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2005/03/31

辞めさせる前に責任問えよ(笑)

 社外取締役ってのも、軽くなったものよのう。

 ニッポン放送社外取締役3人が辞任(NIKKEI.NET)

 ていうか君たち、それって何のつもり?ライブドアに対する抗議?それとも新株予約権発行とか、亀ちゃんが大株主に向かって「ずるい」とか非難を連発したことに対する、責任回避?…いや、それとも今後のニッポン放送の(ry

 なんつか、社外取締役がまともに機能を果たせませんでしたっていうのを証明してるような出来事ですな。別に、社外取締役のいないライブドアはどうなのよっていう声もあるとは思うけど、なんかね。情けなくて涙が出てくるですよ>ド派手ネクタイの先生

 彼らの法的な責任についてはisologueの磯崎さんあたりがきっと詳しく解説してくれるだろうと思いつつ、速報エントリ。

03:52 午後 経済・政治・国際 コメント (9) トラックバック (4)

色の付いたおカネの話

 「世界で唯一、カネだけが無色透明で、フェアな基準ではないか」といったホリエモンだが、僕は97年ぐらいからずっと「おカネに色を付ける方法」のことを考えている。

 考えている内容が自分だけの仮説のレベルでしかないので、ブログでもあまり書いてこなかった。だが、たまたま今日その絡みのニュースが2つほど上がっていたので、生煮えではあるがおカネの色のことについて書いてみたい。

 気になったニュースとは、以下の2つ。

 はてなポイント、楽天スーパーポイントへの移行が可能(CNET Japan)
 電子マネーEdyと電子マネーSuicaの優劣と将来性。(FPN)

 僕自身は、ポイントシステムというのは要するにおカネに色を付けることなのだと理解している。

 日本でポイントシステムを「色の付いたおカネ」として大々的にぶち上げて認知させた最初の企業は、たぶんヨドバシカメラだ。それまでもアニメ「ちびまる子ちゃん」などに出てくるように、ポイントサービスというのは全国の商店街などで行われていた。でもそれってたいていは買い物で集めたポイントで商店街のくじ引き抽選に参加できますよ、という程度のもので、ポイントそのもので再びその商店街で商品が買えますというものではなかった気がする。

 これに対し、ヨドバシは10%の値引きを現金ではなく自社での買い物にしか使えないポイントにすることで、(1)割引した分が自社以外の消費に使われるのを防ぎ、(2)顧客のリピート率を高め、(3)さらに現金値引きに比べて利益率を高めることに成功した。

 (1)と(2)は直感で分かると思うが、どうして(3)まで成り立つのか?と不思議に思う人がいるかもしれない。このからくりはオーソドックスなもので、知っている人は知っていると思うがちょっと解説しよう。

 カメラ・家電量販店というビジネスは、多々ある流通業の中でも例を見ないほど売上げの構成が特殊だ。買い上げ点数で見ると、売価数百円の商品が売上げの95%を占めるにもかかわらず、売上げ額で見ると売価数万円から数十万円の商品が売上げの8割(粗利益額で見ても6~7割)を占めるのである。つまり、周辺機器やサプライ(消耗品)は利益率も高くたくさん売れるが、実際の売上げの大部分はパソコンや冷蔵庫などの大きな商品から出るということだ。

 店としては、売上げと利益の大半を支える大物商品の商品説明や販売に力を入れたいところだが、数百円の消耗品もきちんと売らないと客数が稼げない。だが現実問題としては、そちらにわざわざ販売員を張り付けることは粗利の額から考えれれば到底できないというジレンマがある。

 ヨドバシは「人は張り付けられないが利益率の高い消耗品を効率よく売りたい」というこのジレンマを、ポイントで解決した。1万円の家電製品を買って、ポイントが10%(1000円)分ぐらい付いてくると、たいていの人はその場か次回来店した時にこのポイントを使って、以前に買った家電製品の予備の電池など消耗品を買ってくれる。

 だが、この消耗品は粗利率が3~5割もあるので、実際の「仕入れ値」、つまり店が客に現金で値引きしたと仮定した時の値引き額はせいぜい600円程度に過ぎなくなる。10%のポイントによる値引き率は、現金換算した場合には5~7%で抑えられるという仕掛けだ。しかも、販促の手間を掛けずに売りたい価格帯の消耗品を、わざわざ他店に優先して買いに来てくれるというおまけまでついてくる。

 このうまい仕掛けに気がついて、80~90年代に多くの専門小売店がこの方式を導入した。まあ、この流通系のポイントサービスは、実は一方で不都合な部分も多々あることが認知されて、今では廃止するところも増えてきたのだが、ここでは本筋の話ではないので省略。

 僕が思うのは、顧客側から見たヨドバシのポイントの功績とは、「家電製品の購入だけに使えるおカネ」というものが世の中に存在するということを知らしめたことではないかということだ。つまり、ホリエモンの言う無色透明な「現金」というおカネ以外に、色のついたカネが世の中に存在し、しかもそれがある種のメリットを生むということが、明らかになったんじゃないかと思う。そう言えばライブドアも同社の色付きポイントを発行していらっしゃるみたいだし。おカネに色がないなんて、ウソじゃんホリエモン。

 で、冒頭の2つのニュースに戻るのだが、そういう視点で考えた時、世の中にある様々なポイントというのはどういう意味を持って作られたものか?ということを(作る企業も、使う消費者も)よく考えることが、すごく大事だと思うのだ。

 では楽天のポイントの意図は何か?簡単である。ネットで物を買う消費者を、なるべく「楽天市場」というモールの枠内だけに閉じこめておきたい。それだけだ。

 楽天はこれまで、同社以外のネットモールで使えるポイントとの相互互換を一切認めていない。ANAマイレージとは相互互換だが、これはANAマイレージがネットショッピングに使われることがほとんどないこと、唯一競合する可能性のある「楽天トラベル(旧・旅の窓口)」での決済についても全日空との包括提携を抱き合わせるなどの手を打った上での判断だ。この点、楽天ポイントの意図は極めて明確で一貫している。

 従って、はてなとのポイント提携では、はてなP→楽天Pという一方通行しか認めなかった。このことは、恐らく「はてなが将来はてなポイントでの物販をやるかもしれない」といった可能性を考えていたからだろう。

 では、はてなポイントの意図は何なのか?これは正直、複雑だ。

 はてなポイントは当初、人力検索で答えてくれた人への「お礼」をする評価システムとして始まった。それがダイアリーの(擬似的な)有料の機能を利用するための決済用途にも発展してきた。言うなれば、ネット上でのコンテンツ(質問への答え、ちょっとした機能拡張etc.)などの少額決済を簡略化するためのポイントだったのである。

 聞くところによるとはてなのポイントの残高は数千万円を超えるまでになってきており、これはそっくりそのままはてな自身のバランスシートの負債項目(未払い預り金)に乗っかってくるので、彼らとしては自己資本比率を無意味に悪化させたくない(=なるべく現金やコンテンツなどに換金して使ってもらいたい)という考えがあったのだろう。その1つの方法が、楽天ポイントへの兌換だったのだろうと推測する(あと、楽天側がはてなをTSUTAYAにとられたくないという政治的な意図を持って提携を持ちかけた可能性もあるとは思うけど)。

 だが僕は本当のところ、この「貯めるのも簡単(答えてあげられそうな質問に答えればいい)、使うのも簡単(はてなのシステムでポチッとボタンを押すだけ)」というはてなポイントの「色」を、もっと強く意識してほしかったと思っている。日本でそういう意味の「色」が付いたおカネというのは、なかなか他に存在しないからだ。

 例えば、ダイアリーの記事の下に「このコラムが面白かったと思ったはてな会員は、下のボタンを押して50ポイントを管理人に寄付してね!」みたいな投げ銭ボタンを付けられる機能が実装されたら、僕は即座にこのブログをはてなダイアリーに移転すると思う(笑)。楽天ポイントに変えて買い物しようなんて思わせるのでなく、そういったはてなの中だけで許される遊び心のようなポイント流通の仕組みを、もっとはてなには作ってもらいたかったというのが正直な気持ちだ。

 さて、もう1つのJRのSuicaについてだが、FPNの上村氏が奈辺の意図をもってこういう記事を書いているのかよくわからんのだけど、SuicaもEdyも基本的な電子マネーとしてのチップのアーキテクチャはまったく同じ(Felicaチップ)であることは知っていて書いているようなので、要は「Suicaは早くEdyみたいな機能を持て」というニュアンスなのかな。

 逆に僕が知りたいのは、Edyってそんなに世の中で使われてるの?ということだ。いや、一応僕もFOMA買った時にEdyの登録はしましたけど、今まで1回も使ってませんよ。だってEdyで決済しなきゃいけない必要も便利さも、感じたこと全然ないし。Suicaは定期券+プリペイドカードとして便利に使ってますが(でもJRの駅のコンビニとかでもの買うのに使ったことはまだない)。

 上村氏がどのくらいこのテーマの深層を理解して書かれているのかよく分からないが、Edyの戦略というのは別にEdy単体でどうこういうレベルではなく、上に書いたようなヨドバシ型のポイントカードを単独では到底(システム投資や顧客情報管理などの負担が大きすぎて)実現できない流通企業に、相乗り型でポイントカードを作りましょうよ、そうすれば1社ごとにかぶるコストは低くなるから――ということなのである。

 でもね、僕はこれってポイントカードという「おカネの色」を無視した所業だと思うのですよ。消費者は、ポイントという「おカネ」に様々なイメージ、色を付けて自分の生活を便利にしようと思っている。店に入るとき、いちいち「ここではEdy使えるのかな?Suicaは?ANA、JALのマイレージは?」とか考えながら入るの、嫌じゃないですか。

 「JRの駅構内の決済は全部Suica」とか、「ビックカメラのお店ではビックポイント」とか、TPOに合わせて自然にポイントを使うのが、一番良いわけですよ。そういう意味で言うと、Edyってすごく供給者側の論理だと思うんだよね。

