知のバランサーを欠く社会 ~北田暁大「嗤う日本のナショナリズム」雑感
エイプリルフールネタをトップから外すためだけのヒマネタをぼんやり考えていたんだけど、なんか少し深刻な話になりそうな予感。
今日、Amazonから北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)が届いて、それをつらつらと読んでいた。本の感想はまた今度書いてみたいと思うが、昨日あったいろいろなことを頭の中で反芻していて、ふっと思い浮かんだのが以前に「首都大学東京」に関するブログ界隈の論争が巻き起こったときに読んだ、内田樹氏のこの記事である。
内田氏のこの記事の最後に以下のようなくだりがある。
教育というのはつねづね申し上げているように、ある種の「幻想」をビルトインするかたちでしか機能しない。この文章の「教育」というところを「マスコミ」、「学び」というところを「ジャーナリズム」あるいは「ニュースの購読」とかに置き換えて読むと、そっくり今のマスコミの話に当てはまるような気がするのだ。
そこに行けば、何か素晴らしいことがあるのではないかという(しばしば根拠を欠いた)思い込みが若者たちをして教育の場へ足を向けさせる。
「数値」によってひとは学びを動機づけられるわけではない。「幻想」によって衝き動かされるのである。
藤代氏@ガ島通信がnikkeibp.jpで立花隆と並んで連載を始めたことの意味をぼんやり考えていたんだけど、結局マスコミが企業として存立しえていたのは、彼らが発するニュースが信頼に足るものである、もっと言えば記者というのは信頼できる人種である、という幻想が社会にビルトインされていたからだ。少なくとも、日本のマスコミはそういう幻想性を仮定して商売を構築してきた。特に朝日新聞は。
だけど実はこれって特殊な状況なんだと思う。海外に行くと、国によってはジャーナリストというのをウジ虫以下の職業と思っているところが少なくない。少なくともジャーナリストは「知的な職業」ではないと思われている国は、決して少なくない。
僕はどっちがいいとか言うつもりは全然ない。その国の文化によって、何により価値を置くかが違うのは当然だ。日本の方が優れているとか言うつもりもないし、海外が「普通」とか言うわけでもない。問題は、そういう文化的な価値観の体系の中に置かれたマスメディアが、企業としてどういう収益モデルを築いているかということだ。ウジ虫にはウジ虫なりのカネの稼ぎ方があるわけで、ウジ虫的な扱いを受ける国では戦略的にウジ虫的立場を利用するだけのこと。
で、週刊朝日が武富士から5000万円もらって「広告」と一言も言わずに収益にしていた件について、極東ブログでは「朝日新聞社はすでに自社の統合を喪失した状態」なのではないかと語っている。この「統合の喪失」という言葉をどういう意味に取るかが問題だと思うのだが、それは恐らく一言で言えば「言論の一貫性」というよりは「経営の一貫性」が失われている、という意味なのだろう。
このことは、id:kanryo氏の「霞ヶ関官僚日記」で紹介されている昨年8月の「くまりんが見てた!」の「朝日新聞編集部の方に聞いてみました」の記事を読むと、何となく実態が伝わってくる。要するに彼らには(過去に)国民を思うとおりに引っ張り回して新聞を購読させるのに成功していた「イデオロギー」のパワーが落ちていることの自覚はあるのだけれど、一方で「購読部数が落ちている」という経営上の現実にどう対処して良いのか分からず、仕方なく既に朽ちかけている「イデオロギー」にさらに強くしがみつくしかないという状況に陥っているのではないかと思うわけだ。
昨日も書いたが、大学やマスコミというのは所詮「ニッチ産業」であって、自動車のように取引業者のすそ野がばかでかいわけでもないし、家電のように我々の生活の利便性にクリティカルにかかわるわけでもない。存在しなければしないで、弱小ライターや零細編プロやしがない非常勤講師が食い扶持を失うだけで、それ以上世の中の誰も困らない。
だが、今問われているのは「本当に、本当に大学やマスコミは『なくても困らないから切り捨てて良い』と言えるのか?」という命題だ。
このまま「知のバランサー」としての国家装置が次々とこうした経営不全によって失われていくようなことになると、北田暁大が言うような20代以下の「誠実であるべき自分の実存」と「国民国家という究極の恣意性」を単純に重ね合わせる「クボヅカ的知性=実存+ロマン主義的短絡ナショナリズム」を中和するものが、なくなるような気がする。
もちろん僕はそれが武富士から5000万円受け取ってしまうようなモラルハザードを起こした従来の朝日的イデオロギーによって中和できるとは既にまったく思わないのだが(そしてこのことも既に北田暁大は指摘しているが)、だからといってこの社会から「知のバランサー」を全部消去してしまっても良いということにはつながらないだろう。
