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2005/01/26

首都大学東京に思う、大学は何する所ぞ

 内田樹センセイのブログ回りで、首都大学東京、通称「クビダイ」の話が盛り上がっている。元都立大仏文科の助手だった内田氏が、「大学に文学部なんかいらねんだよ」とうそぶいた石原“スターリン”慎太郎都知事と、東北大学長時代に自分の研究室に学生が本を持ってくるのを禁じたという西澤“ヒトラー”潤一学長を、すごい勢いで罵倒している。

 門外漢にもなかなか楽しい文章なので、地方から東京の大学を受験しに来ようと思っている甥、姪のいたりする人は、彼ら彼女らに間違ってもクビダイを受けさせないようにアドバイスするためにも、ぜひ読んでおきたい。

 内田教授の言うことはいちいちもっともなのだけど、彼の書いたエントリにあちこちから張られたトラックバックを読みあさりながら、何か頭にひっかかるものを感じた。

 いったい何だろうと思っているうちに、このブログとかこのブログのエントリ及びそのコメント欄でのやりとりが、その「ひっかかり」の原因かなあと思うようになった。

 つまり、大学改革を議論すると必ず出てくる論点なのだが、そも大学とは何をするところなのか、という話である。

 リンク先のブログでは、「大学って、『効率』だけを求めて良いのだろうか」という言い方で問題が提起されている。でもね、これは経営学のターミノロジーで言うと明らかに「誰もそんなこと聞いてない」類の問いですよ。首都大を肯定するつもりなんてさらさらないが、少なくともこのような言い回しの問いを立てた時点で、大学人の共感は集めても世の中の人の共感は決して集められないだろうね。

 それが何かは知らないが、大学も1つの組織である以上、何らかの目的を持った存在だろう。だとしたら、その目的を達成するために(常識の範囲で)なるべく少ないコストで(つまり効率的に)運営するのは、別に企業だろうが大学だろうが同じように努力すべきことである。内田教授だって「効率的であるべきではない」なんて、そんなことはブログに一言も書いてない。仮に「目的のない存在であること」が大学の目的…と主張するなら、そもそもそういう組織に税金をつぎ込むこと自体、世間の建前上は認められないだろうし。

 では、大学とは何をするところなのか、言い換えれば「どういう目的を持って存在するのか」ということについては、正直言って、日本は今端境期に来ているんではないかと思う。

 元々日本の属する東アジア儒教文化圏というのは徹底的にプラグマティズムを重んじるので、「芸術」とか「学問」それ自体を敬い、慕うという考えはなかった。古代中国では天文学、測量術、代数学など実益的な学問が飛躍的な発展を遂げたが、古代ギリシアで最も重視された幾何学、形式論理学、弁論術など「学問のための学問」みたいなものはほとんど進歩しなかった。また、芸術という点でも写実的な彫刻様式を完成させたギリシアに対し、中国にはインドから仏教と結びついた美術が導入されるまで、まともな芸術がなかった。

 日本も元々芸術なんてのは中国からの舶来芸術か、そうでなければ能、歌舞伎などの大衆芸能しかなかったのが、明治維新を迎えて西洋の学問体系を必死に輸入する中で、学問や芸術それ自体を権威の象徴として敬うべきという文化が一緒に持ち込まれたのである。

 西欧における学問観というのは、まさに貴族のそれであって、そのことはよく引き合いに出される言い方で言えば、Study(学問)school(学校)という単語の語源が、ラテンギリシャ語の「何もしない、ヒマである」を意味するStudium(ストゥディウム)skhole(スコレー)であるということからも推察できるというものだ。

 東京都が掲げる、実益重視の公立大学改革(破壊)計画にロジカルに反論しようとしてもなかなかうまくいかないのは、日本人の多くが、明治以来日本が官主導で押し進めてきた西欧的価値体系の輸入が、結局きちんと社会に根付かなかったことを暗に認めてしまっているからではないだろうか。

