大学の先生たちのとらえ方に、僕としてはやや違和感を感じる。
「大学生のレベルなんて所詮どこかの他人が言ったことを引用するしかないんだし、コピペそのものはしょうがない」とか言ってる人がいるが、そりゃ個々の学問分野のヒエラルキーの中の話ではそうだけれどもさ、そもそも学問のヒエラルキーの中に位置づけてもらいたいとも思ってない学生たちにとっては、コピペする時にそんな言い訳じみた意識さえ持ってないと思うよ。完全に大学教員のマスタベーションですな。
コメント欄のコメントを見ると、そのへんの教員と学生の根本的な意識ギャップが見えてくる。以下、コメント欄から一部引用。
ブラウザの印刷機能を使って、ボタンとかまで印刷されたものを出してくる人もいるんですって(実話)。ちなみに、ネット上にある私の文章を印刷して、私に対してレポートとして提出した人もいます(これも実話)。著者名を見なかったのか?あるいは教師の名前を知らなかったのか?(sarutora氏)まあ、そういうことですよ。他人の文章をそのまま提出するということがいいかどうかという常識以前に、学校の「知」というものに対する方法論がまるで違うと思った方がいい。正確に言えば「知」に対する認識自体は一致していて、だからこそそうなるのだ。「バレるって気付かないのか?」という疑問も以前はあったのですが、むしろタダのコピペをレポートとして提出することが悪いことであるという認識がそもそもないのであろうと思っています(webページを見せられて「これをコピペして提出すればいいですよね」と真顔で問われた経験もあります)。(jmk氏)
既存の高等教育における「知」とは、ぶっちゃけて言えば「何を」知っているかで評価されるものだ。もちろん、新しい事実や知見を見つけることがもっとも評価されるわけだが、何が新しいかは過去のさまざまな学者の積み上げた「知」を知らなければ分からないので、結局は過去の「知」の蓄積をどれだけ広く知っているかが評価のベースになる。
そしてそれを知るためには「本」という紙の束を延々とかき集めて読みまくるしかなかった。紙の論文の世界は、少なくとも「いつ書かれたか」のタイムスタンプが物理的に判別できるので時間的な前後から知見の「オリジナリティ」を決めることが可能だ。また、その論文がどこか別の紙から引き写されたかどうかを示すルールも厳密に決まっているので、ある知見や事実の「オリジナル」がどこにあるか、遡及して真偽を確認することもできる。そして、これまでの世の中は「紙こそがオリジナル、デジタルは真偽・時間ともに不明のコピー」というアカデミズムの価値観を追認してきた。
ところが、今大学生の人たちというのは、ものごころついた時にはWindows95があり、中高生の時には授業そっちのけで携帯メールをバンバン飛ばし、ニュースは新聞より先に2ちゃんのニュー速で読んでいたら、雑誌や新聞に「インターネットの某掲示板によれば」とか言いながらまとめ記事が掲載されてた、みたいな人が多いんじゃないか。
つまり、ディスプレーに表示される情報の方が紙よりも「早く」て「オリジナル」な時代に生きてきた人たちにとってみれば、「何を」で定義されるような「知」というのはほとんどの場合Google先生が知っているのであり、世界で最も物知りな「知の権威」とはGoogle先生にほかならない。
言い換えれば、Google先生に対してどう質問するか(=検索ワードをどう選ぶか)こそが、「何を」知ることができるかの決め手となる技能だっていう理解なんじゃないのかな。だからこそ、彼らは検索した結果を「自分の能力の証明」としてそのままプリントアウトして提出してくるのだ。ここで問われているのは、そういう課題を出す大学の教員の質とか他人のウェブサイトをそのままプリントアウトする学生の質とかそういうことではなく、大学教育という「知」のヒエラルキーの価値軸の問題だと思う。
そういえば、似たようなことを半年ぐらい前にも議論していたような気がする。とある人と社会人教育のある分野について話していた時に、「その分野の人たちは自分たちのやっていることについて今さら大学の先生に何か教わりたいとは思ってないんですよ。だって自分はそれなりにやってきたという自負があるから」っていう話になって、それを教えてくれた人はアカデミズムに片足突っ込んでいることもあってたいそう憤っていたが、僕から見ると「そりゃ当然だろ」って思えた。
だって、今の大学が教えてくれることって所詮は知識の量に過ぎないのであって、それを知ったからといって学問のヒエラルキーの中でより上位に位置づけられる以外の意味なんて、別にないわけだからねえ。大学に認められてハクをつけたいと思う人はともかく、そういうニーズを全然感じない人に向かって何を言っても、無駄だ罠。
