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2005/06/30

南の島についてのブンガク

 ずっと前にURLを上書きしてしまい、吹っ飛ばしてしまったエントリを再度必死で思い出して書いてみる。

 もう10日近く前になるけど、isologueの磯崎さんのブログを読んでいて、「将来は南の島で暮らしたい」って書いてあるのを発見。いいですよね、南の島って。僕もあこがれます、南の島暮らし。とか言うと、ご自身はナイチャーなはずなのにウチナー暮らしについて滔々と語るfinalvent氏に「ふーん」とか鼻で笑われそうですが。ま、笑われてもいいので、少し南の島ネタでエントリを書いてみようかな。

 磯崎氏がどうなのかは知らないのだけれど、僕が南の島にあこがれるのは、分刻みのスケジュールに追い立てられて神経をすり減らす生活から逃れられたら、といった理由ではない。今の会社の仕事は、それなりにマイペースが可能だし、しゃかりき出したければ出せるという自由度の高い仕事なので、逃避系願望は特にない。

カオハガンからの贈りもの 高校時代から南の方に関わりがあったし、社会人になっても八重山諸島をフィールドワークする機会などもあった僕の興味は、たいていの南の島に存在する「アニミズム」的な不思議な雰囲気にある。島を実際に訪れて、島の人たちと話しながらそういう雰囲気を感じたり、歴史を見聞きしたりするのも好きだし、実際に南の島に移り住んだ人たちの直面した現実、体験した精神世界の話を本で読むのも好きだ。というか、南の島に行った人たちって、深く考える人であればあるほどそういう部分にすごく影響されるというのが、また不思議で面白い。

  バリバリの資本主義ど真ん中からアーリーリタイアして精霊飛び交う南の島に移り住んだ人の代表例として面白いのは、この人の本かな。崎山克彦氏の「カオハガンからの贈りもの」。著者は元講談社インターナショナルの役員か何かだったと思う。

 「何もなくて豊かな島」という、彼が91年にカオハガン島に移住してから書いた最初の本は、今新潮文庫で読むことができるが、こちらはまさにバリバリの資本主義に生きる現代人が異次元にタイムスリップしてどんなことを見聞きしたか、という驚きを綴った記録だった。それに対して、処女作から10年近く経って書かれたこの本には、島の生活に息づくスピリチュアルな何かと、それを守るためにはどうすればいいかを考える著者の姿とが書かれていて、より思索的な内容になっている。

ヤマト嫁―沖縄に恋した女たち たぶん、南の島の話を読んで癒されたいという人には、「何もなくて~」の方がお勧めなのだろうと思うけれど、僕らがあこがれる南の島の本質とは何なのか、それは社会的にどのようなものなのかということを考えたいと思っている人には、「カオハガンからの贈りもの」はお勧めだ。

 移住者本人が書いたものではないが、彼らにインタビューを重ねて南の島の精神世界をかいま見ようとしたのが、フリーライターの吉江真理子氏による「ヤマト嫁―沖縄に恋した女たち」。南の島に嫁いだ女性たちの目から見た沖縄社会、その精神世界を描こうとした力作だが、ほとんど沖縄でしか売ってないのが残念だ。でもこの本は、男性の目から見ても非常に面白い。

南の島に暮らす日本人たち 特に印象的だったのは最初の来間島のマンゴー農家に嫁いだ女性の話だった。村のウタキにあるガジュマルの樹(沖縄ではガジュマルは神の宿る神聖な樹)の元で不思議な体験をしたのが、嫁ぐ決心をしたきっかけだったという話は、沖縄のウタキのあの雰囲気を知っている人なら誰も事実と疑わないだろう。そういう話を事実と思わせてしまう何かが、南の島にはあると思う。超自然的な話はそれぐらいだが、それ以外の5人のエピソードも、南の島が抱える社会問題と女性、精神世界といったものがどう関わるのか、関わらないかをルポしていった力作である。

 そして、沖縄ではなく日本国外の南の島に暮らす日本人を書いた力作ということであれば、井形慶子氏の「南の島に暮らす日本人たち」は外せないだろう。ちくま文庫で出ているので手に入れやすい。こちらもお勧め。

 ちなみに、新しい家は白を基調とした空間に、カーテンではなく木製のブラインドをはめたり、壁にハワイの木の皮を延ばして作った工芸品を飾ったりと、カミサンがお気に入りのハワイアン風に着々と飾っている。今年の夏はハワイに住んでいる気分で夏を越せるといいな、なんて思っているところ。さっそくCREAの「秘密のハワイ」特集とかも買ってみた(笑)。皆さんも夏を過ごすのにいい本があったら、ぜひ教えてください。

12:39 午後 書籍・雑誌 コメント (8) トラックバック (0)

2005/06/29

町山氏の日記が休止

 毎年6月末になると仕事のペースが遅くなる。梅干しを漬けなければならないので、残業せずに家にすっとんで帰るからだ。昨日も8時に脱兎のごとく会社を飛び出して、赤紫蘇4袋を買って帰りぷちぷち葉っぱだけをちぎって集め、塩もみして夜中3時までかかって10kgの白梅漬けの中に入れた。これで土用干しまでは放置できる。やれやれ。

 で、表題の件。前からコメント欄の無法者に完全と真正面から立ち向かっていた映画評論家の町山智浩氏のはてなダイヤリーが、最近の相次ぐ無法者の書き込みに音を上げたのか、とうとう日記をプライベートモードにしてしまった。トップには「匿名による嫌がらせに対応する方法を検討するため、しばらく日記を休ませていただきます。ありがとうございました。」の文字が。

 映画雑誌に書いた「スターウォーズ・エピソード3」の批評記事を配給会社に検閲されたという話あたりから、政治絡みのコメントが増えてプスプスくすぶってはいたのだけれど、その後何の関係もない記事に嫌韓厨とおぼしき捨てハンが延々と長文の嫌がらせを書き込み、でも町山氏もそれに果敢に反論していたので「相変わらず元気だなあこの人」とか思っていたら、意外に結構ショックを受けていたっぽい。

 まあ、政治あるいは政治的な話題で他人とガチで議論するのは、真面目にやろうとすればするほど激しく疲弊するので、僕なんかはそういう議論には絶対関わらないように注意してるのだが、町山氏はそのへんもあえて踏み込むのが彼なりのポリシーのようだったので、仕方ないと言えば仕方ない。