だが、現実はまさにそちらの方向へ進みつつあるのではないか。それは、企業としての朝日新聞社がダメになるという意味ではなく、既に「朝日」というラベルの付いた言説は何であろうと信用しない、という思考回路の形成において。
「権力者に誰がなろうがそれは雲の上の話、我々の生活には関係ない、と日本人の多くが思ってきた。だが、権力者の誤りによって最も被害を受けるのは、誰あろうこの我々自身である。そのことに日本人は早く気づくべきだ」と、作家の塩野七生は言った。
彼女は93年に55年体制が崩壊して成立した細川内閣以来の政治の混迷、頻繁で節操のない元首の交代を見てこの言葉を吐いたわけだが、これはそのまま「第四の権力」とも言われる今のマスコミの状況に対しても言えるのではないか。ただ、問題は政治家は国民が投票で選べるのに対し、朝日新聞社という一民間企業の経営陣は投票などの民主的手段によっては選べないということであるが。
あまり書いちゃうと藤代氏@ガ島通信のnikkeibp.jpでの連載のネタがなくなってしまうかもと思ったのでこのへんでやめておくが、マスコミ(特に朝日的な立ち位置に近かったという自覚がある媒体)ほど、イデオロギーに代わる「信頼確保のメカニズム」を編み出す経営努力が、今一番必要とされている気がするんだよな。
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コメント
あー、目が、目が、チカチカする。
うー、幻想で、教育現場をカモフラージュしては、いけないよ。
目が覚めたときのショックって、それが、ニートの原因かもしれない。
東大は、意外と、現場には、入試からはじまって生活もふくめて、
幻想はないみたいだし、その点は、第三者として信頼している。
ただ、多くの生徒は気がつかず、そのまま幻想社会に組み込まれるみたいではあるね。
そもそも、大学教育に終わりがないのだから、
それこそ、教授たちは、せっせか、学習機会をブログで出せ!
インターネットだって、本来、学術研究のツールなんだから。
投稿: 野猫 | 2005/04/02 07:28
最近切込ブログが面白くなくなってきたのでこっちを荒らします。今後とも宜しくお願いします。
投稿: うんこ | 2005/04/02 08:37
いつも拝見しております。「幻想」という言い方はある意味、第三者への照れの表現なのでしょう。「理想」とか「未来を構想する力」とでも言ったほうがいい。「理想」が失われていく一方、選良意識だけが突出していくシーンもありえるでしょう。形骸化した古いイデオロギーから自力で離脱し、存在意義のレベルから再構築をかけないと、無残な金儲け集団になるしかなくなる、ってことなのでしょうか。形骸化した古いイデオロギーは、意外にも裏金と親和性が高い、ということが分かっても、次の一歩が出ないまま時間だけが過ぎていく、ということ。戦後マスメディアの最後のステージ、なのでしょうか。あの会社には知人も多く、ちょっと深刻です。
投稿: miyakoda | 2005/04/02 08:45
>だけど実はこれって特殊な状況なんだと思う。海外に行くと、国によってはジャーナリストというのをウジ虫以下の職業と思っているところが少なくない。少なくともジャーナリストは「知的な職業」ではないと思われている国は、決して少なくない。
↑少なくとも私の中ではデフォルトな感覚であったわけですが。非国民ですかそうですか。
ジャーナリストと広告屋の境目なんて、もともと曖昧なものですよ。両者に明確な区別があると思っているようなら、それこそ洗脳済みというか幻想的というか。末端のクソ会社でもいいから情報産業社会に就職してみれば? 想像以上にクソ満載で驚くことのほうが多いですよ。
現地取材を一回もしないで電話一本で相手の発言鵜呑みにして記事書くなんてしょっちゅうだし、インタビュー記事でテープ起こしした生原稿と掲載時の文意がじぇんじぇん違うのもしょっちゅうだし、編集者チェックが何回も入ってるうちに著者の意向や面子が丸つぶれなんてことも日常茶飯事。
プレスリリースの文面をテキトーにいじって、さも自分が書いたように見せかけるなんてのは初歩の初歩。それができなきゃ、まず三文ライターとしても食べていけない。そういうもんですがな。
そういえば昔、知る人ぞ知るシブ○ワ・コウのゴーストライターやってたこともありますなぁ。1回だけだけど。懐かしいですなぁ。
そんなもんですよ。
投稿: うんこ | 2005/04/02 08:52
>最近切込ブログが面白くなくなってきた
それは、重大な問題だ。
R30チン出番だ。
こんなことが起きていいのか?
