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2004/12/31

2004年12月のバックナンバー

過保護の親に子育ての資格はあるか?
「悪徳不動産屋の独り言」ブログで考えた、個人的子育て論。

ネットジャーナリズム・ウヨサヨ論
隊長の放火をきっかけとした、団藤保晴ブログのヲチ開始宣言(笑)。

マスゴミの人と議論することの難しさ
団藤ブログで冷笑されたのに反応した猛烈な十字砲火エントリ。

企業はスマートフォンを欲するか?
奥一穂ブログの紹介と、ドコモへの対抗戦略の可能性についての考察。

激安くりぬきリフォームの入居者募集中
東久留米市駅前家賃4万円のアパートのリフォームのお話。

水に落ちた方の犬が負け
切込隊長ブログでの日本振興銀告発に対するカウンターエントリ。

あいまいでスマートなニッポンの携帯
「スマートフォン」の続編。日本のPDAビジネスへのだめ押し。

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その1
ジャーナリズムについての本格的論考シリーズの開始宣言。隊長をネタに。

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その2
ネットが既存マスコミに比べてどこまで「ジャーナリスティック」たりうるかの考察。

隊長がすごい勢いで突っ込んできた(泣)
上のエントリに対する切込隊長からの総括についてのレス。短めの泣き言。

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その3
ジャーナリズムの本質とは調査報道、という話。前回までのあらすじ付き。

保守エリートのPCコードに騙されてはいけない
自称エリートの男性のPCは女性をダブルバインドに追い込む、という実話。

プロのジャーナリズムとは何かについて考える・最終回
来るべき未来の参加型ジャーナリズムのビジネスモデルを空想する。

【ご意見募集】デザイン変更してみました
サイトのデザイン変更通知および意見募集。

リベラルぶりっ子<萌えヲタの時代
忘年会で電車男に釣られた、オタクというlong tailこそチャンス!という煽り。

トートロジーに熱くなる
内田樹ブログの紹介と、マスコミ人のブログに関する皮肉など。

ハンドルネーム、変えました
GLOCOMの研究会レポートと、R30へ改称のご報告。

2004年日本のアルファブロガー投票
アルファブロガー投票を呼びかけるアジテーション。下心満開(笑)。

ニートを語る時の立論方法
隊長のニート論に対して、経済「学」的な切り口からの分析。いささか皮相的。

他人のブログを読み始めると
実は携帯でのサイトチェック用のつもりだったゴミエントリ。

「ニート」「ヲタ」で怒濤のアクセスとTBが押し寄せている件について
トラックバックを樹形図分析したニート「論」の俯瞰。話題を呼び、ユリイカで取り上げられた。

おいしいローストビーフの作り方
クリスマス用ローストビーフの解説。これも検索で見に来る人の多いエントリ。

映画評:ニュースの天才
映画評に題材を借りたマスメディアのマネジメントに関する論考。

祝・20万PV
20万PV突破記念エントリ。ムネオハウスなアルファブロガー。

ネット上の論争を整理するツールが登場
BMFEdit(その後Blog Explorerと改名)とmatome.jpの紹介。

【ヲチ中】ブログ整理ツール
前回紹介した2つのBlogツールの新機能のレポート。

メディアリテラシーで猛烈に反省
「ニュースの天才」映画評の反省考。メディアリテラシー小論。

年の瀬に思う来年~10年後のブログ界動向
木村剛とブログコミュニティー、日記マーケティングなどについての考察。

11:59 午後 バックナンバー一覧

2004/12/30

年の瀬に思う来年~10年後のブログ界動向

 年の瀬ですねえ。年の瀬の定番ネタと言えばやっぱり、10大ニュースと来年予想。10大ニュースの方は、今年は誰にも言えない俺ニュースが多すぎて世間の動きがかすんで見える年だった(笑)ので、やりません。

 で、来年予想の方ですが、「2005年のブログ業界はどうなるのか」というネタが、あちこちのブロガーの間でアップされるようになってきた。面白かったのは、小林Scrap Bookの「2005年のブログに関するメモ」と、Moleskin Diaryの「来年のblog界を予想してみる」の2本かな。

 ま、日本のブログ業界というものが、そもそも2002年末のはてなダイアリー開始によって幕を開けたばかりのものなので、正直これから次第でどうとでもなるとは思うけれど。

 おおかたの方向は、2人の意見も一致しているように「ブログの専門化・分業化」といったところだろう。小林ScrapBook氏はそれを「ポスト木村剛の地位を狙う“あらゆる社会ネタ引き出しを持つブロガー”の登場期待」と、「ごくわずかの知り合いだけに読んでもらえればOKとするSNS的ブログ、あるいは特定の属性に特化した切り口でコミュニティ・マーケティングなどを試みるブログサービスの増加」と表現している。

 一方、Moleskin氏は後者の「専門ブログサービス」に対しては肯定的、というかニュートラルだが、前者の「スーパーブロガー(になりたい奴)の台頭」に関してはネガティブに考えているようだ。

 個人的な考えを言うと、僕自身は木村剛が登場したときから突き放して見ていた覚えがある。というのも、彼は「アンチ権力」みたいなポーズで大衆を自分の政治力に巻き込もうという意図が見え見えで、しかもそのくせ「俺は偉い、だからお前らはついてこい」的な悪臭がプンプンするものだから、こんな人がネットワーク上の言論でいつまでも中心にいられるわけがないと直感したからだ。

 恐らく同じことはMoleskin氏も含めいろいろな人が感じていたことだろうと思うのだが、最後の最後に木村剛を担ぎ出した当の仕掛け人である切込隊長が日本振興銀行問題に端を発した論争で、ネットワーカーとしての木村剛を完全に撃破してしまった。ローカルルールとして落着していたはずのゴーログTB全文転載問題も蒸し返された挙げ句、ネット界隈には今や「木村剛の回りには木村剛ルールで動く信者以外近寄るな」という暗黙の了解が形成されてしまったように見える。

 木村氏のミスは、「トラックバックランキング」という、金融業界における「財務格付け」のごとき強力なレーティングツールを手にしていながら、そのツールを運用する権力を唯一持つ者として求められる沈着冷静かつ公正中立な装いを演じきれなかったことだと思う。

 実際のところ、トラックバックランキングが発掘した「面白ブログ」の数は非常に多く、この功績は2004年のブログ界にとって決して小さくはなかったと思う。だが、金融の世界でもレーティングツールを握るものは(少なくとも表向きは)個人の思惑でツールから生じる権力を用いてはならないのは常識のはずなのに、彼は自分のリアルの立場がやばくなるとその禁じ手に手を出してしまった。

 ゴーログの次にそうしたブログ「レーティング」の権力を、次に誰がどのようにして手にするのか、来年はそこが1つの注目すべきポイントだというのは確かだ。だがそれと、ユニークな切り口で時事ネタを次々と斬りまくる「スーパーブロガー」の登場、あるいはそれへの待望とは、切り分けて考えた方がいいのではないかと僕は思う。

 思うに、木村剛氏がネットワーク・ハブとしてのポジションを取り得たのは、優良ブログの発掘やレーティングのオートマティックなシステムがまだ確立されていない黎明期だったればこそであり、その機能は今や「Feed Meter」や「matome.jp」などに取って代わられようとしている。したがってMoleskin氏の懸念するように、「自分を主、読者を従」として扱うようなブログが今後(狭い範囲の信者グループ内を除いて)ネットワーク内のメジャーなハブのポジションを取ることは、恐らくあり得ないだろう。

 実際、ゴーログに続くネットワーク・ハブの2匹目のドジョウを狙って登場したものの、読者にトラックバックでの情報提供を呼びかけたりと同様の悪臭を放っていた団藤保晴氏の「ブログ時評」は、、開設わずか1週間でその意図を切込隊長に見破られて放火され、火だるまにされてしまった(と言いつつ、僕もちゃっかりそこにガソリンぶっかけるのを手伝ってたわけだが(笑))。

 ただ、無機質なレーティングデータに解釈とエンタテイメントの要素を加えつつ解説してみせる人というのは常に必要なわけで、世の中にそうした「何でも解説屋さん」の需要がなくなることはない。なので小林ScrapBook氏の言うような「社会派ネタ全般に引き出しを持ったおじさん」をITも援用して何とか作りあげるか、それともそこそこの人ならカバーできる範囲にまでブログの対象分野を細分化・専門化していくか、という話になるのだと思う。

 前者についてはここで何度か取り上げている「議論整理ツール」のようなものもその道具の1つなのかなと思う。また後者は地域、趣味、場合によっては「会社」という単位でのブロググループなども出てくるかもしれない。

 従業員全員が毎日つける「会社」ブログというのは、どっかのITベンチャーが言っていたなぐらいの、突拍子もないアイデアのように思われるかもしれないけれど、知的生産が主軸になる企業においては(2005年中に、とまでは言わないけれど)意外にすぐに訪れる事態のような気がする。

 というのも、実はブログ登場前から「ブログ的コミュニケーション」を実践して社内で成功したビジネスパーソンというのは、実例を挙げると結構いるような気がするからだ。

 その、ものすごく有名な一例だけ挙げると、セイコーエプソンの木村登志男副社長あたりじゃないかな。前段のもう1人の木村氏と混同しないよーに(笑)。

 彼は確か10年以上前、エプソンのNEC98互換機事業を率いていた頃から、部門内で「こんにちは、木村です」というガリ版刷りのミニコミ誌を作って配っていたと記憶している。その後、メールが登場してそれをメールに切り替え、ウェブが登場するとイントラネット内に自分のサイトを立ち上げた。その間、ほぼずっと毎週必ず自分の身の回りに起こったことを自分の部下たちに自分の言葉で伝えてきた。

 なぜそんなことを続けているのか、木村氏本人に尋ねたことがある。彼の答えは非常に興味深いものだった。「普段仕事と何の関係もない話を書いていても、たいした内容のことを書いてなくても良いんですよ。毎週必ず書いていれば、それを読むのを習慣にする人たちが出てくる。そして、本当に自分が何か大きな問題に直面して困っている時、そのことを書くとすぐさま数人、数十人の人たちが助けの手を差し延べてくれるんです。その時のためにやってるんですよ」

 エプソン社内で木村氏を真似して毎週メッセージを発信しようという役員がこれまで何人もいたが、継続できた人がほとんどいないらしいという話も聞いた。

 ブログを書き始めた今、僕にはあの時木村氏が言ったことの意味、そしてエプソンの他の役員たちが彼を容易に真似できなかった理由がすごくよく分かる気がする。ブログでは自分自身が明快な結論を持っていなくても、投げかければ誰かがそれに助け船を出してくれる。結果として、その「場」には1人で考え続けていたのでは思いつかない「知」がものすごいスピードで集積するのだ。

 木村氏が見ていた情報発信のメリットとは、この点にあったのだろうと想像がつく。だが、こうした知の集積は、「俺が主で、お前らは従だ」「俺が正しくて、俺に文句を言う奴は間違っている」という姿勢の情報発信者の元では決して起こらない。絵文禄ことのはブログに「安倍ぬすみ主義」とこき下ろされて以来、ゴーログへのトラックバックの数が減少しているのは、その象徴だ(ちなみにこのゴーログTB引用問題に対する僕の考えは、笑わせんなヴォケが!のこのエントリにほぼイコールである)。

 このままの勢いでブログが利便性の高いコミュニケーションツールとして普及していけば、従来の企業で一般的なヒエラルヒーを想定したコミュニケーションよりも、こうしたフラットな関係の中での「モデレーション(ファシリテーション)」を想定したコミュニケーションのほうが知的生産性が高いことが次第に明白になる。

 そうすれば、「知」を軸に活動する企業(コンサルティングファームやマスメディアなど)が「社員に個人ブログを運営させ、誰が(企業という)コミュニティの知的生産性向上により多く貢献したかを明確にしようじゃないか」と考え始めたとしても、何ら不思議ではない。というか、そう考えて実行する企業だけが生き残る時代が、まもなくやってくるだろう。

 来年ではなく10年先ぐらいの話かもしれないが、今の僕たちにとってこういう時代が来るのは「そう遠くない未来の話」だと、ここで予言してみようと思う。やや理想に傾いた独断ではあるけれども。では皆様、良いお年を。

03:22 午前 ウェブログ・ココログ関連 コメント (0) トラックバック (9)

2004/12/28

メディアリテラシーで猛烈に反省

 前回の「ニュースの天才」の映画評で、AERAやSPA!を「あの記事に書かれていることが全部事実だと思って読んでいる人はメディアリテラシーが足らない」と書いた。そのことについて強い反省を込めて少し追記したい。

 あの映画のことは、その後もいろいろと考えていたのだが、ちょうど27日から「元読売記者のメディアリテラシー日記」というブログで、この映画に関する考察が始まっているのを見つけた。まだ書きかけのようなので、どういった感想を持たれたのかとても楽しみだ。

 で、その元読売記者氏曰く、「Yahoo!ムービーの映画評では『ただこの雑誌のチェックが甘かっただけの話。レベル低い』などと切り捨てられている」というので、ちょっと見てきたんだけど、まあそりゃ娯楽映画としてこの映画を観たら、そのメッセージは分からないよね。これは単にレビュアーがバカなだけで、どうでもいい。

 ただ、ちょっと面白いなあと思ったのは、多くのレビュアーが「スティーブン・グラスは精神異常のガキ」と書いていたことだ。ガキであることは認めるが、彼は決して精神異常なんかじゃない。むしろあのマインドは、現代のほぼすべてのマスメディア関係者に共通するものだ。

 だからあの映画を観て「グラスはただの精神異常じゃん」という人は、このブログにTB打ってくれた「セカンド・カップ はてな店」のエントリにあるような、

 メディアが主導でファッションから意見から見解からの流行を作るってのはここの殆どデフォルト体制なんだろと思う。北米のクリスマスなどはまさにそうやって出来たもののうちで、最良のものの1つだろう。それにもかかわらずこれでいいかと人びとが苦情を言わないのは、まんざらウソでもないから良しとする、いいところもあるからこれでいいことにしておこう、といった漠とした諦観があるからではなかろうか。
 というくだりの意味を、まったく自覚していないことになる。ぶっちゃけ、自分の身の回りにある多くのものが「まんざらウソでもない」中にさりげなく混ぜ込まれた「でっち上げ」であることに気がついてない、ただの阿呆ということだ。言い換えれば「メディアリテラシーがない」人という意味である。

 と、ここまで考えてはたと考え込んだ。

 しかし、この映画の場合、グラスの書いた27本目の記事の「明らかなウソ」を見破ったのは、担当業界のネタをすっぱ抜かれたことを編集長に叱られた競合媒体の記者だった。つまり、それまでの26本に対しては、米国広しと言えど誰もこの権威ある雑誌の「ウソ」に気がつかなかったのだ。大統領をはじめ、米国政財界のトップクラスの知性の持ち主であるはずのこの雑誌の読者は、そろいもそろってみんな「メディアリテラシーが足りなかった」のだろうか?