 実は他のポイントシステムを作ってる企業も、虎視眈々とEdy端末が普及するのを待っているというのが現状だと思う。でもEdyは「色付きおカネ」としての明確な便利さを消費者に訴求できるまでに至ってない。その意味では、Suicaの方がずっとうまく行っていると思うんだけど。

 あと、上村氏の記事の中の表で「Suicaに関心を持っている企業」としてマツモトキヨシが入っているんですが、本当ですかね?マツキヨって昨年まではEdyのプラットフォームに乗ると言われていたと思うんですが。いつのまにSuica陣営にスイッチしたんだ?ビックカメラが、Edyシステムでポイントカード作りながら店頭での決済端末には結局Suica入れたのを見て、Edyを見切ったのかな。真偽情報求む。

10:57 午前 経済・政治・国際 コメント (29) トラックバック (9)

2005/03/30

メディアビジネスのバリューチェーン(その1)

 ベンチャーキャピタリストの梅田望夫氏がはてなの取締役に就いたらしい。こういう時にはおめでとうございますとか言うんだろうか。何と言えば良いのかよく分からないが、とにかく我が事のように嬉しいのは不思議なことだ。

 梅田氏と僕は年齢も離れているしまったく面識がないのだけれど、実は彼と僕にはある共通点がある。お互い、あるとても近しい関係だった人を心の底から尊敬していて、しかもその人から可愛がられていたのだ。しかも梅田氏がブログで書いているはてなの近藤社長に対する思いも、なぜかすごく似ている。大げさな話だけれど、何か非常に深い縁のようなものを感じた。梅田氏に精一杯のエールを送ると共に、このエントリのシリーズを僕が人生で最も尊敬していた、あの人に捧げたい。

 さて、これまで「ブログと情報強度」というタイトルで3回のシリーズを続けてきた。そして前回(その3)の最後で、メディアビジネスのバリューチェーンの中でマスメディア企業が果たす役割が大きく変化するだろうと書いた。

 今回からメディアビジネスのバリューチェーンについて、さらに突っ込んで考えてみたいと思う。そこでタイトルもそのように変えた。

 前回のエントリのトラックバックやコメント欄でいろいろな意見もいただいた。1つ1つ答えたいところだが、今の僕にはそれだけの時間と気力がない。ごめんなさい。単刀直入に話題に入りたい。

 最近、大手の新聞やテレビが(僕自身は新聞もテレビもほぼまったく見ない生活を送っているので知らないのだが)しきりにブログを攻撃してるらしい。トラックバック及びコメント欄でkagami氏が怒りまくっていたフジの「報道2001」は見てないのでよく分からないが、ネットで読めるところで言うと、産経新聞の3月18日付「産経抄」と、毎日新聞の渡辺記者による3月17日付「記者の目」あたりか。産経抄は書いた奴の署名がないのがむかつくけど。

 ネットで話題になってた頃にはまともに読んでいなかったが、今読むと主張そのものはともかくとして、ネットと新聞それぞれの機能について指摘してる部分はどちらもごくまっとうな話しか書いてないように思うが。まあ、要するにそういう事実認識を踏まえて個々の記者がどう日々の取材をするか、ということが問われてるだけなんじゃないの。むしろ問題はそっちのほうであって。

 で、思ったのは世の中の多くの人が、そこで「ホリエモンか、新聞か」みたいなゼロサムの議論に入っていくということ。このブログのコメント欄でも「マスコミとネットは別物だ」「いや、クオリティはネットが上」とか、そういう議論ばかりが繰り広げられる傾向にある。

 僕はすごく不思議だ。ホリエモンがそういう二者択一みたいなものの言い方をしてるのは確かだし、それで突っ走っているライブドアPJがなぜか斜め上の方へ走っていってしまっているのも事実。だけどもし僕らがインターネットとマスメディアの両方からうまくベネフィットを引き出したいなら、ゼロサムじゃなくてプラスサムの議論をしなきゃ。

 こういう時にはまず、混乱の元になっている言葉を定義することから始めよう。混乱の元になっているのは「クオリティ」という言葉だ。いったい、誰にとってのクオリティなのか?そして、それは具体的にどういうものか?

 前々回(その2.5)で僕は「ネット時代の情報強度とは、その情報を確からしいと判断するための思考の枠組みが開示されていること」である、というような話を書いた。情報の解釈それ自体(ex.ホリエモンは外資の手先である)よりも、その解釈を引き出す思考の枠組み(ex.外資って具体的に誰?誰が彼の行動を左右してるの?など)があれば自分で判断できるよ、というのがその言い分だった。

 でもこういう情報の与えられ方を望む人というのは、毎日ブログを好んで読むような一部のリテラシーの高い人たちだけだということを、忘れてはいけない。

 世の中の多くの人は、物理的にインターネットにアクセスできる環境を持っていても、こうした情報の与えられ方を好まない人たちだ。こういう言葉を使うとかなり語弊があるかもしれないが、ブログの書き手・読み手を「積極思考者層」とするなら、今のマスコミはそれとは違うグループ、いわば「無思考者層」に向けて情報を発信することで販売なり広告なりの収益を得ている。

 注意してほしいのは、世の中の人間が必ずこの二分法のどちらかに分類されるわけではないっていうことだ。例えば僕は、ITや経済の分野に関しては「積極思考者」に入ると思うが、ペットとかインテリアとか野球とかは何の興味もないので「無思考者」である。マスコミが流す情報をちらっと見て納得し、それ以上考えることはしない。だからそっち方面のブログも全然関心はない。

 つまり、あまり深く考えたいと思わない分野の話は適度に解釈・圧縮してくれるマスコミの情報で十分だけど、自分のこだわりがある分野についてはマスコミの勝手な解釈や圧縮は気にくわない、というのが情報の受け手側の言い分なのだろう。

 では世の中の人がそういう二層に分かれているとして、その人たちに提供すべき「クオリティのある情報」とはそれぞれ何か。言い換えれば、何をやれば「カネがもらえるか」。

netmedia ここでは、モデルを単純化して考えよう。あるニュースが発生した(ex.ホリエモン、ニッポン放送の株を買い占め!)時から、世の中にはどういう情報が時系列で発生していくか、そしてどのレベルの情報を人々は欲しがるのか。左の図を見ながら、読んでほしい。横軸がニュースの発生を0とした時間の軸、そして縦軸はそのニュースを解釈して生み出される情報の「構造化の度合い」である。一番下がただのニュースで、上に行くにつれて解釈やコメント、意味づけなどが強まる。

 最初の段階では、まず「LDがニッポン放送の株を買い占めた」という事実だけがいっせいに流れる。だがこれは(経済の分野は特にそうだが)、1刻1秒を争う特殊な人(証券市場関係者など)を除けば、ほぼ無料でネットで流れてしまう。ネタそのものを半日以上握っていられる1社だけのスクープは別だが、それ以外の第1報に過剰な力を注ぐのは、もはや経営資源の無駄遣いと言える。

 第1報が流れた瞬間、世の中に解釈されてないカオス(高い情報エントロピー)が出現する。積極思考のユーザーは「この出来事にはどういう見方があるか、どんな背景が考えられるか」を整理できる「枠組み」を欲しがり、一方で無思考ユーザーは「最終的にオレに何の関係があんのかだけ教えろ」と考える。

 これまでのマスコミはほとんどが後者のニーズだけに対応しようとしてきた。だから、取材する記者が情報を整理するのと同じスピードでニュースが解釈され、要約・圧縮されていき、最後に「要するに世の中にどういう影響があんのか」という話だけがころっとアウトプットされて終わる。この解釈された(つまりエントロピーの低い)情報は、日々のニュースに対してであればその日か翌日の新聞に載り、週末の雑誌に載り、最後に半年後ぐらいの書籍にまとめられる。

 ところが、インターネット(とGoogleとブログ)が出現すると、これとはまったく違う情報エントロピー生成のプロセスが起こるようになった。ネット上では積極思考のユーザーだけが集まって、投げ出された1次情報をよってたかって整理し、思考の枠組みを持ち寄り、そして議論の末いくつかの解釈を生み出す。このプロセスが、場合によってはマスコミよりも早く行われるようになった。時には1次情報の収集もマスコミより早かったりするから、その解釈のスピードもマスコミよりもっと速くなる。

 ただしネットの欠点は、時間の経過とともに有象無象含めて多数の人間がこのプロセスに首を突っ込むようになることだ。そうすると1人の人間が摂取しきれないほどの解釈情報があふれ返る(産経抄ふうに言えば「情報の奔流を泳ぐ」ような状況に陥る)ので、ある程度の時間が経過してしまうとマスコミより情報のエントロピーはむしろ高くなってしまう。

 これを防ぐために時々「まとめサイト」などが出現する場合もあるが、所詮ボランティアに頼っているのでいつでもどんなテーマの話題にでも的確なまとめサイトが生まれるとは限らない。

 ネットにこれだけマスコミを批判する言説が氾濫しているというのに、その中に書籍というメディアそのものを批判するものがほとんど見かけられないのは、実は「まとめ機能」で見たときにネットは書籍の足もとにも及ばないからだ。

 微妙なのは雑誌である。よほどの業界専門誌は別として、バラエティネタを中心とする総合誌になればなるほど、個々のニュースの「まとめ」ではネットの方がずっと早くて役に立つレベルに達してしまう。元職業がそっち方面だったため、今も雑誌編集者との付き合いがいろいろあるが、ネットの出現で一番その存在意義を失いつつあるのは雑誌だろう。

 個人的には、今どき中途半端なバラエティ誌にカネを払って読む人というのは、ネットで自分の関心を持ったテーマについての情報収集をするスキルさえない「知的能力の弱い人」なんじゃないかと思うこともある。これは僕の勝手な思いこみというよりは、当の雑誌を作っている編集者本人たちからため息まじりに吐露される意見でもある。

