在京キー局の株持ち合い問題をIR的に考える
FPNの佐藤賢也氏からのトラックバックで、在京キー局の株式持ち合いの話を知った。元ネタはNIKKEI.NETのこの記事。テレ朝の社長が、キー局5社でお互いの株を2%ずつ持ち合い、それぞれ8%の安定株主を確保しようと提案したというもの。佐藤氏は「プロ野球以上の村社会」「業界丸ごと引きこもり作戦」とコテンパンに断罪している。短いエントリなのに面白く読めた。
コテンパンにした方が痛快なのは確かなんだが、僕は「8%程度でそこまで言うこともないんじゃないの」と思う。この話は別にテレビ局やマスコミだけの問題ではなくて、日本企業が多かれ少なかれ抱える問題でもあると思うからだ。
この問題に関しては、ライブドア騒動の総括として、あちこちでいろいろな人が論じているので、少しまとめておこう。
まず、上場テレビ・ラジオ局の株主構成については、とーます投資研究所の「上場している放送局の株主は?」というエントリに詳しい。テレ朝、テレ東、日テレなど、新聞社が親会社にいるテレビ局は、33%以上をこれら未上場の親会社が持つことが多い。
例外はTBSとフジ。TBSは毎日系列ということになっているが、公表されている上位10株主を見ても金融機関ばかりで、毎日グループの顔はほとんど見えない。外資19.99%と書いてあるが、第三者が株主判明調査をかければおそらく完全に外資の割合が3分の1を超えているだろう。そして、フジテレビはご存じの通り。ちなみに、LF保有分の株式を誰にも譲渡せず完全に消却したとすると、筆頭は東宝の7.3%になる。
ちなみに、報道機関の株式保有に関しては、先日のGLOCOMシンポジウムでの切込隊長のコメントがインプレス・ウォッチのレポート記事に出ていた。隊長のコメントのポイントをまとめると、
- 欧米ではクロスメディア(メディアが他の種類のメディア企業の株式を保有すること)は禁じられている(日本でもそれを禁じるべきではないのか)
- 電波は公共の資産であり、外資など資本の論理で自由にしていいものではない。外資規制をはじめ、公共性の機能の定義とそれを守るためのルールを政府がきちんと決めるべき
で、僕の考えだが、これは口にするだに無意味な話なのかも知れないが、問題は結局日本と欧米という、彼我の資本市場の層の厚さの差の問題である。
米国ではもちろん実際にメディアの外資規制はガチガチなものが存在している(そしてそのこと自体を米国人自身がほとんど知らない)のだが、一方でテレビ局も新聞社も主なところは株式を公開していて、特段のメディアコングロマリットを形成しているわけでもないが、やはりその媒体の社会的な役割まで含めて理解した上で年金基金や個人投資家が相当割合の株式を安定保有しており、よこしまな意図を持った誰かが買収しようと思ったり、記事内容や事業展開に株主の影響力を及ぼそうとしても、そうは問屋が卸さないようになっている。
これに対して、日本は個人投資家の層がそこまで分厚くなく、年金資金もサラリーマン運用しかされてないから、社会的な意味まで考え抜いた株主の責任など果たしようもない。でも、だから持ち合い、だから非上場という逆行が許されるかというと、もはやそういうレベルの話でもないわけで。
テレ朝社長の言っているのは、おそらく現行外資規制(20%)に抵触しちゃう部分は緊急避難的に業界内持ち合いしましょうぐらいの意味だろうと推測するし、8%という数字を見てもほぼそれ以上の実効性はない。むしろ、地上波デジタル化の投資負担を全部株主になすりつけたくてそのへんの事情を全部黙って上場し、企業としてのビジョンを伝え、個人投資家を取り込もうといったIRを怠ってきた各社の稚拙な経営のツケが、結局ここにきて一気に回ってきたと言ってもいいんじゃないかと思う。
よく考えたら、本当にテレビが社会にとって必要だとみんなが思っているのなら、そういう人に株主になってくれと必死に呼びかければいいわけだし、それってテレビ局にとってはいとも簡単な話なのだ。少なくとも他の事業会社がどうやって投資家に自らの声を伝える機会を作るか、必死になって知恵を絞らなきゃいけない時に、テレビ局はCMの空き枠使ってあっさり自社広告できるわけだからね。あるいは広告主たる大企業にもってもらったっていいと思う。
そういう努力をしたうえで、それでも一定以上安定株主が確保できないというなら、ポイズン・ピルでも黄金株でも何でもやればいいわけですよ。でも、その前に総務省にどうこうって言う隊長の意見は、欧米はそうだぞっていう話があるとしても、やっぱりちょっと違和感がある。
というのも、欧米と違って日本の官庁は電波の割り当てだけじゃなくて、放送免許という許認可権も持ってるからね。もし国民国家としてわきまえるべき「公共性」を逸脱するようなことを買収されたメディア企業がやろうとしたら、少なくともテレビ・ラジオ局に関しては許認可を取り消せばすむだけの話だし。むしろ問題なのは「報道の公共性」とは何かという議論を、これまで誰もが棚上げしてきた現実じゃないかと思う。
どうせならせっかくの機会だし、この際テレビやラジオだけじゃなくて、一度新聞や雑誌、さらにはインターネットも含めた「報道機関の公共性」について、必要要件とそれによって認められる権利の範囲をきちんと議論すればいいんじゃないの。そしてそれを明らかにしておけば、記者クラブ問題とかプロバイダー責任法からさらに踏み込んだネットコミュニティーのルールとかも明確になると思うけどね。
これだけ材料がいろいろ出たんだから、本当はそういう議論をこそ、政府ではなくマスメディアが率先して国民会議みたいなものを設置してやらなきゃいけないと思うのだけれど、今の日本のマスコミを見てるとまさに彼らだからこそそういう議論はしないだろうという気もする。というわけで、結局のところこの話について僕もほとんど諦観しか持ち得ない。
本来ならこの手の議論は民間がやらなきゃいけないことではあるけど、おそらく頭の良い官僚がちょこちょこ根回しして、官主導で進むんだろうな。それもまた日本という国のあり方というべきか。願わくば、その際にインターネット住民の存在が考慮されますように。
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コメント
資本の関係としては大したことが無いのか知らん。
でも「これからはお互い他人事じゃないって事でひとつよろしく」つう感じで気持ち悪いかな。
投稿: なるほど | 2005/04/27 18:03
日本のマスメディアは「統治のツール」の座に胡座をかき愚民化政策の尖兵として雁字搦めの規制の中で醜く肥え太った豚である、とこう仰りたいわけですね?(違
マジレスすると、テレビも新聞もラジオも雑誌も同時に保有する5つの巨大グループが政府主導で作られて何十年もそのまま寡占、その他のジャーナリストは記者会見からも占め出し、なんてマトモな民主主義国ではちょっと考えられなーい(除イタリア
投稿: き | 2005/04/27 21:13