クビ大なんてマジでどうでもいい
首都大学東京(クビ大)の話で、Remember309さんのブログから大仰な内容のエントリのトラックバックをいただいた。
それによると僕の前回のエントリの内容を「日本の歴史・文化的背景を理由に、クビ大よりも都立大のような大学の方が、公立大学としては、不要であると主張されているようだ」とご理解されたようなので、ちょっと補足しておこう。クビ大も都立大もぜんぶ不要だと思ってますが、何か?(´ ∀ `)
なんていうか、クビ大話というのはあまりにもケチを付けるべき要素が多すぎて、いわゆる「難波OK通りを疾走する突っ込みどころ満載のトラック」みたいなところがあって、困るのである。
本当は関係者全部に悪口を言いたいのだが、関係者全部そこそこに知能が発達していらっしゃる方々ばかりなので、あっちの悪口を言うとこっちの人が「それみたことか、やっぱり俺たちの言い分が正しいんだ」とか意味不明の悦に入ってしまう。
それで「(日本社会の要請とかヒトラーとかその他いろいろな理由で)本質的に日本には公立大学なんて要らねんだよゴルア」とか申し上げてみた次第だったのだが、どうも僕のご説明が低レベル過ぎたようで、それでもやっぱり誤解されてしまうようだ。頭のいい人たち、恐るべし。
本当のところ、僕個人の立場としては彼ら(ヒトラー&スターリン、東京都庁、クビになる&ならない大学関係者の方々)全員にこうした論点に気がつかずに、そのまんまさりげなく逝っていただいた方が実は大変ありがたいのであるが、一方で頭の良すぎる人たちを見ると絡まずにいられなくなってしまうという卑しい性の持ち主でもあるので、ブログのネタとして晒してみたい。
クビ大の批判ポイントは無数にあり、しかもそれが次元の違う論点として折り重なっている。ちょっと整理しておくと、以下のような感じだと思う。
- 国公立大学そのものの存在は是か非か
- 仮にそれが是として、従来の都立大をぶっ壊す(COE追放、人文潰しetc.)のは是か非か
- 仮にそれが是として、クビ大という再編の方向性は是か非か
remember309氏を初めとするクビダイ・ドットコム関係者の方々は、2.や3.についてはそれなりに議論を深めているようだが、2.や3.の主張を支える前提である1.について語っている人が誰もいないように見えた。なので僕が1つめの論点を提示して差し上げたという次第だ。
日本で国公立大学そのものの存在意義(おフランス語で申し上げるとレゾン・デートル)がもはやないという件については、僕のような回りくどく諧謔的な表現を読み解かなくても、極東ブログの1年半も昔のこのエントリあたりが非常に的確かつストレートに述べているし、社会背景はそれ以来何も変わってないので、そちらを参照されたい。
極東ブログの記事に付け加えておくならば、まあ今さら言っても詮無いことではあるのだが、本来もっとも適切な都立四大学の再編方法は「民営化」であった。
もっと分かりやすく言うと、あんたらのやってることは郵貯と同じですよと、こういうことだ。存在そのものが高等教育の市場原理を歪めている。もちろん、郵貯に比べると月とスッポンぐらいの違いですがね。哲学的に言えばスッポンだろうと何だろうとおかしいものはおかしい。
だいたい、内田センセイの今日のブログでも書かれているが、ただでさえ今の私立大学は少子化で30~40%が実質無試験、応募さえすれば入れるという状況に追い込まれている。その上さらに税金で賄われる学費格安の公立大学が、横から学生を奪い取ってどうしますか。どうして誰も「民業圧迫」って指摘しないのだ。
論点の2.については僕は意見を言えるだけの情報がないので、態度を保留する。あえて一市民として言うなら、「内田樹という知性を生んだ環境がなくなるっちゅーのは、なんとなく残念だねえ」という程度だ。経済学のCOEとか、マジで超どうでもいいし。
で、3.の論点について僕なりにちょっと述べておきたい。仮に公立大学にそれなりの存在意義があるとして、では彼らはどちらの方向へ向かえばよかったのか?という話だ。
なんか、中央に政府の立てた総本山があって、その門下生を大量に吸収し続けなきゃいけないので地方に税金でボコボコ箱作って、気が付いたら少子高齢化で客がどこにもいなかったって、これ医療の世界とそっくりだな。医療機関は、近くになければときには命にかかわる分、なんだかんだ言いつつ地域にとっての必要性は高いけど、大学なんてなくても命にまったく別状ないし。
「知識の集積」が必要というだけなら、東京でも大阪でも大都市に出れば、いくらでも有名な大学はある。ということは、恐らくこれからの公立大学というのは、保有する専門科目のどれもが日本で5本の指に入るレベルだぐらいの自信がない限り、「知の集積」なんてものを売りにして成り立つと考えてはいけないということだ。
その意味で、クビ大が目指す第一の方向、つまり「実益重視」で経営学や法学の専門大学院を充実させるというのは、明らかに間違っている。