 前回(その3)のエントリで「メディア企業がこのままネットの隆盛を指をくわえて眺めるままでいたら、そのうち彼らはデジタルデバイドされたマイノリティのためのミニコミ媒体になる」と書いたのは、既に雑誌の分野でその兆候が現れているからでもある。

 こうした状況に対抗するためには、一義的には「ネットに負けない解釈のクオリティとスピード」を1次情報に付加するということを、マスコミ側が常に実現していればいいわけだ。実際にエース級の記者や著名なフリーランスのジャーナリストとかっていう人たちは、それを1人でやる能力を持っている。

 だけど、この「理想論」には2つ問題がある。1つは、マスコミに所属して記事を書いているあらゆる人間がネットを凌駕するレベルに達することは、当たり前だが到底不可能だということ。それともう1つは、マスコミに期待するエントロピー低減の「方向」が、個々の読者によって違うということだ。

 後者を分かりやすく言うと、要するに同じ無思考者の中でも、朝日のレッズぶり、産経の国粋主義、読売のナベツネイズムが気になる人とならない人がいるってことだ。もっと言えば「○○新聞の××記者の書く記事だけは嫌い」って人がどうしても出てくる。どんなに「クオリティ」そのものが高くても、「オレはそっちの方向にまとめようとするお前の価値観(思考の枠組み)が気にくわねえ」と言われれば、せっかくのクオリティには何の意味もなくなってしまう。

 このマスコミごとに違う「まとめる際の価値観」のことを、マスコミでは「編集権」と呼び、外から記事の方向性にクレームを付けようとする人に対しては、「おたくは当社の編集権の独立を侵害するつもりですか」と脅すのが常套句となっている。

 どこかの論壇ブログが「編集権なんてものはなくて、それって報道の自由って言えばいいだけなんじゃないの」と以前に書いていたように思う(追記:これも「ジャーナリズム考現学」の3月18日の記事でした)。「編集権」という概念は、実は「ジャーナリズム考現学」に書かれている通り、戦後にGHQがメディア各社を通じて報道規制を敷くための口実としたものという歴史的背景があるので、「編集権なんてやめちまえ」という言い分にもそれなりの意図があるのは分かるのだが、ことメディアビジネスのバリューチェーンを考えた時に、それを「報道の自由の中に入れてしまえ」という意見は、見当違いだと思う。

 編集権の独立は、1次情報の報道の自由とは別に、メディアのキモであり必要だ。だけど、これまでは取材と編集のプロセスは密接不可分だったがゆえに、1次情報の報道の自由と混同されて、それが各メディア(の記者、編集者、そして経営者)の独りよがりの判断でも許されてきたというだけの話なのだ。だが今、まさにネットの登場によって、「積極思考」の読者から見たその正当性をどう担保するかが強く問われているということなのだと思う。

 なんか難しい話になってきた。自分でも頭が痛くなりそうだけど、我慢して読んでくださってどうもありがとうございます。ますます続きます。では次回。

11:30 午前 メディアとネット コメント (28) トラックバック (13)

2005/03/29

オピニオン: 名誉毀損は竜頭蛇尾の時代

【偽GJニュース 03月29日 東京都】-前置きをまったくせずに話し始めてしまうが、湯川氏@時事通信が実況中継してくれていた大陸間弾道ミサイル先生と我らが子ども新聞生扉PJニュースの小田親分のバトルのことである。昨日15時に小田親分が上・中・下からなる迎撃ミサイル「ブログ時評という論理破たん」3部作の最終回を堂々完成した。

 そしてそのたった3時間後に、間髪入れず弾道ミサイル先生から「ライブドアPJへ:自ら出発点の欠陥を正すのが先だ」と題した、これまたいつもの居丈高調の反論エントリがものすごい勢いでアップされた。

 記者はたいていのパソコンの前ではお茶を噴かない冷静さを持つ人間であったが、さすがに小田親方のこの最終作品を読み終わった瞬間、17インチの液晶ディスプレーをもう少しで復旧不能の故障に追いやってしまうほどの量のお茶を噴いてしまった。記者の口から見事に大量のお茶を噴出させた張本人とは、小田親分の華麗にして荘厳なる迎撃ミサイル3部作の最後に添えられた、

*この原稿はPJ個人の見解であり、ライブドアの見解ではありません*
 の太字加工された1行である。

 弾道ミサイル先生に向かって「朝日新聞社員の~」と組織名も名指しで批判を繰り広げ、「名誉毀損」とまで大見得を切ったのなら、当然ながら小田親分は生扉を代表して言っているのだろうと誰もが思ったはずだ。まだ噂の段階ではあるが。

 なのに、最後の最後に出てきたのは「個人の見解」であったことであるよ。あーりーえーなーいー。もう君たち勝手にそこでとぐろ巻いてなさい。ママぜんぶ許してあげるから。

 記者は常日頃から弾道ミサイル先生の居丈高ぶりはブログやネットジャーナリズムとそぐわないと思って生ぬるく冷やかしてきたが、今回ばかりは単純にネットで発表する文章の持つべき最低限のロジックという点で、弾道ミサイル先生のほうに圧倒的な軍配が上がったと思えてならない。記者の「妄想」かもしれないが。

 ライブドアの堀江貴文社長は、商法上の所有権は株主のものであるが、心の所有権は拘束できないと語っていた。生扉PJの小田親分も、弾道ミサイルを迎撃するなら読者から孤立したメディアは立ちゆかないということも無縁ではないと思われることを知ったほうがいい。ソースはRなんとかっていうサイトで見たような気がするが忘れた。とにかくそういうことだ。

 ホリエモンが新風を吹かすのはフジテレビだが、記者がお茶を噴かすのは昨年末に買ったばかりの液晶ディスプレーだったことを忘れてはならない。名誉毀損はどうでもいいが、物品損壊には断固として謝罪と賠償を要求する。そしてみんなでカネの勉強を始めよう!【了】

生扉・偽GJジャーナリスト R30
この記事に関するお問い合わせ先:r30marketing@livedoor.com

01:01 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (10) トラックバック (10)

2005/03/28

続・働く人のキャリアの作り方

 前に書いた転職話が隊長のブログで取り上げられてトラックバックとかコメント欄とかで「R30はホリエモン並みの拝金主義者」だとか、いいように叩かれた件についてちょっとコメント。

 まあ、ブログに書いたことだけが僕のすべてじゃないし、むしろポジショントーク的なものとかプライベートは伏せてたりするとかいろいろあるわけで、自分では自分のことを拝金主義とか全然思ってないけど、そういうふうに読まれるエントリを書いたことは反省すべきなのかな。よくわからんけど。

 隊長のエントリについてまとめておくと、僕が挙げた4つの役割以外に雇用流動性のほとんどない「特殊技術分野の職人」とか「企業文化の維持に従事する人」という仕事があるんでないの、ということと、人の評価っていうのはスキルやキャリアよりもその人物の「人間としてのこだわり」の何かではないの、ということかな。

 エントリでは書いていなかったけど、専門的な技術・技能を持つ職人というのは、僕の雇用流動化論の枠内には入らないと思っていたし、事務系でもやはり「仕事そのものは大したことやってないように見えるが、存在そのものが企業文化である」ような人というのはいるわけで、そういう人は確かに動けないものかもしれない。でも正直、そのへんはあまり具体的な実感が沸かないんだけどな。

 そもそも企業文化なんてのはバーチャルなわけで、業種業界といった下部構造に規定される部分もないわけではないけれど、ほとんどはその企業のマネジメントや社員の中で規定されたルールに過ぎないんじゃないかと。だとすればそれに自分の人生としての半分を賭けてしまうのはどうよ、と思ったりもする。人事屋みたいに、沈む直前まで船長と運命をともにするのが一種の職務上の倫理であるような職種というのは、一定数あるとは思うけどね。

 ただ、それ以上に隊長と僕の考えの違いの生まれる大きなポイントはと言えば、隊長はやっぱり雇う側として発言してると思うし、僕は雇われる側としてものを言っているという、立場の問題だと思う。

 だって、例えば僕が「やっぱり企業は終身雇用を保証すべきだ。俺にやりたいことをやらせて安定雇用せよ」って言ったら、こんなご時世にそんなに虫の良い話あるかいな、この大企業で脳のふやけた不良債権社員めが!と誰もが思うだろう。逆に隊長が「社員は1つの会社にしがみつかずに、スキルアップのためにも渡り歩いてほしいわけです、ていうかそこのお前仕事中に遊んでんじゃねえよ派遣に変えるぞこの野郎」とか言ったら、極悪非道経営者!お前みたいな奴らが経営者だから俺たちは苦しんでるんだよ氏ね!って思うじゃないですか。

 つまり社員は会社を思うがゆえに「いつ会社のために腹を切れと言われようとも覚悟はできております」って言うのが社員だし、経営者は社員を思うが故に「君たちの苦しみは私の苦しみ。どんなことあっても私が一生面倒見るから、後顧の憂いなく働いてくれ」と言うのが経営者だよな、っていうだけの話かと。どっちも現実にはそうじゃない人が圧倒的に多いけど。それが武士道、それが建前というものです(笑)。

 建前は建前で美しくなきゃいかんのだけれども、それと目の前の現実とを混同すると、挙げ句の果てにコクドの総務部員や西武鉄道の小柳社長のようになってしまう。

 別にあのレベルじゃないにせよ、企業というのはその一挙手一投足で常に誰かしらを犠牲にしているものだ。100%の従業員や利害関係者の意向を満足させることができないのは当たり前といえば当たり前なんだが、自分がこのたびその犠牲の対象者と相成りましたってことに気がついて初めて「そんなはずじゃないだろ」とかいくら叫んでも無意味。勝手に建前と現実を混同させていた自分が悪いんだから。世の中そんなに甘くないよ。犠牲に祭り上げられる前に自分の行動を変えなきゃ意味がない。