 ここ最近の捨てハンの嫌がらせ書き込みには日記の常連読者も参戦して徹底的にとっちめていたので、これで一件落着したのかなと思っていたのだが、いきなりプライベートモードにするとはね。

 再三嫌がらせ書き込みが続く中で、読者からは「コメント欄を閉じればいい」という声も出ていたが、やはり町山氏にとってブログで映画評を書く意味っていうのは、雑誌や映画配給会社の意向を気にせず、自分の言いたいことを書けるという開放感だけじゃなくて、書いたものに対して読者からツッコミや関連情報の提供などが返ってくるという、もの書きとして他に代えられない楽しみがあったからだろう。彼にとっては、きっと「コメント欄のないブログなんかに、何でタダで映画評論書かなきゃいけないんだ」という気持ちだったのだろうと思う。

 でも、彼自身が「ここはみんなのおしゃべり掲示板じゃなくて、オレの家の裏庭だ」とブログの冒頭に書いてた通り、気にくわないコメントは見つけ次第削除の方針でも良かったと思うんだよね。しかも2回目に現れた捨てハンは、文体からしても明らかに前に論破されてID削除食らった奴がまた復活しただけのように見えたし。はてなってココログみたくIPアドレスでコメント投稿弾けないんだね。残念。

 町山氏みたいな、いいがかりつけてくる捨てハンに向かって延々と説教垂れるというか、タイマンで殴り合う体力(気力?)のあるライターってなかなかいないというか、珍しいタイプだと思うのだけれど、それでもやっぱり言葉の暴力には相当のダメージを受けちゃうのかな。ああいうのを見るにつけ、これから人の前に出て意見を言いたい人間が持ち合わせなきゃいけない能力の中に、日本語をちゃんと書くとか人の話をちゃんと聞くとかに次いで、こういう場合のファシリテーションの能力、ぶっちゃけて言えば「いいがかり系をうまくいなす」能力が加わりつつあるということなのかな、とも思う。

 これって訓練すればそれなりに身に付く能力なので、その身に付け方を切込隊長あたりにまとめてもらって、真っ赤な表紙の、タイトルも「けなされる技術」とかの本を売ってもらうってのはどうよ。帯に「あなたのブログが炎上した!さあどうする」なんて書いてあったらなおよし。

 てなくだらないことを考えてないで、そろそろマヂでやばくなってきた仕事にかかります。では。

10:28 午前 ウェブログ・ココログ関連 コメント (20) トラックバック (3)

2005/06/27

マスコミ人の行く末は「没落」しかないのか?

 書いていいことなんかどうかわかんないけど、まあどうせ世の中に出るんだし、書いたらそれなりに編集者は焦ってくれるんだろうから、いいや。土曜日にここの人とここの人とここの人と、4人でマスコミ話をガーッとやってきました。近日中に本になるそうです。お楽しみに。

 だいたいネットワーカーの問題意識というのは深いところで常にシンクロしているもので、その時の話題も今旬なこことかこことかのイシューを巡っていた気がする。で、3時間+その後新宿で飲みながらさらに3時間しゃべった話を自分なりに整理して、さらにしゃべり足りなかったこと(笑)を少し書いてみる。

 与えられたお題は「ネットはマスメディアを救えるか?」みたいな話だったのだけれど、その議論の詳細についてはまとまった本とかを買って読んでいただくとしてですね。

 結局話が行き着くところというのは労働問題なわけだ。いつも。つまり
「マスコミにだってビジネスの“強み”はある」
→「でも強みと弱みをごっちゃにしか認識してないから、後から出てきた、強みだけマネる事業者にあっさり負ける」
→「なぜ強みと弱みをごっちゃにしか認識できないかというと、経営者にそれをきちんと分けて議論する訓練がされてないからである」
→「きちんと分けて議論することができれば、強いところだけうまく生かしながら新ビジネスを立ち上げたり、弱いところを中途採用で補強したりしてまだやっていけるはず」
→「で、そんなに簡単に人の入れ替えってできるわけ?」

 というところで、議論が止まるわけだ。なぜ議論が止まるかというと、マスコミの人間(特に編集・記者畑の人間)というのは、現在所属する企業の外におけるキャリア形成など、考えてみたこともないからである。というか、最近のマスコミの経営のダメダメぶりを見ていると、どうやら社外でのキャリアを考えるという思考回路を従業員に与えて来なかった(がゆえになかなか人材流出が起きない)ことを、自社の「強み」と思いこんで乱脈経営してるんじゃないかと錯覚するほどだ(笑)。

 ま、それは冗談としても、マスコミ人のパーソナルキャリアに関する思考の停止ぶりというのは、最近書かれたこちらのコラムとかを読んでも分かる。彼は思考停止しているというよりは、「記者は社長になれるのか」という、マスコミにおいて問うてはいけないタブーの質問をコラムに書いて、そこであえて「深遠な問題だ」とか言いつつ筆を止めているので、おそらく確信犯だろう。答えはもちろん「否、少なくともそのままでは」だ。

 今のマスコミの記者・編集者に広い視野からキャリアを考えさせることを阻んでいる大きな理由の1つが、この「記者というのはそのままステップを上がっていくと経営者につながる」という、不思議なゼネラリスト信仰的キャリア観だ。

 さすがに今どき「社内政治の最終勝者が社長になるべきである」と、少なくとも胸を張って言う大企業など日本のどこにも残ってないと思うのだが、マスコミというのは、今後はそれじゃいけないから将来の経営幹部と目される層に経営者養成の専門教育を施すとか、そういう発想さえ存在しない企業である。

 だもんだから、世の中のことを何も知らない大卒入社1年目の記者とかまでが、自分のこの仕事はずーっと続けていくとその最終地点は「社長」であるような深遠かつ崇高なるゼネラリスト業務である、と勘違いする。んなわけねーだろが。記者とか編集者なんてどこまで行ってもタダの物書き、ブンヤなんだよ。

 でもそれに気がつくのは、記者として先が見え始める30歳を過ぎてから。で、その頃には一般事業会社でも早いところは同年代で幹部候補としてのキャリアを歩み始めたりMBA留学にたたき込まれたりして、トップクラスは着々と「経営者」に向けた歩みを始めていて、中にはとっととスピンオフして六本木ヒルズの近くで社長やってる奴もいたりして、だから転職市場でもベンチャー企業クラスなら事業部門のマネジャーとしての能力を見られる。タダの物書きしかしてこなかったマスコミ人は、「やっぱり記者ってのはつぶしが利かないんだよね」とかつぶやきながら、諦めて早々に社内に引きこもるわけだ。