今の大学生も含めて、高等教育機関で学ぶ「知」の評価軸をどうするかっていうのは、これから結構深刻な問題になると思うよ。たぶんこれまでの議論を見るに、2つの方向性があると思う。
1つは「大学にハクをつけてもらいたいと思う人をたくさん集める」、つまり既存のアカデミズムの共同幻想をなるべくたくさんの人に植え付ける、あるいはそういう幻想を持ちつづけてくれる人たちの中で圧倒的なブランドを持つようにマーケティングすること。これはたぶん内田樹センセイなども含めて、人文系の学者が目指すべき方向性だろう。市場全体の縮小傾向は避けられないかもしれないが、その中で生き残りを目指すという戦略である。
もう1つは教育機関自身がこれまでの「知」の定義を変えて、Google先生が一番偉いという評価軸を別の評価軸にすり替えることだ。ぶっちゃけ、「たくさんのことを知っている」「オリジナルを知っている」こと自体には積極的な価値を認めず、「自分で考えられる」とか「強い意志を持つ」とか、Google先生に勝てそうな別の何かを価値軸にし、それを評価できるような仕組みや学習の体系を作るという戦略だ。
これは既存の学問体系を、全部とは言わないまでもかなり否定してしまうことになるので結構大変なことではある。だが、社会学系の学問分野の人たちは、「実学」を掲げる以上、ある程度こちらの戦略をミックスしてお客様たる学生に訴えていかざるを得ないんじゃないかな。
ぶっちゃけ、やっている教育がどこまでの「高等教育」なのかっていう問題にもなってくるのだけれど、本来自分の頭で考えたことをロジカルに組み立てて他人に分かってもらえるように表現するっていう作業は、教育を受ける中で一番ベースの能力として教えてもらわなきゃいけないものでしょう。だとしたら、レポートの書き方というか、自分の頭を使って文章を書く方法ぐらい、レポート課題を課す前にこってり教えればいいのにね。
他人に理解してもらえる文章を書くことなんて、もちろんどういう分野のどんなレベルの内容かにもよるけれど、1年間訓練すれば相当のことができるようになると思う。僕も、自分の文章力ってもちろん記者時代に培われたっていうのもあるけど、それ以前に中学校の国語のクラスで毎回最初の5分間、与えられたテーマについて考えたことを200字で書く「5分間作文」をやらされ続けたことがベースになっていると思うし。
携帯メール以上の長文を書いたことのない学生に「1600字程度でレポートを提出せよ」っていきなり言ったって、できるわけないんだから。大学でそのくらいのこと、教えてあげればいいんじゃない?社会に出て一番役に立つのって、どんな内容もそれぐらいの字数できちんとオチまで付けて述べられる論理構成力と表現力だと思うんだけどね。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
レポートの書き方を教えるというのは同感です。しかし、これからの大学の役割という意味では同意できません。
研究者や優れた発明をする人(少なくとも自分でレポートが書ける人)は、膨大な専門以外も含めた知を蓄積し、それらを組み合わせて飛躍させることが出来る人です。大学の目的はそのようなクリエイティブな人間を創造することだと思っています。
とすると、google先生がいるだけでは考える人は生まれません。コピペをする原因はここにあると思っています。電脳化して外部記憶を付けたとしても、googleが脳と直結していても駄目だと思います。やはり知の蓄積には受け手の切り口(感動・共感)も大きな役割を果たしているはずです。
結局、大学は知の塊で良くて、問題はgoogle先生が簡単に答えを教えすぎるので、知識に対する共感や感動が伝わらなくなっていることではないかと思います。多分、googleを使って授業をすればいいのかなと思ったり。
投稿: matt | 2005/08/31 18:49
大学は、卒業を難しくするしか解決策はないと思うよ。
経営上無理なら、サマースクールのフリースクールを日本の大学全体で提携して開講して、
大学生なら、授業を受けるのは誰でも可能だけど、
そこの単位を得るのを異常に難しくすることかな。
投稿: 野猫 | 2005/08/31 19:22
私は理系大学生であったから、まだ「目の前の問題を解くという快感」によってレポートこなすこともできましたが、文系学生だったらやっぱりコピペに走っていたかもしれないですね。
資料かき集めて読み漁ってそして自分の頭で考えて書いたレポートも、コピペで作ったレポートも「同じ2単位」にしかならないのであれば、余程自分が興味を持てる分野のレポートで無い限りは馬鹿馬鹿しくてやってられないと思いますよ。周りが楽して単位取ってる中、自分だけ「正直者がバカを見る」を地で行くのは精神的にきついですし。
