メディアリテラシーで猛烈に反省
前回の「ニュースの天才」の映画評で、AERAやSPA!を「あの記事に書かれていることが全部事実だと思って読んでいる人はメディアリテラシーが足らない」と書いた。そのことについて強い反省を込めて少し追記したい。
あの映画のことは、その後もいろいろと考えていたのだが、ちょうど27日から「元読売記者のメディアリテラシー日記」というブログで、この映画に関する考察が始まっているのを見つけた。まだ書きかけのようなので、どういった感想を持たれたのかとても楽しみだ。
で、その元読売記者氏曰く、「Yahoo!ムービーの映画評では『ただこの雑誌のチェックが甘かっただけの話。レベル低い』などと切り捨てられている」というので、ちょっと見てきたんだけど、まあそりゃ娯楽映画としてこの映画を観たら、そのメッセージは分からないよね。これは単にレビュアーがバカなだけで、どうでもいい。
ただ、ちょっと面白いなあと思ったのは、多くのレビュアーが「スティーブン・グラスは精神異常のガキ」と書いていたことだ。ガキであることは認めるが、彼は決して精神異常なんかじゃない。むしろあのマインドは、現代のほぼすべてのマスメディア関係者に共通するものだ。
だからあの映画を観て「グラスはただの精神異常じゃん」という人は、このブログにTB打ってくれた「セカンド・カップ はてな店」のエントリにあるような、
メディアが主導でファッションから意見から見解からの流行を作るってのはここの殆どデフォルト体制なんだろと思う。北米のクリスマスなどはまさにそうやって出来たもののうちで、最良のものの1つだろう。それにもかかわらずこれでいいかと人びとが苦情を言わないのは、まんざらウソでもないから良しとする、いいところもあるからこれでいいことにしておこう、といった漠とした諦観があるからではなかろうか。というくだりの意味を、まったく自覚していないことになる。ぶっちゃけ、自分の身の回りにある多くのものが「まんざらウソでもない」中にさりげなく混ぜ込まれた「でっち上げ」であることに気がついてない、ただの阿呆ということだ。言い換えれば「メディアリテラシーがない」人という意味である。
と、ここまで考えてはたと考え込んだ。
しかし、この映画の場合、グラスの書いた27本目の記事の「明らかなウソ」を見破ったのは、担当業界のネタをすっぱ抜かれたことを編集長に叱られた競合媒体の記者だった。つまり、それまでの26本に対しては、米国広しと言えど誰もこの権威ある雑誌の「ウソ」に気がつかなかったのだ。大統領をはじめ、米国政財界のトップクラスの知性の持ち主であるはずのこの雑誌の読者は、そろいもそろってみんな「メディアリテラシーが足りなかった」のだろうか?
おそらくそうではないだろう。メディアリテラシーとは、この映画のように「この記事は嘘っぱちだ!」と叫ぶ誰かが出てきて、はじめて生まれうるものなのだ。批判、検証のないところに「ウソをウソと見抜ける」知性が突然生まれるわけもない。AERA、SPA!の記事がどれもでっち上げばかりだ、ということだって、僕はたまたまその記事と同じ情報ソースを取材したから分かったけれど、普通の人には(特に朝日新聞の看板を背負い、大まじめなふうの文章を装うAERAなどは特に)あれがウソだと見抜けるわけがないのだ。
そんなことを考えていたら、少し前にずばりそのものの話を書いてくれている人が、いた。ハイブローな文章なので原文をご参照いただきたいが、少しだけ引用しておく。
「うそをうそと見抜けないやつ」を馬鹿にする言説には、誰でもリテラシーの有無にかかわらず本質的にだまされうる存在であるという認識がかけているし、メディア・リテラシーが、メディア情報の恣意的な再解釈にならないための歯止めになりうる部分が欠けている。そうした歯止めがないかぎり「わかってるやつ」と「わかってないやつ」という符牒によって内外を分ける言説としてしか機能しないのではないか。これを読んで僕は猛烈に反省した。「ニュースの天才」という映画が示していることは「現代のマスコミは必然的にウソをつく。だからマスコミの内部ではなくその外部に検証者が必要なのだ」というメッセージだったのであり、その検証者は「すっぱ抜く」だけを基準に競争を繰り広げる同じ土俵のマスコミではなく、マスコミのソースを参照しながらその報道性・解説性を検証し、論調を練り上げていくネットジャーナリズムであるべきなのだ。