 おそらくそうではないだろう。メディアリテラシーとは、この映画のように「この記事は嘘っぱちだ!」と叫ぶ誰かが出てきて、はじめて生まれうるものなのだ。批判、検証のないところに「ウソをウソと見抜ける」知性が突然生まれるわけもない。AERA、SPA!の記事がどれもでっち上げばかりだ、ということだって、僕はたまたまその記事と同じ情報ソースを取材したから分かったけれど、普通の人には(特に朝日新聞の看板を背負い、大まじめなふうの文章を装うAERAなどは特に)あれがウソだと見抜けるわけがないのだ。

 そんなことを考えていたら、少し前にずばりそのものの話を書いてくれている人が、いた。ハイブローな文章なので原文をご参照いただきたいが、少しだけ引用しておく。

「うそをうそと見抜けないやつ」を馬鹿にする言説には、誰でもリテラシーの有無にかかわらず本質的にだまされうる存在であるという認識がかけているし、メディア・リテラシーが、メディア情報の恣意的な再解釈にならないための歯止めになりうる部分が欠けている。そうした歯止めがないかぎり「わかってるやつ」と「わかってないやつ」という符牒によって内外を分ける言説としてしか機能しないのではないか。
 これを読んで僕は猛烈に反省した。「ニュースの天才」という映画が示していることは「現代のマスコミは必然的にウソをつく。だからマスコミの内部ではなくその外部に検証者が必要なのだ」というメッセージだったのであり、その検証者は「すっぱ抜く」だけを基準に競争を繰り広げる同じ土俵のマスコミではなく、マスコミのソースを参照しながらその報道性・解説性を検証し、論調を練り上げていくネットジャーナリズムであるべきなのだ。

 僕自身、「AERA、SPA!はでっち上げ記事ばかりだ」と書いたが、あれこそまさに批判されるべき「内外を分ける言説」だったと思った。どこぞのにわか銀行家先生のように「マスコミはウソばかり書く」あるいは「○○はウソ記事を書く媒体である」などと述べることには、実際のところ彼の文章を読む人間に向かって「俺は知っているが、お前らは知らない」と言っているだけにほかならない。その意味で僕もかの先生と同類だったと思い、赤面した。

 メディアリテラシーを云々するのなら「○○に掲載されたどの記事のどの部分が事実と違う、それはかくかくしかじかの理由で」ということを、きちんと指摘しなければならない。これはあの映画を見ても分かる通り、正直とても骨の折れる作業だ。だがネットがもしいろいろな情報ソースをあちこちから集めてこられる“摩擦ゼロの効率性”を持っているのなら、それを活用してこうした「メディアリテラシーのための検証システム」を作るべきなのだろう。

 ネットがこれまで、メディアリテラシーの向上に資してきたことは疑う余地もないが、一方で記者もインターネットを使いこなして取材するようになっており、ネットで簡単に見破れるウソばかりでもなくなってきている。でっち上げにでっち上げで対抗する2ちゃんねるのフラッシュモブのような活動だけでなく、ネットの側ももっと緻密にメディアを検証するための仕組み作りに知恵を絞る時期が来ていると、僕は思う。

08:50 午後 メディアとネット コメント (5) トラックバック (3)

2004/12/27

【ヲチ中】ブログ整理ツール

 ウオッチしますと宣言したブログ論争の整理ツール関連メモ。+ニート論争樹形図について一言。

 このブログにもTBいただいたが、例の樹形図に触発されたのか、BMFEditで閲覧できる「ニート論争」のBMFがmaki氏によって作られた。→こちら 類似の意見のブログエントリをまとめる「フォルダ」機能のようなものが追加されたもよう。

 yuco氏のブログでも指摘されているが、現時点ではこのBMFは完全に手作りするしかない。むしろ欲しいのはトラックバックを自動的に追いかけて、エントリの主従関係を樹形図に加工してくれるツールなのだけれど…と、少し煽ってみる。

 次に、matome.jp関連。こちらもトラックバックいただいたが、opendice氏のブログで、Firefox用のmatome.jp検索プラグインが公開された。っていっても使い方分からないんですが(汗)。デフォルトでURLウィンドウの横に付いてるGoogle窓みたいなものを追加あるいは置き換えできるのかと思ったんだが、違うのかな。このあたりどうしようもなく初心者なので誰か解説plz。

 ついでにもう1つ。matome.jpに「新着ブログ」の表示機能がついたもよう。キーワード検索すると、1時間以内に書かれたそのキーワードの含まれるブログが、トップに囲まれて表示される。これ、キーワード指定しておくと新着が更新されるたびにRSS配信される、みたいな機能ができると、特定のネタをリアルタイムで追いかけるのにすごく役に立ちそうだ。

 ただ、よく見ると囲みの外の検索結果の中にも、公開された時間が1時間以内のものがあったりするので、なぜ囲みの中のものだけが「新着」に選ばれるのか、そのあたりのロジックがよく分からん。とりあえず、以上。

 あ、それからニート論争樹形図に自分のポジションを書き足してほしいっていうトラックバックがたくさん来ている件についてですが、いいですかみなさん。

 僕がいつ「TBくれたら書き足してあげる」などと言いましたか!?

 あの樹形図はネタですってちゃんと書いたし、今後の議論の参考にして下さいっていうつもりで作ったまでなので。TBくれたら書き足すよなんてことは一言も言ってませんからそこんとこよろしく。書き足したいなら自分のブログで勝手に書き足してください。ていうか、本当にああいう分類でMECEなのかとか、あの分類方法自体に問題があるんじゃないかとか、そういう議論する人がちっとも出てこないのは何故ですかね?

02:17 午前 メディアとネット コメント (5) トラックバック (7)

2004/12/26

ネット上の論争を整理するツールが登場

 真に優秀な技術者というのは、社会の中の人々の動きを観察し、人々が(無意識にのうちに)究極の目的としていることとそれにたどり着けない原因とを見抜いて、そのオーバーヘッドを劇的に低減させるツールを瞬時に作ってしまう人のことだと思う。そして、インターネットにはそういう感性と情熱を持つ技術者が多い。

 最近相次いで勃発したブログ上の論争(ネットジャーナリズム、ニート、オタクetc.)に参画する際に、僕は自分の記事の中に、密かにこうした技術者の人々をインスパイアしそうな「工学的視点」を盛り込んで書いてきた。優秀なエンジニアならきっとそれに気がついて、何らかのリアクションを起こしてくれるに違いないと思っていたからだ。

 そうしたら、あっという間にその動きが表面化してきた。しかも全く別々のところから2つも出てきましたよ。僕としては、狙ったとおりのことが起こりつつあるという意味で、非常に嬉しい。

 本当はこういう便利なツールの存在はこっそり自分だけの秘密にして、ブログの内容をブラッシュアップするために使いたい…なんてことを文系人間としてはすぐ考えたくなるのだが、インターネットというのはそういう“囲い込み”を許さないところだし、そういうことをしてもツールは進化しない。なので、このブログを読んでいる文系、理系の皆さんにぜひその先駆者たちの偉業を見ていただき、さらにたくさんの意見を募りたいと思う。

 では、その2つのツールのご紹介と、それらに対する僕自身の意見を述べておきたい。

1) ブログの論争追跡システム「BmfEdit」

 トラックバックを元に、あるテーマの議論が複数のブログ上でどのように展開していったのかを追跡し、ツリーににして見せる「Blog Marshalling Feed(ブログ整列フィード)」というXMLドキュメントのフォーマットを作成・表示するツール「BMFEdit」が、maki氏によって開発され、登場した。

 昨日公開されたばかりのver0.1(仮)は、まだあらかじめ作られたBMFをツリー表示し、リンク先のブログエントリをツリーの下の窓に表示する機能しかない。しかし、例えば論争勃発のきっかけと思われるブログのURLを入れるだけで、そのトラックバックをざーっと追いかけて取り込み、ツリー構造にして自動表示するという仕組みができれば、これはものすごく便利と思われる。

 また現時点ではツール上に表示されていないが、BMFのドキュメント内にはXMLの一般的なページ説明要素「description」とは別に、「excerpt」つまり「要約」のタグが設置してある。maki氏がどういう意図で作ったのかが分からないので何とも言えないが、長文のエントリにいちいち全部目を通さなくても、エグセクティブ・サマリやキーワーディングだけを樹形図にしてざっと斜め読みすることもできるようになりそうだ。

 この部分については、現在は手動で作成しているようだが、例えばMS-Wordをインストールしている人はBMFEditからWordの文書要約作成機能のOLEを呼び出して、ウェブサイトの文章を食わせて要約文を自動作成できるとか、それが一般的でないならそのツリーの中に頻出するキーワードでそのエントリをGoogle検索した際のサマリ文をインポートして表示できるようにするとか、いろいろな工夫ができそうだ。

 いずれにせよ今後の機能追加が期待されるユニークなソフトである。makiさん、がんばってください。

2) Blog論争のまとめ検索システム「matome.jp」

 BMFEditが、おそらくは今のところリンクやトラックバックという外形的な要素でしかブログ間の論争を追跡できないのに対して、こちらはGoogle、Yahoo!からBulkfeeds、未来検索、はてな、Wikipedia、ぐるなびに至るまで、ネット上の特長あるすべて検索エンジンを駆使してあるキーワードを巡る議論を展開しているサイトを全部かき集めようというウェブアプリケーションだ。

 例えばmatome.jpで「参加型ジャーナリズム」というキーワードを検索すると、Googleでは湯川氏のブログの記事がトップに来るわけだが、ここではkazumaro氏の「参加型ジャーナリズムのリスクとコスト/ネット上のジャーナリズムについてゆっくり考える その1」という記事がトップにヒットする(ちなみに、この記事は考察がきちんとされていて非常に良いです)。

 この記事はgoo検索からピックアップされたもののようだが、Googleでドメイン限定で検索しても、この記事はヒットしない。つまりGoogleのクロール対象になっていない小さなサイトも含めて、matome.jpはかなり広い範囲を網羅していることになる。カバレッジにあと2ちゃんねる検索が加われば、もはや国内最強か。2ちゃんの場合、過去ログも網羅するとなると有料になってしまうところが苦しいが。

 最初は単純なメタ検索システムなのかと思ったが、あれこれ試してみているとどうもそうではないようだ。試しに「まとめ検索」というキーワードで検索してみたところ、まとめ検索のトップページはどこにも出てこず、まとめ検索についてコメントしたブログが延々と並ぶ。これってある意味ですごい「まとめ」機能かも(笑)。まとめ検索について誰がどう思ったか、ネット上の意見をすべて回収できるわけだ。

 このmatome.jpの検索結果が、トラックバック、リンク、掲載日付などの外形基準とキーワード出現頻度などのセマンティックな基準の両方で解析され、BMFのような議論の樹形図に加工され出力され、しかもそれがmaki氏の言うような「まとめフィード」のような形でリアルタイムにRSS配信される、みたいなことになってくると、既存のマスメディアの「まとめ」機能はたぶん本当に必要とされなくなってしまうだろう。

 僕は、ブログ的コミュニケーションを用いたネット・ジャーナリズムが成立しうるとすれば、素早い解説・論点整理の機能をベースにして専従のジャーナリストによる報道性をミックスしたものだろうと、以前のエントリで述べた。

 だがこれに対し、奥一穂氏からは「速報性にこそウェブのビジネスチャンスがある」という指摘もされている。確かに、BMFEditやmatome.jpを見ていて思うのは、1次情報の速報性まではたどり着かないかもしれないが、報道・解説的な部分のスピードは、もうまもなくリアルのマスメディアが逆立ちしてもウェブにかなわなくなるだろうという現実だ。

 文系人間と理系人間のコラボレーションが快感だなあと思うのは、こういうアプリケーションが登場するのを目の当たりにした時である(笑)。引き続きこの分野の技術開発動向については、ウォッチを続けてみたい。

12:56 午前 メディアとネット コメント (0) トラックバック (6)

2004/12/24

祝・20万PV

 今年4月に前身となるブログを開設して以来の累計PVが、本日6時を持ちまして20万を超えました。

 このブログをこれまでにご訪問下さったりリンクしたりトラックバックしたりコメント書いたりしてくださったすべての方々、なかんずくたびたび拙記事にツッコミを入れ、クリスマスイブのほのぼのファミリー層向けの料理記事にまで大量の怨念独身童貞男の信者刺客(現在までで既に5000PV)を差し向けてくださった切込隊長様に、この場を借りて厚くお礼申し上げたいと思います。

 それにしても最近思うのは、ブログの世界って近ごろアクセスが加速度的に増えてないか?ってことですね。累計10万PV超えたのが、つい3週間前だったように記憶してるんですが。むなぐるまさんも書いていらっしゃるが、これがたった数ヶ月前には「部員が八人しかいない高校野球みたいな雰囲気」と形容された分野とは思えません。

 やっぱり世の中の話題を引っ張るような議論をがんがんブチ上げること、それから人気ブログの分類マップを作ってみたりとか、俯瞰図みたいなものを発信することが、業界全体の顧客層拡大には大切だと、こういうことでございましょうか。

 えーちなみに申し上げておきますと、不肖私、むなぐるまさんのおっしゃるような「アルファブロガーへ立候補」などという不遜なことは決して、決してですね、やってございません!!そういうご指摘は、いかがなものか。有名人になるだとか、そういったことのためにブログをやってきたのでは、ないのであります。これだけは、明確にしておきたい。こう思っております。そのような意見は即刻、撤回して頂きたい!以上です。委員長!

05:59 午後 ウェブログ・ココログ関連 コメント (0) トラックバック (0)

映画評:ニュースの天才

ニュースの天才 「ジャーナリズム論を語るなら、これを見ておいた方がいいですよ」と、ある後輩から勧められたのが12月から東宝系で公開されているこの映画。1998年に実際にあった事件を題材にしたノン・フィクションである。映画の案内などはPocket Warmerさんのところにリンクしておくのでそちらを参照のこと。

 米ニュー・リパブリック誌の若き敏腕記者、スティーブン・グラスは社会ネタを面白おかしく取り上げることで人気ジャーナリストとなり、若干24歳にして同誌の共同編集人(編集委員みたいなもんかな)に。ヘイデン・クリステンセンが、競合誌や編集長から記事のウソを突っ込まれて隠しきれなくなり、ボロを露呈していく若きジャーナリストを見事なまでに演じている。

 映画としての評価は専門の方々にお譲りするとして、似たような雑誌の記者の1人だった者としてこの映画を見た感想を書こうと思う。

 この映画は、映画としての面白みを多少犠牲にしてまで、実話に徹底的に忠実に作られている。だから日本のメディア関係者にとっても参考になる部分がたくさんあるはずだ。

 その1つに、スティーブンがジャーナリスト学校の後輩たちに自分の仕事を説明する中で、記者の書いたものがどのようにチェックされて記事になるのか説明する部分がある。

 「記者が書いた原稿は、まずシニアエディターがチェックし、次にチェック係(恐らく校閲のこと)と弁護士が、記事が事実であるかどうか、問題になりそうなところはないか、世の中のデータベースや過去の記事、法律的見解などを元にチェックする。それをレイアウトし、プリントすると、さらにチェック係、そして弁護士によるチェックが繰り返される。もちろん、編集長もチェックする。こうして2重3重の厳重なチェックを通って記事になるのだ」
 「だけれども、こうした体制ではチェックしきれないこともある。それは例えばデータベースに載っていない小さな企業の存在、市井の庶民の声などだ。これらは記者の取材ノート以外に事実確認のしようがない」

 日本の新聞や雑誌で、上のような校閲体制を敷いているところは、恐らくどこにもない。米国では、ある程度まともなメディアは、少なくとも法務チェックは当然のように仕組みとして持っているし、大手の雑誌ではそれに加えて記者からあらゆる取材メモ、テープ、写真等を提出させて記事との整合性をチェックする体制を持っている。「記者の出す生原稿に対する信頼の置き方」は、日本の方がはるかに高い。

 なぜこうした差が生まれるのか。その理由もこの映画の中に描かれている。主人公スティーブンが吐く言葉でも分かるように、米国ではジャーナリストという職業は、各誌が抱える一部の看板コラムニストや編集長を除き、基本的に専門学校を出たばかりの、低賃金でこき使われる若いリポーターのことを指す。「大統領専用機に唯一積み込まれている雑誌」ほどのステータスのある「ニュー・リパブリック」誌のスタッフの平均年齢は、なんと26歳である。

 彼らはそういう下積みを経て取材力や文章力を認められると、やがて署名で記事を書けるコラムニストになる。つまり、若手のリポーターをアゴでこき使う立場になる。そうなれないと悟った奴は傍らで勉強して、弁護士やアナリストや政治家といった職業に移っていく(スティーブンもニュー・リパブリックをクビになった後、弁護士に転身している)。

 そういうわけだから、専門学校出たての若造が書く記事なんてそれ単体では絶対に信用されない。で、校閲やら法務やらがよってたかって信頼性を検証し手を加えて、初めて1本の記事になる。だから、ねつ造記事が出るということは、米国の場合、書いた記者1人をクビにすればおしまいというわけではなく、とりもなおさずそのメディアの記事検証体制の質が問われるわけだ。

 ところがニュー・リパブリック誌の事件の後になっても、ワシントンポストやニューヨークタイムズの記者による記事のねつ造が次々と発覚した。しかもねつ造された記事が何十本と掲載された後に、である。2003年にニューヨークタイムズでのねつ造記事が発覚してクビになったジェイソン・ブレア記者の事件(こちら)を見ても、この手の事件の根っこにある米国のジャーナリズムの信頼性問題は全く解決していないように見える。

 もちろん、根本的な背景として「記者の功名心」とか「(支局などを閉鎖して事件が起きたときだけ遊軍記者を派遣して記事を書かせる)パラシュート・ジャーナリズム」などの問題はあるのだけれど、面白い記事を書きたいという気持ちは良い記者に共通のことだし、すべてのメディアが事件の起こる場所にあらかじめ常に人を張り付けておけるわけもない。そんなことを言い始めたら、あらゆるメディアで誤報の可能性は常に防げないということになってしまう。

 で、問題は映画の中でスティーブンが語っている「社会ネタの中には、取材ノート以外にその真偽をチェックできない事実がたくさん書かれている」ということなのだ。

 では日本のマスコミはなぜ記事内容のチェック体制をほとんど持たないにも関わらず、これほどの誤報を連発する記者が現れない(正確に言えば「これまで現れなかった」)のか?