教授がレポート評価をちゃんとしてやれば済む話な気がします。
投稿: Scott | 2005/08/31 19:59
> 教授がレポート評価をちゃんとしてやれば済む話な気がします
相手による罠
30年来の変わらないノートを棒読みナサル方もいますからな
でも、真面目に考えるときは真面目に考えないと後で殺されます、今の世の中、つうかビジネスそんな甘くないです
自分たちで必死に考えた提案書じゃないとなかなか成約にこぎつけません
投稿: マルセル | 2005/08/31 20:18
>マルセル氏
学生の時は今目の前にあるレポートをまじめに書くことが会社入ってからビジネスで役に立つとは思えないんですよねぇ。
理系学生ですら「こんな抽象的な数式役に立つのか?」と思いますもん。
実際仕事してみたら役に立ちまくるどころか「もっと勉強しときゃ良かった」と後悔するわけですが、それはやっぱり実務を経験して初めてそう思えるわけで。
投稿: Scott | 2005/08/31 21:24
>携帯メール以上の長文を書いたことのない学生に「1600字程度でレポートを提出せよ」っていきなり言ったって、できるわけないんだから。
そういう人間が大学に逝くなと。
>大学でそのくらいのこと、教えてあげればいいんじゃない?
そりゃ中・高卒までに身につけるこってすなあ。
>社会に出て一番役に立つのって、どんな内容もそれぐらいの字数できちんとオチまで付けて述べられる論理構成力と表現力だと思うんだけどね。
アホなライター稼業でも最低限それができなきゃご飯食べられないよと思いつつも、最近は「プレスリリース丸写し」で原稿ですって提出するアホが続出中らしい。
で、現場もそういう手合いが多すぎるから半ば黙認せざるを得んらしいですけどね。どーなってんだと。
いまどきの若い人の感性や知に対する認識がどうなんだか分からんですけど、もうこれからの時代は「ごく一部の先端著作者が真っ先に開発した知的体系を」「圧倒的大多数のコピペ野郎が先を争って模倣」するスタイルが主流でしょ。
そういう連中を教育に依って導こうなんてのは明らかに甘く見すぎっつうか性善説に依存しすぎ。著作権法などの整備でバチッと型に嵌めて「自分らで努力しなきゃ駄目なんだ」って分からせる以外にないでしょうな。
で、それで法に楯突くような輩は「ビジネスの現場で」ボコボコに叩きのめせばいいだけのこと。そういう連中が将来落魄しようが、知ったこっちゃねえし。
ただまあ、日本の歴史を概観しても、そういうの(お気軽な時代)ってちょくちょくある。五山文学にしてもなんにしても、当時のお気軽野郎が率先して担ってたわけだし。
一応、基本的に世界を引っ張るのは「文明」なわけですけど、ある程度以上に豊かさを実現したら「文化」のほうが優勢になるわけで。そうしたときに出てくる庶民の諸行動に「国民性」が出るなぁと。そう思うわけですよ。
日本人の民度って、所詮そんなもんなわけですよ。
あんま期待しないこってすな。自分も含め、世の中なんて考えの甘い馬鹿ばっかりだと思ったほうがいい。そういう馬鹿が余計なことするから世の中変わってく、くらいの認識で居たほうが、いろいろやりやすいんじゃないかと。
投稿: うこん | 2005/08/31 22:56
名前が薬草ですか? なぜですか?
我が町尾道の商店街には「力石」というのが置いてあるわけですが。いっこ200kgとか350kgとかアホほどクソ重い石ころが置いてあるわけですが。
それ、昔の人は力比べとか言って持ち上げてたわけですよ。今なら毎日モリンピックゴールドメダリストなわけですよ。
大正~昭和期の世代の人はそんなの持てないわけですが、江戸~明治期の人はバンバン持ち上げてたらしいですよ。なんですかそりゃ、ですよ。
ウチの親父もそんなの持てないわけですけど、120kg程度なら持ち上げて働いてたわけですよ。自称虚弱体質の私でも、5,60kgくらいなら持ち上げるわけですよ。ウチの田舎の古老ですと若い時分に120~150kg程度持ち上げるようなアホはゴロゴロ居たわけですよ。
それが今じゃどうですかと。
世の中が豊かになるっつうことは、煎じ詰めればそういうことですよ。
自分のことは自分でやれって、煎じ詰めればそういうことですよ。
120kg持ち上げられますかと。できますかと。
できねえでしょう。っていうかそういうことしなくてもいいように、世の中作り変えたわけでしょう。
だったら、その世の中に「予め乗っかってる人」が行く末どうなるかどうするかってのは、もうある程度見えるんじゃないですかね?