 そういう、建前と現実を区別するための知恵みたいなもんをちょこっと書いたのにそれを「物象化論」だとか「拝金主義」だとか言われるとかなり頭に来るわけなんだが、まあそう思う人はそれでいいよ。建前に身を捧げて一生を終えられる境遇の人は幸せだと思うし、そういう道を自分から選んだ結果どこかで間違ったりして絶望することになっても、まあそれはその人の自由だし。いわゆるひとつの自己責任。

 むしろ隊長や僕のようなレベルの議論というのは、世の中のもっと別の世界の人々から見れば極楽とんぼのようなものだということの方が重要な気がする。例えばid:ueyamakzk氏のブログの3月25日のレポートなんかを読んで、そういう選択の自由さえ与えられない層の存在に、胸が潰れそうになるわけだよ。請負で働く35歳月給7万円のフリーターに「建前への奉仕か、現実を直視した自己研鑽か」みたいな問いの投げかけは、まったく無意味だ。

 討論会の記録そのものが、何人ものはてなダイアラーの出席者によって様々にレポートされているところが非常に興味深い(このレポートの翌日の日記に、参加者の感想をまとめた感想が記されている)。正社員として月収25万円もらう代わりに月100時間サー残して自分の体と精神と家庭生活をぶっ壊すか、それとも契約・派遣になって健康とプライベートを確保する代わりに月収7万円の生活保護以下の貧困を受け容れるのか。その究極の二者択一を迫られる人々が同じ日本の国の中に何百万人いるという現実に、僕は言葉を失う。

 個人的なことを言えば、経済誌記者としての最後の数年、僕は世の中一般にはやし立てられる好業績企業、急成長企業などに、ほとんど何の興味も持てなかった。特に流通サービスの世界ではそうだが、そういう企業はほぼ例外なく従業員のほとんどを契約・パートで賄い、露骨な労働搾取の結果の上に成り立っているからだ。

 いくら株主の利益になるからといって、同じ日本人の生活をそこまで踏み台にして企業が成長を希求することが、許されて良いのか。単純にそれを「おかしい」と思う感覚を、しかし職場の中で公然と記事に書くことは許されなかった。

 だから最後の1年ぐらい、僕はなるべく「それほど人目につかないが、社員や顧客が賃金を受け取って労働する、ものを買うという以上の何かにハッピーな関係を見出している企業」ばかりを意図的に取り上げるようにしていた。

 その取材経験から言えば、工場でも物流センターでも量販店でも、どんなに低廉な人件費が必要な分野でも、マネジメントに「従業員を幸せにしたい」と願う正しい心とそれを実践する知恵と勇気があれば、その会社は適切なコスト競争力を持ちながら、従業員に体も精神も壊さず、家族を幸せにする仕組みを作れる。

 そのためには、正しい心と知恵と勇気を持ったマネジメントに、素早い意思決定を下せる権限を与えてしまうことが必要になる。というか、そういう企業においては変化のスピードが競争力の1つにもなるから、労働組合を持つ動きの鈍い企業と同じ水準に落ちた瞬間に、社員の幸せと企業としての競争力の両立が不可能になる。つまり、建前論で話が延々と堂々巡りし、無為に時間を浪費させる頭の悪い労働組合は存在しないほうが良い。

 そこには、従業員の雇用環境を守るのが役割のはずの労働組合が、結果的に企業経営の仕組みの中で企業が従業員の雇用環境を守りつつ競争力を持って生き延びることを不可能にする最大のリスクファクターになってしまうという矛盾がある。

 id:ueyamakzk氏によれば、フリーターの問題は情報収集(当事者たち)と賃金闘争(支援する労働組合)の2つしか解決法が提示されていないようだが、社会化されている問題である以上はマネジメントの改善という第3の方法があり得るのではないか。どうやって?という問いに、僕もまだ答える術がないけれど。

 ただ、少なくともそういう思いを持った企業経営者の絶対数を増やさなければ、今の日本の「働く」ということの建前と現実の二極化の解決は、永久に不可能なんじゃないのかな。話がスキルやキャリアから逸れてえらくシリアスな話になってしまい、オチも何もありませんが。

08:03 午前 経済・政治・国際 コメント (14) トラックバック (9)

2005/03/25

【ヲチ総括】経営は1人ではできない

 昨晩の発表と大混乱の中、いろいろなブログがいろいろな意見を発表されていたようですが、R30は今回、冷静にお勉強させていただいたうえで総括コメントを述べさせていただきます。うわっ、最強の後出しじゃんけん(笑)

 切込隊長ブログのコメント欄で既にかなり分析がされているが、SBIが絡んだスキームが「孫社長とは関係ない」という北尾吉孝SBI社長のコメントは、まあ「ウソではない」ことだけは事実だろう、と(何だこの表現w)。

 端的に言えばCXグループが用意したうまい棒25億本を使って、まさに今日確定したLF保有のCX株の議決権をライブドアからうまく逃がすスキームを作ったわけで、さすが日本におけるM&Aの教祖様、北尾先生(笑)だけのことはある。あ、ここあくまで皮肉ですよ皮肉。

 これで少なくともライブドアがLFを傘下に入れたとしても、そのCX株保有分を利用しつつCX本体へのLBOを仕掛けるなどの荒技は、使えなくなってしまった。ライブドアが貸株契約の法的差し止めを求めて訴える可能性もあるだろうが、SBIの作った合弁会社は求められればLFに対して貸株の運用利息は払うつもりだろうし、たぶん裁判で勝つことはできない。ま、どちらにしろ既成事実として今年のCXの株主総会でLFの持分の議決権がライブドアによって行使されることはなくなったと考えて良いだろう。

 一方LFそのものがライブドアの傘下に入ったかどうかはまだ分からないわけだが、とりあえず彼らが占領軍(役員)を送り込んでくれば、前から宣言していたようにCXグループは一切の取引関係をうち切ることはできるわけで、LFは単体で赤字会社になってしまうだろう。課題として残っているのは映像や音楽の著作権を集めているポニーキャニオン株の行方だが、まあこれなどは6月のLFの株主総会の議案にライブドアがどんなものを出してくるかによって対応を決めればいいので、急ぐ必要はない。

 つまり、CXとしてはライブドアに対してLFの「赤字」を人質にして役員や社員を守ることができるようになったわけで、逆に言えば単独で赤字を解消できるめどをつけてからでなければライブドアも役員を総入れ替えするなどの荒技に出るのは無理になった。言うなれば、総会で「増配しろ」と吠える村上ファンドと同等以上のことは、もうできないということだ。

 今回の一連の騒動はいろいろな人との会話の中に出てきたが、2月以来の情報交換の中で僕なりに感じたのは、堀江貴文という男がフィナンシャルな部分できわめて才能のある人であるというか、数字をかぎ分け、利益の出所を見抜き、ムダなコストを潰すことにかけてはある種の天才だったんだろうなあということだ。

 ただその一方で彼に決定的に欠けている能力というのもあって、それはそうしたフィナンシャルな合理性というものが時にどれほど人の神経を逆撫でするかとか、実際の日本の大企業においてはフィナンシャルな合理性を何重にもオブラートにくるんで差し出さなければ絶対に受け付けてもらえないものであるということを、理解できない人なんだろう。経営のタームでいうと、「マーケティング・コミュニケーション」の能力が抜け落ちてしまっているということか。

 さる投資銀行の人が「彼は非常に頭がいい男だ。マスメディアに対してはフカシやブラフをかませたりするが、投資家の前ではとても正直だ。そしていろいろなことがよく分かっている。だが残念なのは、あの規模の会社はもはや天才1人では経営できないということだ」と話しているのを聞いた。

 今回の騒動を総括するとすれば、この言葉に尽きるのではないか。堀江氏の周りから、これまでにもおびただしい数の有能な人材が、実にささいな理由で去っていった。それは彼が、事業の判断をフィナンシャルな合理性のみで決めようとし、社内の人間に対しても「誠実なコミュニケーション」というものを使って来なかったからだと思う。

 あと、もう1つ思うのは、これは隊長なども何度も書いていた話だが、彼はマスメディアというものの「本質」は分かっていたのかもしれないが、「使い方」は分からなかったんだろうなということ。

 うーん、「本質」という言葉はちょっと違うかもしれないな。これもある人から聞いた話だが、個人的に、日本のITベンチャーと呼ばれる企業の経営者として、メディアビジネスというものに一番興味を示し、一生懸命勉強していたのはたぶん堀江氏だったと思う。

 この点に関しては、僕はやや世代論的なものを感じる。今の40代以上の経営者は、コンテンツの何もないところにネットのビジネスを作ってきた人たちが多くて、だから彼らは「ネットにリッチなコンテンツなんか要らないんだ」という言葉を、今も繰り返し繰り返し唱えている。楽天もソフトバンクも、プロ野球に乗り出したのは「会社として一流である」という権威と財界入りのパスポートが欲しかっただけで、別に野球をコンテンツとして自社のビジネスに生かしたいといったつもりは毛頭なかっただろうと推測している。

 そういった先達に比して、堀江氏はむしろこの点においては「ネットのコンテンツを見ながら育ってきた」世代だけに、ネット発のコンテンツやメディア事業に対してもっといろいろな夢というか期待を持っていたのではあるまいか。

 ここからはいささか僕自身の希望的な読みになるが、彼は先輩世代の起業家がわざと無視して通り過ぎてきたメディア分野が、日本という国の最後に残る巨大な「構造問題」だという意識を持っていたに違いない。そして自分がこれまでやってきたフィナンシャルな能力を、この"ムダ"の塊のような分野の改革に生かせたら…といったことを思い描いていたのではないか。恐らく、そうした彼の思いが自然と伝わっていき、メディア業界の構造変化の必要性を一番感じている団塊世代や団塊ジュニア世代(=ネット住人の主要構成員)からの期待を一身に集めてしまった部分もあったのだろう。