 その意味で、Shig氏のブログのこのエントリについた、remember309(T)氏による「フランスの教育では、『人文学』は、もっとも重視されていました。政治家も官僚も、並ならぬ文芸的教養の持ち主です。こういうものを潰すというのは、むこうでは、軽蔑されます。」という、歯ぎしりの聞こえてきそうなコメントこそが、この問題の本質をかいま見せてくれているように思う。

 つまり、首都大問題で見えてくるのは、社会に実益をもたらさないものは何であれ一切不要という「儒教的プラグマティズム」か、それともヒマを持て余す者だけが最高の教養を持つと信じる西欧的な「貴族的skhole至上主義」か、公的高等教育機関はどちらを目指すべきなのかという根本が揺らぐ、現代日本の知の構造そのものなのだ。

 芸術系のNPO活動をしている人たちにとっても、これは結構シリアスな問題である。彼らは、自治体から公的な補助金をもらうために、自分たちがどれほど社会のために役立っているかを毎年毎年、予算編成の時期になると必死に役人に説明して回らなければならない。「芸術は社会に必要だ」という大前提に理解のある役人が担当者ならそれほど苦労しないのだが、そうでない役人が窓口に出てくると、もう大変である。最後には泣き喚いたり一銭の儲けにもならない福祉施設向けサービス興行を提案したり政治家センセイの名前を出したり、もうあらん限りの大騒ぎをしてやっと予算を通してもらう。涙ぐましい限りである。

 これに対して、フランスやオランダでは、極端な話、「私は芸術家です。こういう芸術活動をします」という申請書を出すだけで、政府が1年分の生活費を支給してくれるらしい。フランスではそういう“芸術振興予算”が年1兆円以上あるらしいが、政府は「年1兆円程度でフランスの文化的価値を世界に発信してくれるピカソみたいな芸術家が10年に1人も出てくれば、国として十分ペイする」と思っているのだそうな。うらやましいね。

 でも、これからの日本社会の思潮を考えると、流れとしてはよりフランス的になっていくというよりは、どんどん明治以前に回帰していくように僕は思うのですよ、経済も社会も文化も。

 だとするならば、市民の税金をつぎ込んで運営する高等教育機関には、中小企業の工場労働者とか100円ショップの店員を育てる役割を持たせるべきだ、というヒトラーやスターリンの主張も、それなりに理解できる。むしろ問題は、1940年代ソビエトやドイツではなく2000年代の日本に、そういう高等教育機関で教育を受けたいという世間の側のニーズがあるかどうかの方だろう。これについては、内田教授は「歴史的失敗を遂げるだろう」と予言されているが、僕自身の考えはまた別の機会に譲りたい。

 というわけで、大変悲しいことではあるけれども、「大学はStudiumskholeの場であるべき」と考える方々は、既に芸術系の人たちがやっているように、そういう考え方を理解してくれるパトロンのいる場所(私立大学とか、大金持ち個人の主催する研究所とか)に逃げ込み、生き延びる戦略を考えるべきだと思う。「こんなことじゃ日本はどうなっちゃうんだ」みたいなことを言うのが、一番見苦しい。どうなっちゃうもこうなっちゃうも、内田教授みたいな人が減って100円ショップが増えるというだけのことでしょうが(笑)。僕らみたいなちっぽけな存在が、天下国家を憂えて吠えててもしょうがないしね。

 それに、フーコーだってデリダだって、ギリシア以来の正統派西欧哲学をあまりにも罵倒しすぎたため、本家フランスの論壇ではキチガイ扱いされてまともに相手されていなかったというではないか。公的資金をもらう立場でいながら、世間の常識に反することを唱えていたいと駄々をこねるというのは、真の学究者としては少々考えがぬるいのではないかな。電波飛ばしたいならブログだけにしとけって(笑)。

 ま、1つだけはっきり言えるのは、これだけ豊かになった日本に、税金で丸抱えの公立大学なんてもう要らないってことですよ。クビダイ、逝ってよし。

(15:10追記:コメント欄で文中の語法に間違いの指摘がありましたので訂正しました)

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コメント

結論の落としどころ、相変わらずお見事です。

要は大学側が日本という国家にもたらす実績や、将来見込まれる存在意義を証明すればそれで話は片付く。でも大学自体はそれをしない。なんで?