 だけど、自分が「つぶしが利かない」って思い込むのは、ある意味サラリーマンとしての自爆以外の何者でもない。記者・編集者という仕事に関して言えば、「他人に読ませられる文章を書く」というのは、意外と汎用的な価値は高い。

 問題は「何について」書くのか、あるいは「誰に向かって」書くのかということだ。今どき、世の中のどんな新商品も「誰にでも売れます、何でもできます」なんて言って商品化を認めてもらえるものなんて存在しない。「どこのどんな人をターゲットに、どのような他にない価値をご提供できます」と言って、初めてユニークさを認識してもらえる。

 梅田氏や楠氏がおそらく念頭に置いているであろうところの「知のチープ革命」の犠牲者たるマスコミは、まあ確かに今はもうすぐ来るべきクラッシュに耐えられないと目される人たちの筆頭だと思うのだが、マーケティングによってはそれも結構高く売れるようになると僕は思うよ。要は、「分かりやすくものを書く」という基礎能力の回りに、どういうマーケットバリュー(誰々の関心を引くような文章なら何でもござれ、とか、この分野の文章はオレがとにかく第一人者、とか)をくっつければいいかを考えればいいのだ。

 以前のエントリでも少し書いたけど、マーケター的視点で外から見ていると、マスコミ業界の経営はもはや法律で消えゆく既得権益を必死に強化でもしてもらうほかないくらい、クラッシュ寸前なのだ。「明日から記事の半分を外部ライターに書かせるから、キミたち給料半分にするか退職金もらって辞めるかどっちか選んで」とか、いつ言われてもおかしくない状況なのだ。それに気が付いてないのは、実は中の人間だけ。マスコミ人って、自分の会社のことについて驚くほど何も知らない。

 別にマスコミ人に限らないと思うんだけど、人間って今の境遇が恵まれていればいるほど、そこからずり落ちることを想定した努力っていうのには頭が向かないんだよな。だから僕の知っている相当優秀なマスコミ人(マーケティングすれば、他の分野でも高く売れそうな能力持ってる人)でも、自分が置かれてる境遇(社内の政治とか評価とか)を嘆くばかりで、自分の能力にちょっとでも付加価値つけて副業を手に着けようとかいう努力をしないんだ、これが。

 別に転職するだけが能力じゃなくて、マスコミなんてペンネーム作って会社に見つかりさえしなければアルバイト原稿とか社外の講演活動とかやり放題なんだからさ。ちゃんと付加価値付ける努力をしましょうね。やってる人はもうやってますよ、真面目な話。そこのあなたが知らないだけで。

 そういうわけで、梅田氏や楠氏が「特権階級の没落」とか「悪夢」とか、背筋が寒くなるような“北風”言葉をビシバシ使っているので、R30はやさしく“太陽”言葉でフォローしてみました(笑)。

01:53 午前 メディアとネット コメント (7) トラックバック (8)

2005/06/23

更新する気END

 あーあ、書きかけのエントリをまた吹っ飛ばしちゃった。最近たくさんのウェブサイトの参照しながら書くエントリで、うっかり書きかけているエントリの上に新しいURLを開いちゃって、完成間近の原稿が吹っ飛ぶアクシデントを3回ぐらい繰り返してる。つまり、事故でボツったエントリがすでに3本以上。死屍累々。

 エディタで書いてからコピペして更新すればいいって分かってるのだが、面倒くさがってウェブに直接書こうとしたら天罰てきめん。今日はもう更新する気なくした。回線切ってLANケーブルで首吊って逝ってきます・・・。・゜・(つД`q。)・゜・

11:30 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (1)

2005/06/21

初めての360度評価

 転職した会社は年俸制で、そのものさしとして360度評価が使われる。前職でも360度評価を導入するという話が人事制度改革で持ち上がっていて、僕も1度だけ先輩を評価する機会を得たことがあったが、自分自身は結局360度評価を受けずに辞めてしまったので、今回が初めての360度評価体験だった。

 前職では、テスト導入で360度評価を受けた管理職が、集まった部下や同僚からの評価の自己評価とのあまりのギャップに色を失って逆切れし、経営側から労働組合に年2回の360度評価を2年に1回に減らす修正案が出されたというお笑いのオチがついていた。

 笑っている場合ではなくて、これはまさにプリミティブな360度評価をそのまま組織に入れた時に起こる反応の典型例だと思う。自分が自分で思っているよりもずっと低くしか他人から評価されていないと、数字で示されたときの人間の受けるショックというのは大変なものだ。プライドも何もない入社半年の僕でさえショックを受けた(笑)のだから、自分の仕事ぶりにそれなりのプライドを持って何十年も生きてきた人なら、筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。

 僕自身も、自己評価は相当低めに付けたつもりだったのだけれど、それでも自己評価を下回る評価点の項目が(それも、自分としてはいろいろな尺度の中では比較的よくできていたと思っていた項目で)いくつもあった。

 数字だけ眺めていると、「表面的なところしか見ずに点を付けられてるな~」という悔しさが募ってくるのだが、その後に「ギフト」という名前の、各評価者からの定性コメントが添付されていて、それを読んで自分がなぜそういう評価点をつけられたのか、初めて納得できた気になった。

 評価の数字だけ見ていると「表面的」であることに腹が立ってくるものだが、コメントと一緒に読むと、むしろ周囲のそういう意見を「表面的」と断罪する自分の感覚こそが「表面的」なのだ、ということに気がつく。

 そうか、回りの人たちは一緒に仕事をする者として、より快適に仕事をしていけるために僕にこういう立ち居振る舞いを求めているのだ。それが何よりも自分自身、より高い生産性で仕事をするために必要だから、こういうフィードバックを送ってくるのだ――。

 そう気がついたとき、360度評価が来年度の年俸に反映されるのがとても自然だと思えるようになった。目の前でその評価結果を見せられて、それとともに来年度の年俸額を提示され「サインして下さい」と言われるのは、何というかすごく「米国的」だなあとは思ったけれど、不思議に違和感が全然ない。