 だがメディアの楼閣の最上階に居座る爺さんたちの目には、堀江氏の主張する経済合理性は「脅威」としか映らなかったのだろう。いや、それも含めて堀江氏はマスメディアに、自分の考える経済合理性を「オブラートにくるんでばら撒かせる」のに失敗したんだと思う。その意味で、彼はメディアビジネスのビジネスとしての「本質的価値」は見抜いていただろうとも思うが、自分がビジネスを遂行していくうえでの「利用の仕方」は知らなかったと断言できる。誰か、ライブドアの広報担当に、メディア懐柔に長けた老獪な「スピンドクター」(ソフトバンクにおけるH氏のような)を1人、おいておくべきだった。そうすればもう少し事態は変わっていただろう。

 まあ、終わったことをとやかく言っても仕方がない。ライブドアはLF株が上場廃止になる前に、誰かに引き取ってもらわなければならないだろう。CXは永久に取引に応じるつもりはないだろうし、他のはめ込み先も見つからないだろうから、市場で大損失を出しながら売却するしかないのではないか。今回の騒動のもう1つの教訓があるとすれば、買収戦を仕掛けるときにはやれ産経を経済紙にするだのラジオでPodcastingだの本体をLBOだのと、マスコミの前で手の内をべらべらしゃべらないことだ。せっかくの落とし所の可能性を自らどんどん潰していくあの様子だけ見ていても、堀江氏は「マーケティング・コミュニケーション」の能力が欠如していると強く思った。

 あと、今回最も驚いたのは、トヨタの奥田会長という、第二日本政府とさえ言われる超巨大企業の頂点に立つ人物があれほどまでに堀江氏の肩を持ったことである。トヨタという企業の、ある種の"日本離れ"した徹底的な合理主義と、経済界とメディア界の間に存在する目に見えない"溝"が実は相当に深いものであるということとを改めて実感することになった。つまり、マスコミにとって文字通り最大のスポンサーだったはずの人物が、マスコミの現状に強い不満を持っているということがはしなくも露わになったというわけだ。このことは、今後の日本のマスコミの業界再編のゆく末を考える上で、見逃せない伏流になっていく気がする。

参考:切込隊長ブログ「お金があっても手に入らないもの」(2004年11月3日)

(3/26 22:10追記)北尾氏は、ポニーキャニオン株を「公開を前提にSBIとフジの合弁ファンドで20~30%引き受ける予定」と日経にコメント。今の段階で打ち手を見せるってことは、ポニー株までは絶対に影響が及ばないことを見越したうえでの余裕の防御表明と取るべきだろう。つまり、その前に何枚も鉄壁があることを、暗に示したのと同じ。ホリエモン、無念。

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2005/03/24

ブログと情報強度(その3)ローエンド破壊されるマスコミ

 せっかくだから気分が勢いに乗っているうちに書いてしまおう。情報強度の話、3回目である。

 ところで僕が「情報強度」という言葉を思いついたのは、国際政治の分野で、イラク戦争のような一国の正規軍同士の正面衝突である「戦争」に対して、ゲリラによる散発的な銃撃戦とかを「低強度紛争(Low Intensity Conflict)」と呼ぶことを思い出したからだ。

 ブログって、既存マスメディアという「正規軍」に対する「ゲリラ」みたいなもんだというイメージがあるんだよね。なんか、ひょろひょろした頼りなさげな民兵みたいなやつらがパラパラと沸いては消え、沸いては消えして物陰からエアガンでピシピシ狙撃してくるみたいな。

 既存のマスコミや識者な人たちは、パチンコ弾があさってを向いてる初めの頃は大して気にもとめなかったんだけど、そのうちやたら自分たちの顔に弾がピシピシ当たるようになって、なんか当たり所悪かった奴が突然「炎上」とか言って倒れたりして(笑)、「このクソ愚民どもめが!」とか怒鳴りつけたりもするんだけど、そのうちますます狙撃兵の数が増え始める。武器は相変わらずエアガンなんだけど(笑)。

 で、ささいなミスにいちいちパチンコ弾を撃ち込んでくる狙撃兵に神経を消耗するうちに、気がついたら陣地の外堀も埋められ、柵にもはしごが掛けられて、ひょろひょろ兵が陣地内をうろちょろするようになってた、とか(笑)。ゲリラ兵をバカにしちゃいけません。LICの始祖たる毛沢東も言っているじゃないですか、「敵を我々の領内に誘い入れれば、我々は弱くても四方から敵を取り囲める」と。

 なんかこれってブログそのものだなーと思って、それで「情報強度(Info-Intensity)」という造語をでっちあげてみたんだけど、最近もっとこの事態を説明する直接的で良い言葉を見つけた。技術経営(MOT)の分野では知られた「ローエンド破壊」という言葉だ。『イノベーションへの解』の中でクレイトン・クリステンセンが唱えた概念で、昨年6月頃にちょっと話題になったので知っている人もいるだろう。

 ローエンド破壊という言葉を分かりやすく説明してくれているのは、CNETの渡辺氏のブログの昨年5月26日のエントリ「ローエンド破壊の進むプリンタ市場:Dell vs HP」である。デルは「ローエンド破壊型イノベーション」を、米国でも日本でもクリステンセンのセオリーに忠実に実行し、ものの見事に競合企業(米国ではHP、日本ではセイコーエプソン・キヤノン)の当初の予想を裏切って大成功した。

 この記事に書かれてない部分を含めて、少しその戦略の解説を補っておこう。デルが家庭や小規模オフィス向けのインクジェット&レーザープリンター市場に参入したのは、米国で2003年、日本は2004年のいずれも前半からだ。商品そのものは、低価格プリンターメーカーとして名を馳せているレックスマーク・インターナショナル(本当の生産は船井電機)によるOEM(相手先ブランドによる製造)品である。

 HPのフィオリーナ会長(当時)も述べているように、デルのプリンターには機能面で何ら新規性は見られず、「ただ他のメーカーの格安プリンターにデルのロゴをつけて売っているだけ」と誰もが思っていた。日本でもエプソン、キヤノンは当初まったく同じ反応を示していた。つまり、ハナからバカにしていた。

 ところがふたを開けてみると、デルのプリンターは圧倒的な勢いで売れ始めた。デルのパソコンは米国で市場の33%を握る。このユーザーが、こぞってプリンターもデルから買い求めはじめたのだ。米国では既に四半期シェアを20%台に乗せたという話も出ている。

 日本でも昨年から同じことが起きている。日本の場合、国内市場でのデルのパソコンのシェアはまだ10%だから、米国に比べてその影響は小さめではある。それでもこれまで10年以上キヤノンとエプソンの2社以外でインクジェットプリンター市場でのシェアを2ケタに乗せたメーカーはなかったのだから、もしデルが日本でパソコン同様にインクジェットプリンターでもシェア1割を取るようなことになれば、大変なできごとには違いない。

 HPやキヤノン、エプソンとデルの、いったい何が違ったのだろうか。製品そのものはどう見てもデルより他社の方が品質は上だ。デルが悪いというわけではないが、製品だけ見てもデルをわざわざ買う必然性は見あたらない。

 違っていたのは、その流通とサービスサポートだ。プリンターの故障を経験した人なら分かると思うが、ちょっと面倒なトラブル(たいていはプリンタドライバーとかソフトの問題)だと、メーカーのサポート窓口に電話で問い合わせても「それはお客様のパソコンに問題があると思われますので、パソコンメーカーにお問い合わせください」という返事しか返ってこないものだ。

 だいたい家でプリンターを使う時は、年賀状印刷など休日作業でしかも今日明日中に済ませてしまいたい用事である。いちいち月曜日まで待ってパソコンメーカーに問い合わせているヒマはないので、電話口で怒髪天を衝くことになる。ちくしょう、二度とお前のとこの商品なんか買ってやるか。

 デルはこのすき間を突いた。プリンターには何の変哲もないが、変哲があるのはパソコンとデル自身だ。デルのパソコンにはプリンターのドライバーなども一通りインストールしておき、どんな問い合わせにもパソコンとプリンター一緒に対応できる。ついでにインクも切れかけたら表示が出て、デルの通販ですぐに買える。この便利さが「たかがプリンターに余計な時間をかけたくない」という顧客の気持ちをつかんだわけだ。

 要するに「ローエンド破壊」とは、単に超低価格な商品を出して既存のライバルを出し抜くことではない。低価格品でもいいということは、その商品そのものにはもはや誰も特別な機能や価値を求めていない、つまりコモデティだということだ。

 コモデティ化した商品の価値は、「必要な時に、正確に届く」「使うのが面倒くさくない」「他のもっと魅力的な商品と抱き合わせで手に入る」といった、デリバリーやアフターのプロセスで生じる。インクジェットプリンターはもうコモデティだと見切ったデルが、大した広告宣伝もせずにインクジェットプリンター市場への参入で成功を収めたのは、まさにこのプロセスの付加価値化に目を付けたからだ。

 翻って、ブログを見てみよう。マスメディアの流す情報はコモデティか?たぶん、そうだろうね。どこにいても聞こえてくるし、よほどニュースに敏感な仕事をやっているのでもなければ、朝や晩に食事しながらテレビとネットをちらっと見れば、世の中のたいていの動向はキャッチアップできる。

 一方でブログの情報は、マスメディアが流すニュースやコラムに比べれば、確かにまったく取るに足りないクオリティしか持ってない。少なくとも、99%はそうだ。だが、ほとんどは「無料で」しかも「関心事のキーワードをgoogleに入れて1クリックするだけで」すぐに手に入る。1つ1つの記事のクオリティは低いかもしれないが、トラックバックなどで関連するブログをざっと見れば、少なくともそのテーマの問題点が奈辺にあるかはだいたい分かる。意見を述べている人にお礼や反論が言いたくなれば、すぐにコメントも書ける(他の魅力的なサービスと抱き合わせてある)。

 つまり、一見「レベルが非常に低い」ように見えるブログは、その実『マスメディア(特に活字メディア)』というビジネスを、着実に「ローエンド破壊」しているのである。このことに気がついてないマスコミ関係者があまりにも多い。

