映画評:ニュースの天才
「ジャーナリズム論を語るなら、これを見ておいた方がいいですよ」と、ある後輩から勧められたのが12月から東宝系で公開されているこの映画。1998年に実際にあった事件を題材にしたノン・フィクションである。映画の案内などはPocket Warmerさんのところにリンクしておくのでそちらを参照のこと。
米ニュー・リパブリック誌の若き敏腕記者、スティーブン・グラスは社会ネタを面白おかしく取り上げることで人気ジャーナリストとなり、若干24歳にして同誌の共同編集人(編集委員みたいなもんかな)に。ヘイデン・クリステンセンが、競合誌や編集長から記事のウソを突っ込まれて隠しきれなくなり、ボロを露呈していく若きジャーナリストを見事なまでに演じている。
映画としての評価は専門の方々にお譲りするとして、似たような雑誌の記者の1人だった者としてこの映画を見た感想を書こうと思う。
この映画は、映画としての面白みを多少犠牲にしてまで、実話に徹底的に忠実に作られている。だから日本のメディア関係者にとっても参考になる部分がたくさんあるはずだ。
その1つに、スティーブンがジャーナリスト学校の後輩たちに自分の仕事を説明する中で、記者の書いたものがどのようにチェックされて記事になるのか説明する部分がある。
「記者が書いた原稿は、まずシニアエディターがチェックし、次にチェック係(恐らく校閲のこと)と弁護士が、記事が事実であるかどうか、問題になりそうなところはないか、世の中のデータベースや過去の記事、法律的見解などを元にチェックする。それをレイアウトし、プリントすると、さらにチェック係、そして弁護士によるチェックが繰り返される。もちろん、編集長もチェックする。こうして2重3重の厳重なチェックを通って記事になるのだ」
「だけれども、こうした体制ではチェックしきれないこともある。それは例えばデータベースに載っていない小さな企業の存在、市井の庶民の声などだ。これらは記者の取材ノート以外に事実確認のしようがない」
日本の新聞や雑誌で、上のような校閲体制を敷いているところは、恐らくどこにもない。米国では、ある程度まともなメディアは、少なくとも法務チェックは当然のように仕組みとして持っているし、大手の雑誌ではそれに加えて記者からあらゆる取材メモ、テープ、写真等を提出させて記事との整合性をチェックする体制を持っている。「記者の出す生原稿に対する信頼の置き方」は、日本の方がはるかに高い。
なぜこうした差が生まれるのか。その理由もこの映画の中に描かれている。主人公スティーブンが吐く言葉でも分かるように、米国ではジャーナリストという職業は、各誌が抱える一部の看板コラムニストや編集長を除き、基本的に専門学校を出たばかりの、低賃金でこき使われる若いリポーターのことを指す。「大統領専用機に唯一積み込まれている雑誌」ほどのステータスのある「ニュー・リパブリック」誌のスタッフの平均年齢は、なんと26歳である。
彼らはそういう下積みを経て取材力や文章力を認められると、やがて署名で記事を書けるコラムニストになる。つまり、若手のリポーターをアゴでこき使う立場になる。そうなれないと悟った奴は傍らで勉強して、弁護士やアナリストや政治家といった職業に移っていく(スティーブンもニュー・リパブリックをクビになった後、弁護士に転身している)。
そういうわけだから、専門学校出たての若造が書く記事なんてそれ単体では絶対に信用されない。で、校閲やら法務やらがよってたかって信頼性を検証し手を加えて、初めて1本の記事になる。だから、ねつ造記事が出るということは、米国の場合、書いた記者1人をクビにすればおしまいというわけではなく、とりもなおさずそのメディアの記事検証体制の質が問われるわけだ。
ところがニュー・リパブリック誌の事件の後になっても、ワシントンポストやニューヨークタイムズの記者による記事のねつ造が次々と発覚した。しかもねつ造された記事が何十本と掲載された後に、である。2003年にニューヨークタイムズでのねつ造記事が発覚してクビになったジェイソン・ブレア記者の事件(こちら)を見ても、この手の事件の根っこにある米国のジャーナリズムの信頼性問題は全く解決していないように見える。
もちろん、根本的な背景として「記者の功名心」とか「(支局などを閉鎖して事件が起きたときだけ遊軍記者を派遣して記事を書かせる)パラシュート・ジャーナリズム」などの問題はあるのだけれど、面白い記事を書きたいという気持ちは良い記者に共通のことだし、すべてのメディアが事件の起こる場所にあらかじめ常に人を張り付けておけるわけもない。そんなことを言い始めたら、あらゆるメディアで誤報の可能性は常に防げないということになってしまう。
で、問題は映画の中でスティーブンが語っている「社会ネタの中には、取材ノート以外にその真偽をチェックできない事実がたくさん書かれている」ということなのだ。
では日本のマスコミはなぜ記事内容のチェック体制をほとんど持たないにも関わらず、これほどの誤報を連発する記者が現れない(正確に言えば「これまで現れなかった」)のか?