 僕が思うに、それはこれまで「給料の高さ」が原因だとされてきたのだと思う。30歳そこそこで年収1000万円を凌駕する大手マスコミの給料は、下手なでっち上げ記事を書いてその嘘をとがめられた時に彼が失う金銭的利得をすさまじいまでの金額につり上げる。だからあからさまな嘘記事は出ないのだ、と。

 まあ、これに加えて米国とは違う日本のマスコミという職業の社会的信用の高さもあっただろうね。終身雇用制で、いったん大企業をクビになるとほぼ同レベルの社会的信用のある立場に復帰するのがほぼ不可能とされていた時代、誰もそんなリスクは負わなかった。

 だけれど、そろそろ日本でもそうした「機会損失の大きさ」だけを理由に商業メディアの信頼性が維持され得た時代も終わろうとしている。1つには、一昔前の「官僚」と同様、ジャーナリズムに対しても人権侵害を繰り返し好き勝手に振る舞う、汚わしくてずるい人間というイメージが世の中に広まってきていること。ネットで流行っている「マスゴミ」という言葉がそれを象徴している。また、多くのマスコミで従業員の給与水準が下がり始めた。

 またこちらのブログに出ているように、インターネットが既存のジャーナリズムのでっち上げを暴くようになって、実は日本のマスコミの記事も嘘だらけ、他媒体からの無断引用だらけだったということがばれつつあることもその一因だろう。

 映画「ニュースの天才」でも描かれているように、日本でも一般の読者の興味は硬派な政治・経済の話から、面白おかしい身近な社会ネタにどんどん移ってきているのが現実だ。しかし、身近な社会ネタほど今の日本の新聞・雑誌の記者が不得意とするところもない。なぜかと言えば、これまで主なニュースソースが中央省庁や都道府県、市町村などの記者クラブや広報部のしっかりしている大企業ばかりで、「一般社会」との接点が一般人に比べてずっと少ない、というのが“一般のマスコミ人”の実態だからだ(笑)。

 そこで「もっと面白い社会ネタを出せ」と会社に言われれば、これはもうネタをでっち上げて出すしかない。ま、今の日本では幸か不幸か、新聞記者に部数のノルマとか「売り」の圧力が全然かかってないので、そこまで「面白い社会ネタ」が上から要請されることもないのだけれど、毎号売れるかどうかが問われる市販雑誌などでは、実際にもうでっち上げのネタだらけの世界が広がっている。

 例えば「AERA」。自分自身取材したことのある分野の話が記事で載った時に読んで、ああこの雑誌は内容の半分ぐらいがでっち上げなんだと分かった。社会ネタではAERAと双璧をなす「SPA!」に至っては、まさかみんなこれが事実に基づいているなんて思って読んでないよね?ぐらいの勢いでネタだらけである(笑)。え、もしかしてあなた、あれが全部事実だと思って読んでました?それ、メディアリテラシー足りなさすぎですよ。

 まあ、それがよほど政治・経済において大きな意味を持つものでない限り、面白おかしい社会ネタは多少脚色やフィクションが入っていてもいい、と僕は思う。だが社会ネタの取材・執筆の手法と、大企業や政府批判記事のそれとが混同されたら、非常に大きな問題になる。

 スティーブンの取材・執筆手法は、それが「SPA!」である限りあまり問題にはならないのだが、媒体がニュー・リパブリックなどという大変な権威のある雑誌だったから問題になったのだ。実際、映画の中で彼は他の雑誌のアルバイト原稿をたくさん書いていたこともに示されている。本物のスティーブン・グラスは、恐らく媒体によって原稿の信頼度を使い分けるということができず、自分の執筆スタイルがどこでも通用すると思いこんでしまった部分もあったのだろう。

 僕も以前は「日本のマスコミも、米国並みに記事内容に対するチェック体制を厳しくすべきだ」と思ったりしたこともあったが、これっていうのは製造業において「品質を上げるために、生産ラインの一番後ろの品質チェック係のさらに後ろに品質チェック係の品質チェック係をつけました」といって胸を張るのと同じぐらい意味のない議論だと思い直した。

 ではどうすればいいのかということなんだが、もちろん人物名や企業名など最低限のチェック体制は当然のこととしても、結局のところ「面白おかしい記事、世間をあっと驚かせる記事を書く」ことよりも、「裏のとれない話に基づいた記事を書かない」ことを記者の評価のプライオリティにおいて常に優先にする、という以外の方法はない気がする。これ以上品質検査体制にコストをかけても、おそらくそれは今の記者の給料を切り下げる程度ではカバーしきれないだろうと思うからだ。

 逆に言えば、マスコミの記事の品質の問題というのは、記者にジャーナリストとしての分別を持つことに対するプライドを持たせ、でっち上げを決して許さないという鉄の掟を現場に徹底できるかどうかという、マネジメントの品質の問題にほかならないのであって、官僚の給料の問題と同じように「これ以上給料を下げると正確な記事を書くというモチベーションが保てない」とか、そういう類いの話ではないのである。

 スティーブン・グラスのねつ造記事が書かれた当時のニュー・リパブリック編集長だったマイケル・ケリー(故人)は、この映画脚本執筆のためのインタビューに全面協力し、「グラスの不正を容認する結果を招いた自分の行為に対し、決して心の重荷を下ろすことはなかった」と、プロダクションノートでビリー・レイ監督が述べている。でっち上げ記事を書いた記者の出たマスコミは、社長以下その記者の上にいたマネジメント全員がクビを差し出すのが正しい対処方法であって、その覚悟がない人間がマスメディア企業のマネジメントなんかできないよというのが、この映画を見て思ったことだ。

 …とか何とか言いつつ、六本木ヒルズのTOHOシネマズで上映開始前に隣に座ったボブのカワイイ女の子が物欲しそうに僕の手元を眺めていたのに気が付いていたくせに、キャラメルポップコーンをさりげなく差し出しシェアを申し出て会話に入れなかった僕は負け組 orz

12:24 午後 メディアとネット コメント (4) トラックバック (8)

2004/12/23

おいしいローストビーフの作り方

ローストビーフ 今日は本当はブログ定休日(笑)なのですが、クリスマス前ですし、少しプライベートな話をしますか。

 我が家では、クリスマスには毎年僕がローストビーフを焼きます。普通クリスマスのメニューと言えば、ローストターキーだったりチキンだったりするんだろうけれど、うちのカミサンは鶏肉系が嫌いなので、我が家ではこれが定番になりました。毎年だいたい1.5kgぐらい焼くのですが、家族と夫婦それぞれの親にも差し入れたりして、クリスマス明けにはすっかりなくなってしまいます。今日は、ちょっと我が家流の作り方をご紹介。

 まず都会に住んでいる人は、これだけの大きさの肉をどうやって確保するのか?というところから迷うでしょうね。僕の場合、近所の食品スーパーで3~4日前に精肉部門の人を呼び、「○日に取りに来るから、1.5kgの牛ロース肉のかたまりを用意しておいて」とお願いします。スーパーはたいてい2日前までに精肉の発注をするので、それまでに注文しておかないと当日いきなり行って「かたまり肉をくれ」と言っても、もらえません。ま、これは普通の肉屋さんに行ったって同じことですが。

 毎年、肉は米国産のすき焼き用ロース肉を使っていました。和牛は脂が多すぎてあまりおいしくないです。でも今年は米国産が手に入らないので、仕方なく豪州産のものを注文。100グラム238円と、まあそこそこかな。肉代は締めて3700円。家族6~7人が数日間たっぷり楽しめることを考えれば、大した値段ではありません。

 肉を買ってきたら、それをたこ糸で縛ります。そんなにきつく縛る必要はなくて、形が崩れない程度にささっと巻く感じで。それから、塩と粗挽きこしょうをたっぷりすり込みます。できればローズマリーもちょっとすり込んだらおいしくなります。

 塩こしょうをすり込んだ肉を置いておき、次に香味野菜を切ります。たまねぎは薄切り。セロリ、にんじん、ピーマン、パセリはぶつ切り。セロリは葉っぱの部分もざく切りにして使います。ニンニクは2~3個を包丁の腹でつぶし、しょうがは薄切りを4~5枚ほど。その間にオーブンを170~180度に予熱しておきます。

 なるたけ大きな鉄のフライパン(中華鍋でもいい)に、サラダ油をひいて強火で熱します。縛った肉をフライパンの上に乗せ、転がしながら表面に焼き色をつけます。カリカリにならなくても、そこそこ生肉の色が見えなくなったらそれで十分。筒状に縛ったお肉の上下の断面のところを、最後にフライパンに当てて焼き色を付けて、おしまい。

 焼いたらすぐに加熱しておいたオーブン皿(金属製)に薄切りたまねぎを敷きつめ、その上に焼いた肉を置きます。すかさず回りにざく切りにした野菜を盛り上げて並べ、オーブンに放り込みます。

 そして、最大のポイントがここ。オーブンの温度です。よく「200度」とか書いてある料理本を見かけますが、200度で焼くと肉の中まで完全に火が通ってしまい、高級レストランで出てくるような、中がきれいな赤色のローストビーフになりません。ま、赤い肉汁のしたたるお肉が嫌いという人はそれでもいいですが、やっぱりローストビーフといえば、あの生っぽそうでちゃんと熱は通っているという、きれいな赤色のお肉ですよね。

 この意見に同意して下さる方は、オーブンの温度を「170度」にして40分~1時間加熱して下さい。これより小さい肉だと、もう少し短い時間でもいいかも。途中、一回だけ肉をひっくり返すとなお良いです。

焼き上がりました!
 焼き上がったら「やったー」とか言ってぼーっとしていてはいけません。すぐに取り出し、アルミホイルで厳重に包み、皿の上に乗せて常温で放置します。熱をきちんと肉全体に行き渡らせ、肉汁を安定させるためです。これをやらないと、引き締まったおいしいローストビーフになりませんので注意。

 ちなみに、ホイルで包んだ肉を置いた皿には、肉汁がたまります。オーブン皿の香味野菜に赤ワインを少しかけて皿にこびりついた肉汁ごと鍋に移し、肉を置いた皿にたまった肉汁と混ぜて、少し煮立てます。煮立ったら香味野菜のくずを濾して捨て、煮汁にコンソメスープと塩こしょうを入れて調味し、最後に水で溶いたコーンスターチを入れてとろみをつけ、グレービーソースの出来上がり。肉はある程度冷めてからホイルを取ってたこ糸をほどき、薄切りにしてグレービーソース、ホースラディッシュなどをつけて食べます。

 ローストビーフは、オーブンの温度さえ間違えなければ結構簡単にできるのですが、家族からは「お父さんすご~い!」と、感嘆のまなざしで見てもらえるので、おすすめの料理。家族の分だけなら1kg弱でも十分かな。皆さんのクリスマスの食卓にもいかがですか。

12:33 午後 グルメ・クッキング コメント (13) トラックバック (14)

2004/12/22

「ニート」「ヲタ」で怒濤のアクセスとTBが押し寄せている件について

 なんだかここ数日ニート、ヲタク関連であちこちからトラックバックとアクセスが押し寄せているわけですが。いや、それでもまだ隊長のとこに比べると日当たりPVなんか20分の1ですしアレなんですが。

 僕も忙しい中、こちらにいただくTBとコメントまでは何とかまだ全部目を通してますけど、隊長のとこのコメントとか1000に届く勢いですし、語ってるブログの数は無数ですし、もう論点整理のBuffer Overflow、パニック状態です。いやもうこんな全日本的ストリームなディベートのど真ん中ににうかつにTNT級のよく萌える燃料投下した僕が悪うござんした。ゴメンナサイ。でも一応発言の主として、せっぱ詰まった仕事も横に置いて、少し言い訳します。

 以前のエントリで僕は「ニートとはカジテツの言い換えだ」「人間関係からの撤退という意味で、ニートも非モテ(負け犬、オタク)も同根だ」という話を述べている。このあたりは、何度もリンクしているLoveless zeroさんのサイトでのマッピングやまとめでも既述の話。あちこちのブログを見ていて思った問題は、この負け犬、ヲタク、ニートといった「撤退系」人種に対してどういうスタンスを取るのかということになるのかなと。

 で、僕を武闘派呼ばわりしたid:ajiyoshi氏が、ニートに関する各論者のスタンスを2ちゃんねる型樹形図で分類してくれた。すんばらしい。で、少し僕なりに手を加え、関連ブログへのリンクなども作ってみた。

ほっとこうよ派
 ├どうでもいいんじゃない派(中立派)
 │ ├多様化の苦悩を味わえ派(怨念フェミニズム派)
 │ │ →野菜
 │ │
 │ └三国人のほうが問題だよ派(嫌中韓派)
 │
 ├ニューエコノミーだよ派(楽観派)
 │ ├どうせ働かざるを得なくなったら働くよ派(成り行き派)
 │ │ →おやじまん氏、Colorful
 │ │
 │ ├家事手伝い、専業主婦だってニートだよ派(発想の転換派)
 │ │ →R30のこちら
 │ │
 │ ├働かないなんて最高だよ派(裏社会ユートピア派)
 │ │ →うぐいしゅ氏、おおひらしんすけ
 │ │
 │ └むしろ消費力に注目しようよ派(マーケティング派)
 │   →CMプランナー
 │
 └死ぬまで治らないよ派(悲観派)
   ├自己責任だよ派(リヴァイアサン派)
   │ →いい国作ろう!怒りのブログ
   │
   └働くと雇用環境が悪化するよ派(新古典経済学派)
     →ひろゆき@社長日記

なんとかしようよ派
 ├このままじゃ俺らも困るよ派(自己中心派)
 │    ├治安が悪化して困るよ派(ブルジョア派)
 │    │ →団藤@ブログ時評
 │    │
 │    └税金/年金払えよ派(サラリーマン派)
 │      →G3@大牟田からのつぶやき
 │
 ├社会が悪いよ派
 │  ├ニートが革命をおこすよ派(革命的マルクス主義派)
 │  │ →radionova
 │  │
 │  ├親と政府はなんとかしろ派(社会システム派)
 │  │  ├大人はちゃんと説明しろ派(アカウンタビリティ派)
 │  │  │ →東78系統
 │  │  │
 │  │  ├逆扶養控除だゴルア派(現在制裁派)
 │  │  │ →R30のこちら
 │  │  │
 │  │  ├相続税引き上げろ派(将来制裁派)
 │  │  │ →東京Kitty
 │  │  │
 │  │  └ゆとり教育の弊害だよ派(アンチ文科省派)
 │  │    ├教育勅語復活しろよ派(尊皇攘夷派)
 │  │    │
 │  │    └自衛隊にいれてしまえ派(イラク派兵タカ派)
 │  │      →武部勤・自民党幹事長
 │  │
 │  └企業が悪いよ派(修正資本主義派)
 │    →余丁町散人
 │
 └本人が悪いよ派
    ├他人のために生きてみろよ派(人情派)
    │ →切込隊長
    │
    ├対話力をつけようよ派(コミュニケーション派)
    │ →並河教授@一日一喝
    │
    ├若者が国を支えずしてどうする派(隠居老人派)
    │ →糸山英太郎
    │
    ├親がいなくなったらどうすんだよ派(施設説教派)
    │
    └世の中はやりたくないことだらけだよ派(苦行派)
      →チヤイム

むしろ俺ニートだよ派
 ├自分探し派
 │  ├社蓄なんて嫌だよ派(モラトリアム派)
 │  │
 │  └願望と現実の不一致派(青い鳥派)
 │
 ├ひきこもり派
 │  ├対人恐怖症派(メンヘル派)
 │  │
 │  └FFXI楽しいよ派(ネット依存派)
 │
 └働いたら負けかなと思ってる派(過激派)
    └俺は勝ってる派(急進的過激派)
      →ニート君@とくだね(まとめサイト

 ajiyoshi氏の立てた流派で、該当ブログの見つからなかったところは空欄。また、新しい意見が見つかった場合には少し樹形図を変えた。後半の俺ニート系のところは、力尽きて編集しきれなかった。ゴメン。僕のこれまでのエントリにTB打ってきてくれた人、そのTBからさらにリンク&TBしてるところ、まではだいたいこれで網羅したつもり。意見の書かれてないまとめエントリとかは入れていません。

 ま、この図は今回の論にはあまり関係ないっす。実際には皆さん、もっといろいろなニュアンスを込めて文章を書いてらっしゃるので、こんなにざっくり切り分けられるものでも、実はない。ので、単なるエンタテインメントとして面白がって下さいまし。誰かヲタクに関する意見でも類似のものを作ってくれるとなおウレシイ。

 僕の以前のエントリはニート肯定論だったのだけれど、切込隊長にTBしたエントリは否定論だった。オタクについて言えば、閉鎖以前に書いた「電車男」評は結構否定的だったのだけれど、その後に書いたエントリでは肯定的だった。つまり、1つのテーマについて時間をおいて書くエントリで、それぞれかなりスタンスがぶれている。

 どれが本音なの?と聞かれてあえて答えるなら「肯定論」だろうと思う。でも否定論のほうがずっと書きやすいし、大向こう受けする。毒を吐くのってある意味楽だし、読んでる人は(こき下ろされる対象にされた人を除いて)溜飲が下がるからね。

 過度の楽観論は危険だという声ももちろんある。だけど、どうなんだろ。ブログの世界で交わされる言葉がネガティブな話ばかりになるのって、いいことなのか?正直、あまりそうは思わない。両方まざっているべきだろうと思うしね。論争することはそれ自体楽しいけど、本当に自分がその問題にどう対処するかが問われた時の“知恵”となるのは、やっぱり「いろいろな考え方を俯瞰できるだけの情報量」だと思うし。

 で、自分の書いたエントリに関して少しコメント。

 既に理解していただいている方もいるようだけど、「ニートに語る時の立論方法」については、切込隊長の1本目のエントリで彼が立ち止まっていることに対する投げかけで書いたつもりだったのだけれど、2本目のエントリで彼はニートの内面問題に入っていってしまったので、ちょっと肩すかし食ったかなというところ。