 では、もともとその市場の寡占を謳歌していた事業者は、「ローエンド破壊」で市場に参入してくるライバルとどのように戦うべきか?クリステンセンはその著書の中で「ローエンド破壊される市場にもともといた事業者たちが最後まで逃げずにいることは、ほとんど不可能である」とだけ書いている。それ以上の示唆はない。

 僕なりに考える方策を述べておこう。一番簡単なのは、その製品やサービスの市場の外側で決着を付けることだ。それが可能ならば、という注釈はつくものの、HPにとってインクジェットプリンター市場を荒らすデルを駆逐する最善の方法は「デルを買収し、HPの中に取り込む」ことである。実際には、HPはデルを買うことなどできないわけだが。

 ブログについても基本は同じだ。もしマスコミがブログに完膚無きまでに市場をローエンド破壊されたくないのなら、何らかの形で「自分の中にブログを取り込む」しかない。単に「これまでやったことがないから」という理由でブログの取り込みを拒否するようなメディア企業は、「EPIC2014」にも描かれたように、ニュースという市場の本流から駆逐されて、高齢者や低所得層など、デジタルデバイドされたマイノリティのためだけのミニコミ媒体に成り下がるだろう。

 すでに米国のメディア企業は、インターネットとの間の競争の主戦場が「コンテンツのクオリティ」ではなく「デリバリーのプロセス」に移ったことを認識している。これまたCNETの渡辺氏が「ジャーナリズムと資本論:フジ/ライブドアを絡めて」という3月18日の記事で書いているが、米国のメディアは全国的なニュースに対しては既に独自にニュースを取材するのをほとんど止めて、APやロイターなどの通信社に任せっきりにするようになっている。各社横並びでほとんど同じニュースを遅れじと1面トップに並べる日本の大手一般紙とは、既に感覚がかなり違う。

 また、ブログを中に取り込む動きも加速し始めた。ニューヨークタイムズがAbout.comを買収したのは記憶に新しいが、About.comはシステムをMovable Typeで構築した「ブログメディア」そのものであり、「EPIC2014」を見たNYT幹部が焦りまくったのがこの買収のきっかけだ、というまことしやかな噂さえある。

 日本のマスコミでも、今年後半ぐらいからこうした「ブログメディア取り込み」の動きがあちこちで始まりそうな気配を感じる。その時、「取材-執筆(編集・編成)-報道(配信)」というメディアビジネスのバリューチェーンの中で、マスメディア自身が果たす役割も大きな変化に直面することになるだろう。

 ライブドアのようなとんでもない新参者がどこから現れるか分からない激戦区の中で、その荒波を乗り越えていけるかどうかが、今のメディア企業に問われ始めていると言ってもいいように思う。

 気分によってはまだ続きます(笑)。では次回。

03:05 午後 メディアとネット コメント (22) トラックバック (18)

2005/03/23

カジテツもニートって、どうも政府見解らしい。

 ずっと前に冗談交じりでブログに書いたこと現実に。最近、現実が自分を一生懸命追いかけてきているが追いついてない予感(ウソ)。

 finalvent氏の日記のコメント欄でも指摘されているけど、これってなんか今の政策の方向と矛盾してないか?つまり、本当にニート=カジテツの方向でいくなら、「仕事させる」んじゃなくて「結婚して子供作らせる」の方向に向けないと、少子化対策と逆行すんじゃね?ていうか、それでもなんか政府が政策関与するって巨大なお世話っぽいし。

 finalvent氏は、「移民受け容れへの防御策なんでは」と解釈してるが、確かにそういうスジの狙いもありそうかも。まあ、カジテツの皆さんがどうなろうと、正直カジテツの親でもない私には激しくどうでもいいことですが。

02:06 午後 経済・政治・国際 コメント (7) トラックバック (10)

ブログと情報強度(その2.5)ネットという“思考の枠組み”

 前回のエントリから少し間が空いたのは、単にこの週明けに大きな仕事の締切があってそっちに没頭していたからで、ブログを止めようとか悩んでいたわけじゃない。

 ただ、昨年11月以来どっぷりネットにはまっていたのを少し変えてみようかなという気分はあって、あえて更新をサボってみた。その間にも書きかけの文章はどんどん増えていっているので収拾がつかないというか、結局書き続けてなければ気が収まらない人間なんだなあということだけはよく分かったが。

 さて、連載しますと宣言したまま放置していた「ブログと情報強度」のテーマ(ちなみにその2はこちら)だけど、既に前回のエントリにすごい量のコメントがついて、楽しいことになっている。

 最初のほうのコメントは割と「がんがれ」とか「すざけるな」とかの肌感覚なものが多かったのだけど、週末に近づいてからだんだん分析的なコメントも増えてきた。nomadさん、makiさん、ねなしさんのコメントが、僕的にはインパクトを感じたかな。

 特に、意味を説明もせずに放り出したままにしてあった「情報強度」というタームを勝手に分析してくれたねなしさんのコメントは面白い。そのあたりから話してみよう。

 ねなしさんは、情報強度という言葉を「論点に対してかけられた時間」に比例するもの、と捉えている。たぶん、「突っ込まれるリスクの少なさ」というような意味で解釈されたんだろう。他人から突っ込まれそうな点をどれだけカバーできる論拠を並べたか、あるいはレトリックを磨いたか、みたいなことを「情報強度」と考えたわけだ。

 ねなしさん的な情報強度の捉え方をする場合、もっとも情報強度が高いのは、情報発信者が当事者あるいはリアルで直接見た情報をそのまま書いた「1次情報」だろう。1次情報から離れて解釈の部分が増えれば増えるほど、情報としての強度(突っ込まれやすさ)が落ちるという説明は、確かに直感的に分かりやすい。

 だが、それでは「最も強い情報を求めるあなたには、1次情報だけを提供します」と言われた瞬間に、たぶん世の中の誰も仕事ができなくなるに違いない。ある事柄についての1次情報は、マスメディアやコミュニケーションメディアの発達によって身の回りにものすごくたくさんあふれている。普通の人間がそんなものを全部受け取っていたら処理しきれずに身動きがとれなくなってしまう。

 かくして、人は1次情報ではなく、「自分の価値判断の役に立つ程度に仕分け・要約・解釈を加えられた情報」を求める。すべての1次情報に当たるのではなく、解釈し絞り込まれた情報を受け取れば、時間の節約になるからだ。多くの人は時間を節約したいから、1次情報を適度に解釈してくれた人にお金を払ってでもそれを買う。これこそが、マスコミの収益の源泉だった。

 ガ島通信で20日にあったGLOCOMの若手研究会の話がちょこっと書いてあったが、面白かったのはその中での、「既存メディアの確からしさ」に関するガ島氏の以下のような発言だ。

すでに既存メディアは確かではない。確かなものがほしいという、願望のようなものを担保しているだけで、新しいシステムになれば誰か(ブロガーかブロガー集団、もしくは会社のようなもの)がそれを代行することになるだろう
 さすがである。逆に言えば、メディア人としてこの発見を率直に吐露してしまうほどビジネスライクに頭が良かったゆえに、彼は新聞社を辞めなければならなくなってしまったとも言える。

 ブログ界隈では既に多くの人がこの「願望」というか「幻想」の存在に気がついている(願望から完全に自由な人というのはまだそうたくさんはいないが、少なくとも自覚している人はかなり多い)と思う。いつの日か、この幻想が完全に消滅する時がくれば、その時は恐らくマスコミの収益も大部分が雲散霧消するだろう。

 実際のところ、日本のマスコミはこの「願望」こそが収益の源泉だと見定めて、これまで過剰なまでの経営資源をここに集中投下してきた。具体的に何をやったかと言えば、「偉そうな物腰でものが言える偉そうな人材を育てる」、つまり読者という信者の願望に答え、その願望を再生産して社会にばらまく人間の養成である。だから、そういう人材つまり「記者」に対してもものすごい人件費を支払い、彼ら自身にも「自分は社会を教導する役目を負う特権階級なのだ」という暗示をかけまくった。

 柄谷行人風に言えば、ここである超越論的転倒が生まれる(笑)。つまり当初は「1次情報をいちいち自分で解釈し、絞り込んで取り入れるのが面倒だから、うまく解釈してくれ」とお金を払って頼んだはずの相手(マスコミ)が、いつの間にか1次情報をよく見ずに考えついた勝手な妄想を、お金を払っている人(読者)に押しつけて来るようになってしまったのだ。つまり、今の多くの人は1次情報とはあまり直接的に関係のない「解釈の流儀」だけに、年間何万円ものお金を払っているわけである。

 とはいえ、その解釈には一応あてはまりそうな1次情報も多少くっつけられて送られてくるので、役に立たないわけではない。情報を伝えるための手段という意味では、新聞や雑誌やテレビ(NHK)は確かに便利といえば今も便利だしね。ウンウン。

 でも、インターネットという媒体が入ってくると、こうしたマスコミの存立を支える前提が全部ひっくり返る。

 まず、ネットの中には1次情報も解釈情報も含めて、あらゆる情報が無限に存在する。求めれば、既に公になっているものについては誰かが投げてよこしてくれる。少なくとも、本来は公になっているはずの情報を、ちまちまと時間差をつけてしかも膨大な妄想的(つまり一般人にとって役に立たない、あるいは事象を誤解させるため有害な)解釈をくっつけて配布するようなマスコミは、お呼びでなくなる。

 むしろものすごく必要になってくるのは、膨大な1次情報を「どうやって効率的に解釈して振り分け、受け取ればいいのか」という、これまでマスコミが独占的に資本投下して囲い込んでいたはずの、あの作法である。それさえあれば、一般の人間も1次情報を自分なりに解釈して結論が出せるようになり、日常生活や仕事に役立てられる。

 僕は、ネット時代の情報強度とは、一般人にとってあるテーマ、事象に関して「膨大に存在する1次情報を、どのような思考の枠組みで解釈し、振り分けたか」が分かり、他の解釈の方法も示され、その中で自分が「最も確からしい」と思ったものを選択できることを意味すると思う。

