さて、これまで「ブログと情報強度」というタイトルで3回のシリーズを続けてきた。そして前回(その3)の最後で、メディアビジネスのバリューチェーンの中でマスメディア企業が果たす役割が大きく変化するだろうと書いた。
今回からメディアビジネスのバリューチェーンについて、さらに突っ込んで考えてみたいと思う。そこでタイトルもそのように変えた。
前回のエントリのトラックバックやコメント欄でいろいろな意見もいただいた。1つ1つ答えたいところだが、今の僕にはそれだけの時間と気力がない。ごめんなさい。単刀直入に話題に入りたい。
最近、大手の新聞やテレビが(僕自身は新聞もテレビもほぼまったく見ない生活を送っているので知らないのだが)しきりにブログを攻撃してるらしい。トラックバック及びコメント欄でkagami氏が怒りまくっていたフジの「報道2001」は見てないのでよく分からないが、ネットで読めるところで言うと、産経新聞の3月18日付「産経抄」と、毎日新聞の渡辺記者による3月17日付「記者の目」あたりか。産経抄は書いた奴の署名がないのがむかつくけど。
ネットで話題になってた頃にはまともに読んでいなかったが、今読むと主張そのものはともかくとして、ネットと新聞それぞれの機能について指摘してる部分はどちらもごくまっとうな話しか書いてないように思うが。まあ、要するにそういう事実認識を踏まえて個々の記者がどう日々の取材をするか、ということが問われてるだけなんじゃないの。むしろ問題はそっちのほうであって。
で、思ったのは世の中の多くの人が、そこで「ホリエモンか、新聞か」みたいなゼロサムの議論に入っていくということ。このブログのコメント欄でも「マスコミとネットは別物だ」「いや、クオリティはネットが上」とか、そういう議論ばかりが繰り広げられる傾向にある。
僕はすごく不思議だ。ホリエモンがそういう二者択一みたいなものの言い方をしてるのは確かだし、それで突っ走っているライブドアPJがなぜか斜め上の方へ走っていってしまっているのも事実。だけどもし僕らがインターネットとマスメディアの両方からうまくベネフィットを引き出したいなら、ゼロサムじゃなくてプラスサムの議論をしなきゃ。
こういう時にはまず、混乱の元になっている言葉を定義することから始めよう。混乱の元になっているのは「クオリティ」という言葉だ。いったい、誰にとってのクオリティなのか?そして、それは具体的にどういうものか?
前々回(その2.5)で僕は「ネット時代の情報強度とは、その情報を確からしいと判断するための思考の枠組みが開示されていること」である、というような話を書いた。情報の解釈それ自体(ex.ホリエモンは外資の手先である)よりも、その解釈を引き出す思考の枠組み(ex.外資って具体的に誰?誰が彼の行動を左右してるの?など)があれば自分で判断できるよ、というのがその言い分だった。
でもこういう情報の与えられ方を望む人というのは、毎日ブログを好んで読むような一部のリテラシーの高い人たちだけだということを、忘れてはいけない。
世の中の多くの人は、物理的にインターネットにアクセスできる環境を持っていても、こうした情報の与えられ方を好まない人たちだ。こういう言葉を使うとかなり語弊があるかもしれないが、ブログの書き手・読み手を「積極思考者層」とするなら、今のマスコミはそれとは違うグループ、いわば「無思考者層」に向けて情報を発信することで販売なり広告なりの収益を得ている。
注意してほしいのは、世の中の人間が必ずこの二分法のどちらかに分類されるわけではないっていうことだ。例えば僕は、ITや経済の分野に関しては「積極思考者」に入ると思うが、ペットとかインテリアとか野球とかは何の興味もないので「無思考者」である。マスコミが流す情報をちらっと見て納得し、それ以上考えることはしない。だからそっち方面のブログも全然関心はない。
つまり、あまり深く考えたいと思わない分野の話は適度に解釈・圧縮してくれるマスコミの情報で十分だけど、自分のこだわりがある分野についてはマスコミの勝手な解釈や圧縮は気にくわない、というのが情報の受け手側の言い分なのだろう。
では世の中の人がそういう二層に分かれているとして、その人たちに提供すべき「クオリティのある情報」とはそれぞれ何か。言い換えれば、何をやれば「カネがもらえるか」。
ここでは、モデルを単純化して考えよう。あるニュースが発生した(ex.ホリエモン、ニッポン放送の株を買い占め!)時から、世の中にはどういう情報が時系列で発生していくか、そしてどのレベルの情報を人々は欲しがるのか。左の図を見ながら、読んでほしい。横軸がニュースの発生を0とした時間の軸、そして縦軸はそのニュースを解釈して生み出される情報の「構造化の度合い」である。一番下がただのニュースで、上に行くにつれて解釈やコメント、意味づけなどが強まる。
最初の段階では、まず「LDがニッポン放送の株を買い占めた」という事実だけがいっせいに流れる。だがこれは(経済の分野は特にそうだが)、1刻1秒を争う特殊な人(証券市場関係者など)を除けば、ほぼ無料でネットで流れてしまう。ネタそのものを半日以上握っていられる1社だけのスクープは別だが、それ以外の第1報に過剰な力を注ぐのは、もはや経営資源の無駄遣いと言える。
第1報が流れた瞬間、世の中に解釈されてないカオス(高い情報エントロピー)が出現する。積極思考のユーザーは「この出来事にはどういう見方があるか、どんな背景が考えられるか」を整理できる「枠組み」を欲しがり、一方で無思考ユーザーは「最終的にオレに何の関係があんのかだけ教えろ」と考える。