僕が思うに、それはこれまで「給料の高さ」が原因だとされてきたのだと思う。30歳そこそこで年収1000万円を凌駕する大手マスコミの給料は、下手なでっち上げ記事を書いてその嘘をとがめられた時に彼が失う金銭的利得をすさまじいまでの金額につり上げる。だからあからさまな嘘記事は出ないのだ、と。
まあ、これに加えて米国とは違う日本のマスコミという職業の社会的信用の高さもあっただろうね。終身雇用制で、いったん大企業をクビになるとほぼ同レベルの社会的信用のある立場に復帰するのがほぼ不可能とされていた時代、誰もそんなリスクは負わなかった。
だけれど、そろそろ日本でもそうした「機会損失の大きさ」だけを理由に商業メディアの信頼性が維持され得た時代も終わろうとしている。1つには、一昔前の「官僚」と同様、ジャーナリズムに対しても人権侵害を繰り返し好き勝手に振る舞う、汚わしくてずるい人間というイメージが世の中に広まってきていること。ネットで流行っている「マスゴミ」という言葉がそれを象徴している。また、多くのマスコミで従業員の給与水準が下がり始めた。
またこちらのブログに出ているように、インターネットが既存のジャーナリズムのでっち上げを暴くようになって、実は日本のマスコミの記事も嘘だらけ、他媒体からの無断引用だらけだったということがばれつつあることもその一因だろう。
映画「ニュースの天才」でも描かれているように、日本でも一般の読者の興味は硬派な政治・経済の話から、面白おかしい身近な社会ネタにどんどん移ってきているのが現実だ。しかし、身近な社会ネタほど今の日本の新聞・雑誌の記者が不得意とするところもない。なぜかと言えば、これまで主なニュースソースが中央省庁や都道府県、市町村などの記者クラブや広報部のしっかりしている大企業ばかりで、「一般社会」との接点が一般人に比べてずっと少ない、というのが“一般のマスコミ人”の実態だからだ(笑)。
そこで「もっと面白い社会ネタを出せ」と会社に言われれば、これはもうネタをでっち上げて出すしかない。ま、今の日本では幸か不幸か、新聞記者に部数のノルマとか「売り」の圧力が全然かかってないので、そこまで「面白い社会ネタ」が上から要請されることもないのだけれど、毎号売れるかどうかが問われる市販雑誌などでは、実際にもうでっち上げのネタだらけの世界が広がっている。
例えば「AERA」。自分自身取材したことのある分野の話が記事で載った時に読んで、ああこの雑誌は内容の半分ぐらいがでっち上げなんだと分かった。社会ネタではAERAと双璧をなす「SPA!」に至っては、まさかみんなこれが事実に基づいているなんて思って読んでないよね?ぐらいの勢いでネタだらけである(笑)。え、もしかしてあなた、あれが全部事実だと思って読んでました?それ、メディアリテラシー足りなさすぎですよ。
まあ、それがよほど政治・経済において大きな意味を持つものでない限り、面白おかしい社会ネタは多少脚色やフィクションが入っていてもいい、と僕は思う。だが社会ネタの取材・執筆の手法と、大企業や政府批判記事のそれとが混同されたら、非常に大きな問題になる。
スティーブンの取材・執筆手法は、それが「SPA!」である限りあまり問題にはならないのだが、媒体がニュー・リパブリックなどという大変な権威のある雑誌だったから問題になったのだ。実際、映画の中で彼は他の雑誌のアルバイト原稿をたくさん書いていたこともに示されている。本物のスティーブン・グラスは、恐らく媒体によって原稿の信頼度を使い分けるということができず、自分の執筆スタイルがどこでも通用すると思いこんでしまった部分もあったのだろう。
僕も以前は「日本のマスコミも、米国並みに記事内容に対するチェック体制を厳しくすべきだ」と思ったりしたこともあったが、これっていうのは製造業において「品質を上げるために、生産ラインの一番後ろの品質チェック係のさらに後ろに品質チェック係の品質チェック係をつけました」といって胸を張るのと同じぐらい意味のない議論だと思い直した。