 例えば、人権擁護法案について考えてみよう。この法案に対して、マスコミはほとんど言及していないか、あるいは報道による人権侵害の規制に反対という文脈でしか言及していない。これでは、法案そのものに反対なの?賛成なの?と言われても、さすがに今どき、「新聞では反対って書いてあるから俺も反対」などと間抜けなことを言う人もいないだろうし、「判断のしようがない」としか言いようがない。

 それでネットを検索してみると、いろいろな情報が出てくる。「賛成か反対か」という結論はさておき、出てくる意見がよって立つ「思考の枠組み」を整理してみると、次のようなものがあることに気がつく。

  • 人権擁護委員の資格に、国籍条項がない点(在日朝鮮人などでも委員になれる!とか拉致問題解決の障害になる!とか)
  • 組織体制に関するコントローラビリティとカバレッジという点(全国に2万人の人権擁護委員を、法務省にいる数人の人権委員でコントロール・監督できるのか?とか)
  • 人権擁護委員に与えられている調査権などが、警察の持つ捜査権を超えるほど強権であるように見える点(捜査令状もないのに自宅捜査されちゃう!とか)
  • 人権擁護委員による逆人権侵害が発生した場合にどうなるか?という点
  • そもそも誰のための法案なのか?という点(人種差別撤廃条約に批准したいというのがそもそものきっかけ?とか、入管業務の話とか)
  • 報道被害に対する法的措置の是非という点(憲法の表現の自由、報道の自由とのかねあい?とか)
 で、新聞のどこを探しても書いていないこうしたことが、ネットではちょこっとぐぐるだけで、あるいは「まとめ」と題したいくつかのブログを読むだけで、ほぼ網羅できる。

 個人的に「このポイントはどうでもいいや」と思うところはすっ飛ばし、「ここは重要だな」と思うところはリンク先を読み進めたりしてさらに深く考えればいい。一生懸命反対を煽っている2ちゃんねるのようなところもあれば、冷静にそれぞれの切り口の意味を斟酌しているブログもある。そういう「視点の多様性」や「枠組みを俯瞰できるところ」というのが、一方的な解釈を押しつけるマスコミと違う、ブログやインターネットのいいところである。

 湯川氏のブログなどでも既に書かれているが、ブログというのは、1つ1つのエントリには間違いもあるし、思いつきだけに過ぎないものも多いし、どこから突っ込まれても叩き返せるマスコミの鉄壁解釈とは違う柔さがあるのだけれど、それがたくさん集まって、検索やコメントやトラックバックというかたちでネットワークを形成することで、マスコミを上回る「解釈の枠組み」の有用性が生まれるのだと思う。

 既に公になっている1次情報を、いくら記者クラブで囲い込んでも意味がない。そしてこれまで投資してきた解釈の鉄壁性の部分でも、ネットの登場とその本質的変化についていけない古い頭の人たちがのさばっていることで、想像以上に社会への影響力(つまり収益力)の劣化が進んでいる。今のマスコミの状況を簡単に言い表すと、こういうことだろうね。

 これを、共同通信の小池氏のように「年上の俺たちの言う通りに雑巾掛け仕事をしない若いやつはダメだ。文句ばかり垂れるような頭でっかちは来るんじゃねえ」とか言い放っちゃうと、ただでさえ凋落するマスコミがますます既得権益にしがみつくジジババの姥捨山化するわけですな。

 ま、別に妄想誤報を連発する共同通信に優秀な新卒学生が全然入らなくても、今どきインターネットがあるので誰も困らない。どんなビジネスであれ、世の中のニーズをつかみ損ねたビジネスは、資本主義社会の中では存続を許されないわけですし。さようなら共同通信。さようなら産経抄(笑)。

 コメントしてくださったねなしさんをはじめ、世の中の人はまだ「1次情報が最も強度があり、それに近い人が発言する解釈情報に次に強度がある」と考えていると思うが、実はそうではない。1次情報を持たない、強度の低いブログでも、個々のブログが提示する「思考の枠組み」のネットワーク的総体が、1次情報に近い人の情報強度を追い抜く可能性がある。つまり「柔よく剛を制す」のがネット時代の情報強度ですよと、こういうことが言いたかったんである。

 ちなみに、この話まだまだ続きます。では次回。

01:16 午後 メディアとネット コメント (8) トラックバック (17)

2005/03/20

オープンが、オールドタイプということなのか!

 団藤先生のブログ時評に、ついにfinalvent氏が激突。「『ブログ時評』というスタンスをもうやめたほうがいいと思う。普通のブログとまったく同じ地べたに立って、発言していくほうがいいと思う。」と、ばっさり。

 ついでに、ブログ時評のコメント欄では1月にmumurブログにガソリンぶっかけられて逆上した鮫山ネギが「ネット右翼なんて右翼じゃない。ただのゴロツキです」と、意味不明な絶賛コメントを寄せている。ブロゴスフィアを敵視するブロガー2人の美しいレゾナンス(笑)。

 さて、ますます香ばしくなってまいりました。

 団藤先生は最近、mumurや週刊オブイェクトなどの過激な街宣車系(笑)ブロガーだけじゃなくて、札幌の高田氏、猫手企画など、マスコミ関係者のブログや、むなぐるま氏など「穏健良識派」と見られるサイトからも集中砲火を受けていたので、業界関係者同士のおつき合いをどうするつもりなんかなーと思っていたが、相変わらず唯我独尊のシカトぶっこいているようだ。

 朝日新聞がカナロコみたいにブログニュースのサイト始めたら、オーディエンスのコメントをばっさばっさ削除し、反論TBには「私の築いたブログに泥を塗るゴロツキですね」みたいな放言をぶちまける超不愉快な巨大ブログ集団(笑)が突如出現するんだろうなー。その時日本のブロガーたちはいったいどうするんだろうか。

 誰かが、「『誰に対してもオープンでリスペクトを示すべき』という、絵文録ことのはとかが主張するブログのルールは所詮『オールドタイプ』なんだ」、みたいなことを書いていた気がするが、朝日とかの異論排除系マスコミが本格的にブログ界に進出してきたら、それってもうすぐリアルな話になってしまうのかも。悲しいけど、これ、現実なのよね。

 個人的にはそういう朝日的なブログというのは、いみじくも団藤先生自らおっしゃっているようにクローズドな認証エリアで展開してもらいたいというか、オープン・インターネットの世界でコメントとかTBを募集しないでいてほしいと思うわけですが。そこんとこ、どう思いますのか。

08:16 午前 メディアとネット コメント (33) トラックバック (10)

2005/03/18

ガ島さんと転職のこと

 一昨日、東京に来られたガ島通信氏と会って昼飯(カレーライス)食って茶しばいてきた。えーガ島さん、ちょー背高くて(たぶん180cmはある)ちょーイカシたナイスガイだぞ!!いや、マジで。僕が女なら目がはぁと♪になってしまうところだ。あれで独身なんか?!ありえねえ。××(彼の居住地)の女の目はみんな節穴なのか、オイ??

 というのはさておき、彼と1時間半ほどマスコミ、転職絡みのことをいろいろと話し合った。驚くほどお互いに考えていることが似ていたので大笑い。僕的には「ゴールドラッシュの横でジーンズを売る」っていう喩えにはまった。いやあ、楽しかったです。

 ま、彼の転職の真意みたいなものの詳しい中身は彼のコンテンツであるし、そのうちガ島通信で連載があると思うのでここでは語らない。その代わり、転職ということについて語ってみたい。

 1つだけはっきりしていることは、ほとんどの人が転職せずに1つの会社を勤め上げて一生を終えるという時代は、もはや終わったということなんだろうと思う。

 理由は、簡単だ。1つの会社が40年間継続して成長するなんてことはほとんどまれである、ということにみんなが気がついた。それだけのことだ。

 企業の発展は、よく軍事作戦に喩えられる。どんな事業でもその始まりから終わりまでに必要なタイプの人間とは、大きく分けて4種類だ。市場機会があると思われるところに危険を省みずパラシュート降下したり、暗闇に紛れて上陸作戦を敢行したりして橋頭堡を築く「コマンドー」、その地域に橋頭堡が築かれたら集団で上陸し、巧みな波状攻撃でもって戦力を面展開し占領する「歩兵」、そして占領された地域に入って統治し、その地域から上がる収益をなるべく豊かにする「警察」、最後に、侵攻に失敗したり撤退する時に、後ろから追ってくる敵をうまく手なずけて被害を最小限にとどめる「しんがり」だ。

 面白いことに、よほど特殊な分野でもない限り、人は勉強さえすればたいていの分野の軍事作戦をこなすことができる。生まれつき電気製品のビジネスにしかかかわれない人とか、保険以外のどんな事業をやらせても失敗する人、などというのはいない。

 だが、この4種類のうち1人の人間が2種類以上こなせる能力があるケースというのは、極めて稀だ。画期的な技術を開発する技術者が、同時に冷徹な大組織の管理の天才でもあったなどという例は滅多にない。

 どの企業にもこの4種類のタイプの人間がいるが、企業の成長フェーズによって必要なタイプの割合というのは変わってくる。生まれたてのベンチャー企業にはたくさんの「コマンドー」とごくわずかの「歩兵」しかいないだろうが、成長期にはトップ以外にも才能ある「歩兵」の右腕がいなければ会社は回らない。そして、成長の止まった巨大企業では「コマンドー」は慎重に排除され、冷徹な「警察」と場合によっては「しんがり」が、膨大な社員を操ってコストと事業展開領域をコントロールすることになる。

 戦後の焼け野原からずっと、日本の企業は量的拡大を続けてきた。つまり成長軌道に乗ったときのタイプ別社員構成をそのまま微修正程度に維持しながら、事業領域をどんどん拡大し続けることで組織を再生産してきたわけだ。それで戦後50年近くうまくやってきた。