 リクルートの2003年の調査によると、360度評価を導入している企業は約20%。うち半分は「導入はしたが改訂の予定」だそうな。たぶん、前職の会社のように入れてはみたものの、社内から不満が噴出して対応に苦慮してるのだろうな。で、よくある失敗の理由として「360度評価制度を処遇決定(昇進昇格基準や賃金決定)に直接反映させている、もしくは、直接反映しているのではないかと従業員に「思われている」」ことにある、という。

 逆に聞きたいが、社内で一緒に仕事をしている人たちが「あなたのこういうところが私の生産性に好影響を及ぼしている、逆にこういうところは生産性にマイナスだ」と評価した声が、年俸でもボーナスでも昇進でもいいのだけれど、何ら処遇に反映されないとしたらそれって何のためにやっているのだろうか。変な話だ。

 他人に評点を付けるのはそれだけで大変な手間がかかる。もし人事部の独りよがりで「うちも先進的ツールは導入しています」ということを言うためだけにこんなしちめんどくさいことを従業員に強いているのだとしたら、それ自体が壮大なムダだと思う。

 たぶん、360度評価をうまく機能させるために必要な要件は、360度評価を処遇に反映するかしないかではないのだ。社員同士が上も下も関係なく、たがいのことを信頼し合い、より良い仕事ができるように意見を言い合い、それを常にポジティブに受け止められる、そういうビヘイヴィアを有形無形に「強制」するような組織文化がないとダメなのだ。

 これって、言うは易しだけど実際にやるのは相当難しいだろうな。特に、組織が大きくなればなるほど、組織内にいろいろなベクトルが存在し、それとともに政治的な思惑を異にする人たちが存在するのを許容せざるを得なくなり、その人たちの間で信頼関係を維持するのが難しくなる。まあ、そういう人たち同士で360度評価し合わなければいいのかも知れないけれど、それが営業と生産とか、補完関係にある組織だったりするとそうもいかなくて大変だろうし。

 結局、そういう組織では本音でものを言い合ってお互いがムダに傷つくのを防ぐために、当たり障りのないことを360度評価に書くようになって、結果的に評価作業そのものが壮大なムダになるんだろうな。

 どんな経営ツールも同じだけど、そのツールが大きな効果を上げるだけの組織文化を作りあげることの方が、ツールを導入するよりもずっとずっと難しい。だけど、ツールを入れるのにはお金がかかるけど、組織文化を変えるのにはお金はかからない。C/Pで言うと組織文化を変える方が安上がりなはずなんだが、世の中の経営者でそれに気がついている人というのは本当に少ない。僕がこれまで会った中でも、指折り数えるほどしかいないかも。

 あと、「そういう組織文化をまず変えなきゃね」と言われて、二言目に「そんなこと無理だ。議論するだけムダだ…」と言う人は、結局のところ自分は、あるいは企業は何も変えられないよ、と言っているに等しいのかも知れない。

07:47 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (12) トラックバック (5)

2005/06/16

コンプライアンスで問題を起こす企業の特徴

 栗先生から「ミュージカル・バトン」とか何とか言われてるみたいなんだけど、答えなきゃいけない項目を見たら何か自分に全然縁のない話ばかり。CDとか最後に買ったの、いつだよ?みたいなレベルだし。いや、ホントに。未だに学生の頃にダビングしたりエアチェックしたりして貯めた洋楽ポップスのカセット聞いてたりするので、申し訳ないけどスルーさせてください。それで、今日はこの記事。

 期限迫りあせり、不正次々 三井物産DPFデータ捏造(asahi.com)

 なかなか見てきたように書かれていて面白い記事なんだけど、何かすごく大事なことが書いてない気がするんだよな、これって。結局全国紙の取材ってこのレベルでおしまいなのね、JR西の時もそうだったけどさ。

 裏取り取材としか全然してないブログの分際であーだこーだ言うのも何だけど、最近この手の面白おかしいルポ風の記事が、冷静な問題分析よりも(新聞社内の)社内評価が高いんじゃないかと感じたりもするので、思ったことを書いておこう。

 何が書かれてないような気がするのかっていうと、2つある。1つは三井物産という企業の、こういう違法行為を頻発させる根本原因が何なのかということ。もう1つは再検査を見過ごした都庁側には何にもないのかということ。

 1つめについては、僕の推測できる範囲で言うとこの会社、2つの意味でたぶんコンプライアンスがなってないのだと思われる。1つは、社員個人への信賞必罰が激しすぎること。昔は二大大手商社を比べて「人の三井、組織の三菱」とか言われたものだけど、これは別に三井物産に優れた人が多いという意味ではない。こちらのサイトにも書いてあるように、社員個々人の力量に頼る部分が大きいのだ。

 それはそれで別に悪いことではないのだけれど、問題なのは成果を出すのも個人なら失敗の責任も個人が全部取るという三井物産の文化である。つまり、いったんことが起こるとトップは「知らぬ、存ぜぬ」で目をつぶって、下っ端が全責任を取って左遷されるというわけだ。失敗した個人に再起のチャンスを与えたり、組織で失敗を共有して再発を防ぐ仕組みを作ろうという「失敗学」が働かないのである。

 このため、下っ端としては目の前にミスが見えていたとしても上に知られると全責任を取らされるため、何とか隠し切ろうとするようになる。こうして悪い情報が上に伝わらなくなる。こういう雰囲気を作った最たる経営トップが、2002年9月に国後島ディーゼル発電装置入札事件で引責辞任した上島重二・前会長だった。

 槍田社長体制に交代してから少しはましになっていたのかと思ったが、そのあたりがたかが2~3年で変わるわけもないし、しかも今回の不祥事があったのはまさに上島会長在任の最後の年だったわけで、槍田社長もまだ膿を出し切れてないということなのだろう。

 もう1つの意味は、こうした企業体質の問題からすると些細な話ではあるのだけれど、日本の企業に対する最も強力なチェック機能を果たすはずの日本経済新聞が、三井物産にだけは歴史的に甘いということもある。

 これは日経新聞の生い立ちを知っている人なら自明のことだが、日経新聞の前身の「中外物価新報」が、もともと三井物産の出資によって設立されたものなのだ。だから物産上層部には、今も「日経なんてしょせんうちの子会社だ」という意識がものすごく強くて、日経に悪口を書かれるとことさらに逆上する癖がある(笑)。

 そんなわけだから日経としても三井物産を取材する時だけは結構腫れ物に触るような態度だったりして、なんていうか舐められてるわけだ。そんなわけで、かつて日経に金曜会の内幕まで暴かれた挙げ句、陰に日向にマスメディアや言論団体の動向をチェックするネットワークを社内外に張り巡らすようになった三菱商事とは、企業活動のコンプライアンスやトランスペアレンシーに対する意識レベルが違いすぎるのですよ。

