運動系な人たちを批評することの難しさ
昨日気がついたんだけど、今週の日経ビジネスってば特集丸ごとブログの話だったのね。特集タイトルにも章ごとの見出しにも一言も「ブログ」って書いてなかったんで、思わず見落とすところだったよ。マスメディアの話には一言も触れてませんが、ビジネスブログ系の話をかなり広範にカバーしてるので、ご興味ある方はキオスクでどうぞ。
さて、話題はまったく変わるが時々読んでいる上山和樹氏のブログで、ちょっと気になる話が語られていて、ここ最近ずっとそのことが頭から離れない。『不登校は終わらない』という本の著者である東大大学院の研究者・貴戸理恵氏と、その本の題材となった「東京シューレ」という、不登校児を集めたフリースクールの間の論争についての話。かれこれもう1ヶ月近く前から話題だったようだ。
僕は東京シューレや代表の奥地圭子氏についても伝聞でしか聞いたことがないし、貴戸氏の著書を1冊も読んだことがなく、自分自身も不登校云々とは何の関係もないという、まあ上山氏的に言うと「究極の非当事者」なわけで、そういう人間がこの論争についてのまとめを書くのはどうかと思う(笑)。ちょうど、非常に読みやすく、かつこの問題について最も的確な解説と問題抽出をしているブログがあったので、まずはそちらにリンクしておきたい。話が全く見えないという方は、まずリンク先の荒井賢氏のエントリをお読みいただければ。
で、僕は別に東京シューレや貴戸氏のどちらの側にも異議申し立てするつもりはないし、まして稲葉振一郎氏の書評のように、不登校の理由がヴィトゲンシュタイン言うところの「語りえぬもの」である、などというたいそうな議論をするつもりも全然ない。
では、なんでこの話でエントリを立てたかというと、上山氏の言う「当事者性」というところにひっかかったからだ。不登校、ひきこもり、フリーター、障害者といった個別具体的な属性によって、この「当事者」という言葉の含む意味もさまざまに変わってくるとは思うので、上山氏が言うような「当事者性一般についてのメタ言説」、というようなものが存在し得るのかどうか僕も分からないのだけれど、要するにこれってば「人はいかにして人を批評しうるか」というような話なんじゃないのかな。
例えば企業の批評というのは、方法論的に言えばある意味非常にシンプルだ。要するに「正しい手段でどれだけの利益を上げているのか」というところに徹底的にフォーカスして論じればいい。この場合の「正しい」を、「法律を守っている」と取るか「人倫にもとらない」と取るか、その幅の解釈はいろいろあり得るだろうが、一方で「利益を上げている」かどうかというのは定量的に確認できるので、その部分については批評のロジックを一貫できる。
問題は企業じゃない相手、例えば上のような運動系の団体だったり場だったりする。これを批評することは手続きとロジックの両方の意味において、めちゃくちゃ難しい。
批評の1つの方法が、「私もあなたたちの同類なんだ、あなた方がケアすべき対象は私なのだから私の意見を聞いてくれ」というスタンスからものを言うこと。これが上山氏の言う“当事者が批評”するということだ。ま、これは分かりやすい。
問題は、研究者だったりマスコミだったりといった、当事者でない人たちがその団体や場を批評することだ。運動にかかわる“当事者”たちにとっては、関係ない外側の人間にあーだこーだ言われる謂われは基本的にまったくないし、もしもその運動が社会から完全に隔絶したところで行われている場合、外側の人間にとってもその運動に対する批評を聞かされる・読まされることというのは単なる「好奇心の発露」以外の何物でもなく、殺人やら犯罪やらが起こらない限り余計なお節介のレベルである。
だが、その運動が何らかのかたちで社会に関わっている、あるいは将来大きく関わりそうだと思える場合、外側の人間は無関心ではいられないわけで、当然その運動の「批評」を聞いたり読んだりしたくなる。ところが、その運動が既存の社会システムに何らかのアンチを掲げている場合(企業という形態を取らないたいていの運動団体はそうだが)、外側の人間がいかに自分に利害関係があると思って批評したとしても、“当事者”たちにとってはアンチの対象であるシステムの側の人間がわざわざ自分たちにケチを付けにやってきたぐらいにしか思えず、「余計なお世話」という反応に終始してしまう。