 ところが、バブルが弾けて成長が止まってみると、この成功方程式がまったく通じなくなってしまった。いくらもがけど、本業の周辺に新たな事業拡大の余地はもうない。本当は「警察」と「しんがり」に会社の操舵を任せ、領地の統治に必要最低限の人間以外は切り捨てて新たにまったく別の方面に向けて外部も含めた生きのいい空挺部隊を編成し、侵攻させなければならないところなのに、上層部には未だ「歩兵」出身のボスが居座って、脳天気な突撃命令を繰り返している。おまけにその下には上の突撃命令に盲目的に従うことしか知らない思考停止なミドルしかいないから、本丸の裏手の「株式市場」から、ある日突然ITベンチャーの空挺隊がワラワラと降ってきても、そういうのは見えなかったんだとでも言わんばかりに明後日の方向に突撃するふりを繰り返すのをやめようとしない。

 別に城が落ちてしまっても、社員の方はと言えば、勉強さえし直せば領地を拡大している他の会社に雇ってもらえるわけだから、城とともに自分の地位や老後の報酬が決まる上層部以外は、組織そのものに執着する必要なんかさらさらない。むしろ、「警察」のつもりだった人間が、奇襲攻撃に大慌ての上層部にある日突然「明日から君は敵奇襲部隊迎撃のためのコマンドーを命ずる」とか言われても困る。そもそも本人の能力ではできもしない、やりたくもないことを押しつけられて、不幸になるだけである。

 つまり、量的拡大という大前提が崩れた瞬間に、働く者にとって会社という「殻」が持っていた意味は、根本から変わってしまったのである。

 もちろん、相変わらず成長し続けている企業だって少ないが存在はする。トヨタとかしまむらとか。そういう会社には一生勤め上げることもできるだろうし、実際のところ転職というのはそれはそれで個人にとって結構な一大事なので、転職しなくてもいい境遇というのは、ある意味で「幸せ」ではあるだろう。

 だが、別の意味では会社という枠を超えて自分の人生を自発的に選び取り、エンジョイするという快楽、スリルを味わえずに雇われ人生を終わるというのも、正直もったいないなと思う。まあ、そういうスリルや快楽が要らないという人も世の中にはいると思うので、そんな心配は余計なおせっかいだろうけど。

 ただ、継続的に右肩下がりの、つまり既に保有する領地さえうまく統治できないような会社というのは、よほどの手腕がトップにない限り、社員を幸せにすることはできない。そういう会社にいる若い人は、悪いことは言わないから転職先を探しにかかったほうがいいと思う。

 転職先は、探すだけならタダである。ただし自分にぴったりの仕事が見つかるのはタイミングの問題でもあるから、納得のいく仕事を見つけるには時間をかけなければダメだ。結婚と違って、相手探しにかける時間が少なければ少ないほど、条件の悪い相手しか見つからない(結婚は逆…のような気がする)。僕も前の会社の右肩下がりが3年続き、社内でいろいろと情報収集した結果、さらに今後数年かそれ以上は悪化が続くと見切ってから転職活動を本格化させたが、それでも納得のいく転職先を見つけるのに1年かかった。

 最初の話に戻ると、ガ島さんもある意味、僕と同じようなことを考えての決断だったようだ。繰り返すが、彼と僕に共通するのは、1つの会社に居続ければ、その中で自分が必要な能力も経験も自然のうちに与えてもらえるという時代は、もう終わってしまったという認識だ。

 僕も(たぶん)彼も、前の会社が嫌いではない。むしろ精一杯愛して、自分のため以上に、会社のために働いてきた。でも、その経験から「これ以上ここにいても、この会社に必要とされている能力や経験を、僕は身につけられない」と悟ってしまったのだ。だから、会社という殻の外に出て経験を積み、能力を磨くことにしたのだ。

 こういう考えを言うと、「日本的雇用に対して何でも『米国では~』とアンチを言い張る外国かぶれ」的な目で見る人も少なくない。でもそれは全然違う。米国のマネをしてこういう結論にたどり着いたのではなく、日本の経済社会の仕組みが、あらゆる企業が画一的に量的拡大を続けるなどという戦後経済成長の特殊幻想から完全に解き放たれたというだけの話なのである。

 そんなわけで、ガ島さんにはぜひ転職してからも自分の目標を見失わずにがんばってほしいと思う。彼がまた東京に出てくることがあったら、あのルックスをエサに知り合いの女性を食事に誘うとしよう。

02:29 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (14) トラックバック (14)

2005/03/17

ビバ!ホワイトデー(鬼嫁日記風)

 一昨日はホワイトデーだった。1ヶ月前の同じ日に比べると、世の中の大騒動(中止宣言発表、切込隊長荒れるetc.)などの度合いは全然静かな記念日である。この日本という資本主義社会がいかに今もって男性中心の価値観で回っているかが、これほど分かるイベントもない。

 ところが、ここに世の中と正反対な集団がある。R30の勤務先の会社である。うちの会社は社員のちょうど半分を女性が占める。しかも(お局様とかそういう意味ではなく)枢要なポジションを占めている人が多い。

 するとどういうことが起こるかというと、男性陣の女性に対する気の使い方といったら、もう大変なレベルである。

 ホワイトデーの前の週末に入る前、僕の上司(男性)から、僕を含めた数人の男性社員にメールが届いていた。「3月14日はホワイトデーです。女性の方々にバレンタインのお返しをしないといけないので、皆さんで相談して1人500~1000円相当のものを月曜日に人数分買ってきてください」

 入社2ヶ月しか経ってない僕は、そのメールを見てのけぞった。バレンタインデーに女性陣から配られたチョコレートというのは、おやゆびの先ほどの大きさの箱に入った、2センチ四方ぐらいの小さなトリュフチョコ2つだった。うちのカミサンの値踏みでは、「どう見ても200円はかかってない代物」である。

 そのお返しが500~1000円なのか。倍返しどころの騒ぎではない。必殺MAX5倍返しである。しかもホワイトデーの主役は、チョコレートに比べて体積当たり単価の安いクッキーである。ディズニーショップで売っている高さ10cm以上の円筒形のクッキー缶でさえ、800円ほどである。

小指の先ほどのチョコのお返しに1人1つの缶入りクッキーかよ。藁しべ長者も腰を抜かすぞ。

 一瞬上司の真意を疑ったが、まさかここで返信メールで「ボスはそんなに職場の女性が恐いんですか」とか、いちいち確かめるわけにもいかない。しかも徹底した年次主義のマスコミ文化で育った僕にとっては、上司の命令は常に絶対である。メールの宛先になった人のうち、一番入社が新しいのは僕である。とすれば、まずは黙って買いに行くしかない。

 さっそく日曜日の午前中に近くのショッピングモールに行き、こじゃれた雑貨店に行くと、白い小さなセラミックボールに入ったカワイイくまの顔の小さなクッキーが並んでいる。しかも476円。見た目よりは安い、ビミョーな金額だ。

 「お、これ良さそう♪」

 と思った僕は、ケータイで写メを上司に送った。他の先輩方から「買っときます」連絡も入ってなかったので、これで十分だろうと思い、そのまま月曜日に出社した。

 すると、月曜日に上司からメールをもらった先輩のうち、僕以外にも2人がプレゼントを買ってきていた。しかも先輩たちのは、僕の買ったのよりもさらに体積がでかい。メールの指示通り、数百円台後半ぐらいのクッキーを買ってきたらしい。

 僕「なんだ、重複してたんですか・・・(´Д`;)」

 メールを出した上司も来ていて、ばつが悪そうに頭をかいて立っている。

 上司「いやー、分散して頼んでおけば買い忘れるっていうリスクが最小化できると思ったんだよ」
 

・・・上司、そんなところまでリスクマネジメント能力発揮しなくても。

 先輩「しょうがない、全部詰め合わせて配ろう」

 そう言うと、先輩が首尾良く持ってきていた大きめの手提げ袋にみんなのもってきたクッキーを1つずつ詰め始めた。僕も手伝う。1つ1つもきれいに包装されているのをさらに包むので、

 先輩「まるで福袋かクリスマスプレゼントみたいだなあ・・・・(´ロ`;)」

 僕の脳裏にフラッシュバックする、2月に女性陣からもらった親指の先ほどのチョコ。

あのチョコのためになぜここまでやらないかんのか(。´Д⊂)うぅ・・・

 その後、3月のサンタクロースよろしく、先輩とともに大量の袋を抱えて、職場中の女性の席を1人1人まわって「2月の折はありがとうございました」と言って頭を下げながら配って回る。ここまで腰の低いホワイトデーは、生まれて初めてだ。_| ̄|○

 普通の会社の女性社員なら、ホワイトデーに男性にここまでされたら甘エビでカツオを釣ったかのように狂喜乱舞するだろうと思う。だが、うちの会社は違う。一応「わーありがとー」と棒読みの返事を返しつつ、誰もが袋の中の品物チェックに余念がない。

 そのうち1人が、僕の買ってきたセラミックボール入りのクッキーを見つけて、こう言った。

 「このクッキー、なんかかわいくない?こんな商品、××(部署名)の男性陣が見つけてこられるわけがない!(゚Д゚)クワッ」

 「奥さんの手を借りた人がいるわね!誰?」

 皆さん、そこまで言うか(汗)・・・うちの部署の男は本当はみんな心優しいんですよ、卑屈なまでに・・・(;´Д`)ノ

 僕「あ、それ、僕が買ってきたんスけど・・・(;´Д`)」

 女性陣「R30さんだったのね!奥さんが選んだんでしょ!(゚Д゚)」

 僕「いや・・・そ、その、僕が自分で・・・(´ロ`;)」

 女性陣「えーっ、ウッソー!!R30さんってこんなの選ぶ人なの?!信じらんな~い!」
 

サンタクロースがここまで言われたら、来年は代わりにブラックサンタを差し向けようとか思うに違いない('A`)

 その日家に帰ると、カミサンが家でいくつものクッキーの箱に埋もれていた。「会社でいろんな人からお返しを