 それから、もう1つ気になるのは排ガス基準未達成らしいということに薄々気がついていながら、再試験で職員が発展途上国のお役人並みの接待に連れ出されていたという都庁の「グル」度である。ま、このあたりは言うだに野暮なのかも知れんけどね。

 何しろクビ大問題で「都知事の公約だ」というだけで、あれほどの馬鹿げたリストラを強行した都庁である。テレビに出て真っ黒な牛乳ビンを振りかざして規制を力説した都知事のメンツがかかっている以上、予定通りの日程でスタートするためには民間企業の10社や20社のウソに目をつぶるぐらいは造作もないことだろう。

 逆に言えば、物産としてはそういう都の無理難題にまがりなりにもつき合ってあげたわけで、今回も都庁に代わって泥をかぶり通せばそれはそれで政商として石原慎太郎にたっぷり恩は売れるのだろう。今さら石原に恩売ってどうするよと思わないこともないけれど。ま、物産には物産なりの思惑があってのことなんでしょう。

 話を戻すけど、そもそもあの会社はそういう体質なんだからして、現場をほじくり返したら他にもたくさんコンプライアンスのヤバいネタが埋まってそうで怖いよなあ。

 とはいえ、「組織の三菱」の方でも自動車関連があちこちで組織的に製品の欠陥をなんだかんだ理屈付けて隠しては売っちゃったりもしているわけで、問題は人か組織かにあるわけじゃない。要するに悪い話を聞きたがらないトップがいる会社っていうのはいつの間にか悪い話がたくさん現場に埋められて、ある日突然そいつが「ブシューッ!!」とかいって噴出するんです。

 だから変な話だけど、法律をちゃんと守る会社になりたかったら、法律違反しそうな話をトップが真っ先に聞きつけて首を突っ込むようになれと、こういう結論なのかもしれませんな。おしまい。

03:11 午前 ビジネス コメント (10) トラックバック (2)

2005/06/14

【速報】「ニュースの現場」の高田氏がブログ休止

 朝、ブログ界隈をちらちらと眺めながら巡回していたら、北海道新聞の高田昌幸氏が東京転勤のため、ブログ休止だそうな。

 高田氏のブログは、市井の立場から現代の「環境型権力」を批判するという貴重なタイプの内容だっただけに、休止は非常に残念。

 環境型権力って、GLOCOMなどでも議論されているように現代の国家権力のあり方を考えるうえで欠かせない視点だと思うのだけれど、東浩紀氏なども指摘しているように、これについて真っ正面から批判するのが非常に難しい。というか、まだロジックが確立されてない。

 高田氏のブログのロジックそのものは、「○○という目的のために作られた環境型権力が△△という、全然違う目的のために利用されるのはいとも簡単なこと」という、既存のメディアにありがちなものでしかないのだけれど、こういう議論が記事ごとに断片化されたニュースの寄せ集めで成り立っている新聞メディアではどうしても進まない。つまり、ブログのように一個人なりがそれを1つ1つ抽出して時系列で並べ、批判していくというプロセスをたどらざるを得ない。

 その意味で、高田氏のブログは最近非常に面白い境地に入りつつあったのかなーと思ったりしていたのだけれど。休止ですか。残念です。

 それと、地方紙の優位というのをかけ声だけでなく身をもって実践されていた方が、東京に来て何をするのだろうかという不安&期待もある。東京で地方紙記者ならではの面白いネタを拾いまくってくれればと思うのだけれど、官庁の記者クラブ詰めになったら物理的にも意識的にもなかなかそうはいかなくなっちゃうのかも。

 でも、東京は世界につながっているいろいろな人がいるところですから、ぜひ人脈と見聞を広めていただければと思います。もちろん、ブログの早期再開も期待してます。

08:48 午前 ウェブログ・ココログ関連 コメント (1) トラックバック (2)

2005/06/10

【業務連絡】オープンハウスやります

 関係者の皆様、大変お待たせいたしました。

 ようやくオープンハウスの日程が決まりました。参加ご希望の方は僕宛にメールをください(一見さんは不可。リアル知り合いのみです)。当日は簡単なポットラックパーティーでも開けたらと思っています。詳しい内容や場所、時間等については、メールのお返事にてご連絡します。よろしくお願いします。

08:08 午後 コメント (10) トラックバック (1)

テレビは電気屋でなくレンズ屋のものになるかもしれない

 昨日はデジカメ絡みで暗ーい話を書いてしまったので、ちょっと明るい話でもしようかな。デジカメでいつの間にかソニーを抜いてトップシェアの見込みと思ったら、それでも飽き足らないもようの万年最高益企業、キヤノンのお話。

 薄型テレビ心臓部、キヤノン自社開発へ(asahi.com)

 え?キヤノンってリアプロもやるつもりだったの?テレビは東芝とSEDでやるんじゃなかったのかよ??と思ってぐぐってみたら、ありましたよ。今年の1月に「リアプロもやる」って発表してた(TechOn!(要登録))のね。年末かあ。エプソンもいよいよ本気価格で売り始めたし、来年はリアプロの市場が一気に広がりそうな気配。

 リアプロについては、これまで日本市場では売れないとされてきた。僕自身も数年前、カリフォルニアの高級家電専門店を視察に行ったとき、売れ筋の主力は巨大な家具とセットになった100インチのリアプロジェクションテレビと聞いて、「日本の狭い住宅でこんなテレビが売れるかい、バカモノ」とか思ったものだった。

 でも最近ファミリー向けの新築マンションとかの間取りを見ると、リビングとダイニング・キッチンを合わせて20畳とかの大空間が当たり前になってる。今回自分もリビングの広い家に引っ越してみて、これだけリビングが広いとテレビ画面も37インチ以上、できれば50インチぐらいはないと見た気がしないのだということに気がついた。つまり、日本でもリアプロクラスの巨大画面テレビのニーズはそれなりにあるということだ。