 そこに、dalmacijaさんから「思考停止、単純化の偽社会学だ」という批判を受けたので、ちょっと脇が甘かったな~と反省した次第。このレベルの話で解決する“問題”ではないと思ったからこそ、最初の「ニートってカジテツだよね、よく考えたら」っていうエントリを書いたのだった。

 言葉の切り返しによって“問題”そのものの所在を変えてしまうのが、ニートという“問題”に対しては一番いいのではないかという思いは、今でも変わってない。ただ、その手法はマクロ経済上の労働人口減少という課題に対しては何ら解決策を提示してはいないことには変わりない。

 あえて言うなら、今さら女性を家庭に押し込めるといった時代錯誤な政策が成り立たない以上、多少少子化が進むことも覚悟の上で男女間の社会的役割を交換することも認めたらいいんじゃないのか、という程度かな。その意味で「怨念フェミニズム」と名付けたが、野菜さんの考えに多少近いかもしれない。

 次に、ヲタクについて。この議論についてはぎょろぐさんの猛烈な突っ込みエントリが、「萌えヲタ」という僕の言葉の定義やら調査サンプル数の少なさやらの問題をすべて丹念に指摘してくれていて、それを読んでもらえれば十分かと思う。この件については、「コミケ3日目の一般入場ゲートの開場の瞬間を見てみ。ハナシはそれからだ」とみゆさんのブログで断罪されているので、見たことない僕はやはり白旗上げるしかないかな、と。

 1つだけ、この界隈の話で非常に興味を持ったのが、ぎょろぐさん他の方々が一様に指摘している、単なる謙遜ではなく、強烈な自我の防衛意識の表れとしてコミュニケーションから退行するというヲタクの生き方だ。実際のニートも「働けない」という表層の裏に「本当の俺はこんな惨めな働き方はしてないはず」という自我があって労働から退行しちゃうという側面が、かなり強いのも事実なんだろうね。

 こういう「積極的退却系」の自我意識というのがどこから出てくるのかについて、実は以前にこんなエントリも書いたことがある。前半部分にあるように、マスコミがいろいろなバラ色の可能性のイメージを垂れ流すことで、人間は「現実原則(Reality Principle)ではなく執行原則(Exective Principle)として環境を理解し、『断念する苦痛に耐える心』(フロイト)」をなくすのだよ、という話。

 この話から思いついた、僕が有効ではないかと考える「積極的退却系」の生まれるのを抑止する方法が、テレビも電話もないアジアのど田舎とか無人島とかに、中高校生ぐらいの子どもを数ヶ月くらい放り込んで生活させるというものだ。チヤイム氏の「やりたくないことだけを無理矢理やらせる」という、自我崩壊ぎりぎりの手段もあるとは思うが、それをもう少しポジティブに実現する方法がないものか。

 そんなことを考えて年末の仕事を後回しにしたツケが今後ろからqあwせdrftgyふじこlp;

03:24 午後 経済・政治・国際 コメント (8) トラックバック (26)

2004/12/21

他人のブログを読み始めると

 ・・・あああっ、またエントリを書きたくなるっ・・・くぅぅ・・・ここは耐えて・・・耐えるのだっR30ぅっ・・・RSSで見えたからといって・・・すぐに読むんじゃないっっ・・・それより・・・早く仕事・・・仕事をっ!!

02:11 午後 ウェブログ・ココログ関連 コメント (1) トラックバック (3)

ニートを語る時の立論方法

 隊長がニートについて2回も費やして語っている。(「ニート(無業者)に関する考察メモ」、「無業者(ニート)に関して」)主にマクロ、ミクロの経済から問題の所在を理解しようとしている。

 それが不毛とまでは言わないが、もともと「ニート」という言葉を日本に紹介した玄田有史東大教授は労働経済学の専門家であり、従ってニートというターミノロジーももともとは労働経済学の概念だ。だから労働経済学の範疇で考えていても、玄田教授やらろくな政策を立案できない厚生労働省以上のアイデアは出てこない、と僕は思うんだがどうよ。

 実際、玄田教授は最近役所から出る補助金使って重箱の隅をほじくるようなしょーもない統計調査に熱を上げているだけみたいだし、話題になった梅田望夫氏の「ニート」の書評でも、「原因が仮に解明されたところで、その原因を根絶するようなマクロな政策やビジョンが生まれるべくもなく、ニート増大という現実問題の解決には決してつながるまいという諦念」が玄田教授にはあるのだろうと書かれている。

 たぶん隊長のエントリもそのへんの経済分析的なところから入ったものの、気が付いてみたら出口が見えなくて立ち止まってしまった、みたいな感じなのだろう。

 正直言うと、労働経済の分野ではこの問題についてある程度の分析や結論は出ていると僕は思う。その結論めいたものが、まさに隊長が書いているような話だ。つまり:

  • マクロ経済的に見れば、ニートとは「有効求人がないから働けない」のではなく、「働く必要がないから働かない」層である
    • 「働かない」理由は、30過ぎたフリーターを企業が労働力として求めないという「(主に雇用側ニーズの)外形的ミスマッチ」と、高学歴なのに単純労働しか口がないという「(主に就労側ニーズの)内面的ミスマッチ」の2つがある
    • この世代の支出は、主に親世代からの所得移転によって賄われている。団塊世代が退職を迎える今後数年間で、彼らの支出も大幅に減少する可能性が高い
  • 働く口はあるのにあれこれ理由をつけて働かないというニート、またあれこれ理由をつけるような30男をわざわざ雇いたくないという企業が多い以上、この問題の結語は、「個人が求職のハードルを下げて、働く気を起こせ」という精神論でしか落とせなくなる
  • で、じゃあ何で働く気が起きないとか俺は低能かもしれないとか言ってるわけ?働かなかったらいずれ飢え死にだよ?世の中の奴なんてお前らよりずっと低能だよ?そもそも働いてみなきゃ「自分が何であるか」なんてわかんないじゃん…といった、あっちの世界とこっちの世界の会話してそうで噛み合ってない呼びかけ合いで終わる
 といったところかな、これまでの2つのエントリをまとめると。

 資本主義経済的には、「こいつらが働かないのは経済外部性の問題だから、とりあえずそのセグメントが消滅するまで待ちましょう、レッセフェール」という結論になるのは目に見えているし、だからこそ「ニート税」というかたちで経済的に締め上げる以外に何の「太陽的」政策も提言し得ないし、厚労省が「ニート対策費」なんて予算計上するぐらいならそいつら全員自衛隊に入れてしまえ!的などっかの幹事長さんの暴論が暴発するわけだし、そこまで言われる(そして実際にはそんなことできっこない)ことも全部全部分かっていてニート君たちはニートしているわけだ。

 それじゃあんまりだ、と考えて隊長のように精神論あるいはサイコセラピーの議論に入ってしまうと、TBしてきたニート君たちと隊長の間で延々と終わりなき人生相談劇場が展開されるはめに。はぁくだらない。だって隊長のエントリにトラックバックしてきた「めむひぱにげ」氏のこのブログだけ読んでも、彼らニートがほぼ確信犯的に日本社会にフリーライドしていることは明らかなんだから。分かっていてフリーライドしている人たちに「いいかい、フリーライドってのはしちゃいけないんだよぉ」なんて説教垂れたって無駄だっつーの。

 経済的に言えること、それは「フリーライドの余地をなくせ」ということだけだよ。こと、働くということに関しては結婚とは違って、明らかに国民経済上の「義務」と言えるわけだからさ。で、見回してみるとニートなんかよりもっとすごいフリーライドしている奴らがいるじゃん。カジテツとか主婦とか(笑)。で、そいつらの存在を認めるの?認めないの?認めるならどこまでを許容するの?ということが、今政策の現場では問われているわけですよ。

 逆にサイコセラピーの切り口から入るのなら、彼らを責める前にまずその「不就労」に経済的・心理的な容認を与えてしまってる彼らの親世代をあげつらえよな、と僕は思う。以前のエントリでも指摘したように、ニートが何もせずに家にいられる理由というのは、親世代が単に経済的に彼らの居候を許しているというだけではなくて、意識的・無意識的に職業の貴賤観を子どもに植え付け、ホワイトカラーの家系からブルーカラー労働者が出ることを言外に否定して「そこまでして働かなくても…」とか言っているからなのだよ。

 大卒で物流センターの作業員やって何が悪いの?はっきり言って今時の最先端の物流センターの作業なんて、国公立トップクラスの学生にやらせたって作業効率50%にもならないよ。あれってすごい専門職なんだから。大卒エリートだからって日本の製造業やカンバン方式導入した現場に行ったら、ただの役立たずなんだからさあ。

 役人だの大企業のホワイトカラーだのなんて、物流センターのパートさんに比べれば、ホントに何もしてねえんだから実際。お前らエリートだかなんだかしらねえけど、セブンイレブンのバイトとか佐川のセールスドライバーででも一度働いて見ろボケ。そしたら、この世の中を本当は誰が支えてるかが分かるんだよ。

 というような言葉を、「俺はこんなダメ人間のはずじゃなかったのに…」ってうじうじしながら自宅でゲームに高じてるニート君の頭から浴びせかけてやったほうがいいように思うんだよね。それも隊長じゃなくて、もっと身近な人たち、ありていに言えばそいつの親がさ。

 何が問題なのかって、身近にいる奴にそういう厳しい世間の掟を誰も言わなくなった日本の社会全体がダメダメなんだろということでファイナル・アンサー。ん…やっぱりそうすると「子どもを家から叩き出せないダメ親税」というので経済的に締め上げる+国家財政に寄与するというのが、やっぱり一番いい解決方法かもね。

(12:40追記)
id:dalmacijaさんから厳しい、しかも完全に正鵠を射た批判をいただいた。ご指摘の通り、このエントリは実は僕の本音からわざとずらした「レトリック」です。その言い訳は、dalmacijaさんのエントリへのコメントという形で述べさせていただいたので、そちらもぜひお読み下さい。

10:35 午前 経済・政治・国際 コメント (9) トラックバック (19)

2004/12/20

2004年日本のアルファブロガー投票

 FPNニュースコミュニティーで、2004年の日本のアルファブロガーを探せ!という投票企画が始まった。要はビジネスのヒントになる、ビジネスパーソンにとって要チェックなブログをリストアップしようぜ、というもの。

 この企画の裏側には、切込隊長のエントリ「Blog of the Yeah! 2004が結局なかった件について」でも語られているような事情があるのだろうと思う。アクセス数の多いブログ、という基準だけで人気ブログを選ぶと、芸能や下ネタなどの大量に詰まったエンタメ系なニュースブログか、ネット技術の動向ウオッチ系ブログが上位に来てしまい、ほぼ顔ぶれが固まってしまう。しかも本当の意味でビジネスに役立つブログというのがあまり入ってこない。

 FPNニュースコミュニティーの今回の企画の意図も、そのへんの問題意識があると思うのだが、やっぱりそのためには論壇系ブログでまじめな論争をあちこちで引き起こさないとダメだろう。

 年末にかけて、いずれも切込隊長がらみで勃発したネット・ジャーナリズム論、キムタケ銀行告発問題は、ブログやネットメディアに関する様々な考察を可能にした。あの2つの論争にTBを打って果敢に参戦してきたブログの中には、専門家的知見をきちんとまとめて積み上げているものや、独自の切り口をもったものがかなりあった。2つの論争は、そういうブログが「発掘」されるきっかけになったという意味で、大きな意味があったと思う。

 だが、それでもそれらの見識を備えたブログが「アルファブログ」と呼べるものになるかどうか、質、量ともに米国に比べて全然小さい日本のブログ界隈では、まぜ判断できないような気がする。今年下半期ぐらいで、ようやくアルファブログの候補が芽生え始めたというところではないだろうか。

 この芽を大きく育てられるかどうかは、恐らく読者の側の適切なリアクションが大きく関わってくるのではないかと思っている。「このブログは参考になることもあるけどときどき見方が偏っている」とか、「このブログはニュースの羅列ばかりでアイデアが見えないのでつまらない」とか、いろいろと言いたいことを言うべきだ。ブログの筆者がそれを受け容れるかどうかは別だが、発言することでブログの世界に自分が欲しいものを実現してやろうと骨を折ってくれる人が出てくるかもしれないのだから。

 というわけで、FPNのアルファブロガー投票企画にはアクティブなブロガーの方々だけでなく、いつもは他人のブログを「ふーん」と感心しながら読んでいるだけの「ROM」な人たちも、自分のブックマークからよくクリックしているブログを3つ選んで、投票してもらいたいと思う。そういう小さな声の積み重なりが、ブログの世界にまた前進を起こすのだと思っている。最後に、ぜひ当サイトにも清き一票を(爆)。嘘です冗談です口が滑りましたゴメンナサイ。

 ちなみに、FPNの企画エントリのトラックバック先、またその人たちが選ぶ「3つのアルファブログ」というのも最高に興味深い。ぜひご一読を。ちなみに僕の投票内容は…秘密です(笑)。

 それから、オタクネタでTB・コメントいただいた方々へ。書くことがあれこれありすぎてまだまとめエントリ書けません。今しばらくお待ち下さい<(_ _;)>

01:03 午後 ウェブログ・ココログ関連 コメント (0) トラックバック (3)

ハンドルネーム、変えました

 昨日、GLOCOMの情報社会学研究会に呼ばれて、行ってきました六本木ヒルズ(の横のビル)。

 ネット・ジャーナリズムをテーマに、論争の渦中の湯川氏と切込隊長がリアルでバトる!という触れ込みに釣られて行ってみたんですが、隊長ついに降臨せず。(´・ω・`) 最近ブログにハッスルしすぎて、年末進行の原稿とうとう書き終わらなかったんスねきっと…とか言ってたら、ダチの家でDVD見てたんかい!ぉぃぉぃ。_| ̄|○||||

 で、集まった議論好きな面々は、主賓の切込隊長不在のままジャーナリズム論に熱くなり、予定の時間を40分以上オーバーしてしゃべりまくりましたよ。ええ、民主主義の行方から業種別ゼニの儲け方まで、業界インサイドのきわどい話が飛び交い、めちゃくちゃ面白かったっす。

 内容については後日GLOCOMでログをネット上にアップするという話ですし、一部きわどすぎて検閲入りそうな部分が多々ありますので、ここでは触れません。ログが出た段階で、またいろいろとコメントしたいと思います。

 ただ、個人的にショックだったのは、参加者の皆さんが、僕のことを「R30」と呼んでくださってたことでしたね。何でショックだったかというと、

  • ハンドルネームで呼ばれるような会合に出たのは初めてだった!!(実はオフ会というものに、今まで参加したことがなかったのです。オフ会デビュー!!)しかも同業者や著名な論客の方々などすごい面々が居並ぶ席上で「R30さんはどう思います?」などと呼ばれるのがすごい違和感(笑)。ああ僕はR30なのか、とアイデンティファイドされてしまったり。

  • 一応プロフィール欄にはshintakkinというハンドルネームを書いてあるんだけど、そっちは誰も呼んでくれなかった。以前のタイトルの時はそっちで表記されることが多かったんですが、タイトルを変更してから誰もプロフィール欄を読まなくなったのかしらん?いや、きっと口にするのが恥ずかしい響きだからだ。間違いない(爆)
 というわけで少々反省(?)し、これからは「R30」を正式なハンドルネームにすることに決め、プロフィール欄やコメントのユーザー名を過去にさかのぼって修正(細かい(笑))。これからは、Google先生に、TBSの番組サイトよりも強く「R30」であることを認知してもらえることを目指してがんばります(意味不明)。

 GLOCOM研究会に関しては、とりあえず今日のところは参加者のうち最も純粋なブロガー(笑)の1人だった本家みかままの覚書がざっくりレビューを書いていらっしゃったのでそちらにリンクを張っておきます。

03:56 午前 メディアとネット コメント (2) トラックバック (4)

2004/12/19

トートロジーに熱くなる

 最近気に入ってよく読んでいる現代思想の内田樹教授のブログのエントリ「困った人たち」を読んで、爆笑した。

 今日はカミサンと出かけていたのだが、家に帰る途中の電車の中でこのエントリを携帯で読んでいて、吹き出してしまった。「どしたの?」とカミサンが聞くので、その部分(エントリの後半部分)を読ませたのだが、「何が面白いの?」という顔をしている。うーん。。。それって落語の地口オチが何で面白いか説明しろって言われているようなもんなんですが。

 落語の本編のほうは内田教授ブログで読んでいただくとして、それがなぜ面白いか、落語のオチの説明にならないようにちょっと語ってみよう。

 要するに内田教授はトートロジー(同語反復)の話をしているんだけれども、教授の言うとおり、世の中の文系の人っていうのは、自分の論じている内容のトートロジーに意外なほど鈍感だよね。という自分も文系なんだが。正直、これは学生に限らないな、と最近思う。

 内田教授がトートロジーの例として挙げているのは、院生の書いたジェンダー論だが、これって最近議論の熱かったジャーナリズム論についても言える。だいたいマスコミの中の人やそれに絡む人たちもみんな文系ばっかりだから、どいつもこいつも定義をすっぽかして印象論であーだこーだ言うばかり。で、まとめてみると「ジャーナリズムとはジャーナリストの述べたテクストである」「ジャーナリストとはジャーナリズムのテクストを書く人である」っていうところがぐるぐると循環していて、不毛なことこの上ない。