もし、R30チンがどうにもできないなら、
ワタシがコメンテータとして乱入するかぁ?
ただなぁ、怖いし、すぐ埋もれるだろうし。
やっぱり、解決できるのは、R30チンしかいない。
ときたま、隊長が助け舟を求めてくるのは、そういうことか?
投稿: 野猫 | 2005/04/02 09:09
「大学すなわち教育現場」だと思うとつまらないけど、学術研究機関だと考えれば、あまり心配する必要ないんじゃないのかな、産学連携が否応なしに進むだろうし。
それと、新聞は活字主体だから知の部分で勝負せざるを得ないところがあるけど、テレビなんてヘリ飛ばして中継車回してなんぼの世界でもあるのだから、新聞、テレビひっくるめてどうよ言われてもねぇ。
ガ島さんもそうなんだけど、活字メディアの話とテレビやラジオなどの視聴覚メディアの話はちょと区別して議論されないとしっくりこないんですけどね。
生の映像や音ならば、少なくともそのもの自体が偽りである可能性は少ないでしょうし。(編集されたものは別ですけど。)生を大事にすれば、まだまだテレビやラジオの優位性は保たれるんじゃないでしょうか、信頼確保という意味でも。
投稿: antiECO | 2005/04/02 09:09
>だが、権力者の誤りによって最も被害を受けるのは、誰あろうこの我々自身である。
「権力者の誤りによって、利益を受けるのも我々自身である」とも言える、実際利益を受ける人も多数いるのだから。
それと、すべてのマスコミが、国民のマジョリティに認められ、かつ間違ってない(信頼が確保されている)としたら、それって、どれも内容が同じってことで、結局1社だけでいいやってことになるけど、それでいいんかいな。それとも米国みたいな、民主党+支援メディア、共和党+支援メディアみたいな形態に日本も落ち着くってこと?
国民性考えるとどうなんだろう?
投稿: antiECO | 2005/04/02 09:24
コメントどうもです>皆様
北田氏の本を読んで僕もちょっとそこを注意しなきゃなと思ったんですが、活字媒体というのはある意味ブログとリニアなところにあるので、批判も可能だし受け止めも可能なのですね。つまり「活字」において双方向が可能という気がするんですよ(現実にはまだ違うけど)。
しかし、テレビというのはそういう活字媒体のパラダイムを超えたところに存在し、批判のメタレベルももっと複雑なのです。自分ではきちんと意識していたつもりではいるのですが、やはりここの点を誤解されやすい。だからマスコミに対して何かを言う時には、「これは活字メディアに対する批判言説です」ということをこれからもう少し強調していかなければいけないのかな、と思いました。
あと、antiECOさんの
> すべてのマスコミが、国民のマジョリティに認められ、かつ間違ってないとしたら、それって、どれも内容が同じってこと
っていう部分ですが、そんな乱暴な。セグメンテーションという言葉は何のためにあるんですか。米国だって、あらゆるマスコミが共和党か民主党かのどちらかについてるなんて簡単な構造ではないと思いますがね。フランスなんてもっとそうでしょう?>antiECOさん
投稿: R30@管理人 | 2005/04/02 10:12
> 鹿内信隆の本を読んでたら、この人が産経新聞の社長に就任した昭和43年に「新聞社というものは虚業の最たるものだ」と発言していて、笑ってしまいました。
http://home.interlink.or.jp/~5c33q4rw/nikki/2005z_03.htm#22
投稿: 虚業 | 2005/04/02 13:16
幻想ですか、確かにそうかもしれない。
厄介な生き物だわ、人間ちゅうのは。
今日も仙台で変な事件があったけど
ああいうのも幻想の崩壊から来てるのかもしれない。
いい意味で幻想が持てないっていうのは、孤独と繋がっていくんではなかろうか。
孤独に気付いてしまうっていうか、その時にショックというものはきついかも。
投稿: 夢見る人 | 2005/04/02 16:28
レスありがとうございます、r30さま。