 問題は価格である。個人的には、液晶やプラズマというのは、大画面テレビでブラウン管に代わるほどの技術だろうかという疑問がずっと前からあった。液晶というのはぶっちゃけ巨大な「半導体集積回路」であって、1つの集積回路の大きさが30cm四方というだけでも驚きなのに、1mや2mの大きさの回路を1枚の集積回路で作ろうなど、無茶だと思った。もちろん、技術的にやってできないことはないんだけれど、無茶なことをしようとすれば当然ながら雪だるま式にコストがかさむ。プラズマについて言えば、電力食い過ぎ、熱出過ぎ。あれも「無茶」な技術の一種だと思っていた。

 でっかい映像を表示したければ、一番理にかなっているのは「映画」だ。つまり小さな基板の上に映像を再現して、それを何らかの仕組みでレンズや鏡を通し、スクリーンに投影する。投影する光量、そして基板とスクリーン画面の距離を調整するだけで、映像は100インチでも200インチでも大きくできる。画面の大きさとコストに幾何級数的な相関関係はなくなる。つまりリアプロジェクションテレビが、一番コスト上は合理的だ。

 エプソンが発売した1インチ1万円を切るリアプロジェクションテレビは、今のところ厚さが40cmちょっととプラズマや液晶に比べてまだ劣るが、最近は鏡やレンズの工夫で理論上20cmの厚さのリアプロも作れるそうなので、来年以降三菱電機やキヤノンなどが参入して製品の改良に血道を上げれば、設置スペースの面で液晶やプラズマとの差がなくなるのも時間の問題だろう。

 さて、日本でも大画面テレビの主役にリアプロが躍り出た場合、勝ち負けを決めるカギとなる要素は何だろうか。

 キーデバイスはいくつかある。1つは映像を再現する小さな基板「マイクロ・ディスプレー(MD)」と呼ばれるものだ。これには大きく3種類あって、後ろから光を当てて透過させる「HTPS(高温ポリシリコン液晶)」がエプソンとソニー、集積回路上に小さな鏡をたくさん並べて動かす「DLP(デジタル・ライト・プロセッサ)」がシャープと三菱電機、偏光フィルターの原理を使って光を反射させる「LCOS(反射型液晶パネル)」がキヤノンとビクターというグルーピングである。

 HTPSはエプソンが既に外販も含めて大量に作っているし、DLPは米テキサス・インスツルメンツが外販している。いずれにせよ、デジカメのCCDのように、この供給確保がカギとなるような希少なパーツではない。

 一方、投影する透過型スクリーンの方も、大日本印刷や凸版印刷などの複数メーカーが既に大量に市場に供給しているものなので、問題ではない。彼らは自分でリアプロを作るようなマネはしないだろうし、スクリーンを改良すればすぐに全メーカーに行き渡るだろう。

 では、どこに技術的な優位を発揮できるか。たぶんそれは、MDとスクリーンの間にあるもの、つまりレンズと鏡の設計だろう。いかにMDとスクリーンの間隔を詰めながら(=薄くしながら)、歪みや色収差のない、明るくてきれいな映像を投影するか、そのあたりがリアプロテレビメーカーの技術のカギだろう。

 この手の高度な光学技術は、やはり日本とドイツにしか存在しない。その意味で、今後はMDの映像コントローラーから光学系の設計技術までを囲い込むのに成功したメーカーがリアプロテレビ市場で勝ちそうな気がする。今の顔ぶれを見た限りでは、やはり総合力でキヤノンがその最右翼だろう。

 ただ、日本の他の精密機器メーカーが、キヤノンに対抗できるレベルの映像コントローラーや光学系の設計技術まで含めた「リアプロテレビ用トータルソリューション」を外販し始めたら、また競争のルールは変わるかもしれない。映像コントローラーとレンズ技術を抱えるオリンパスさん、チャンスですよ!(笑)

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2005/06/09

オリンパスはどこでどう道を間違えたか

 2005年にはデジカメ市場の成長が止まるってのは、もう2002年ぐらいからずっと言われ続けてたことなんだけどな。生き残り続けたいと思っていたのなら、なぜそれまでにポジションを確定しておかなかったんだろう、この人たちは。

 オリンパスなど老舗3社 デジカメ事業立て直し リストラ、新機種…復権急ぐ(産経新聞 via gooニュース)

 デジカメの勝ち組はキヤノン、ソニー、富士写の3強に加えて、ニコン、カシオ、松下が健闘といったところか。産経のやり玉に挙げられているのはオリンパスとコニカミノルタ、そしてペンタックス。ペンタなんて元々レンズ技術だけを頼りにカシオに泣きついたクチだし、コニカミノルタは合併前も合併後もデジカメはヨレヨレだったのでしょうがないとして、かつてはトップシェアかつ業界のリーダーでもあったオリンパスの凋落は、痛々しいな。

 産経の記事によるとオリンパスは「マーケティングの失敗で、売れない機種をたくさん作りすぎて在庫の山を築いた」と言うんだが、どうも嘘っぽい。2005年3月期の決算説明資料を見てみると、映像事業の在庫水準は確かに2年前から上がってはいるが、昨年よりはむしろ減っている。今年初めには小宮御大自ら「E-1とE-300はバックオーダーまで抱えてフル生産で絶好調」とか発表していたぐらいだし、在庫云々をにわかに信じられない。

 ただ、E-300も欧米では「絶好調」なのだが、日本はそれほどでもなかったところを見ると、特に昨年末以来価格下落の激しかったコンパクトタイプのデジカメで、日本向け機種と海外向け機種の在庫コントロールにミスがあったんじゃないか、という憶測は成り立つかもしれない。

 しかし、問題の本質はそうじゃないと僕は思う。この前の「マネ下デンキ戦略」のエントリにトラックバックをもらったhbikimoon氏のブログで書かれているが、どうもこの1年で、デジカメの競争ルールがまた変わってしまったのである。そして、オリンパスはそれについていけなくなってしまった。

 もともとオリンパスが一世を風靡したのは、「画素数競争」と呼ばれる競争ルールを、自分で設定したからだった。それまでカシオのQVシリーズなど、数十万画素の、今から思うと「ウェブカメラかよ」と思うほどしょぼい画像しか撮れなかったデジカメに、突然「メガピクセル!」の掛け声とともに大画素数のCCDを持ち込んだのがオリンパスだった。

 なぜこの戦略が成功したかと言えば、当時のデジカメの部品で最も希少だったのは、画素数の多い(そして安い)CCDだったからだ。海外ではコダックなどが600万画素とかの超高画素(でも値段も数百万円也)のCCDを作ってはいたが、国内ではビデオカメラ用の十数万画素のCCDをソニーや松下が作っている程度(ビデオカメラ用には画素数など十数万で十分)で、百万画素以上のCCDを作るアホなどいなかったのである。