MBAスクールなんて、首都圏だけでも一橋や慶応を筆頭に早稲田、法政、立教など名だたる国私立大学が死にものぐるいで力を入れ、収益化しようとしている。民業圧迫という批判はさておいても、クビ大ごときが今さら参入して勝てるとでも思っているのか。都庁職員への割引サービスで学生数を確保しようと思っているのかもしれないが、そんなことをすればただでさえこんな大学構想を考えついてしまう都庁職員の損傷した脳みそを、なお一層劣化させるだけだ(笑)。
ではどうすればとなるが、実益重視がダメならカルチャーセンターを目指すしかない。ここで問題になってくるのは、前回エントリにTBを打ってくださった並河助教授のブログでもご指摘の通り、「互いに相手を意識して関係ができれば、教えるという行為がまったくなくても学習組織として成り立つ」という現実である。したがって大学経営上の課題は、別に研究能力の高い教授がいるかどうかなんてどうでもよくて、学生に対してそういう「関係」を与える場をどう作るかということになる。
石原都知事が言うように、かつてそれは「同じ釜の飯を食い、酒を酌み交わして論じ合う」という旧制高校の文化として存在していたこともあった。だが、都知事は最近の若者の実態を知らない。今どきの若者を1つの部屋にぶち込んで食物とアルコールを与えても、恐らく彼らは自分のパソコンやゲーム機に向かって黙々1人遊びするだけである。その程度のことで交流や教養が深まると思うなど、まったく笑止千万だ。現代の若者の卓越したニート的コミュニケーション拒絶能力をなめてもらっては困る(笑)。
せいぜい可能なのは、石原氏の知り合いの知識人にボランティアで精力的に教壇に立ってもらって、石原流の「教養」とやらを振りまいてもらうぐらいだろう。石原プロが全面バックアップして渡哲也とか舘ひろしとかが講義すれば、タレント教授を一目見ようと南大沢周辺のジジババがたくさん受講しに来そうだな(笑)。ま、それにしたって、最近NHKまで使い始めた「三色旗ソリューション」の発動には、はるかに及ばないだろうけど。しかもこの戦略は、石原氏が知事を辞めたらその瞬間に大学そのものも意味がなくなるという諸刃の剣。
話が少し脱線したが、要は都知事の思いこみと世間のトレンドに何となく便乗して大学をいじっただけで、今の公立高等教育ビジネスにどういうブレークスルーが可能なのかといった検討がまったくなされてないとしか思えないのが、今のクビ大の実態だ。別に大学教員がサボってるんじゃないのとか、そういう問題ではない。頭の良いRemember309氏も分かっているように、「仮に実益重視という観点に立ったとしても(あるいはカルチャーセンター化を目指すとしても)、クビ大構想がいずれ破綻するというのは、明白」なのですよ。
そんなわけで、僕としては石原都知事には財政難でも何でも理由にこじつけて、クビ大を存続させようとしたりせずに、早いところ潰したり売却してもらいたいと考えるものである。別にクビ大がやらなくても、教養ある市民を育てる役割は他の誰かがやる。ていうか、「クビ大が、どのようにして終わっていくかの実証的な検証」なんて、マジでどうでもいいよほんとに。頼むからそういうくだらない後ろ向きなことに都民の税金使わないでください大学の先生方(笑)。
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コメント
いくらか瑣末な話になりますが、
(ほぼ)完全平等な試験や入学制度を課すことができるのは国公立だけの強みじゃないでしょうか。
いやそんな試験なんてナンセンスだよ、不平等当然、という立場もまあアリだとは思いますが。
投稿: スープ | 2005/02/01 06:42
国立大学推薦入試に地元枠を設けることは医学部を中心に普通に行われています。地方の医師不足といったそれなりの理由あってのことですが、国立大学だから経営政策がないということは決してありません。
投稿: 並河 | 2005/02/01 15:19
遅くなりましたが、私のブログを取り上げてくださり、ありがとうございました。
コメントにすると長くなりそうなので、自分のところで取り上げトラックバックしました。
投稿: shig | 2005/02/02 21:23
「ヒトラー」とか「頭のいい人たち」とか、初めて読むには分からない単語が多いのですが。しかもそれぞれ感情的な価値付けがされていて、読んでいてあまりいい気持ちはしません。
ところで、極東ブログを参照した上での1.の国公立大不要論は以下の理解でよいですか?
①大学は知性を選別し育成する場である。
②しかしながら現在の大学生の知的レベルは低い。
③②の現象は、国公立大が税金による低学費のため、市場原理を崩しているために生じている。(すなわち、私学へ低知性が流出しているため?)
→国公立大不要
以上の理解が正しいと仮定した上で話を進めますが、②と③がよく分かりません。
②を示すデータは?