 そこで「あなたの言っていることはトートロジーですよ」って言われるのは、ものをしゃべって飯を食っている人間にとってはもっとも恥ずべきことだと僕は思うのだが、大マスコミ人とかに限ってそのあたり、皆さんカエルの面にションベン並みに無反応ですな。「定義が違うから」とか言って無視すればいいとでも思ってるのかしらん。

 なんでこんなことを延々と書いてるかというと、前のエントリにトラックバックくれたyosomiさんのエントリ読んで「おまいらブログに書くぐらいなんだから、もうちょっと論理的に考えろや」と思ったからなんだが。続編エントリしなくていいから、トートロジーを謝りなさい(笑)。

 ま、それはおいといて、でもこういう命題定義のしにくい問題というのは、往々にして議論が混線するもんだから、多くのブログでエントリがいっせいに乱立して熱いTB祭りになりがち。

 それはそれで面白いっちゃあ面白いのだが、だがしかしいったい誰がトートロジーを述べているに過ぎなくて、いったい誰が議論を前に進めたのかといった検証が、すぐにできないのが難点だよな。2ちゃんねるだと、1つのスレの中に論と反論を述べる奴らがあふれる一方、意味の分かりづらいレスを意訳する奴、それを樹形図にまとめて整理する奴などがどんどん現れて論点が明確になるんだけど。ブログはなまじ長ったらしい文章を書き込めるから、そこらへんが難しい。

 論点整理とか状況俯瞰を専門にするブログというのも、ちょこちょこと出てきてはいるが、やはり今のブログの仕組みだと、ネット上のあちこちにあるエントリをすべて読もうと思えば、ブログからブログへトラックバックを1つ1つ追いかけなければならない。しかもトラックバック打たずにリンクだけしているエントリは、第三者からは追い切れない。2ちゃんねるのスレだけを読み通して整理する「まとめサイト」に比べて、ブログ上の論争をまとめる作業は相当荷が重い。

 トートロジーの起きやすいネタが、ブログ上の話題で流行るという傾向ははっきりあるんじゃないかと思うのだが、これって今はブログの勃興期だからみんな熱くなって飽きもせずにつき合っているが、ブログ熱が冷めたらこんな面倒なこと、もう誰もやらなくなるよな。

 そういう「論争整理」のシステムが登場することを、切に願うものである。

02:27 午前 ウェブログ・ココログ関連 コメント (5) トラックバック (5)

2004/12/17

リベラルぶりっ子<萌えヲタの時代

 忘年会に行って来た。

 相手は、会社の同僚のR嬢、S嬢。年齢は少しずつ違うが、3人で大きな仕事をいくつかやった「同志」。年末で辞める僕への送別会も兼ねた会だったが、いつも通り熱い議論からバカ話まで、4時間以上おしゃべりに花が咲いた。

 で、その話題の矛先が先日の「カノジョに働いていいよと言いつつ家事をやれとプレッシャーをかける男」というこのブログのエントリに。あれを読んでブチ切れたというR嬢の毒舌トークをひとしきり聞いた後、話は恋愛論へとなぜか急展開した。

 エントリのコメント欄に出ていた「リベラルぶりっ子」っていうのは、言い得て妙だよねとか大笑いした後に、「じゃ、ぶりっ子じゃなくて今本当のリベラル男ってどこにいるのか?」という話になった。

 ここで言うリベラルとは、言葉の本来の意味で「寛容な」とか「気前の良い」といった意味。つまり、男女の多様な働き方、生き方の選択に寛容で、「社会的ステータス」とか「男としてのメンツ」とかにこだわらず、たとえ自分より妻の給料が多くても自分の家事分担が多くてもニコニコしてそれを受け容れるような、働く女性にとって一緒に過ごしやすいそんな男性、という意味だ。政治的なウヨサヨの話ではないので念のため。

 それってもしかして、オタクとかニートとかの、「自分は結婚、就職などの社会的能力が他人に比べて足りない」と認識している、Loveless zeroさんの言葉を借りるなら“退却系”の男性のことじゃないだろうか。と、R嬢が言った。

 そういえば確かにそうかもしれない。AERAによれば「電車男」の本を買っている人の半分は女性だそうだし、最近発見してびっくりしたブログ(こちら)を見ても、ラブドールにいろいろな服を着せて妄想と一緒に写真を載せるという、普通なら「キモイ」以外に表現できない内容のブログ作者に女性からのデート申込みが相次いでいるというし。

 電車男がなぜ女性の人気を集めるのかについては、こちらのブログなどが「対人関係の煩わしさを嫌がるものぐさ女性の希望的観測」と斬って捨てているが、ま、確かにそういう部分はあるのだろうし、R嬢もS嬢もそれは指摘していたが、僕はそれってあながち悪いことでもないと思う。

 世の中には一方で先日のエントリに書いたような「生まれ育ちまでガチガチの保守主義者なんだけど、でも俺って女性に理解あるリベラリストなんだよ実は」みたいなことをひけらかす、危険な二枚舌の男性が少なからずいる。もし、それなりに自立して生きたいと思う女性がそうしたトラップから身を守ろうと思えば、自分の危ない性癖とか恥ずかしい趣味をありのままにさらけ出して、女性に尊敬と憧れのまなざしを向けてくれる男性とつき合った方が、どうみたってリスクは少ない。

 それから、もっとラディカルな見方をすれば、実はリベラルぶりっ子よりも萌えヲタ君のほうが、コンテンツ的にずっと深くて面白いということもあるかもしれない。

 たいてい、リベラルぶりっ子の男性というのは、俺はあれもできる、これも知ってると見栄をはりたがるくせに、実際にやらせてみると口ほどにもない奴というのが大半である。なんとなれば、彼らは「女性にダサイところを見せてはなるまじ」と思っているので、できもしないことを「できる」とつい口にしてしまうからだ。でも女性は趣味遊び系は男性よりずっと幅広い経験がある人が多いので、たとえ自分の知らない領域でも、一目見れば彼の達人度が大したことないレベルだというのは判断できる。それで女性の側は、「あれだけできるできるとか言っといてそのレベルかよ…」と萎えてしまうわけだ。

 前回のエントリで、「なぜそういう人たちはお見合いという、彼らの階級だけに許された手段を使わないのか」というコメントをもらっていたが、実際のところ僕もそう思う。だが、彼らは、「結婚はやっぱり恋愛結婚じゃなきゃあね」というリベラルな価値観を披露したいがために恋愛にこだわっているのだ。要するに、言葉だけでなく行為そのものもリベラルぶりっ子なわけだ。しかも、そのことを遠回しに非難されたりすると、あくまで一般論として受け止めて「理解を示」し、自分に向けられたものと感じて反省するなど絶対にしない。

 これに対して、ヲタク系の男性というのは、「いや、俺ただのオタクだからさ…」とか謙遜するくせに、それまで他の男性が女性の目を引くためになどに費やしていた労力のすべてを賭けた没入で、非常に狭い領域の知識・芸を極めている。だからその領域に聞き手が興味を持ってさえあげれば、常人の想像を超えたウンチクが滔々と流れ出てくるのだ。これは、考えようによっては汲めども尽きぬコンテンツの泉である。

 しかも当の男性は「自分はその分野だけしか究めていない」という自覚が明確にあるから、それ以外の部分では女性の言い分を割と素直に聞いてくれる。それがどんなに自分のこれまでの生活習慣となじまないものでも、「俺みたいなダメ人間は普通の人並みになるのに努力が必要だから」とか言いながら、ちゃんと合わせる努力を払ってくれる。

 R嬢、S嬢に共通する言い分は「ヲタク男性の方が、自分と他人に正直だ」ということだ。特に、電車男やラブドールブログの524氏のような、自分の恥ずかしい部分も含めて持っているコンテンツを他人のためのエンタテインメントとしてインターネットで晒せるヲタクには、女性から大いに共感を集めるチャンスが増えているということでもある。R嬢がその後送ってきたメールをそっくり引用しておこう。

ネットって、ある意味、恋愛における新興市場みたいなものかと。これまで、中小企業(オタク男)の存在そのものが投資家(女性)に知られておらず、資金(恋愛チャンス)集めが難しかったけれど、新しい市場のおかげで、小さくても魅力的な企業なら広く資金を集められる。良い世の中になったと私は思いますよ。
 いやはや、まったくその通り。3K、イケメン、リベラルぶりっ子の時代は終わった。これからは貧乏でもダメ人間でも正直で面白いコンテンツ力のある「萌えヲタク男」の時代なり!男性諸君、心せよ。

11:47 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (9) トラックバック (11)

2004/12/15

【ご意見募集】デザイン変更してみました

 猫も杓子もユニバーサルデザイン流行りの世の中で、今や黒背景のウェブサイトは存在自体が非難の的になってきている感もありますが、個人的には結構これにこだわりたいと思っている所存。

 ただ、自分自身も目を細めて見ないとサイトの文字がよく見えない(笑)ようになってきているので、スタイリッシュとユニバーサル、どちらを取るか悩んでいます。で、ちょっと実験。

 背景を、霞ヶ関官僚日記さんを見習って真っ黒ではなく少し色を入れ、その分文字を明るくしてみました。また、長文のエントリを読む際にスクロール回数を少なくできるよう、本文部分を可変幅に、右サイドバーの幅も広げてみました。

 見やすさに関してご意見のある方は、お気軽にコメント欄に書き込んでみて下さい。またしばらくしたらいじるかもしれませんが。

10:14 午前 ウェブログ・ココログ関連 コメント (11) トラックバック (1)

プロのジャーナリズムとは何かについて考える・最終回

 シリーズ最終回となる今回、通常の1.5倍の長文です。覚悟されたし。

 前回(3回目)のエントリで、「既存の商業ジャーナリズムのコアバリューは調査報道であり、ネット・ジャーナリズムがどんなに技術革新によって進化しても、こればかりはどうしようもない」ということを書いた。

 で、これについてコメント及びTBでまたいろいろな人から反論、指摘をいただいた。1つ1つ目を通して議論の中に位置づけ、文章を書くというのは、はっきり言って非常にしんどい。しんどいが自分1人で考えを煮詰めていたのでは出てこない思考にも出会えるし、マゾ的な快感もある。

 恐らく、「読者からの意見、反論に(取材、熟考の両方で)徹底的に答え続ける」というこのマゾさが、次世代のジャーナリズムにとって重要な要素のかなと思ったりしている。こうしたスタイルのジャーナリストというのは、マスコミの中にも既に存在する。もちろん、ポスト・キムタケを目指す朝日新聞の新米ブロガー某氏ではない(笑)。「日経コンピュータ」という業界誌の記者だった(現在は日経ビズテック編集委員)谷島宜之氏である(氏のコラム及びそのリンクは、ITproの「谷島の情識」に集められている)。

 彼は、ウェブ上の投稿やメールで受け取った読者の声に対し、丁寧に答えたコラムを書く。最近舞い上がっていたどこかのブログご本尊様と違い、どんな反論も決してスルーせず、取材先にもう一度裏を取りに行ったり、自分の過去の取材ノートを全部ひっくり返してまで説明を試みたりする。

 今やIT業界で谷島氏の名前を知らない奴はモグリと言われるほどの有名記者だが、以前にそのご本人と話したことがある。その時、彼はITproなどで連載している読者との双方向コラムについて、こう話していた。

 「よくいろいろな人に『谷島さんは読者の声に本当に丁寧にお答えになるんですね、親切ですね』と言われるんですが、僕は親切心でこんなことをやっているわけじゃないんです。むしろ毎日、読者から送られてくる意見を読んで『くそっ、こいつどうやって反論してぐうの音も出ないように叩きのめしてやろうか』って必死で考えながらコラム書いてるんですよ。ある意味、悪意の固まりだと自分では思うんですがね」

 うはははは。ま、彼一流のレトリックだとは思うのだけれど、それにしてもすごい。まあ、普通の人間は親切心だけで毎日数百通の(中には悪意に満ちたものもある)投稿に1つ1つ丁寧な反論しようとは絶対思わないわな。いくら仕事だからってそんなことしたら気が狂ってしまう。ジャーナリストにとって悪意は大切だ(笑)。

 それはともかく、ブログ登場のずっと前からブログ的コミュニケーションによる取材・執筆を実践してきた谷島氏のような人は、ネット時代のジャーナリストの1つのあり方を考える参考になるだろう。

 さて話を本題に戻して(今の話も本題でしたが)。これまでのエントリにコメント、TBいただいた方々の反応を見ていると、大きく2つあるように思う。1つは前回エントリの「人々は調査報道をやってくれると信じているから新聞を定期購読する」という僕のロジックに対するご批判。前回エントリへのわたなべさんのコメント、simonさんの「日常/非日常Blog」のエントリなどがそれ。

 「新聞や雑誌はクソ記事も含めていろいろなニュースがパッケージにされているから読むんだ」「レイアウトによるニュースの重み表現(レーティング)があるから読むんだ」とのご意見。まあその通りではあるのだが、個人的にはこれもあっさりとGoogle Newsなどによって乗り越えられるだろうと思っている。

 既にNews&Blog Searchなどがやろうとしているが、読者がどんなニュースに日頃から関心を持っているかをサーバ側に記憶させておき、個々のユーザーごとにトップページをカスタマイズして見出しをレーティングするというようなことが、将来は実現するだろう。そうすれば、レーティングを知るために新聞を読む意味はますますなくなる。パッケージだって同じことだ。「紙が便利だから」ってのは、新聞がメディアとして生き残る大きな要素ではあると思うが、ジャーナリズムの要素とは関係ないのでここでは論じない。

 「調査報道」というのは商業ジャーナリズムが「公益性」を主張する際の核になる部分であり、だからこそ僕も「既存のマスコミにできてネットにできないこと」として挙げたのだが、実際のところ多くの人はただ「惰性的な慣習」としてだけ新聞を定期購読しているのかもしれない。固定電話の回線契約みたいなもんか。だとすると結論はさらに悲観的にならざるを得ない。過去の不合理な慣習によってのみ築かれたマーケットは、その習慣を持たない人口が増えれば自動的にシュリンクするのみであり、企業側の自発的な努力で売り上げ規模を回復させるのはほぼ不可能としか言えないわけだからね。そういう結論にはしたくなかったんだけど。

 新聞という旧習に代わる新しい慣習として「Googleをジャーナリズムだと思っている若い人が増えてきている」と指摘してくれているのが、埼玉大学の並河助教授のブログである。えーちなみに私全然疲れてませんよ?>並河さん

 話がまた脇に逸れるが、このブログにはもう1つ面白い話が出ている。知り合いのプロの物書きさんの「プロとは良い原稿を書くのではなく、締切を守る人間のこと」という発言が紹介されている。そういえば僕も入社したての頃、デスクに「遅くて良い記事より雑でも早い記事の方が価値は高い」と言われた覚えがある。

 この「締切」というのは、マスコミ(特に紙媒体)に「印刷」というコンテンツの確定プロセスが必ず入るために発生するタクトの概念だ。マスコミの中には、締切がないとまったく仕事ができないという人が存在する(笑)。だがこのような一種の依存心も、ネットによって崩壊する。

 何度も言うが、情報そのものに価格を付けて扱うジャーナリズムの世界が、インターネットの普及でそのクオリティやビジネスモデル、従業員1人1人の意識に至るまで根本的なルール変更を迫られているという現実は、こういうところにまで表れている。

 さて、TBやコメントに共通していたもう1つの反応は、こちらが数としては圧倒的に多いが、「どうやってカネを稼ぐか」をめぐる意見だ。

 これまでにもあった意見の代表として、kensuke氏のブログ「New UnderGround Commune Style」のエントリを例に挙げておこう。ダン・ギルモアの主張する「参加型ジャーナリズム」の収益源としてGoogle Adsenseはどうよ?という話なのだが、TB元エントリのコメント欄に張ってあったURL(「電子テキストについて考える」というタイトルの、山形浩生氏のHotWiredでのコラム)あたりがずばりこれに対する答えだろう。

 要するにネットの世界では「キャッシュで読める」「過去ログで読める」と思うから誰もカネを払ってテキストを買わない、と。テキストの換金システムとしてはやっぱり紙媒体のほうが圧倒的に優れている。ジャーナリズムではないが、ネットで全部タダで読める「電車男」の書籍を、どうして50万人もの人が買い求めるのかといったあたりにこの話は収斂しそうだ。

 では、どうやってカネを集めればいいのか?そんな質問に答えられるようなら、僕はこんなところでこんなこと書いてませんがな。ま、ここからは一般論は何の意味もなくて、個別のビジネスモデルの話になっていくんでしょうね。で、僕が頭に思い描いていたビジネスモデルの一端を知りたいという方はこちらのエントリをお読み下さい。それ以上はもうしゃべりません。

 ただ、あえて一言言っておくとするなら、冒頭に書いた谷島氏のような人が何人か“事務局”とか“世話人”というかたちで専従し、その回りにシステムを介して多くのアマチュア・ブロガーや読者が集まるというような組織を想定できるんじゃないかと思う。で、読者が「これこれについてどうよ?」と疑問を投げかけ、よってたかって論点を整理したら、事務局の専従ジャーナリストが「じゃ、俺それ調べてきます!」ってすっ飛んでいって取材する、みたいなね。