ではどうすればいいのかということなんだが、もちろん人物名や企業名など最低限のチェック体制は当然のこととしても、結局のところ「面白おかしい記事、世間をあっと驚かせる記事を書く」ことよりも、「裏のとれない話に基づいた記事を書かない」ことを記者の評価のプライオリティにおいて常に優先にする、という以外の方法はない気がする。これ以上品質検査体制にコストをかけても、おそらくそれは今の記者の給料を切り下げる程度ではカバーしきれないだろうと思うからだ。
逆に言えば、マスコミの記事の品質の問題というのは、記者にジャーナリストとしての分別を持つことに対するプライドを持たせ、でっち上げを決して許さないという鉄の掟を現場に徹底できるかどうかという、マネジメントの品質の問題にほかならないのであって、官僚の給料の問題と同じように「これ以上給料を下げると正確な記事を書くというモチベーションが保てない」とか、そういう類いの話ではないのである。
スティーブン・グラスのねつ造記事が書かれた当時のニュー・リパブリック編集長だったマイケル・ケリー(故人)は、この映画脚本執筆のためのインタビューに全面協力し、「グラスの不正を容認する結果を招いた自分の行為に対し、決して心の重荷を下ろすことはなかった」と、プロダクションノートでビリー・レイ監督が述べている。でっち上げ記事を書いた記者の出たマスコミは、社長以下その記者の上にいたマネジメント全員がクビを差し出すのが正しい対処方法であって、その覚悟がない人間がマスメディア企業のマネジメントなんかできないよというのが、この映画を見て思ったことだ。
…とか何とか言いつつ、六本木ヒルズのTOHOシネマズで上映開始前に隣に座ったボブのカワイイ女の子が物欲しそうに僕の手元を眺めていたのに気が付いていたくせに、キャラメルポップコーンをさりげなく差し出しシェアを申し出て会話に入れなかった僕は負け組 orz
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コメント
文中「裏のとれない話に基づかない記事を書かない」は
「裏の取れる情報に基づかない記事を書かない」の
誤りでは?
投稿: とおりすがり | 2004/12/24 17:05
その通りですね、すみません>とおりすがりさん
「裏のとれない情報に基づいた記事」という表現に修正させていただきました。
投稿: R30@管理人 | 2004/12/24 17:18
2,3気になったことがあるのでコメントさせていただきます。
>米国ではジャーナリストという職業は、各誌が抱える一部の看板コラムニストや編集長を除き、基本的に専門学校を出たばかりの、低賃金でこき使われる若いリポーターのことを指す。
アメリカでは新聞記者になるためにはジャーナリズムスクール(大学のジャーナリズム学部)でAPスタイルなどの記事を書く基礎を勉強してないと採用されません。これは即戦力を要求するためです。そして最初は地方新聞に採用され、競争を勝ち抜いて大きな新聞社へと転職していきます。これについては雑誌もほとんど同じです。
>彼らはそういう下積みを経て取材力や文章力を認められると、やがて署名で記事を書けるコラムニストになる。
アメリカのほとんどの新聞、雑誌では記事はすべて署名です。
>では日本のマスコミはなぜ記事内容のチェック体制をほとんど持たないにも関わらず、これほどの誤報を連発する記者が現れない(正確に言えば「これまで現れなかった」)のか?
日本のマスコミは誤報を連発していると思いますが..。アメリカのチェック機能が厳しいのはジャーナリズムに対する目が厳しいからです。もし嘘を書けばすぐに訴訟問題になります。
投稿: たけ | 2005/03/04 19:10
はじめまして。
記者の立場からの感想ということで、非常に興味深く読ませていただきました。
投稿: りお | 2006/02/11 04:48