まあ、最低限自分の体重分くらいは自分で持ち上げる。結婚式のときに嫁さん抱える。そのくらいが出来て初めて一人前なわけですよ。元々「一人前」って「人ひとり持ち上げる」の意味ですし。
それやるのが、生きるってことですよ。そんだけ。どうでもいいですかそうですか。
投稿: うこん | 2005/08/31 23:12
がっこうって箱庭だから現実的な影響で是非を問えばカンニングだろうがコピペだろうが何やっても問題が無いとはいえるわな。
でもそんな単純化されてフェイルセーフな箱庭ですらロールプレイできない奴って存在価値あんのかね。
知性とか知識だとか以前に生きてる意味が問われるだろうよ。
投稿: ほ | 2005/08/31 23:31
えっと、大学では重いものを持ち上げられるように
授業で鍛え上げさせろ、ってことですね。
なるほど。
投稿: tesu | 2005/08/31 23:45
「唯一の正解」を提出させるんだったら、先生のレポートをコピペするのは正しいと思うけどね。小賢しい正論を答えさせるのが目的なら。
3~4のレポートをつなぎ合わせてひとつの話に仕立て上げることができれば立派なレポートだと思うよ。文系の論文なら、同じ事を権威ある資料から大規模に行って主張を導ければいいだけだし、社会人になったときに、そういう能力は役に立つ。
投稿: bywordeth | 2005/09/01 00:22
脳みそ鍛えるのも体鍛えるのも、根はいっしょでしょ。
昔の人はひとりで自分の何倍もの重さを担いで生きてたわけだけど、今の人は体使ってそういうことするんじゃなくて、脳みそ&文明の利器を使って同じ効果・結果を得ようとしましょうね? って話で。
で。コピペやパッチワークにそういう可能性はあるんですか? ないんじゃないの? 何楽してんの? ってところが、昔気質の人の癪に障るだけでしょ。
コピペ・パッチワーク的知性が自力信奉を凌駕すれば、いずれはそれが標準になるでしょうな。
それもまた知性の為せる業。
投稿: うんこ | 2005/09/01 01:17
書こうと思えば書く能力くらいあるんじゃないのかな、今の大学生は。
単に時間がもったいないとか面倒くさいとかの理由で。それと、その科目の担当教授らとの距離が遠いってのも昔からあると思いますよ、日本の場合。
普段、その教授らと会話をしたりして面識があれば、なかなかそんな手を抜いたことはできないでしょう。
投稿: antiECO | 2005/09/01 05:36
コピペ、パッチワークの良し悪しは別にしても、
引用したときは引用元を記さなければ盗作と差がないでしょ。
躾がなってない、と思われる。
投稿: mischoice | 2005/09/01 06:35
そりゃ、とりあえず就職に有利になるために大学に逝くのであって、学問がどうという人は少ないでしょう。
大学進学率とか見て「学問好きな学生の率」なんて見る人はいないわけで。
むしろレポートなんかより就業訓練させろということでひとつ。
もしかして何をコピペしてきたかによって理解してるかどうか判断してたりして。
投稿: Cyberbob:-) | 2005/09/01 06:39
あと、自分で考えて下手に間違うよりわかってそうな人のをコピペしといたほうが無難っていう学生の心理。
投稿: Cyberbob:-) | 2005/09/01 06:44
大学ってのが純粋な学問の場ではなく
就職のための学歴取得の場である以上は
コピペレポートだろうが
世渡りの技術を習得していると捉えて良いんじゃないかと思ってみたり。
上記のコメントでもあるように
ただのコピペでも何をコピペするか
その選択眼を評価して、
そのコピペについて自分はどう思うかをちょこっと書かせるなりして
自分で考える訓練や書く訓練を少しずつ積ませれば良いんじゃないかなーとか
大学教員の卵は思ってみました。
まんまコピペの通りに自分も思いますって言ったって
その人個人の想いは違うはずだし、
自分のゴーストみたいなものは彼には存在するはずだから。
面白そうなのでアーティファクト周辺とこのエントリーをコピペしたと仮定して
そのコピペについて自分はどう思うのか書いてみたいと思います。
実験っぽく。
投稿: plau | 2005/09/01 11:08
コピペしてレポートを作成する事が出来る時代に、レポートを提出させる事自体が間違いなのでは?