③は、国公立大がなくなり市場原理を適正化すると、なぜ①が機能するのですか?
文章が投げやりに感じられて、全体としてあまり分かりませんでした。
投稿: みわごろ | 2005/02/04 21:42
みわごろさん、まず前回のエントリは読んでますか?
感情的な価値付けについては、ここはカラミケーションの本拠地ということもあり、生真面目な性分だとつらいかもしれません。
国公立大不要論は、
(a)外国の大学と単位交換できないようなレベル=大学や教員のレベルが低い=そんな先生に育てられた学生のレベルはきっと低い
(b)国立大のセンセイに任せていても状況は一向に良くならない(国際競争に勝ち残れる学生の育成ができない)
(c)民業圧迫になっているだけ
(a)と(b)が極東ブログで、R30氏が(c)を付け足した。
市場原理を崩しているから学生のレベルが低いわけではなく、市場原理を崩しているのに学生のレベルを上げてもいない、ということが問題とされているのではないですか?
投稿: maki | 2005/02/05 12:52
finalvent氏は、私学の方が独立しているから大学らしいと述べてますね。
そうじゃないと、阿呆な政治家が名前変えたり、ロクなことにならないということですな。
投稿: maki | 2005/02/06 19:22
今更の返事で申し訳ありませんが、makiさんありがとうございます。
以前のコメントは、前回のエントリも読まずにコメントしてしまいました。
makiさんのご指摘になるほどな、と思いはしたのですが、一方でまだ引っかかっている部分もあります。それは、「大学の価値を決める教員や学生のレベルとは何で測りうるか」という部分です。
finalventさんは、外国の大学との単位交換を指標として挙げていますが、そこまでのものかな、という気がします。確かに授業のレベルを測る外的基準にはなるでしょうが、授業は授業にすぎないのではないでしょうか。重要なのは、どういった授業をするかではなく、授業等を通じて、どういった成果を教員や学生が残したかではないかと思います。
私が大学の価値を決めるにふさわしいと考える成果とは、投稿論文の数やプロジェクトの採択数です。国際競争という点を強調するならば、国内のものよりも国外のもののほうがよいでしょうね。それらのデータを示し、私立のほうが国公立より有意に多かったならば、納得がいくのですが。
成果の見えにくい人文学の分野でも同様です。納得のいくデータを示して論を進めて欲しいものです。
投稿: みわごろ | 2005/02/15 01:40
いやはや、面白い記事を読ませて頂いて感謝します。
はっきり言って、大部分の日本人にとってクビ大なんかどうでもいいことです。これは大きくうなづきます。そこで職を得ている方々について一般の国民が関心を持つことも少ないでしょう。
大学の評価について具体的なデータがない事について単位互換を向こうの大学がしてくれないことを貴方は根拠にしていますが、それでは不十分だという方も、そもそも一般の方にそんなことできるわけもないでしょうに、少しいやな書き方ですね。
私は世界各国に行きまして欧米で専門書を出したり、学会誌に書いているものです(理系ですが、人文に友達がいるのでいろいろネタが入るんですよ)。日本では、アウトローですから好き放題かける立場です。ま、日本の大学などそれこそドーでもいいことです。
日本の大学の成績(特に人文学)ですが、英国や米国で経験したことですが、さほど信頼されていないのは本当です。学生も知識の深さと正確さには定評がありますが、判断力、独創的分析には見るものがないというコメントも多くあります。英国の大学がこの成績なら大丈夫と取ってきた日本のS国立大学の学生が、取ってみたらこれがオールAの学生か?と教授達が驚愕した実話を私はしっています。この手の話は結構あるんです。ま、そういう人でも外国の大学での紙の上での成績は良かったり、学位はくれますけどね。最近の東大あたりは、かなりいい人が採用されはじめていますから、良い方向に行くと思います。
一部の日本の先生には、アメリカの水準が低いとか言ってる方もいますけど、向こうの水準では日本の学問も低くなる場合もありますし。まあ、こんなところで話す内容でもないですが。
また日本の教員の業績も余り評価されていませんが、これは日本の大学が質の低下を自分から招くような各大学ごとの紀要論文集を乱発しすぎたことに起因しますし、人文の場合、欧米文化を研究していては本場の学者に勝てるわけもないので、これは少し気の毒な気もしますけどね。
でも、本場に勝てない外国分野の学問に、何時までも巨費を投入することもないでしょう(もちろん文化交流の必要上、適正な数の外国文化研究者はいた方がいいですけど、今の大学の数バブル状態ですよね。欧州なんかならハナにも引っかけられない研究者が助教授とか、研究者気取りの実質翻訳者とか、マー冗談やめてください(爆))。
ブログの主張の、大学のカルチャーセンター化というのはいいですね。学問なんて大学だけが担い手である必要もないし、そこに資源を集中させることもない。
投稿: 月光仮面 | 2005/03/20 23:40