 で、そのコミュニティーに参加する“ショバ代”みたいな感じで、毎月一定額を支払うとか。あるいは他人のブログのコラムを読むたびに小銭が引き落とされるので、自分で面白いコラムや知見を披露できない人だけはちゃんとお金払って読まなきゃいけない、みたいな仕組み。einzbren氏のエントリにある「革新派」と「保守派」のちょうど中間を取ったシステム、と言ってもいいと思う。

 要は、頭のいい人、面白いことの言える人、1つのことに粘着して徹底的に調べられる人に、みんなが自然に(無意識に)お金を渡す仕組みがあればいいと思うのですよ。で、その中の何人かは専従ジャーナリストになって、調査報道に精を出すと。で、読者やブロガーの中から、「俺さあ、1年だけこのネタ徹底的に調べてみたいんだけど、カネくれない?」みたいなこと言う奴が出てきたら、それも1年間だけの契約で専従ジャーナリストにするとか。

 湯川氏のブログでも書かれていたが、ダン・ギルモアがマーキュリーニュースを辞めてやろうとしているのも、そういうことなんじゃないかと思う。NPOとしてのネット・ジャーナリズム。支えるシステムはもうできつつあると思う。日本でも、誰かやってみませんかね。ちなみに、僕はこの12月でマスコミを辞めます。そういうのをやりたい方がいたら、微力ながらご協力はする所存です(笑)。

04:06 午前 メディアとネット コメント (2) トラックバック (10)

2004/12/14

保守エリートのPCコードに騙されてはいけない

 ゴリゴリのジャーナリズム論考ネタを書くのに、僕も少し疲れた。ので、気分を変えて別の話。先日、映像制作会社に勤めるある後輩の女性から「会社を辞めようと思っている」という相談を受けた。

 話を聞いてみると、どうやら彼女がつき合っている男がその原因らしい。だが、その男というのが噴飯モノだが極めてありがちなケース。いわば価値観流動化時代のダメ男の典型例とも言える人物のようなので、ここで晒させていただく次第である。

 ちなみに相手の男は30代前半、某大手都銀勤務。彼女はそいつとは数年前に友だちの紹介で知り合ったらしい。しばらく交際が続いたあと、1年前ぐらいから2人は同居しており、「そろそろ結婚しようか~」という話にはなっているらしいが、問題なのはこの男の最近の言動である。

 最近の彼女は仕事がたまっていて結構忙しい。夜帰るのも結構遅くなったりするのだが、そうすると彼は「そんな仕事に時間とられて、家事をおろそかにするなんて許せない」と激しく怒るんだそうな。

 しかもその理由がふるっている。「君の仕事は、僕の仕事みたいに社会的なステータスがある仕事じゃないだろう」だって。…たかが都銀ふぜいが何をアホぬかしとんのじゃボケとか思うわけだが、これってごまめの歯ぎしりですかそうですか。

 でも、「そこまで言うってことは、要するに彼は、貴女に仕事辞めて家庭に入ってほしいって思ってるんじゃないの?」と聞いてみると、そういうわけでもないらしい。「彼はいつも『○○ちゃんには働いていてほしいと思ってるよ』って言う」んだそうな。しかも絶対正社員、派遣とかパート系の「チャラチャラした仕事」はダメだ、との仰せ。

 で、彼女としては帰宅が夜遅くなる今の仕事を辞めて、もう少し早く帰れる仕事に転職したいんだと。

 で、僕は言った。「君さあ、そいつと別れた方がいいよ。今の君の年齢で、派遣やパートじゃなくて正社員で確実に早く帰れる仕事なんて、そうそう簡単には見つからないって。しかも今の会社だって、いつもいつも遅くなるわけじゃないでしょう?それよりそんな意味不明なこと言う彼氏なんか、結婚したって幸せになれっこないから、別れてもっといい相手探したほうがいいよ」。彼女は「また少し考えてみる」と言って帰っていった。

 僕なりに考えたのは、この都銀勤務の彼氏は、たぶん旧世代と新世代の価値観ギャップを自分の中で整理できてないんだろうなってことだ。

 彼女の話から察するに、彼自身の頭はそれほど良さそうではないが、おそらく父は大企業の役員クラスで母は献身的な専業主婦、それなりに不自由ない環境で育ち一流大学を出てすぐ当たり前のように大手都銀に入ったお坊っちゃまに違いない。妹がいたりすると父親の方針でお嬢様短大に入り、今は兄と同じく大企業でOLしてるか、既に結婚して専業主婦。ま、典型的な都会の保守階級である。

 だがふと世間を見回してみれば男女同権、女性活用が時代の流れ。彼としてもここで「女なんてのは家で子ども産んでオレのために家事してればいいんだ」とか言ったら袋叩きに遭うぐらいのことは、“エリート”だから分かるわな。それで将来の妻となる女性にも一応Political Correctnessのコードに基づき、「働けばいいよ」と優しい顔をしてみせるわけだ。

 だが実際に働くってのは男も女もそんなに楽なことじゃない。というか、本店の暇な部署で役員に見せる報告書だけ毎日書いてるような都銀マンと、テレビ屋や広告屋から毎日低コストだの納期厳守だの言われて搾取されまくっている制作屋じゃ、「働く」の意味が全然違うだろ。しかも女性だぜ。

 というような浮世の現実を、まるで知らないんだよ、丸の内の本社御殿にこもって仕事する銀行マンな彼は。だからPCコードに沿って発言していたつもりが、家事に差し支えない範囲にしろとか、働くなら正社員じゃなきゃダメだとか、本音がボロボロ混ざって支離滅裂な要求に化けちゃうんだ。

 僕としては、やっぱりこういう男性には下手に俗世間のPCなど意識して、いたいけな女性を精神的ダブル・バインドに追い込んだりせず、守旧派の本音を貫いて堂々と「女は子ども産んで家事だけやってろ」と、言い放ってほしいと思うのだよね。

 なぜかって?だってそれはある意味「何が何でも俺の腕だけで一生妻子を養ってみせる」という固い決意の表れでしょ。そこまでの決意を表明できるサラリーマンって、今どきすごく貴重だと思うよ。30歳以下の99%の男どもがそんなこと、とうの昔に諦めちゃってるっていうのにさ。エライよ。

 で、そこまで言われれば「私も家と子どもを守って、一生あなたについていきます」っていう、これまたヤマトナデシコ的な麗しき女性が伴侶に付くというものですよ。会社で働くということと、家で家事をこなすということは、人間にとってまったく別の能力が必要とされるんだと思うからさ。

 あいにくと近年はヤマトナデシコな女性の供給が(フェイク品はともかくも)極めて逼迫しているようだから、本音トークをぶちかまして取引成立にまで至るかどうかは微妙なとこではある。でもさ、本音と建て前の二枚舌で騙して結婚相手つかまえても、誰もハッピーにならないと思うんだけどな。そこんとこ、どうですかね。

12:16 午後 経済・政治・国際 コメント (17) トラックバック (7)

2004/12/13

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その3

 このネタもだんだん長くなってきて、読んでいる方は疲れてるかもしれませんが、幸か不幸か切込隊長からも「待ち切れねーぞコノ野郎」といった趣の丁寧なツッコミTBなどいただいていることですし、それでも読んで脳みそかき回しながらもうしばらくおつきあいいただければと。

 また、このブログを初めて読みに来られて「こんな長い過去ログいちいち読んでられるかボケ」というお忙しい方は、とりあえず以下のあらすじをご参照ください。

【これまでのあらすじ】 これまでのエントリを読んだ人はとばしてね!==>

 最初のエントリでは、梅田ブログ@CNETと切込隊長のキムタケ銀行因縁エントリをネタにして、ジャーナリズムにおけるアマチュアとプロの境界線は「自己満足ではなく、顧客から見たクオリティの意識」と、「一定以上のクオリティの継続的出力」だという話をした。そして、ジャーナリスティックなテクストが持つべきクオリティとは「時事性(スピード)」、「初出情報(ニュース)」、「独自視点(コメンタリ)」の3つだと述べた。

 次に前回(2回目)のエントリでは、TBもらった各ブログの書き込みなどに答えるかたちで、インターネットというメディアの登場によって、そこで綴られるアマチュアのテクストのクオリティが、既存の商業ジャーナリズムに属するプロ(であるはずの人々)のテクストをあっさり超えるようになったと書いた。

 しかも、(特に紙を媒介とする)商業ジャーナリズムには上述のクオリティで初めからインターネットに負けている部分がある。だからネットのアマチュア・ジャーナリズムの活動に「継続的出力」という部分さえシステムで担保されれば、既存の商業ジャーナリズムは本来的な意味での「ジャーナリズム」としては機能しなくなり、結果的に「大衆」という既存の顧客を無意識のうちに捨て去る可能性が高い。実際、米国では一足先に大手商業メディアでそういう状況が生まれつつあり、それに対抗するネット上の参加型ジャーナリズムの立ち上げを叫ぶ気骨あるジャーナリストも現れている。

 と、ここまで書いたところで朝帰りの徹夜ハイな切込隊長氏が乱入。それに呼応してfinalvent氏も出版業界のディープな世界に関してコメント。で、一気にお二人とも僕の亀の歩みのような話から勝手に筋立てを読み取り、ビヨーンとジャンプして一気に結論へ。ぐはぁ(笑)。だ~か~ら~、ちょっと待っててっちゅーの(笑)。

<== 【あらすじここまで】

 さて。今回はTBいただいていたyosomiさんとこのブログのエントリを念頭に置きつつ、前回のエントリで少し説明不足だったなあと思うところを埋める作業に費やしたい。まず、「継続的出力」が担保されさえすればアマチュアもプロ並みのクオリティなんじゃ?という部分について。

 前々回のエントリでpaprikaさんに「切込ブログでは一年以上定期的にこのクオリティのエントリーがでているのではないでしょうか」というコメントをいただいていたが、あれですか、「家の外で三国人が騒いでいる。うるせー馬鹿」というのは、クオリティ・ジャーナリズム(笑)なんでしょうか。

 というのは冗談だが、正直1年なんてのはプロの条件としての「継続」のうちには入らないと僕は思う。僕の言うのは、10年、20年、言うなれば人が一生をかけて取り組む類の話である。

 僕のこれまでの経験から言うと、どんな博識な人でも独自情報のインプットをまったく受けずに(つまり過去の持ちネタだけで)書き綴れる「ジャーナリスティックなクオリティ」の文章というのは、50本が限界だ。毎日書けば2ヶ月でネタ切れするし、1週1本としても1年間がいいところだ。だからそれ以上続けようと思えば、当然ながら毎日必死で情報収集したり勉強したりしなければならない。コメントだけでさえそうだから、ましてニュースを書こうと思えばなおさらだ。つまり、文章を書くこと自体に対する報酬がもらえないことには、生きていけない。

 隊長がTB元エントリの「クオリティがどうであるか、高いか低いかと、それがプロであるかどうかは、ベクトルが違うのだろうと。それはまったく方向が違うというのではなく、相関はあるにしても、隔たりはある」と言っている意味は、そういうことだ。ジャーナリズムの本来的価値の1つである「継続的出力」を実現しようと思えば、どうしてもそれで報酬を受け取る仕組み(組織)の中に入らざるを得なかったわけだ。

 もっと言えば、現実の商業ジャーナリズムにおいては、一生かけて一定以上の水準のクオリティの文章を書く個人など、全体の1%もいない。新聞も雑誌も(特に雑誌はそうだが)、ライターは長くて15年、せいぜい数年で使い捨て、素人同然のライターが書いて送ってくる文章を編集者が読めるものにでっちあげて(クオリティを出して)媒体名の看板の下に並べるという仕組みがあることで、どうにかこうにか「継続的出力」を担保している。つまり切込隊長の言う通り、現実にクオリティ・ジャーナリズムを体現する個人なんて、国中探しても指折り数えるほどしかいないのだ。あとはみんな基準値以下。

 それでも昔は1つ1つの記事のクオリティを比較できなかったから、読者も「そういうものか」と思って受け取ってきた。でも今は、テクストだけ見たら同レベル以上のクオリティの「ネット」というものが転がっているから、商業ジャーナリズムの実態が「基準値以下」だってことが、多くの人にばれちゃった。ようこそ「マスゴミ」の世界へ。

 とはいえ、ネット上のアマチュア・ブロガーだって、「継続的出力」が担保されないっていう点ではあまたのマスゴミのライターと同じだ。しかもクオリティだってピンキリ。既存の商業ジャーナリズムを「マスゴミ」とか笑っていられない。

 しかし、例えばここにライター1万人を擁し、その中からごくごくまれにアップされる面白い(一定基準以上のクオリティの)コラムに点数つけてピックアップし、毎日1本ずつ以上読ませてくれるというシステムがあったらどうなるか?おそらくそのシステムそのものが非常にクオリティの高い「ジャーナリズム装置」として機能しちゃうだろうね。

 そう、それがgoogleやテクノラティ、未来検索などの検索エンジンだ。どれもまだそこまで「ジャーナリズム装置」としての機能を持ってはいないが、考えてみればgoogleだってまだこの世に登場して7年しか経っていないのである。もう数年もすれば、そういう精度の高い「自動ジャーナリズム装置」としての検索エンジンが出てくるに違いない。湯川氏のブログの「参加型ジャーナリズムは技術的革新待ちの状態」というエントリは、このことを議論したものだ。

 おお。ここまで読むと、数年後にすっごいかっちょいいスーパーgoogleが出てきて、そしたらインターネットが既存の商業マスゴミを超えた面白い記事を俺たちにバンバン読ませてくれるようになりますか?みたいな雰囲気が濃厚に漂っちゃうのだが、本当にそうだろうか?

 そうそう。プロのクオリティの条件として、1つ忘れてるのがあるよな。「独自に調べた初出情報(ニュース)」ってやつですよ。しかも、それ一発で世の中ひっくり返すような、おっきいやつ。そんなもの、出てくるのか?

 企業、政府といった「権力」は、その暗部を暴き、足をすくおうと手ぐすね引いている「ジャーナリズム」と当然ながら対峙する。そのパワーゲームに対抗するためには、「ジャーナリズム」側にも個人だけでなく組織の力があった方がよいと考えるのが自然だ。実際、新聞社や出版社は、だから本社玄関に屈強な警備員を配置し、社内一優秀な社員を法務部に集めている。

 だが、それでも最近は記事の内容で名誉毀損だの損害賠償だの訴えられて、実被害を認定されるケースが増えている。もちろん、その訴訟費用の負担や賠償責任は直接個人に降りかからないようになっている分、大手商業メディアに所属した方がリスクが少ないと言えばその通りだ。

 だが、だから何なのか?公の場に虚偽の内容を発表して迷惑をかければ、個人だろうが組織だろうが訴えられて、カネを払わなければならなくなるリスクは同じ。だから、訴訟リスク負担の差をもって「個人でニュースを書くジャーナリストなど存立し得ない」などという結論は出ない。勝Pとか戦争系以外のそういう個人ジャーナリストの名前をあまり見かけないから一般人には分からないだろうが、自力で調べたニュースを持ち込むフリーランスのジャーナリストは、日本にだってたくさんいる。

 じゃ、何でネットにはニュースがあまり出なくて、紙や電波媒体には出るのか。そりゃ、簡単な話だ。既存媒体の方がニュースの持ち主にたくさんカネを払うから。つまりニュースを買って売ることで売り上げを得る仕組みができているからだ。

 隊長の突っ込みエントリのコメント欄の22番が「インベスティゲーティブ・ジャーナリズム」つまり日本語で言う「調査報道」という言葉を出しているが、これこそがネット・ジャーナリズムの議論の核心だ。

 つまり、インターネット上のアマチュア・ジャーナリズムがどんなに進化しても、今のところ持てそうな見込みの立っていない、そして既存のマスメディアにはある唯一の機能、それは「カネと時間をかけて、隠された事実を調べて明らかにする“調査報道”が(継続的に)できるかどうか」、この1点に尽きる。それ以外はすべてネットで代替可能である(注:たまたま事件の現場に居合わせた人が1次情報をレポートするのは、「ジャーナリズムではない」と、ブログのエバンジェリストであるRebecca Bloodは述べている)。

 逆に言えば、世の中の多くの人がクソ記事のたくさん載っている新聞や雑誌を月や年単位で定期購読するのも、「たまにはこいつらも、度肝を抜くような調査報道をやって政府や企業のオエライさんどもの鼻をあかしてくれるからなぁ~」と思ってくれているからだ。…とゆーかたぶんそうじゃないかと思ったりしている(弱気)。でなきゃウェブサイトや電車の中吊り広告だけ読んでいればいいわけで。

 山本一郎氏が何をやろうとしているのか、ここまで読まれた方はもうお気づきだろう。彼はネットメディアにも調査報道(とそれによって世の中へ影響力を持つこと)が可能であることを、身をもって証明しようとしているのだ。ま、その突破者的な手法が吉と出るか凶と出るかについては、今は言及を避けておきたいと思うが。