批評するためには、ある程度その実態やら内情やらを取材して回らなければならないので、当然ながらある時点ではマスコミや研究者も完全な外部の人間ではなく、「当事者」や「関係者」のふり、あるいは運動に共感する人間を演じつつ接近しなければならない。運動の関係者として入り込んでおきながら、いざ批評する場合には外部の非当事者にも理解できるレベルで、つまり共感をある程度断ち切って話をまとめなければならないため、ここに常に摩擦が生じる。
企業の場合、いかに常人に理解されない独自の理念やらビジョンやらがあろうが、外部の社会とは商取引という等価交換を行っていかなければならないので、当然ながらそこには摩擦やギャップをある程度緩和する、あるいは埋める手だてとしての「マーケティング」や「コミュニケーション」が存在しなければならない。
けれど、運動系の団体や場というのはその成立において、たいてい外部社会とのコミュニケーションをある程度断って仲間同士のコミュニティーを形成する過程を経る。その経緯を今も引きずっている場合、社会とのギャップや摩擦を埋める必要性を企業ほどには感じないことも多い。
実際のところ、荒井氏のまとめているように、外部の人間の中には、若い時分に「なんか、不登校な奴って自分のポリシーがビシッとあって、惰性で学校に通ってる俺らみたいな奴より何となく格好いいよなぁ」とさえ思わされた経験も少なからずある(実は僕もそうだった)わけで、市民運動の中にはもともとニッチでマイナーな「アンチ社会システム」から出発したにもかかわらず、今となってはそういうさまざまな思想的影響を一般社会に与えるものも少なからず出てきている。
ところが、残念なことにそれら団体の多くは自分たちのポジションがもはやニッチではないようなウェイトを占めるに至っているのだということに無自覚なままだ。だからいざ運動と社会のかかわり方を外部から批評されかけると「我々は我々の気持ちを理解しない外部の非当事者からの批評は、断固拒否する」みたいなコミュニケーション拒否の態度を示しちゃう。今回のシューレのリアクションは、その典型みたいに見える。
もっともこのあたりはその批評の主体たるジャーナリストなりアカデミシャンなりの「説得」スキルにもよるわけで、書籍や記事を出す前に、事前に批評される対象に「あなた方もずいぶん社会から思想的ポジションを認められるようになっていて、そろそろその思想を社会システムのニッチな部分に対するアンチとしてではなく、オルタナティブな価値観として世界を包含できるようなものに磨き上げていくべき時期ですよ」とかなんとか、褒めそやしたりすかしたりしながら一定の「外部からの批評」を許容するようにし向けていく役割が、本来彼らには課されているわけ。
今回の東京シューレと貴戸氏のそれぞれの言い分を読んでみると、貴戸氏は「私はアカデミズムに許されているデュー・プロセスに則って不登校を研究・分析した。それのどこが悪いんですか」というロジックを展開しており、一方シューレの側は「そうは言ってもあんたの著作で傷ついたって言ってる生徒だっているわけだし、かつては当事者だったとか言いながら運動のコミュニティーに接近してきたんだったら、コミュニティーに対する仁義ぐらいちゃんと切れよ」という感情論を、無理矢理「原稿修正」というロジックに置き換えて貴戸氏にぶつけているように見える。
つまり、話が「正論」と「感情論」ですれ違っていて、全然噛み合ってないように見えるのだ。あくまで外野からはそう「見える」というだけの話で、実際もっと事情は複雑なのかもしれないけどね。
個人的には、もともと取材する側の人間だったこともあり、貴戸氏の側にやや厳しめの印象を抱く。彼女の「理論的にはまったく正しいが、取材対象となった関係者の神経を逆撫でしそう」な回答文を見ると、「正しいことを主張するのは構わないけど、そういうことやってたらこれから不登校の分野でフィールドワークできなくなるよ、あんた」と思ってしまう。人間ってば感情の生物だからね。ま、彼女の行為はそれも分かったうえでの計算ずくなのかもしれないが。
