湯川氏はそのYOMIURI ONLINEのブログ機能実装記事を評して、
炎上しない程度に盛り上げる・・・。この微妙なバランス感覚をつかむことが大事なんだろうなあ。
と述べているが、トラックバック機能だけで盛り上げるのって結構大変だと思うよ、正直言うと。
眞鍋様や古田様のように、メジャー芸能人属性に許されるギリギリの下ネタで突っ走るか、そうでなければガ島通信ぐらいツッコミどころ満載の煽り記事をガンガン連打するぐらいでないと、トラバってそうそう集まらないし。そのガ島通信のnikkeibp.jpでの連載記事でも、TB数は最大で60本ぐらいでしょう。先週アップされた最新の記事に至っては、重複含めてもまだ11本しかないし。
でも、これってすごくポジティブに捉えられる話だと思っていて、要するに「ブログのトラックバックシステムを使えば、読者参加型にしても荒れない」ことが判明したわけですよ。いや、そんなこと分かってる人にはとっくの昔から分かってたんだけど、ネットに関しては決定的にリテラシーのないマスコミの中の人にも、それははっきり目で見て分かるようになったんじゃないかと。
今さら今さらのおさらい話なんだけど、コメントが荒れやすいのに何でトラックバックが荒れないかっていうと、
- コメントは「書く」→「送信ボタン押す」の2ステップで書けちゃうけど、トラックバックは「自分のブログ開く」→「書く」→「公開する」→「相手のブログのトラバURLをコピる」→「自分のブログのトラバ欄に張り付け」→「更新ボタン押す」っていう、6ステップぐらいが必要で、そのあいだに沸騰した意識が冷やされる
- 意見を言うにしても「自分のブログを通して」言うことになり、発言者の主体性が問われるので慎重になる
- 長い意見を書いても相手のブログでは2~5行程度しか表示されないので、読む側が「TB先のブログに対する意見」として感情移入して読むよりは、「関連トピック」としてざっと斜め読みするため、煽り記事に対するハレーションが起こりにくい
などの要因があるわけだ。
分かりやすく言うと、トラックバックは「書き込み者の主体性(=発言の連続性)を明らかにする」「そのページの主体(ブログ主)以外の発言は機械的に途中カットされる」という2つの効能を持つが故に、無責任な殴り書きコメントの殺到、つまり「荒らし」を抑制する効果を持つ。ただし、書き込みに対するハードルが(手順と主体確認の両面で)高くなることによる効果の代償として「盛り上がらない」という副作用もあるわけで、これが湯川氏のつぶやきの原因だと思う。
で、僕は前からこのMTの「コメント≠トラバ」という分離の機能にすごく違和感を持っていて、何でこの2つの機能を分離させたものとして持つんだろう、何で誰も両方のメリットをうまく取り入れた新しい機能を作らないんだろう、ずっとそう思っていた。
いや、正確に言うと、実はこの2つのメリットをうまく合わせたCMSを、ブログの草創期に見たことがあるのだ。覚えている人がいるかもしれないが、2年ほど前に「リネージュ」というオンラインゲームのユーザーサイトで「リネージュ記者クラブ」というのが存在した。
このサイト、今から思い返しても非常に良くできたCMSで、一定頻度以上訪問してサイトを巡回している読者に対し、予告されないタイミングで、あるCookieを発行するという仕組みになっていた。
このCookieがコメント書き込み者の個人認証として使われるようになっていて、Cookieを持たない読者(過去1ヶ月以上そのサイトを訪問したことのない読者)は、コメントができないようになっている。また、例えばある記事にCookieを持っている読者がコメントを付けたとする。するとコメントの横の小さな吹き出しアイコンが表示されて、それをクリックすると、その読者が過去に書き込んだコメントが全部一覧できるようになっていた。
要するに、「リネージュ記者クラブ」の掲示板システムは、個人情報を取るわけではないがユニークユーザーの認証をかませることによって、手間をかけずに書き込めるコメントでありながら主体性(発言の連続性)は担保するという仕組みだった。
残念ながらトラックバックのもう1つの機能である「長い発言の自動省略」機能はなかったので、それでもコメント欄が荒れる傾向は完全にはなくならないようだったが、たぶんその機能が実装されていれば、せいぜい数千人が参加するサイトでありながら荒れることなく2ちゃんねる並みの盛り上がりが演出できるサイトになっていただろうと思う。ちなみに「リネージュ記者クラブ」は、個人ユーザーの管理していたサイトだったため、そのユーザーが運営に「飽き」た時点で閉鎖されてしまった(正確に言えば、他の有志に引き継がれて、現在は「リネージュ2記者クラブ」として存続しているが)。
話を元に戻すと、この「メディアビジネスのバリューチェーン」という連載で、僕は「ネットジャーナリズム」あるいは「参加型ジャーナリズム」のスタートアップを予想して、というよりは、むしろ既存のマスメディアがネットにおいてもうまくユーザー(読者)と親和していくためにはどうすべきか、ということを念頭に置いてきた。
メディアが生み出す「価値」には、読者に対する価値以外に、広告主に対する価値というのもあるのだが、それを読者層へのリーチだけに単純化すると、結局どれだけ狙った層の読者にコンテンツを読んでもらうかに還元されるので、ここでは議論はしない。