ええ、暴論です、いや、日本のマスコミの方々がヒヨって、どこかの政党(複数)みたいに国民に迎合(ご機嫌取り、人気取り)し始めたら、極論としてどれも同じになっちゃう可能性もありなのではということで。どうも、最近の日米英での議論ってyesかnoか見たいのが多い感じがしてちょっと嫌ですね、「国民を二分して議論が白熱」みたいなのはちょっと危険な感じがします。(ライブドアvsフジサンケイもその典型で。)
フランスはそんな他人の顔色なんてちょっとしか見てませんし、その主義主張は明確かつ強固ですからね。右派、左派、環境派、動物愛護派、市民派、人権派などなどいろいろだし、それぞれが対立の構図にもならないので。
それと、日本人の多くの人は、マイケル・ムーアの映画のせいで、米のプレスはそんな感じになっていると思ってるんではないですか、実際は私も違うと思うんですけど。
投稿: antiECO | 2005/04/02 17:41
>北田暁大が言うような20代以下の「誠実であるべき自分の実存」と「国民国家という究極の恣意性」を単純に重ね合わせる「クボヅカ的知性=実存+ロマン主義的短絡ナショナリズム」を中和するものが、なくなるような気がする。<
85年生まれで左→右の遍歴を辿ったものとしては、なかなか的確な論理だと思いました(笑。ちなみに北田氏の本は未読です)。
R30さん言うところの「マスコミの幻想性」にも絡む話だと思うんですが、
左から右に行って「俺は現実を認識したんだ!」と思い込んでいるウヨクな若者が、
実は左だった時代と全く変わらぬピュアで幼稚な虚構的ロマンチズムに耽溺してるだけだってことに気がつかない、
気がつけるような構造が出来上がっていないってとこが、最大の問題だと思うんですけども。
個人的な思いですが、リベラルを名乗って言論を行う30代以上の方々には、
今の朝日新聞的な偏狭な左翼主義では無くて、右っぽい若者すら受け入れて「現実を知れ」とそっと伝えられるような
懐の深さが欲しいなあ・・・と願っています。「現実」にはそれがなかなか難しいのでしょうけど。
投稿: うぼし | 2005/04/02 18:43
「第4の権力としてのマスコミは必要である。マスコミをつぶしてはならない。
しかし、そのためには、マスコミの代表的存在・朝日はつぶれなければならない。」
さあ、このパラドックスを、どう解く?
朝日新聞に自浄能力があれば、即解決なんだが。。。
投稿: 平手 緑 | 2005/04/02 18:55
>うぼしさん
ロマンチズム→ロマンチシズム、但しロマン痴ズムは可。
なお、ロマンチシズムとした場合、これは「ロマン主義」もしくは「空想的気分」を意味するので、文章を置き換えると意味不明にですよ。
朝日新聞がレフトサイドに位置するとすることには異論はないが、「偏狭な左翼主義」はやはり意味不明。
>R30さん
よって、「ロマン主義的短絡ナショナリズム」の用語解説が必要ではないかと。
投稿: antiECO | 2005/04/02 19:23
本当に隊長はどうしちゃったんでしょうねえ・・・。
投稿: 三島八雲 | 2005/04/02 19:30
>平手緑さん
広告依存体質からの脱皮は可能か?日本国民は言論、情報の入手にそれなりの対価を払う体質があるのかということと表裏一体ではないかと。
ネットの未来を考えれば、「新聞社→ニュース配信会社化」という手もあるが、一部のIT企業によるニュース購入、配信という姿はあまりにも危険かも。
いくら、ニュースをそのまま流すと宣言されても、巨大なフィルターが存在するし、その企業への批判、指摘記事が書きにくい(購買拒否)状況となる危険性があることは、現在の一広告主との関係を見ても明らかどころか、さらに厳しい状況に。
ポータル運営企業がその「公共性」を証明、もしくは法的担保・規制などを受けない限り、大きな流れとしての移行は困難かと。
投稿: antiECO | 2005/04/02 20:01
・蚊屋
・テレビを見るとバカになる
…私も非国民ですかそうですか。
投稿: romの人 | 2005/04/02 21:36
マスコミのこれまでの恣意性について背景、それが経営方針の混乱から来ているのではないかという各人の論旨に直感的に疑問は感じない。