 オリンパスは当時、ソニーが試作した100万画素クラスのCCDを、それまでの国内のデジカメの全出荷台数よりも多い数買い付けた。98年に富士写が150万画素のCCDを実装し10万円を切る価格で「FinePix700」を発売すると、オリンパスも間髪入れずに8万円台の131万画素デジカメ「C-840L」を発売した。

 CCDというのは、最初に使ったメーカーがその画質のクセなどを最もよく知り尽くして調整できるので、先行者に常にアドバンテージが生まれる。こうして他社が追随できないまま富士写とオリンパスの2強による「画素数時代」が始まったわけだ。

 ところが、2002年前半にミノルタが「DimageX」を、カシオが「EXILIM」を発売したあたりから、デジカメの競争ルールが変わってしまう。「DimageX」は200万画素と、当時400万画素台だったトップ画素数のデジカメからすると2ランクぐらい下のデジカメだったが、カード型で厚さ20mmという奇抜なスタイルと、それに似合わない画質の良さが評判を呼び、デジカメ業界の競争ルールをCCDの画素数から「デザインのかっこよさ」と「画質の良さ」に変えてしまった。

 とはいえ、画質の良さなんてそうそう画期的に変わるものでもないので、結局はデザインの良さが店頭での勝負になる。カシオがさらに薄いデジカメを出し、めちゃくちゃ体の細い女性をTVCFに起用して宣伝したことで、「ファッション性」がますます購入要素として大きくなり、商品の寿命はCCDの画素数向上という「シリコンサイクル」から、「ファッションとして飽きられるスピード」に比例するようになった。

 オリンパスはこのルール変更についていけず、2001年と2002年の3月期で、2期にわたって映像事業が赤字に転落。結局草創期の「画素数バクチ」戦略を築いた小島祐介執行役員が左遷され、生産畑の小宮弘専務が事業をコントロールすることになった。

 小宮氏の取った戦略は、「賞味期限の切れないうちに作って売る」というスピーディーな生産コントロールを、オリンパスの強みにすることだった。それまで小島氏はレンズ以外のキーデバイスを持たないことを「身軽さ」に変えるべく、デジカメの組み立て生産のほとんどを三洋電機に委託してきた。小宮氏はこれを中国の自社工場に順次切り替えることで、販売現場からのリクエストに応じて必要な機種を自社内で機動的に生産できる体制に変え、商品寿命の短縮に対応しようとした。

 この試みは2002年から始まっていったんは成功し、2003年3月期、2004年3月期とデジカメ事業を回復させた。ところが、その状況も長くは続かなかった。在庫もそう増えてはいない、売上げも海外では伸びているのに、突然の赤字転落である。

 競争ルールの、何がどう変わってしまったのだろう。たぶんそのヒントがhbikimoon氏のブログのエントリにあるように、「IT系企業の参入」である。

 この1年でデジカメの何が変わったのか。デジカメはおそらく変わってない。変わったのは「携帯電話」である。そう、数百万画素のCCDを積んだ携帯電話が当たり前のように手に入るようになり、普及クラスのデジカメは携帯電話と価格比較されるようになってしまった。デジカメ屋にしてみれば「携帯電話なぞと一緒にされるなど心外」もいいところだろうが、後で月額課金できる携帯屋と売り切りのデジカメ屋では、価格で勝負になるわけがない。

 では何で勝負するか。一眼レフなど、より高級カメラの市場へと逃げるか、あるいは付加価値のあるパーツを自社以外にも外販して稼ぐか、どちらかしかないだろう。今年のデジカメの勝ち組6社を見れば、それは明らかだ。自前で独自のCCDを製造する能力のあるメーカーが6社中、5社もある。しかもこの5社のうちソニー以外の4社は、レンズも自前で生産できる。つまり、レンズとCCDおよびそのコントローラーチップなど、付加価値の高い部品をすべて内製できる企業しか、この市場では生き残れなくなったということだ。

 例外はカシオだが、同社は部品も技術も完全に外部に依存しながら、マーケティングだけで薄利多売の激戦をくぐり抜けていく知恵と度胸とスピードのあるメーカーだ。オリンパスが今後取るべき道は2つに1つ。もっと身軽になって機動力を上げて、工場さえ全部放棄し、徹底したマーケティングの会社として生き残るか。それとも、「ズイコー」ブランドのレンズなど付加価値パーツの外販を積極的に展開し、自前でシェアトップにはなれなくても大手メーカーに欠かせない「部品屋」として食べさせてもらうか。

 前者は既にカシオという偉大な先人が既に存在し、それ以外の企業はほぼ撤退したもようなので、これからオリンパスが入っていくとすれば相当厳しいだろう。となると、総力戦で戦う体力もないオリンパスとしては、高級カメラの市場に特化するか、レンズや映像処理チップなどを外販していくかしか生き残る術がない。

 とはいえ、高級デジカメ市場はすでにキヤノン、ニコンが鉄壁の牙城を築いており、フィルムカメラでは生き残れたミノルタやペンタックスもはじき飛ばされたほど。オリンパスがこれから1人でかかっていっても、割り込むのは相当難しいだろう。

 そうした高級デジタル一眼レフ市場攻略+ズイコーレンズの売り込み、の一石二鳥という意味で、松下電器とのアライアンスは的確な打ち手ではあったと思う。ただ、これで安泰が保証されたわけでも何でもない。松下だって山形で業務用ビデオカメラのレンズを自前で作ってきた実績があるし、今さらズイコーでもないだろうに。

 オリンパスとしては、これでデジカメ市場から撤退して引き下がったら、内視鏡とICレコーダーの会社になってしまい、消費者に名前を忘れられてしまうというお家の事情があるのだろう。それとも、・・・もしかして松下に会社ごと買ってもらえれば、とでも思っているのかしら。

 だがそれにしても悔やまれるのは、なぜ2003年に儲かりまくっていた時に、キヤノンのようにCMOSチップの実用化やレンズ外販に投資しておかなかったのだろうかということだ。冒頭にも言ったが、あの当時から2005年に市場の成長が止まるということは、彼ら自身も予想していたはずなのに。

02:36 午後 ビジネス コメント (12) トラックバック (8)