これまでのマスコミはほとんどが後者のニーズだけに対応しようとしてきた。だから、取材する記者が情報を整理するのと同じスピードでニュースが解釈され、要約・圧縮されていき、最後に「要するに世の中にどういう影響があんのか」という話だけがころっとアウトプットされて終わる。この解釈された(つまりエントロピーの低い)情報は、日々のニュースに対してであればその日か翌日の新聞に載り、週末の雑誌に載り、最後に半年後ぐらいの書籍にまとめられる。
ところが、インターネット(とGoogleとブログ)が出現すると、これとはまったく違う情報エントロピー生成のプロセスが起こるようになった。ネット上では積極思考のユーザーだけが集まって、投げ出された1次情報をよってたかって整理し、思考の枠組みを持ち寄り、そして議論の末いくつかの解釈を生み出す。このプロセスが、場合によってはマスコミよりも早く行われるようになった。時には1次情報の収集もマスコミより早かったりするから、その解釈のスピードもマスコミよりもっと速くなる。
ただしネットの欠点は、時間の経過とともに有象無象含めて多数の人間がこのプロセスに首を突っ込むようになることだ。そうすると1人の人間が摂取しきれないほどの解釈情報があふれ返る(産経抄ふうに言えば「情報の奔流を泳ぐ」ような状況に陥る)ので、ある程度の時間が経過してしまうとマスコミより情報のエントロピーはむしろ高くなってしまう。
これを防ぐために時々「まとめサイト」などが出現する場合もあるが、所詮ボランティアに頼っているのでいつでもどんなテーマの話題にでも的確なまとめサイトが生まれるとは限らない。
ネットにこれだけマスコミを批判する言説が氾濫しているというのに、その中に書籍というメディアそのものを批判するものがほとんど見かけられないのは、実は「まとめ機能」で見たときにネットは書籍の足もとにも及ばないからだ。
微妙なのは雑誌である。よほどの業界専門誌は別として、バラエティネタを中心とする総合誌になればなるほど、個々のニュースの「まとめ」ではネットの方がずっと早くて役に立つレベルに達してしまう。元職業がそっち方面だったため、今も雑誌編集者との付き合いがいろいろあるが、ネットの出現で一番その存在意義を失いつつあるのは雑誌だろう。
個人的には、今どき中途半端なバラエティ誌にカネを払って読む人というのは、ネットで自分の関心を持ったテーマについての情報収集をするスキルさえない「知的能力の弱い人」なんじゃないかと思うこともある。これは僕の勝手な思いこみというよりは、当の雑誌を作っている編集者本人たちからため息まじりに吐露される意見でもある。
前回(その3)のエントリで「メディア企業がこのままネットの隆盛を指をくわえて眺めるままでいたら、そのうち彼らはデジタルデバイドされたマイノリティのためのミニコミ媒体になる」と書いたのは、既に雑誌の分野でその兆候が現れているからでもある。
こうした状況に対抗するためには、一義的には「ネットに負けない解釈のクオリティとスピード」を1次情報に付加するということを、マスコミ側が常に実現していればいいわけだ。実際にエース級の記者や著名なフリーランスのジャーナリストとかっていう人たちは、それを1人でやる能力を持っている。
だけど、この「理想論」には2つ問題がある。1つは、マスコミに所属して記事を書いているあらゆる人間がネットを凌駕するレベルに達することは、当たり前だが到底不可能だということ。それともう1つは、マスコミに期待するエントロピー低減の「方向」が、個々の読者によって違うということだ。
後者を分かりやすく言うと、要するに同じ無思考者の中でも、朝日のレッズぶり、産経の国粋主義、読売のナベツネイズムが気になる人とならない人がいるってことだ。もっと言えば「○○新聞の××記者の書く記事だけは嫌い」って人がどうしても出てくる。どんなに「クオリティ」そのものが高くても、「オレはそっちの方向にまとめようとするお前の価値観(思考の枠組み)が気にくわねえ」と言われれば、せっかくのクオリティには何の意味もなくなってしまう。
このマスコミごとに違う「まとめる際の価値観」のことを、マスコミでは「編集権」と呼び、外から記事の方向性にクレームを付けようとする人に対しては、「おたくは当社の編集権の独立を侵害するつもりですか」と脅すのが常套句となっている。
どこかの論壇ブログが「編集権なんてものはなくて、それって報道の自由って言えばいいだけなんじゃないの」と以前に書いていたように思う(追記:これも「ジャーナリズム考現学」の3月18日の記事でした)。「編集権」という概念は、実は「ジャーナリズム考現学」に書かれている通り、戦後にGHQがメディア各社を通じて報道規制を敷くための口実としたものという歴史的背景があるので、「編集権なんてやめちまえ」という言い分にもそれなりの意図があるのは分かるのだが、ことメディアビジネスのバリューチェーンを考えた時に、それを「報道の自由の中に入れてしまえ」という意見は、見当違いだと思う。
編集権の独立は、1次情報の報道の自由とは別に、メディアのキモであり必要だ。だけど、これまでは取材と編集のプロセスは密接不可分だったがゆえに、1次情報の報道の自由と混同されて、それが各メディア(の記者、編集者、そして経営者)の独りよがりの判断でも許されてきたというだけの話なのだ。だが今、まさにネットの登場によって、「積極思考」の読者から見たその正当性をどう担保するかが強く問われているということなのだと思う。
なんか難しい話になってきた。自分でも頭が痛くなりそうだけど、我慢して読んでくださってどうもありがとうございます。ますます続きます。では次回。