 さて次回、たぶん最終回だが「ではネットに調査報道の機能を持たせることは可能なのか」について考えてみたい。TBいただいているNew UnderGround Commune Styleさんのエントリへのコメントもそちらでやります。では。

12:10 午前 メディアとネット コメント (8) トラックバック (2)

2004/12/12

隊長がすごい勢いで突っ込んできた(泣)

 ちまちまちまちまと書いてる文章を、隊長がものすごい勢いで総括。しかも、気がついたらそれを見てfinalventさんも絡んで来てるし。(爆死)

 あ゛~~分かったよ分かりましたよ。いや、もう反論することなんて何もないし、ていうかあなた2回目の最後の「結論」読んどらんでしょう(笑)。ちゃんと「ジャーナリズムとしてのクオリティがどうであるか、高いか低いかと、それがプロであるかどうかは、ベクトルが違う」のだってこと、書いたからさ~。ちゃんと読んで下さいタノミマス。

 なんでこんなものちまちま書いてるかっていうと、それは19日の準備(たたき台作り)のためですよ。だいたいマスコミ人(特に編集・記者系の人)は、隊長みたく「歴史を動かすのは食えるかどうかである」なんていうマルクス的唯物史観を、なぜか自分の職業においてだけは絶対素直に認めようとしないんだよ。あちこちの記者ブログ見てて分かると思うが、もっとぐるぐる遠回りするんだからさあ。

 そういう「ぐるぐる」で貴重な休日の2時間過ごしたら、つまんないっしょ?だから彼らに納得されるだけの論理書いておこうと思ってるのよ。そんなわけでよろしく。

09:05 午前 メディアとネット コメント (0) トラックバック (0)

2004/12/11

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その2

 前回の続きである。と、その前に、既にあちこちからTB、コメントのツッコミをいただいている。それについて触れておこう。まず、お気に入りのカレー屋さん100のとこでのエントリ。将棋の森内竜王の話をネタに「プロとなるためのあと1歩」の何たるかに関する考察を書いていた。

 これ読んで、前回付け加え忘れたなあと思った「プロであるための条件」が、あった。それは「自分ではない誰か(たいていはお客さん)のための仕事ができるか」ということだ。ま、これはジャーナリズムの場合、僕が前回挙げた「テクストに含まれているべき3つの要素」に含まれていると言えば含まれているのだけれど。

 そして、この点についてTBをくれたもう1つのサイト、einzbrenさんがMovableTypeとの比較検討終了ブログで突っ込んでくれている。で、彼が手厳しいが非常にいい指摘をされている。引用しておこう。

それ(引用者注:他人の意見より的を得、共感を得やすい内容にするか)を満たすために、R30が指摘しているような「時期を読むセンスと唯一性」を磨く。そういう意味では実はweb上の高速道路組のが有利だ。商業におけるジャーナリズムは「煽りによる購読者集め」と「スポンサーへの擦り寄り」という「お金のための意識」が主体であって、時期を選ぶことや的を射ることに必ずしも注力できないからだ。それを補うためにあからさまな表現で個性を出そうとして、結果哀愁を漂わせている自称ジャーナリストは後を断たない。
 まさにその通りで、今の世界中の商業ジャーナリズムが直面している問題は、「時宜を伺うセンス」や「これまでになかった新しい視点」といった、ジャーナリスティックなテクストに求められる要素の3つに2つまでが、インターネットのアマチュアによって(部分的に、ではあるが)乗り越えられちゃっているということだ。このことは、以前に湯川氏@時事通信も「敗北感を感じた」と、語っている。

 これが普通の職業なら、そうはいかない。例えば前回のエントリで引用した梅田氏は、システムエンジニアのアマがプロを超えた例として広島の高校生が作ったスパコンを挙げていた。

 だが、それでは大学や企業がその高校生に研究所で使うスパコンを発注するかと言えば、たぶんそれは「否」だろう。彼は自分の興味のためにスパコンを作ったのであって、それを何億円も取って企業や大学に売っていくつもりはなかったに違いない。

 ところが、ジャーナリズムはちょっと勝手が違う。既存のマスコミ、特に新聞や雑誌系では、原稿は書いてから掲載されるまでに必ずタイムラグがある。新聞なら数時間から数日、雑誌は数日~数週間、発表が遅れる。だからまず「時宜を伺う」点でネットのスピードに勝てない。

 しかも、既存のマスコミ人で、自分の文章の読者がどのくらいいて、どう反応したかをリアルタイムに知っている人はほとんどいない。だから「お客のため」といっても、どの読者のためなのか、社の上層部のためなのか(社の上層部だって「読者」と言えば読者の1人ではあるわけだから)、あるいは広告主のためなのか、だんだん分からなくなってきてしまう。

 これに対し、ネットではPVがリアルタイムでがんがん見える。それによってアマチュアでも書き手が容易に「読者の好み」を想定してものを書くようになる。実はこの時点でプロがアマに「プロ性」で負けている。あとは、これを「継続」するアマが出てきた時点で、プロの付け入るスキはなくなる…ということになる、のかもしれない。

 だがそれでいいのか?何かまずいような気が…。と書いているのがeinzbrenさんだ。以下、ちょっと長くなるが再び引用。

インターネットは弱者が自慰行為に浸るきっかけを大幅に増やした一方で、権力者と弱者の位置付けをより明確にしてしまったのではないかと思う。だが、むしろそれが正しいインターネットなのかもしれない。現代マスメディアに依存しきってしまった大衆が真実という幻想を追いかける場所、ユートピアとして存在し続けることが出来るこの場所は、アイデンティティクライシスという精神病患者末期症状があふれる現代にこそ必要なのだ。インターネットという処方箋によって患者は生き延び、権力者は別世界でラリることはできても食うために渋々現実に顔を出す弱者から油を搾り取る。
 諧謔的な表現で意味が分かりにくいが、要するに「既存マスコミは正義を守るより、カネと政治力を持つ人々により癒着する。ネットは彼らに普段搾取されているそれ以外の貧乏人が、不満をぶちまけて鬱憤を晴らす場になるだけだ」ってことね。つまり、商業ジャーナリズムはこれからますます(もともとはその基盤としていた)大衆から遊離し、それ自体が権力側のシステムになる。クオリティが高くてもカネと権力に拮抗するリアル・パワーのないネット・ジャーナリズムなんて、意味なくない?という疑問だ。

 米国で既にそういう疑問をちゃんと叫んだ人がいる。マーキュリーニュースの技術コラムニスト、ダン・ギルモア氏だ。YAMDAS現更新履歴のところで紹介されている彼の著書「We The Media」が、クリエイティブ・コモンズのルールに基づき前文の日本語訳が公開されているので、それをお読みいただきたい。

 …彼が想像するジャーナリズムの未来とは、こうだ。商業ジャーナリズムはカネと政治の権力側につき、市場はシュリンクするもマスを押さえる広告メディアとして買収・合併を繰り返し寡占を実現しつつ何とか生き残る。だがかつてのようにウォーターゲート事件など権力者の不正を暴いた「公共に奉仕する」ジャーナリズムはメルトダウンし、消える。

 アメリカという社会が健全だなあと思うのは、そこでダン・ギルモアのように「公共に奉仕する意見を言える人間が必要だ、その機能を経済的に支えることが必要だと、我々は訴えなければならない。参加型ジャーナリズムの場に利益を生み出さなければならない」と叫ぶ人が出てくるってことだ。

 日本ではまだ現実の事態がそこまで至っていないとみんなが思っているというのもあるけれど、実際に大手マスコミの中の人の「言いたいことが言えない制約」の多さなど、米国と大して変わらない状況になりつつあるって思うんですがね。

 結論めいたことを言うなら、前回エントリにコメントしてくれたpaprikaさんの言う「食えるかどうか」という現実態としてのプロの条件と、「客のために一定水準以上のアウトプットを出し続ける」という本来的なプロの条件が、ジャーナリズムの世界においては大きくねじれてしまっている、とこういうことなわけです。

 とりあえず、第2回はここまで。こちらマルチメディア支援室 14GさんのTBについては、次回引用させていただきます。あしからず。

01:38 午後 メディアとネット コメント (1) トラックバック (3)

2004/12/10

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その1

 以前のエントリで「不毛の論争はこれっきりだ」って宣言したのがつい数日前なんだけど、その舌の根も乾かないうちにもう一回きちんと書いてみたくなった。というのも、CNETの梅田ブログ「インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞」を読んで、ものすごく考えさせられたからだ。

 せっかく山本一郎@切込隊長による、身を張ってのネットジャーナリズム実験(笑)も現在進行中であることだし、ここでちょっと冷静になって、自分なりにジャーナリズムの将来について考えをまとめておきたい。ええ、もちろん「なるべく具体的」に、です。

 梅田ブログは、「インターネットはアマチュアにとっての高速道路」という将棋の羽生名人のコメントを引きながら、プロとアマのレベル差が一気に詰まった現代社会の仕組みを非常に的確に言い当てている。

 そこでは、「上達しよう」という強い意志さえあれば誰でもプロまであと一歩のところまではあっという間に到達できる。ただ、羽生名人は「その一群は、確かに一つ前の世代の並のプロは追い抜いてしまう勢いなのだが、そうやって皆で到達したところで直面する大渋滞を抜け出すには、どうも全く別の要素が必要なようである」とコメントして終わっている。

 梅田氏の思惟は、「ネット業界でも同じことが起こっている。例えば、システムエンジニアがプロと認められるための“あと一歩”とは何だろうか」という問題提起で終わっている。僕がこの記事を読んで考えたことも、まさにこれと同じだった。「いったい、ジャーナリストがプロと認められるための“あと一歩”とは何だろうか」と。

 テクストとしてだけ見た場合、例えば山本氏のキムタケに関する先日のコラム(こちらこちら)は、明らかにプロのジャーナリズムの仕事の水準に達している。

 なぜそう思うか。「今言うべきことを今言っている」という、団藤氏@朝日新聞の尊敬する新井直之教授によるジャーナリズムの基本定義(笑)を満たしていることに加えて、「独自に調べた1次情報」、「これまでになかった新しい見方」という、他人が読む価値のある文章の基本と思われる2つの要素が含まれていると思うからだ。

 最初のエントリは、冷静に読めば振興銀の中間決算発表を受けた分析に終始していて、しかもネタは週刊誌などが書いているもののまとめに過ぎない。山本氏の分析(竹中大臣とのコネクションの問題)などが若干含まれているものの、この文を読むだけで憶測の域を出ない。ただ、「中間決算発表を受けて」週刊誌発行のタイミングと合わせて出たものであり、「今書くべきこと」を書いたという意味ではとてもジャーナリスティックだ。

 2本目のエントリは、より純粋にジャーナリスティックだ。まず、「論談」に書かれていた例のネタから読みとれる今回の出来事の構図を、かつての日債銀事件と対比するという「新しい視点」が提示されている。また、複数の関係者から直接話を聞き、一般のマスメディアが書きづらい本人の人格やマスコミ某社(笑)との間の悶着まで取り上げている。これらは十分「1次情報」であり、このエントリは(完全に固有名を伏せるなど表現手法が若干ブラックめいてはいるが)普通に見ればプロのジャーナリズムの仕事そのものだろう。

 なお、この際、山本氏がこの記事をブログで公表することによりどういう影響を狙ったかは、このテクストがジャーナリズムであるかどうかの判断条件には含めるべきでないと、僕は思う。

 思いっきりうがった見方をすれば、彼は問題の構図をおおっぴらにすることで逆説的にキムタケの命だけは守ろうとしたのかもしれないし、あるいは単に週刊誌がこのタイミングで一斉に記事を書くことを察知して自分が少し情報量でアドバンテージがあることを利用し、ネット上での売名行為に及んだだけかもしれない。

 また、今や日本のブログ・ネットワークのハブ(結節点)になってしまったキムタケブログが、そのパワーを政治的にニュートラルではない方に用いようとしはじめたのを見て危機感を覚え、彼のプライベートな人格攻撃を行うことでそのオーソリティーをぶち壊さなければという強い衝動に駆られたのかもしれない。

 しかしそれらの動機は、ジャーナリズムの本質とは関係ない。本職のすごいジャーナリストだって、そりゃあ人間として生きているわけだから様々なしがらみがその裏側にあるし、公共のためなのか私怨なのか区別できないような記事を書くことだってしょっちゅうなのだ。大切なことは、科学者と同じで「どんな研究(記事)を世に出そうが、その引き起こす社会的影響を自分の責任として受け止める」覚悟があるかどうかだけである。

 では、これだけジャーナリズムとしてのクオリティのある記事を書いた山本氏は、果たして「ジャーナリスト」なのかどうか。

 恐らくこのエントリを書いて発表した瞬間の彼は「そうだ」と言えるかもしれない。だが同時に、表に見える範囲で彼がこの記事を書いてカネを稼いだわけではないし、またこうしたクオリティの記事を彼が今後も常にブログに発表し続けるとも到底思えない。

 なぜなら、普通これだけのレベルの記事を書き続けようと思えば、片手間ではできない取材の手間がかかるわけで、一生食っていけるだけの現金がある金持ちが道楽としてやるならともかく、普通はまず「継続」し得ない。彼が「自分はジャーナリストたろうともしていないし、そうであるとも思っていない」と以前のエントリで書いているのはまさにこの点に基づくはずだ。

 繰り返すが、このテクストだけを見た時、山本氏は明らかにトップクラスのジャーナリズムを体現している。だがそれが羽生名人の言う「プロと認められるための“あと一歩”」を超えていないし超えるつもりもないと彼が自称するのは、その水準が「継続しない/できない」からではないだろうか。

 たぶん、アマチュアからプロになるということはそういうことだ。ある水準以上のクオリティーを、常に継続してアウトプットすることが「プロ」のプロたるゆえんなのだと、僕は思う。当たり前と言えば、当たり前すぎる結論ではあるのだが。

 以下、その2に続きます。

05:10 午前 メディアとネット コメント (2) トラックバック (5)

2004/12/08

あいまいでスマートなニッポンの携帯

 スマートフォンについてのふにゃらけた論旨のエントリに、早速奥さんとmgkillerさんからTBをもらった。答え書かなきゃ~と思ってるうちに切込ブログにレスしてたりいろいろと忙しかったので、応酬エントリが遅れてしまった。

 この議論のそもそもの始まりとなった三田隆治's Blogのエントリなども読みつつ、つらつらと考えていて思ったこと。まとまらないかもしれないが「遅くて良い記事より早い記事」の鉄則に従い、突っ込んでおこう。

 三田氏のブログで指摘されているのは、通信端末の内外格差の根本原因が「国内ではインセンティブで3万円台で入手できるケータイも、海外に持っていけば、そんな多額のインセンティブを付けることは難しいから、結果的に6万円以上とか、そういう値段になってしまう」という点にあることだ。だから日本の端末メーカーには、北米や欧州などの海外市場で死にものぐるいで戦うモチベーションがどうしてもなくなってしまう。

 ま、これは少々古い話でもあって、実際のところそんなことは各社とも重々承知していて、mgkillerさんのエントリで指摘されているように「実際FOMAを販売するメーカー同士が協業の名の下にコスト削減に走っている」のが実態である。つまりドコモ向けの端末は徹底省力化して、その開発余力を北米や欧州市場での競争力向上に回そうという戦略。日本の電機メーカーも、ただのバカではありません。その意味で三田氏の指摘は、むしろもう解決されつつある問題かもしれない。

 本当の問題はここからだ。だいたいデジタル家電製品というのは、同じルールで競争しさえすれば、日本の消費者の方が数段品質・機能とも高い商品を要求するので、自動的に日本市場向け商品が世界のハイエンドの水準になるはずだ。例えば、デジタルカメラなどは日本市場向けに先行発売される機種が世界のカメラヲタクの垂涎の的になっていて、日本のデジカメ情報サイトは海外のマニアによって日々ウォッチされている。

 ところが通信端末分野に限ってはこの法則が成り立たない。日本市場と海外市場の競争ルールがまったく違うからだ。普通に端末価格だけで見た場合、無線通信機能の搭載されている携帯電話は、(Palmなどシステム標準化が進んだ)PDAに比べて割高だったため、欧米市場では「PDAの付加機能に無線通信を加える」というかたちで進化の主軸が作られた。

 これに対して日本ではキャリアのインセンティブによって「携帯<PDA」という端末価格が常識になってしまったため、無線通信機能のある電子機器のほうが先に爆発的に普及してしまい、インセンティブによるディスカウントのないPDAなどに、今さら誰も見向きもしなくなってしまった。

 だからこの「端末にインセンティブを払う代わりに特定キャリアに顧客を一定期間以上縛り付ける」ことを条件とするビジネスモデルを一気にぶっ壊さない限り、端末の仕様のイニシアチブをメーカーでなくキャリアが持つという日本市場の特性をなくすことはできないと、僕は思う。市場の拡大期ならまだしも、成熟期に自分でR&Dのイニシアチブを持てないビジネスの将来を誰が期待するだろう?というわけで、端末メーカーに丁重にだがじわじわと間を置かれつつあるドコモが苦況に陥るのも、ある意味では当たり前なのである。

 とはいえ、今からインセンティブを全廃して端末の販売価格を倍近く引き上げれば、市場の絶対的なシュリンクを招くのは火を見るより明らかだ。ナンバーポータブル制が導入されて、特定キャリアに顧客を一定期間縛り付けることができなくなったとしても、端末価格値上げだけは回避したい。とすればキャリアはどこにビジネスモデルの活路を見いだすべきか?