自分で調べた結果を元に自分の頭で考えてレポートを作成したなら、作成者が内容について理解している事を保証できる。しかし今はコピペで済ませられるので、提出者が提出したレポートの内容を理解しているとは限らない。
だとすればレポートを元に成績を付ける事ができなくなるわけで、それはレポートを提出させる意味が既に無くなっている事を意味する。
無意味な事をやらせているから問題意識が生まれるわけで、だったら別の手段を模索すれば良い。理解度なんて、ある程度話せば分かるだろうから面接するとかね。手間が掛かるかも知れないけれど、無意味な事をするよりはマシ。
投稿: judas-priest | 2005/09/01 11:40
レスの中でもコピペとか引用の範囲とかの認識が違う気がする。
教授「では○○についてのレポートを出してください」
学生「はい」
教授「これは私の本じゃないか?」
学生「ええ、先生の講義ですからこの本で間違いないです。」
教授「まあ、参考にするのはいいが本をレポートとして出すのはどうだろう。」
学生「どうせ引用する訳ですし、私の拙い文章で継ぎはぎするよりまとまっていて手間も省けるので良いと思いますが。」
と言うことなんだろ。
なんつうか、じゃあ人間はいずれ死ぬから今死ねよみたいなさ。
教育のシステミックな問題というより社会に参加する器質的な欠如。
投稿: w | 2005/09/01 13:44
ま、なんつーか、真面目に取り上げることもないと。
「こういうタイトルについてあなた方の考えが聞きたいので、予めざっと調べた上でBBSに参加してメールするように」じゃダメなのかな?
投稿: トリル | 2005/09/01 18:03
この話を聞いて私がまず思ったのは
「ブログでも、新聞記事を丸ごとコピペするだけのもの
ばっかり更新してるヤツ居るなぁ」
って事でした。
別に大学のレポートに限らないんじゃないですかね。
根は一緒、みたいな。
でも、
ある程度、年配な方に正直に答えて頂きたいんですが
昔も「レポートを丸写しする学生」って、居ませんでした?
単に丸写しする対象が
「先輩や、勉強をしている学生のレポート」から
ネットに変わっただけ
(それと、コピペによって丸写しの手間が限りなく小さくなったって事)
じゃないかなぁって思ってみたり・・・
投稿: めたか | 2005/09/02 00:18
なんか、すでに社会人な私としては、各分野のレポートが薄いにしてもざっとよめるので、早速物凄い偽名で会員登録して読み漁ろうとしてるんですけど教えていただいてありがとうございます。
投稿: もこもこ | 2005/09/02 00:36
昔は丸写しレポートも写経として価値を認めてもらえてたんですかね。
投稿: bywordeth | 2005/09/02 01:12
「盗作ぐらいでガタガタ言われてムカツク」って言ってた(らしい)安倍なつみを思い出したわ。
投稿: あやや | 2005/09/02 01:28
例えば、うちの大学だと、コピペでレポをかけば、ばれた時にカンニングと同じ罰則が定められています。
実際、それで処分されたのは聞いたことはありませんが。
投稿: あ | 2005/09/02 05:37
僕なんて仕事でコピペしまくりですよ。時間の無さは学生よりはるかに深刻ですし。インターネット万歳!