という理屈ですよね。単に「ケチの付け合いになることが明白な存在意義論争」が面倒だからでしょうけど(^^;

投稿: einzbren | 2005/01/26 14:13

ブログ記事、興味深く拝見しました。当方、東京都民です。大学人を除くと、一般都民のあいだでは、都立大改革問題についての関心は薄いです(というより、ほとんど関心を引いてないかもしれません)。

その理由について、記事で指摘された「大学観」「学問観」の対立が背景要因にあると考えるなら、納得がいきます。ありがとうございました。

ちなみに、語源考の箇所ですが、ラテン語 studium には「何もしない、ヒマである」という意味はありません。おそらく「学校」を意味する英語 school の語源は「余暇、ヒマであること」を意味するギリシャ語スコレーである、という説明が、入れ替わってしまっているのではないでしょうか。余計なことで、すみません。

投稿: 一読者 | 2005/01/26 14:16

コメントありがとうございます>einzbrenさん、一読者さん

studiumではなく、skholeでしたか。こりゃ迂闊。ラテン系語学専門な方々のブログにトラックバックするには、不用意すぎましたね。おお、恥ずかしい。恥さらしのために、本文には取消線のみ入れておきます。ご指摘ありがとうございました。

投稿: R30@管理人 | 2005/01/26 15:02

こんにちは、TBを受けたものです。さて、

>どうなっちゃうもこうなっちゃうも、内田教授みたいな人が減って100円ショップが増えるというだけのことでしょうが(笑)。

というところに、「反時代的」なのは重々承知していますが、やはり大学人としてはこういうことに拘らざるを得ないのです。
それが「貴族趣味的」と言われたら、その通りでしょうねと引っ込むしかありません。

あと、

>リンク先のブログでは、「大学って、『効率』だけを求めて良いのだろうか」という言い方で問題が提起されている。でもね、これは経営学のターミノロジーで言うと明らかに「誰もそんなこと聞いてない」類の問いですよ。

とおっしゃいますが、実際聞かれているわけですよ、自治体から。「誰も聞いていない」というのはどういう意味が、ちょっと判りませんのでご教示ください。

投稿: かわせ | 2005/01/26 15:47

 一年半ほど前に、こんな文章を書きました。別の問題に対するものですが、この問題についても似たような感慨を持ちます。
ttp://www.hnami.net/eco/wiki/wiki.cgi?essay4

投稿: 並河 | 2005/01/26 21:15

東洋的な「儒教的プラグマティズム」の方が西欧的な「貴族的skhole至上主義」よりも実用的だというのは、なかなか面白いですね。黒船が来襲した頃から明治にかけてだと、大雑把に言って非実用的な漢学と実用的な蘭学(あるいは近代教養)という見方がされていたと思うのですが。

投稿: ぬーぼ | 2005/01/26 22:37

shigさんの友人の鉄血という者です。ども。
私はこの問題に関しては少し距離を置いていますが、
とりあえず電波を飛ばしておきます。

>「大学って、『効率』だけを求めて良いのだろうか」

この「大学」という言葉は「公立大学」と言い換える方がより適切だと思われます。
地方自治体には「効率の追求」だけではなくて「公益の実現」という役割もあります。
地方自治体の経営のあり方を私企業の経営の概念で割り切ることは少しヤバイです。
それは「公の死」につながります。
何のために公権力を行使して租税を集めて予算を組んで公金を支出するのか。
それは私企業にはできない「公益」となる仕事を実行していくためです。
そこで、たとえば人文科学の研究が「公益」につながるということを説明できるかどうか。
そこが問題となるでしょうね。
まあしかし、当局のホンネは「アカい大学人」を追い出したいということだけなんでしょうけれどね。

投稿: 鉄血人文主義者 | 2005/01/27 00:14

本論から外れたところですが、
> 僕らみたいなちっぽけな存在が、天下国家を憂えて吠えててもしょうがないしね。
にえらくひっかかりました。天下国家は政財官その他の偉い人たちにまかせるとか?