というわけで、オチなし・余計なお節介の雑感でした。上山氏が両者に取材を試みているようなので、その報告に期待したい。
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コメント
多忙な高給取りエグゼクティブのための10秒で分かる状況サマリ。
シュレ「さあ坊や達、ホットミルクを飲みましょう、体に優しいのよ。」
貴戸「おう、ボウズ、おっぱいなんか止めてコーラを飲もうぜ。うまいぞ。」
坊A「ううん、ボクは体にいいからミルクがいいよ。」
坊B「なにそれ、僕も飲む!」
貴戸「イイ子だ、ミルクなんか飲む奴はオシメの取れないションベンたれだぜ。」
坊A「orz」
シュレ「なんてこというの、キー!」
外野「ウホッ」
Priceless、つまり儲け話ではありません。
投稿: から | 2005/05/11 18:41
状況サマリ笑ったw
つか、ようやく把握できた気がします。感謝。
リンク先のエントリからは
不登校児って学校に行かなくて救われたんだけど
社会に出たらまた困ってみたりしてる。
学校が問題なんじゃなくて学校を含む社会が嫌だったんだ。
なんだってぇーーーっ!(AA略)
ていうか、それ言ったらシューレ立場無ぇし!
みたいな流れかと(我ながら浅薄だなと思いながらも)読み取ったので
そりゃ揉めるだろ、と。
炎上止むなしと。
落とし所が見えませんorz
で、運動系の人達を批評するのは難しいのね、という方はどうしたらいいんだろう…
投稿: plau | 2005/05/11 21:18
詳しく知らないんですけど、たしか木戸さんも「当事者」(不登校経験者)だったような・・・。だからますますややこしくなってるというか、内輪揉めというのか、外部からの批判や助言を受け付けないというか、犬も喰わないというか。
ただシューレ側は、単に放っといてくれというより、現在不登校に悩みなんとかしたいと考えようとしている親や子供を守る姿勢という意味で、否定はされたくないんじゃないでしょうか。知らんけど。
投稿: Cyberbob:-) | 2005/05/12 07:05
そんなもん、どっちの立場の人もいるでしょうよ。
シューレがどうにかしたほうがいい場合もあるし、貴戸氏がどうにかしたほうがいい場合も。
つーか、シューレがどうとか貴戸がどうとかじゃなくて実際に不登校やってる子供らが困ってんだから、そういう連中の声も影も見えない状態で勝手に頂上決戦やられても困るんじゃない?
どっかのおっさんがのこのこやってきて何勝手に主導権争いやってんだバカタレって拳骨したら終わりそうな気もするんだけどね。
ちょっと偉そうな立場になったらすぐコレですかアホは天然ですかそうですかって感じだのう。
人ってのは相争う生き物なんですな。
投稿: うんこ | 2005/05/12 07:26
犬も食わない残飯を漁っておいしいチャーハンに仕上げてふるまうシャッチョサンが生息するブログはここですか?
投稿: うんこ | 2005/05/12 07:35
とりあえず11年度までのデータですが、
http://www.gks.co.jp/y_2001/s-data/hutouko/01031501.html
不登校が社会から認知され、不登校を切実な問題として捉える親が減り、切実さに訴えかける「明るい不登校」の物語も賞味期限を切れたということか。
それよりも、当たり前になりつつある不登校によって当然起こりうる社会的不適合をどうするのかという問題がクローズアップされてくる、と。
では、学校で教えるはずの適合すべき社会、大きな物語とはなにかと問えば、それがじつはあやしくなってきてるんですね、というあたりがオチのような気もする。
投稿: Cyberbob:-) | 2005/05/12 16:05
平成16年度調査がありました。
13年を境に減少もしくは横ばいです。これまた何故?