ただ日本におけるジャーナリズムは良いイミで職業病みたいなくくりでないかという気が最近している。そしてマスコミのムニャムニャは、これは極端な人を除いて「イデオロギー」ではなく「ブランド」なんだと思う。であるから、バランス(何のバランスだ?)が破綻するかといえば、そうともいえないんじゃないかと。
ただ読み違えの感ありだが、あくまでも内輪の論議で「知のバランサー」=「マスコミの恣意性」
朝日は経営努力したほうがいいんじゃないの?って言うのはべつにいいとして、
某弾道氏の定説「誰でもジャーナリスト」というすばらしい未来(w、はどうなんですか?と
また知の総体が退化するとは思えないので、すみ分けしたもの同士の力関係で今後バランスが決まるのではないか?という意見もあろうし、結局エリートと落ちこぼれとが一緒に仲良く暮らせるかというと、そうではないような気もするので、強者と弱者の関係、世間の流れではないかと、
さて唐突ですが、10年後どんな世の中になってるんでしょうね。
投稿: とらお | 2005/04/02 23:36
そんなことはいいから助けてくれ
投稿: 切込隊長 | 2005/04/03 00:46
都立大はいい悪いは別として民青の巣窟でしたからね、石原様の逆鱗にふれたのでしょう。それ以外には考えられない。(苦笑い)
投稿: 大澤遼 | 2005/04/03 01:12
>そんなことはいいから助けてくれ
投稿者: 切込隊長 (April 3, 2005 12:46 AM)
うんこあげる。た~んとおたべ。
投稿: うんこ | 2005/04/03 01:39
>そんなことはいいから助けてくれ
ひかり荘見てたら欲しくもなるわな、エサぶら下げちゃうんだから。富士山系よりは妥当な線かもね。お疲れ様です。横澤さんかぁ...
投稿: antiECO | 2005/04/03 02:09
昔はブンヤ・物書き・芸術家は社会のゴミだとまで言われていましたが
いつの間にやらすっかり偉くなったものです。
私も3冠目指してがんばります。
投稿: 猫手企画 | 2005/04/03 06:14
>そんなことはいいから助けてくれ
R30チンの愛は、どうなった?
愛をこめて、ここのデザインを隊長と同じ、
緑地にシロヌキにするのはどうじゃ。
読みやすいし。
そうだ、R30&切込隊長、雑談ブログを共同運営。
ただ、おしゃべりのバトルを繰り広げるだけ。
対話ほど面白い見世物はないのじゃ。
で、だ、緑地と黒字が交差するのだけはやめてけれ。
投稿: 野猫 | 2005/04/03 06:24
横溝ってどぅわんごの?
投稿: あ | 2005/04/03 23:52
内田先生は首都大の記事も直近の大衆論の記事も信用できないなあ。
首都大の偏差値が下がって受験者が増えるのは事前から容易に予測できること。
大衆論のニーチェとオルテガへの言及も悲惨な間違いだらけ。
もはやネットでひとに見せるための講談芸。
こういう爺さんたちが一番の不良債権じゃないかと。
(ネットのBlogでこういうふうにバカ炸裂している爺さんが結構いますが)
投稿: 内田先生の大嘘炸裂 | 2005/04/04 03:34
私が学生だった15年くらい前の話ですが、「輸入自由化などに対する地方新聞の社説は、(農業に多くを負っている)地方の利害を代表しているので全国紙の論調と全然違う。全国紙だけがメディアだと思っていてはいけない」といっておられた先生がおられました。
本当はそういう多様な利害関係がもともとあって、「公平無私な報道がある」という幻想がそれを覆ってきたのではないか、と思います。日経を入れて全国紙が5紙あるというのは、本来多様な地方紙が占めるべきシェアを全国紙が食ってしまっていた、とも取れます。
「いろいろあるよねえ」じゃなくて、「いま、自分はどういう判断をするか、その重みをどう受け止めるか」を自覚できる大人を育てるのが私たち高等教育機関(大衆化を強調する表現を選べば、中等後教育機関)の仕事ということになりますが。
投稿: 並河 | 2005/04/05 11:40