それともこれは
> でも、これからの日本社会の思潮を考えると、流れとしてはよりフランス的になっていくというよりは、どんどん明治以前に回帰していくように僕は思うのですよ、経済も社会も文化も。
という諦念を踏まえて読むべき部分なのかな。

投稿: h_nakada | 2005/01/27 00:15

「学問のための学問」が、役に立たない知識、あるいは、貴族の暇潰しがてらの趣味としか見られていないのには不満を感じます。建前上、学問以外の政治や経済活動とは縁が切れているという意味合いがあるのに、それを無視することが、プラグマティズムへの傾斜、ひいては「逝ってよし」の誘導になっています。個人的には、大学の役目はユースチームの活動みたいなものかと考えています。全体がどっちかに偏っちゃ駄目ですね。

投稿: 放蕩息子 | 2005/01/27 00:40

皆様、コメントどうもありがとうです。
>かわせさん
効率云々のくだりについては、乾門さんが僕の言いたいことを完全に代弁してくれたTBを打ってくださっているのでここではスルー。
あと、誤解していただきたくないんですが、僕は別にskholeとしての大学を否定しているわけではありません。ただここは西欧ではないので、この国でそういう価値を守りたいと思えば、都の役人でもパトロンでもひたすらコンコンと説き続けなければいけないのです。実際、芸術畑の人たちはそうやって生きているわけですから。

>めーぽさん
これも勘違いしていただきたくないのですが、僕は別に儒教が西欧哲学より実用的だと主張しているわけではないです。学問の実用性とは、内田教授風に言えば、ある国のある時代の社会の人々が何を実用的と考えるかという、価値体系の構造によって決まるものだからです。西欧の人々にとって、形式論理学は神のつくりたもうた世界を理解するために絶対必要な、きわめて「実用的」な学問なのです。

それから、江戸時代の漢学が蘭学に比べて非実用的だったという捉え方は確かに一般的ですが、その半分は明治以来の近代日本政府のプロパガンダであり、もう半分は江戸末期の朱子学の形式主義への傾倒によるものだったと僕は考えています。本来の儒教はもっと実証的な学問だったのではないでしょうか。

>並河さん
いやはや、僕がこんなこと書くまでもなかったですね。感服致しました。

投稿: R30@管理人 | 2005/01/27 00:54

 いずれちゃんとしたエントリにしたいと思いますが、ひとことだけ。生存権が医者の権利を定めるものでないように、学問の自由を持つのは国民であって、職業教師はその実現のために雇われた存在。そこんところを履き違えると、やはり納税者の皆様は納得しないだろうと思います。

投稿: 並河 | 2005/01/27 00:55

大変興味深く拝読いたしました。

が、あまりにも大学を単純化しすぎた議論ではないでしょうか。
大学にはいろんな側面があると思います。
たとえば大学には教養を身につけるための教育機関の側面の
他に、最先端の知識を生み出す研究機関としての側面もあります。
文系もあれば理系もあります。
役に立たない学問もあれば、強烈に社会に影響を与える学問も
あります。

一部の駄目な部分だけを引っ張り出して、大学の存在意義云々を
議論することは危険です。
それは、一部の会社が欠陥商品を出したからと言って、その業界
全体が駄目だとするのに等しい暴論だと思います。

大学という概念が日本に根付かないもので、思想や経済が明治に
逆戻りするとおっしゃるなら、それを回避するためにはどうしたら
よいか考えるべきでしょう。知的水準の低下は、そのまま
国の衰退につながります。
大学が国民にとって魅力的な場所となるためにはどうすれば
よいのか、私は今から考えたいと思います。