2005/06/08

テキストエフェクト百花繚乱

 最近は泥のように疲れていてネットサーフィンも全然できない毎日なのですが、そんな中でふらっと立ち寄った踊る新聞屋ー氏のブログがいつの間にか
 

文字エフェクト批評ブログ

 に衣替えしておった。面白い(@∀@;)!!ていうか、このへんのあたりの可能性って、大文字のジャーナリズムとかブログ論云々論じる人たちってあまり議論しないよなあ。でもネット上の表現の可能性を考えるには結構大事なポイントかも。

 この手のテキストエフェクトの源流ってどのへんなんだろう。調べたことないけど、やっぱりかの有名な侍魂あたりからなのかな。うちはリニューアルの時に固定幅から可変幅に切り替えたのであまりテキスト遊びできないっていうか、するセンスもないのでやってこなかったが、個人的にはセンスの利いたテキストエフェクトのブログを読むのは大好きだ。鬼嫁日記とかも含めてね(「さきっちょ&はあちゅう」みたいに、文字がどんどん小さくなる方向なのは、Firefox使ってることもあって勘弁してほしいと思うけど)。

 そういえばかの高橋メソッド以来、この手のエフェクトがプレゼンの分野と融合しているようで面白い。もんたメソッドとかも先週あたり祭りになっていたようだけど、あれもブログに実装するプラグイン(?)とかがすぐ出てきて、融合のスピードはどんどん早くなっていってるみたい。となると次は、ああいうメソッドをうまく使いこなすブログが出てくるのが楽しみになる。

 で、テキストエフェクト評論家になられた踊る新聞屋さんによれば、「活字離れの著しい現在に一席を投じられるのではないかと思ったりしたのですが…物理的限界のある(新聞)紙では無理」ということだが、そんなことはなくて、新聞だってテキストエフェクトはやりまくってるわけですよ。「見出し」の部分でね。夕刊紙とかになったら、本文中の文言とかも「千年一日のごとく構造改革を言い続ける割にはサラリーマンをねらい打ちした増税や自民党内抵抗勢力を放置し改革する気のまったく見えない、デタラメばかりがのさばる狂気の小泉政権」とか、平気でポイント変えてるわけだし。紙だからやれないという問題は、ないわけで。

 むしろ今の新聞が、こういうテキストエフェクトの可能性を縦横に追求するビジュアルとコンテンツの新境地開拓をやってきてないんじゃないかと、こう思うわけですよ。全国紙の政治面とか社会面でやっちゃったりすると「ふざけてるのか」とかクレーム来そうだけど、家庭面とか、いいじゃんやっちゃえば。どうせそんなの気にするような堅物のおっさんとか、家庭面なんか読まないんだし。

 というわけで踊る新聞屋さん、面白いテキストエフェクトサイトを拾ってきてあれこれ紹介して下さい。期待してます。なーんて、「復帰しました」と言いつつ何も書かないのもアレかなと思い、spanタグの練習を兼ねてぐだぐだな下らないネタを一本。orz

01:16 午後 メディアとネット コメント (12) トラックバック (0)

2005/06/05

意外に早く復帰

 ごぶさたしておりました。実は引っ越しで6月半ばまでブロードバンド環境がなくなってしまうので更新停止せざるを得ない状況だったのだけど、なんと固定電話よりも早くネット接続会社の工事が終わった。で、引っ越し当日にして既にブロードバンド環境が確保できた。スループットは4.75Mbps。快適快適。

 あと、人生相談もだいたいけりがついたが、目下最大の懸案である本を書く作業(笑)はまだ残っているので、それにメドがつくまで本格的にバリバリ更新するわけにはいかなさそう。ただこれで物理的な障害はなくなったので、ぼちぼち再開していきたいと思う。

 それにしても今回の引っ越しで、ISPの方が固定電話よりも対応が早くなってるということを知り、少なからずショックだった。

 引っ越しの1週間前の同じ日にNTTとISPに連絡をして開通工事を頼んだのだが、NTTは「最速で3週間後しか工事できません」と返事してきた。ISPは「2週間以内にうかがいます」と返事があり、実際に工事にやってきたのが申し込みから1週間後の引っ越し当日。

 知り合いとその話をしていたら「最近は5~6月に引っ越しが多いらしくて、NTTも切り替え工事がすごく待たされるらしいよ」と言われたが、昔だって3~4月の引っ越しシーズンのピークは今の比ではなかったはずで、それでもちゃんと引っ越しの翌営業日ぐらいには工事に来てくれていたような気がする。いくらピークがずれたと言っても、やはり希望日から2週間近くも工事が遅れるというのは、最重要固定インフラの1つを担っている企業とはとても思えない。

 しかも、一方で役所や金融機関の移転申請書類に自宅ではなく携帯電話の番号を書いても、誰も文句を言わなくなった。こちらとしても、自宅の電話に連絡が入っても忙しくてつながらず、留守電さえ1週間以上聞かずに放置するのがざらとあっては、連絡先として固定電話を用意しておく意味がほとんどない。

 あと、今回加入したISPで、IP電話も一緒に申し込んでみた。固定電話回線に緊急連絡先としての機能ではなく、「安く電話がかけられる」機能しか期待しないのであれば、IP電話で十分だ。提携ISP同士の電話ならタダでかけられるとあって、さすがにスパムコールの被害なども一部で出始めているようだが、発信機能しか使わないつもりなら着番号ならぬ着IP?縛りでもかけてしまえば知り合いとの連絡手段を確保するには十分だ。

 まあ、もっと進んだ通信手段がほしければSkypeでもやればいいわけだが、一般の家庭でPCを通話の発信機能に使うには(うちのカミサンなどを見ていても)まだちょっと敷居が高いのかなとも思う。そのうち、電話線ではなくイーサネットにつないだだけで使えるSkype内蔵家庭用電話機が登場すれば、今のIP電話からさらに乗り換えてしまってもいいかも知れない。

 …とか言いつつ、まだIP電話がうまく設定できないのだが誰か助けてくれ。

 ところで、前のエントリでもコメント欄にツッコミが来ていたが、忙しくなる前にネットラジオにまた出演して、その回の放送分が先週アップされていたらしい。実は引っ越しが忙しすぎて、自分でもまだ聴いて確認してないのだけれど、結構過激なことを口走った気がする。多少カットされたらしいんだけど、とんでもない発言が残っていたらどうしようか…と心配。ご興味のある方は聴いてみてください。では。

10:02 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (4) トラックバック (1)