でも納期はその分、昔より半分になってますが…
投稿: hakohugu | 2005/09/02 10:08
>そういう人間が大学に逝くなと。
そういう人間を大学に入れるなと。
投稿: こんぶ | 2005/09/02 10:48
レポートというのを何のために学生に提出させるかという意義によると思います。
まず単に資料を調べて出せというのならば、GOOGLEでも他人の論文でもかまわない。たとえば調査屋にこれに関する情報が欲しいと要請する場合は、別にコピペでも全文まるごとでも何の問題もない。ソースがどこかよりも情報自体に価値がある。
しかし言論、アカデミックな文章になると、自分のオリジナルの部分はここ、他人の引用の部分はここと明確に線引きするというルール、プロトコルがある。教育機関でこのプロトコルでトレーニングするとまず学校側が明確にすべきだと思う。当たり前のことなんだろうけど、そういう方針なんですよということも含めて教育するべきなんじゃないか。
あと基本的な部分として信義の問題があると思う。アカデミックなルールに基づいていれば当然こういう信義の要素もそこに含まれてくると思うが、この文章は自分で考えて書いたものか、引用か、全文まるうつしか、そういうものを読み手に情報開示しないといけない。たとえばこのコメント欄はそういうアカデミックなルールの縛りはないが、暗黙の了解としてみな引用部分にはここは引用ですと明記している。
いろんなところから情報を調査して引っ張ってくるというのも実用的で学術的に価値があることだけれどもソースを明確にする。あるゼミの教官は、そういうソースの寄せ集めだけでそのレポートの価値を認める。ある教官は50・50の重みを置く、生徒に前もって告知する必要性も出てきたのではないか。なんにせよ単に教官が欺かれて教官の意図しない過大評価を生徒に与えるというのは詐欺的行為に当たるのでそういう信義の問題はボトムラインとして存在すると思う。
投稿: KEN | 2005/09/02 15:21
google先生に聞けばいいという論旨の段階で、
すでにR30氏には「学問=知恵」ではなく
「学問=知識」という80年代を味わった
諸先輩がたにありがちな、こびりついた観念が
見受けられます。学問、つまり、命題に対して
あらゆる知識と、それら知識のまさに有機的な
結びつきによって止揚される創造的行為です。
パーツを組み合わせればOK的な発想そのものが
コピペ大学生と同じである気がしてなりません。
まあ、ネット世代を代表するブログとしての
極論をあえて掲出されているのでると思いますが。
投稿: 大吉 | 2005/09/02 16:01
プリンストンPh.Dのデービット・カラハンが書いた『「うそつき病」がはびこるアメリカ』が参考になるかもしれませんよ。
勝ち組になるためなら、どんな卑怯なことでもする社会になってしまった-という話なんですがね。それは学生の時から始まっていて、高校だか大学だかではレポートのコピペもカンニングも当たり前、点数を取ったもん勝ちということらしい。
米国で起きることは日本でも起きる、ということで。
投稿: konton | 2005/09/03 00:38
>点数を取ったもん勝ちということらしい。
そりゃ当然ですよ。
まじめに取り組んだレポートで取った「優」もコピペ・カンニングしまくりで取った「優」も同じ「優」ですもん。
プロセスを評価してくれる人なんて誰も居ないんだから「楽した方がエライ」になるのは必然です。
投稿: Scott | 2005/09/03 00:58
Scottさん
そしてそういう人間がいずれオリジナルを形成しなければならない立場になった時、企業を傾け、社会を傾けると。
嫌な世の中ですな。
投稿: くれふ | 2005/09/04 03:34
>嫌な世の中ですな。
いや全く。
でもプロセス評価するのも難しいですしねぇ。「真面目」と「要領悪い」の境界線てどこだ?て話になりますし。
投稿: Scott | 2005/09/04 20:48
>でもプロセス評価するのも難しいですしねぇ。「真面目」と「要領悪い」の境界線てどこだ?て話になりますし。
そういうのは余人の心配する領域じゃないよ。決める人は、え? そんなんでいいの? みたいにバッサリ決める。せいぜい振り回されろってことですな。
投稿: うんこ | 2005/09/05 21:47
インスパイアされてコピペしたんでしょ。
投稿: わた | 2005/09/09 03:05
だから口頭試問重視の評価にすりゃいいだけじゃん
口頭試問以外でも、コピペのできない評価方法に変えればいいだけ
レポート提出という従来の方法に固執する脳みそはダンプに轢かれて潰れるべきだね
読むに値するものだけを文字にすればいい
投稿: どりえ | 2005/09/10 23:05
つーか、昔から東大進学校とかのスローガンは「最小の努力で最大の成果を」なわけで(ドラゴン桜とかそのまんまですな)。レポートなんかは教授にバレナイ、あるいはバレても怒られない範囲で適当にコピペして済ませる様なタイプの人間が出世して来たし、これからも出世する。既に社会の中枢はコピペ人間ばっかりなのですよ。
あえて言うなら、「教授にバレナイ、あるいはバレても怒られない範囲」の見切り、相手を意識するコミュ能力の低下という程度の問題でしかないのでは。学問云々、大学の意義云々するのは大きな筋違いというもの。
投稿: x | 2006/04/01 18:53