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04073001/002.htm
投稿: Cyberbob:-) | 2005/05/12 16:49
上山和樹さんが双方に取材を申し込んだ件について。ただでさえも調査ゆえに苦しみ混乱している人や団体に対して、二重の責め苦を与えることになるのではないでしょうか?
調査と仲介は違うのですが、彼は気づいていないのでは?
投稿: ぱれいしあ | 2005/05/12 17:16
皆さん、コメントどうもです。
食いねえ食いねえゲロ吐きねえ>うんこさん
上山氏がどういう意図で双方に取材を申し込んだか僕には分かりませんが、少なくともシューレと貴戸氏とがもはや相対での交渉ではなく、ネット上という“公開の場”に自らの意見を晒して論争を繰り広げている以上、双方とも上山氏のような問題意識を持つ人間からの取材に応じる義務はあるでしょうね。>ばれいしあさん
公的な統計データだけから軽はずみな判断はしたくないとは思うのですが、個人的な感想を言えば、単に「文科省の定めた学校に通わない」ということを不登校と定義するなら、既に学校教育の現場自体が不登校を義務教育課程の1つの選択肢として実質的に容認しているという現実があります。その意味では、日本の小中学校は既に「義務教育」ではなくなっているとも言えるし、日本人のマジョリティが持つ"偏見"を基準に言うならば、むしろ大学までが実質的に「義務教育」化されているということもできます。かつてフリースクールが仮想敵としていたはずの社会システムのこのグダグダさ加減が、むしろ問題の所在を既にずらしていることが、今回の論争を「犬も食わない残飯」なさしめているものの正体ではないかと思うんですが、どうですかね。>CyberBob:-)さん
投稿: R30@管理人 | 2005/05/13 03:59
「当事者」各々の問題の所在は当然無数にあるでしょう。そこに全てアプローチできるのかすべきなのかというと、どうなのかと思います。個人に焦点を当てた瞬間に、人生は人それぞれ、で終了です。よほどのことが無い限り問題にもなりません。
「不登校は個人の問題です」そう言った瞬間に問題ではありません。犬も喰わないとはそういうことです。
ではなぜ不登校の論争は続きアプローチするのか、というと義務教育というシステムが現実にあり、逸脱として捉えているからですよね。
投稿: Cyberbob:-) | 2005/05/13 07:44
『企業の場合、いかに常人に理解されない独自の理念やらビジョンやらがあろうが、外部の社会とは商取引という等価交換を行っていかなければならないので、当然ながらそこには摩擦やギャップをある程度緩和する、あるいは埋める手だてとしての「マーケティング」や「コミュニケーション」が存在しなければならない。』について・・・これは信条の上下左右遠近に関係なく、政治団体や運動団体も同じですね。消費するのは献金者であったり、投票者であったりする。対価として金銭のほか物理的(ボランティア)または心理的(口コミや信条の伝播)労働を供与したりする・・・おっなじじゃないかなぁ。PPMとかはないだろうけどマーコムとか、リレーションシップ・マーケティングはあるっしょ。最近はワーキングプアとか言葉はやってるしネ。近未来からの手紙でした。
投稿: tc | 2006/08/05 00:38
ちょっと調べたら貴戸氏の方こそがハードコアな運動系だった~。対するシューレは国家予算も分けてもらってるようだし、エスタブリッシュメント寄り。問題を制度側にやんわりまるめて解消・昇華させるというのが趣旨なようだ。貴戸氏は社会学系のニューアカだね。コミュニストじゃなくてアカデミックということだけど。。。
投稿: tc | 2006/08/05 09:29