以前に書いたが、「難しいことは考えたくないから、とりあえずおたくの一定の価値判断に基づいてまとめた情報だけよこしてくれ」という読者層(無思考ユーザー)は、今も昔もマスコミのロイヤリティ・ユーザーであり問題ない。だけれど、自分でネットやリアルからデータを集めて事実の真偽やマスコミによる編集の価値判断の是非を検証できる、またはしようとするユーザー(積極思考ユーザー)は、もはやマスコミがパッケージで提供する情報だけで納得しない。
それでもマスコミ情報を「参考資料」としては必要とする人はまだいいが、ずさんな取材や偏った価値判断による編集に我慢できなくなった人は「ネットがあるからマスメディアは要らない」と愛想を尽かして購読を止めてしまう。広告価値として「リーチが減る」ことは単純にマイナスだから、もし新聞や雑誌の収益を維持したければ、こうした人々を媒体に引きずり戻すことだけ考えればいい。
といったことから僕が考えていたのは、左図のようなメディアのバリューチェーンの再構築(デコンストラクション)だった。
要するに、これまでマスメディアの内部機能(つまりコストセンター)の1つだった「編集」を、外部に対して価値提供する機能(プロフィットセンター)に変えてしまうというアイデアだ。ついでに「取材」という機能も、コストセンターであることは変わりないが、それ自体も外部とミックスして機能をアップさせることも可能だろう。そして、これらはすべてブログなどのインターネットCMSによって可能にできる。
「編集」の機能だけを独立させてどうやって収益化するんだ?と疑問に思われる人もいるかもしれない。だが、「積極思考ユーザー」という人種の読者からすれば、自分の意見が「投書」というかたちだけではなく、記者や編集者との議論というかたちでメディア変革に反映される(かもしれない)という権利が、その成果物である「媒体」の購読に付随していれば、「参加」してみたくなるものである。
あるいは、自分の意見が反映された媒体が発行されていたら、それを周囲の人間に購読させたくなる人もいるだろう。メディアの中の人間だってそういう経験はあるに違いない。かつて大手の新聞に投書が掲載されるとなると、掲載号を知人友人が競って買い求めたりもしたものだ。僕の父母だって、僕が記者をやっている間中、頼みもしないのにずっと僕が仕事をしている雑誌を購読していた(笑)。要はその感覚を、なるべく多くの人に持たせればいいだけのことなのだ。
ということは、マスコミの編集に対して特にたくさん良い提言をしてくれ、あまつさえ周囲の読者獲得までしてくれる「スペシャル」な読者(ブロガー)には、それなりのチップを出したっていいわけだ。投書欄に載るだけで500円の図書券を送っているのだから、毎日ブログで編集に的確な提言を寄せてくれるブロガーに対しては、月1~2万円払ってあげてもいいぐらいの感覚でいればどうだろう。どうやってそのコミュニティーを作るかは、上で紹介した「リネージュ記者クラブ」のシステムが参考になる。
ここで以前に書いた「編集権」の話にも飛ぶのだが、結局のところマスコミの経営者というのは自分があまりにもマネジメントとしての能力がないゆえに、その権力が経営者ゆえではなく「編集権」という伝家の宝刀の保持者であることでしか維持できないと分かっているから、この編集権をことさらに振り回そうとするのである。しかし、本来編集権の権力は「民主主義」の名の下に記者ならびに一般読者に与えられるべきものであり、自身がまともな組織経営もできない経営者に与えられるべきものではない。
湯川氏は何だか韓国や米国で起こっているようなネットジャーナリズムあるいは参加型ジャーナリズムの日本での出現を絶望しているかのようだが、そんなに悲観的にならなくても良いのではないかと思う。別に、儲かりもしないネットだけのジャーナリズムなんて、雇用の吸収力がないのなら無理矢理出現する必要もない。
むしろ北海道新聞の高田昌幸氏が最近書いているように、憲法改正や性犯罪者監視を口実としためちゃくちゃな人権弾圧が平気な顔をしてまかり通るようになっているのを見ると、僕はマスコミが本来戦うべき領分からどんどん外れていき、はっきり認知できないがゆえにより恐怖を感じてしまうネットユーザーの圧力に対抗するかのように、こうした「編集権」を頑なに囲い込み続けることで、結果的には一般読者の意識から彼らのポジションがかい離していくことを深く憂慮する。
もしかして、「権力の横暴に楯突く」という本当のマスコミの役割がどんどん機能不全になっていけば、ブログどころでは補えないほど取り返しのつかない社会的損失が生じるのではないか。「ここで戦わずしていつ戦うのだ、記者諸君よ、権力に立ち向かえ!」と鼓舞する人々の声が、マスメディアの中枢にきちんと届かなくなっていくことの方が、僕にはずっとずっと恐ろしく思える。
最後になんだかわけのわからない文章になってしまったけれど、僕はこの連載を決してカネ儲けのためだけに論じてきたのではないということが、最後に分かっていただければと思います。マスコミにいる皆さんは、たぶん8割ぐらいおカネの問題で日々頭を悩ましているのではないかと思うけれど、松下幸之助も言った「先義後利」(商売とはお客に喜んでもらうもの。理念を追求すれば、儲けは後からついてくる)の言葉を忘れないでほしいと思う。
ちなみに、過去の連載コラムは以下の通り。皆様これまでご愛読ありがとうございました。
ブログと情報強度(その1)ブログという“公共圏”
ブログと情報強度(その2.5)ネットという“思考の枠組み”
ブログと情報強度(その3)ローエンド破壊されるマスコミ
メディアビジネスのバリューチェーン(その1)
メディアビジネスのバリューチェーン(その2)
メディアビジネスのバリューチェーン(その3)
メディアビジネスのバリューチェーン(その4)