僕自身、「AERA、SPA!はでっち上げ記事ばかりだ」と書いたが、あれこそまさに批判されるべき「内外を分ける言説」だったと思った。どこぞのにわか銀行家先生のように「マスコミはウソばかり書く」あるいは「○○はウソ記事を書く媒体である」などと述べることには、実際のところ彼の文章を読む人間に向かって「俺は知っているが、お前らは知らない」と言っているだけにほかならない。その意味で僕もかの先生と同類だったと思い、赤面した。
メディアリテラシーを云々するのなら「○○に掲載されたどの記事のどの部分が事実と違う、それはかくかくしかじかの理由で」ということを、きちんと指摘しなければならない。これはあの映画を見ても分かる通り、正直とても骨の折れる作業だ。だがネットがもしいろいろな情報ソースをあちこちから集めてこられる“摩擦ゼロの効率性”を持っているのなら、それを活用してこうした「メディアリテラシーのための検証システム」を作るべきなのだろう。
ネットがこれまで、メディアリテラシーの向上に資してきたことは疑う余地もないが、一方で記者もインターネットを使いこなして取材するようになっており、ネットで簡単に見破れるウソばかりでもなくなってきている。でっち上げにでっち上げで対抗する2ちゃんねるのフラッシュモブのような活動だけでなく、ネットの側ももっと緻密にメディアを検証するための仕組み作りに知恵を絞る時期が来ていると、僕は思う。
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コメント
今頃何寝ぼけたことを。
投稿: とおりすがり | 2004/12/28 22:06
簡単にエライ人の言うことを信じちゃあいけない。しかし時間内に、目の前のことについては、一定の判断を下さないといけない。科学ってみんなそうなんだろうと思いながら、そのセンスを何とか学生さんたちに持ってもらおうとしていますが、なかなかうまく行きません。
投稿: 並河 | 2004/12/29 01:51
書かれている内容に深く共感いたします。
知識のある人、知っている人=上
知らない人、だまされる人=下
という構造自体を変えていくメディアリテラシーでなければならない、というお考えですよね。上の「通りすがり」のような態度が格好いいと思うような、そういうこと自体を変えていくということですよね。
方法も取り上げる題材も違いますが、筆者も志は同じです。お互いがんばっていきましょう。
投稿: 「メディアリテラシー日記」筆者 | 2004/12/29 10:14
むー。
なんというべきか。なんといえばいいか。
學問という言葉があります。
敢えて正字体で學問と書き、言い、見てもらった方がよいと思うのですが、學問という言葉が秘める内容を、全て確認することもなく、なんとなくイメージするだけで、くどくどと解説するまでもなく氷解するようなお話なのではないのかな、と思いました。
なんとなくですが、仔細に囚われるあまり根幹を見失い、少々見苦しく思う一部の人と、気付きの浅い一部の人とが「ん」と思い、しかし注視の必要があるのかなーとか思ってみたり。
色々ですね。
投稿: ん | 2004/12/30 14:38
メディアリテラシーっつったって「あまり信用しちゃダメよ」
以上の事なんてどうしようもないでしょ。
真偽は、情報とそれを解釈する能力が無ければ判断できないんだから。
第一、そんな事を調べるほどの暇人は多くないし
出てきた追加情報の真偽はどう判断するの?
結果としては「全てを疑いの目で見る」なんていう
学生的な青い視点しかもてないんじゃない?
それって良い事なのかな?
メディアを妄信している人と大して変わらんと思う。
投稿: ほげっち | 2004/12/31 16:39