ちなみに私は大学人ではありません(^^)

投稿: のぼどう | 2005/01/27 02:10

「実用性のない学問の重要性」を説く大学の先生の議論が、なんとなくアカデミックで高尚なものであるかのような錯覚を起こしますが、構造的には、社会保険庁が存在意義を問われて、その重要性を強調する話と同じではないかと思ってしまうわけです。

もちろん、純粋に日本における自分の専門分野の発展を憂いて「実用性のない学問」の重要性を説く先生もおられると思いまし、耳を傾ける価値があるでしょう。しかし、その先生が数年来、専門分野のまともな研究成果を残していなかったり、毎年授業が全く同じ内容で学生が呆れているような先生だったりすると説得力ゼロです。あんた、その重要であるはずの学問にさっぱり寄与してないじゃん。社会保険庁が、「国民一人ひとりの安心と豊かなくらしを守るために」日々頑張っておりますと、言いながら中身がボロボロだったのと同じです。要は納税して雇用するに足りる中身を備えているかが問われているわけで、無能な研究者が淘汰され、優秀な研究者が生き残る限りにおいて、「実用性のない学問」を整理していく流れは自体は支持できるものではないかと思います。

投稿: ふじふじ | 2005/01/27 07:00

 あえて、暴論を。
 大学の先生が、何を言っているんだか。そもそも大学への進学率が5割を超える勢いだってのに、全ての大学がアカデミアをやれる訳無いでしょうに。アカデミアはあくまでも企業における「広告(フランス的)・研究」分野でしょ。普通の企業で「広告・研究」に全従業員の5割以上も当てたら、即倒産よ。あくまでも、利益を上げる商品、すなわち就職に役立つ分野の勉強を行なう人たちがいるから、研究が出来る訳で。大学進学率が5割行くなら、そりゃどんどんと就職に役立つ人の育成を使命とする大学の割合は増えて当然。公立ならなおのこと。大学の専門学校化ですな。

そもそも文学部と言ったら20年の昔から「文学部唯野教授」で、さんざんその害をネタにされていた分野でっせ。その事に対して、何も手を打たなかった報いもあるでしょうな。

 ただまぁ、アカデミアを全否定する訳でもないけどな。地球科学分野のように、社会に役立つ人を生み出す訳でもないし金にはならないけど研究しておかないと、いざって時に困る分野もありますし。(今回の津波騒ぎとかね。)

投稿: うみゅ | 2005/01/27 17:43

「貴族的skhole至上主義」vs.「儒教的プラグマティズム」という構図で
論じられている点は明快ですが、一点だけ気になることがあります。

欧州でもとりわけ英国のようにプラグマティズムの強い国では、近年、
一部の大学において人文系の学部を廃止するような動きがみられます。

また、英国以外の欧州圏大学でも、「稼ぎ」の少ない人文系学部は
肩身の狭い思いをする状況に置かれていることが昨今ままあるようです。

ここに論じられている構図は、確かにある種の傾向として認められる
とは思います。しかし、一方で「お金」という世界共通の問題も無視
できないのではないでしょうか。「貴族的skhole至上主義」を標榜する
欧州の大学ですら、「skhole」を維持するお金の問題には頭を抱えて
しまっているのが現状のようです。

投稿: どろんぱ | 2005/01/27 18:04

自分の親のすねをかじってるニートですら、犯罪者以下の扱いを受ける日本の風土で、しゃかいがゲージツ家などという有閑階級を公費でまかなう
風潮など生まれようがないんだから人文学部なんて不要だわな。
実利主義なことを言えば、特に最近は文系は就職が厳しいわけで、有名大学の人文学科卒をとる企業って言うのも、「彼が大学で学んだこと」を評価しているわけでなく、「有名大学に合格するための競争の勝ち上がり」というプロセスのほうを能力として評価してるわけですからねえ。

投稿: eternalwind | 2005/04/05 01:15

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