 それに対する夏野氏の回答が、恐らく「Felica」なのだろう。ありていに言えばドコモ(とソニー)が目指しているのは「全国民の電子財布に“ショバ代”をかけること」だ。このビジネスモデルが秀逸なのは、ショバ代を巻き上げられるのが自社の携帯電話端末にとどまらないということだ。他社の携帯、あるいはまったく違う形をした電子財布も、Felicaチップを搭載していればライセンス料を巻き上げられる。

 他社の商品からも薄く広く「税金」をすくい取って自社携帯電話の販売インセンティブに回せれば、そりゃ負けるわけがない(笑)。で、たぶんそれが実現する頃には、iアプリの仕様オープン化などいつでもOKということになっているのだろう。

 奥さんの反論エントリで指摘されているiアプリのジレンマも、お客がぶちきれない程度のゆっくりさでちまちまと「仕様追加」していけば、上記の理由で遅かれ早かれ問題にならなくなってしまうと夏野氏は見ているのではないか。

 だから、ドコモを倒す方法があるとすれば、携帯でできることを急激に広げて(jigブラウザのように)ドコモの想定以上のことをやってしまうiアプリを投入する一方で、Felicaをデファクトにしないよう、非Felica系ポイントシステムのあらゆる抵抗勢力を結集するみたいなことをやればいいんじゃないのかしら。と思うわけだ。

 …と、ここまで語ってみたものの、なんかスマートフォンの普及の話に持っていけないのよね(笑)。結局スマートフォンがPDAから進化したデバイスである以上、日本ではどうしても技術的可能性以前に「ユーザー(市場)に受け容れられない」という、厚い壁にブチ当たってしまう。だから、いつまで議論してもマーケティング戦略の話に至らない。

 それに、12月に発売されたSH901iCなんか見ると、シャープがザウルスのノウハウを全部つぎ込んで、miniSD経由でOfficeやPDFのドキュメント開けたり、ピンクのクマが出てきたり、テレビ録画機能までついてるという、もはや下手なPDA真っ青の高機能てんこ盛りだ。これではスマートフォンとか威張ってみても、日本人に「高機能ケータイにフルキーボードつけただけのごっつい端末でしょ?」と笑われてもしょうがないよな。

 僕としては、今の901iCのスケジューラにPCのスケジューラとのHotSync機能さえ搭載されれば、もうたぶん何もいらない。日の丸端末メーカーが海外市場で勝てるかどうかは別にして、日本市場の携帯電話は、もう既に実質的なスマートフォン一歩手前まで来てしまっているからだと思う。

10:35 午前 携帯・デジカメ コメント (0) トラックバック (1)

2004/12/07

水に落ちた方の犬が負け

 切込隊長んところが朝から騒がしいと思ったら、キムタケ銀行の告発が始まったみたい。落合伸治氏の告発インタビューが載った東洋経済、エコノミスト発売にあわせてということか。

 「これからマスコミが行う私へのリンチ報道ぶりを是非遠くからみていてください」とかヒーローぶった、意味のわかんないコラムがキムタケブログに載ったので何か臭いなぁと思ってたらこういうことだったのね。そりゃ、切込隊長にもたたかれるわけだ。

 キムタケは「ベンチャービジネスを立ち上げるには様々なトラブルが付き物です」と言っている。そりゃまったくその通り。しかしそれを隠し仰せて表向き立派に見える数字だけを出して初めてベンチャーと言えるのですよ。トラブルやどろどろを隠し切れず、まともな数字も作れないうちに暴かれた時点で、ベンチャービジネスは失敗ですな。ご愁傷様。

 ま、しかしながらキムタケと仲違いして銀行から追い落とされた落合氏というのも叩くとホコリがもうもうと出そうな方でいらっしゃるので、彼の言い分がどこまで正義なのか、そんなことは門外漢には絶対分からない。「木村剛銀行」とか言って批判しているが、じゃあ「落合銀行」になった時にもっとやばいネタが暴かれていた可能性だってあるわけで。てか、株持ってたんなら第三者増資の時点で取れる分をよこせって要求すべきでしょ。しないで乗っ取られたんなら落合氏のほうがバカなだけですよ。

 それと9月中間期の決算数字が問題になっているようだが、これだって金融庁が銀行免許を停止するほどのエビデンスにはならないと判断したのだからキムタケは発表したのでしょ。ベンチャービジネスなんだから筆頭株主になったやつが最後まで責任もてよ。っていうだけの話です。僕としてはキムタケも落合もどっちの肩を持つ気にもまったくなれない。

 切込隊長はこの問題が小泉-竹中ラインという、政権の経済運営中枢にまで波及するかもしれないと述べているが、正直言ってキムタケ・ゲートはあり得るか?僕は、99%ないと思う。

 隊長が言うように竹中氏が学者として以上に政治家として超有能だったってことは結構みんな分かってきている。それに先日の参院選で80万票取って当選してるんだから、今じゃれっきとした自民党の「顔」だ。そんなに票の取れるタレントを、キムタケごときのスキャンダルで自民党が潰すと思う?あり得ませんよ、そんなこと。

 大政治家竹中氏にとって、キムタケなぞ大手都銀に喧嘩売りたい時にたまたま持ってきた駒の1つであって、用がなくなれば切り落とすトカゲの尻尾の1本に過ぎない。既に金融庁の顧問だって辞めてるんだし。新銀行は適当なエビデンスが出てきた段階で、かつての永代信金とかみたいに近くの地銀にくっつけて「お取り潰し」の処分してチョン、でしょ。それで何も問題ない。

 要するに、検査すり抜けようとしていたUFJ銀のコンサルも請け負っていた(by東洋経済)とか、そういう事実が出て来ちゃった時点でもう彼は「水に落ちた犬」だと思う。別にマスコミがどーたら言う話じゃない。切込隊長だって、彼の会社がキムタケといくらかの関係があったことも表に出した(つまり清算した)うえで叩いてるんだから。取引の話が表に出るという時点で、その関係はもう終わりってこと。つまりUFJ銀の話が関係者から出た時点で、彼と金融庁の“特別な”関係ももうおしまいってことなわけです。

 もちろん、キムタケがこれからまたノンバンク界の大物を引っ張ってきて新銀行にくっつけるとか、とんでもないウルトラCを決めて大逆転する可能性だって、残されてないわけじゃない。いっそ、武富士やSFCGと全面資本提携するとかね(笑)。そしたらキムタケはヒーローだよ。ベンチャーっていうのはそういうもの。どぶに落ちたらどうやってそこから這い上がって、世の中の奴らをギャフンと言わせるか、それがすべてだ。

 ま、マスコミの叩き記事が出る前にブログで先制攻撃したっていう政治センスは、少しだけほめてあげてもいいと思うけど、銀行屋なんてネットベンチャーじゃないんだからさぁ(笑)、社長ブログでマスゴミ嘲笑したり自著のアフィリエイト貼ったりする前に、さっさと武富士かSFCGと提携交渉してきなさいってこった。それとも、プロ野球参入でもするつもり?(爆)

09:37 午前 経済・政治・国際 コメント (0) トラックバック (3)

2004/12/06

激安くりぬきリフォームの入居者募集中

 建築家の弟のブログで、面白い話が載っていたのでリンク張っておこう。西武池袋線東久留米駅から徒歩2分のアパート(家賃月4万円)を来年から全面リフォームするので、入居者募集中というもの。

 家賃が安くて居心地のいい家に住みたい!とは誰しも思うことだけど、現実には「狭い」「古い」「都心から遠い」という条件があるからこそ安いのであって、特に1人暮らしなら「狭い」は我慢できても、「古い」や「遠い」はすなわち居心地の悪さや生活コストにつながるため、この夢はなかなか実現しないのが現実だ。

 本当は中をくりぬいてリフォームしてしまえば、「ハコ」が多少古くても快適で自分好みの家にできるのだが、これがまた難しい。賃貸住宅で大家さんが家を丸ごとくりぬいてリフォームすることにOKを出してくれるところなんて、そうそう多くはないからだ。

 今回、弟が手がける賃貸住宅は、そんな例外中の例外物件らしい。山手線ターミナル駅から20分弱の郊外駅目の前という「利便性」、家賃4万円という「安さ」に加えて、今から手を挙げれば自分好みの内装にリフォームしてもらえるという特典もついてくる(自分で少し余計にお金を払えば、もっと格好良くなるかも)。

 弟は建築家ではあるが、もともと青山の億ションの内装設計などを手がけていたこともあり、カネをかけずにゴージャズできれいな部屋を作る腕前は折り紙付き。実は来年3月に完成する予定の僕の自宅(マンション、91㎡)も彼に全面リフォームをお願いしている。

 間取りも1LDKとそこそこの広さのあるアパートみたいなので、1人or2人暮らしぐらいにちょうどいいかな。若いDINKSとかにお勧めかも。興味ある人はこのエントリのコメント欄にメアド入れて書き込んでください(僕以外にメアド明かしたくない場合は、ダミーのホームページURLも入れとけばOK)。そしたら弟の連絡先を教えます。よろしく!

01:07 午後 住まい・インテリア コメント (1) トラックバック (1)

2004/12/04

企業はスマートフォンを欲するか?

 以前にこのブログでも長尺のインタビューを掲載したこともある、Xiino開発者の奥一穂・モビラス社長が、ブログを始めている。

 僕は、ソフトウエア開発者というのは一種の「ウィザード(魔術師)」だと思っていて、とりわけcoolなソフトを書く人を非常に尊敬する。奥さんは書くソフトがcoolだというだけでなく、世の中を見る魔術師的視点もとてもcoolなので、2重の意味で尊敬している。

 で、その彼が直近のエントリ「iPod の成功と NTT ドコモの未来」で、興味深いことを書いていた。

 内容を簡単に言うと、「ドコモはiアプリで成功しているように見えるけど、iPodに完敗したソニーみたいに、スマートフォンが日本市場に出てきたら負けますよ。なぜならDoJa(iアプリのプラットフォーム)でソフトウエア的にできることは、スマートフォンのOSができることよりもずっとずっと限られているから」というものだ。

 このエントリを読んで思ったのは、「さすが、通信関係のテクノロジのトレンドがよく見えているな~」ということと、「しかしそんなことはドコモの連中だってとっくに考えていて、分かってるから抵抗してるんじゃないの?」ということだ。

 奥さんの頭の中には、すべてのロジックが線でつながっているのだと思うのだが、ブログの文章はその線の上に何カ所か点を打つようにしか書かれてないので、この分野のことを知らない読者にはおそらく何を言っているのか全然分からないに違いない(笑)。

 彼の言うとおり、この分野は端末のヴァリエーションなどでは米国の方が圧倒的に進んでいる。ちょうどITProの「ケータイonBusiness」という特設サイトに、IBMの人が書いたスマートフォンの動向紹介記事があったので、リンク()しておこう。ここを読むと、Nokiaの「6630」などは年内にボーダフォンから日本語化されて出てくるようだ。個人的には、ソニエリの「P910」がカッコイイと思ったけど。

 で、ポイントは本当にこのテの商品に日本で(Geek向け以外の)需要があるのか?ということだ。

 これまでの答えは「ない」だった。もちろん企業向けPDA端末とかも出ていたが、物流センターとか医療機関などの特殊用途ばかりにしか売れない。

 テクノロジカルな側面から言うと、「画面が小さい、解像度が粗い」「通信速度が遅い、コストが高い」「端末の処理能力が低い」といったことが普及の阻害要因として挙げられていた。だから、特定用途に特化したカスタマイズ端末でなければ使えないし、売れないと。僕も、それらの要因は確かにあったと思う。

 だが、高解像度LCD、3G+無線LAN、BlueToothといった携帯ブロードバンドの普及、MPUの高集積化などによって、それがクリアされれば(実際、最近の携帯を見るとハードスペックのレベルではほぼクリアされつつあるように見える)普及するのか?と言われると、正直「どうかな」と思ってしまう。

 なぜ僕が懐疑的かというと、そもそも米国でスマートフォンが普及する背景には、ホワイトカラーの生産性を徹底的に管理して高めようという、企業と個人の双方の強い意志があると思うのだ。

 奥さんのエントリでも少し触れられているが、例えばスケジュール帳を出して仕事の「終了」ボタンを1つ押すだけで、それまで処理していた業務のワークフローにメッセージが送られ、関係者に周知され個人の就労管理システムに記録され、チームでこなす業務全体のABC(活動基準原価計算)のデータにもなる、といった情報システムを作ることが、スマートフォンによって可能になる。だが現時点で全社的にABCを導入している日本の大企業なんて、そもそもどれだけあるのか。ABCが分かりもしないのに、こんな情報システムを入れようと考える企業など、ほとんどないに違いない。理由は省略。自分の会社の愚痴になるので(笑)。

 そもそも、スマートフォンを使うレベルまで日本のホワイトカラーのレベルは達していませんぜ、というのと、仮にもしそうなったとしても、やっぱり携帯電話メーカーのビジネスモデルとスマートフォンは相容れないという気もする。つまり「ドコモがスマートフォンをやらないのはほぼ確信犯」ということだ。

 実は今、ある企業の社員管理システム構築を手伝っているのだが、ホワイトカラーの生産性をきっちりmeasureし、向上のための施策を的確かつスピーディーに打てる仕組みを作れるかどうかで、これからの企業の“基礎体力”が決まるような気がする。今僕が作らせているシステムはウェブベースのものだが、MySQLを直接叩くことができるアプリケーションを簡単に作れるスマートフォンが登場すれば、生産性管理の精度はより一層高まるだろう。

 だがそれをやると、システムから落ちる収益というのは、アプリケーションの開発者か、スマートフォン端末の開発メーカーにしかいかなくなると思う。間にいる通信業者という「土管屋さん」には、別に何の付加価値もないわけだし、となるとコスト削減圧力だけがかかることになる。実際米国がそうだし、僕自身も「jigアプリ」を自分のケータイにインストールして以来、iメニューをほとんど見なくなった。同時にXiinoも使わなくなったけどね(笑)。

 それがわかっているからこそドコモはボーダフォンやauがフルサイズブラウザ搭載の携帯とかスマートフォンを出すのを横目に動いてこなかったのだし、これからも収益がきちんと自分たちに落ちることが確認できない限り、アプリの仕様が完全にオープンになった携帯端末など出そうとはしないだろう。あ、でもiアプリを作った時点で、既にそのパンドラの箱は開いたと言ってもいいのかな。jigみたいなアプリが出て来ちゃったしな。

 ドコモ自身がjigのようなアプリを作って売れれば一番理想的なのだろうが、これってめっちゃ手間がかかる。あんな大企業が今さらそんなこと、やりたくないだろう。とすれば、彼らが取りかかるのは端末開発の自由を徹底的に制約してメーカーにいらぬ超過利潤を落とさないこと、これだけだ。

 楽曲のネット販売の既存収益などもともとビジネスの中に入っていなかったソニーのウォークマンが、自分で一から作った楽曲販売ビジネスを味方につけてヒットをかっさらったiPodに負けたのとは、ちょっと意味が違うと思うのはこの点である。しかも、iPodは楽曲のフォーマットではオープン(MP3)だが、ソフト(iTunes)とハードの結びつきではクローズドだ。

 問題はこうした「押さえるべきところをがっちり押さえる」戦略をドコモがとり続けたとしても、「それでもいつかオープンネットワークのスマートフォンは勝つ。ドコモは負ける」と、言えるのかどうかだ。奥さんには、そこんとこをぜひもう一度エントリで書いてもらいたいと期待している。

(18:31追記)下から3パラグラフ目など、一部を少し書き直し・書き足しました。

02:15 午後 携帯・デジカメ コメント (0) トラックバック (2)

2004/12/03

マスゴミの人と議論することの難しさ

 真夜中に「やれやれぇ」とか言いながらビール飲みつつけしかけてたら、本当に始まっちまいましたよ焦土戦争(爆)。切込隊長はんも、オトコですの~。確かに、ニフティーサーブのフォーラムでこんなのあったよな昔。あまりに香ばしくて、もうツリーごと放置モードみたいな不毛の応酬。

 で、反応してるブログとかコメントとか一通り読んで回ったんだけど、なんつーかもうネットジャーナリズムがどーたらいう範疇を超えてるな、これ。「ブログで2ちゃん並みの焦土戦争はどこまで可能か」が裏テーマになってね?(笑)まあ、お二人ともどっちかが音を上げるまでがんばってくださいって思うわけですが。

 でもさあ、やっぱりバラエティ系ブログって同じ話題が延々並んでてもキモイし、やっぱこんな不毛の論争で自分のブログ汚したくないわけさ。それで、その他のROMな方々にも楽しんで(何が論点なのか分かって)もらいたくてオチャラケた(相対化する)書き方しかしてこなかった。

 今もこのスタンスが変わったわけじゃないので、この件でエントリ入れるのはこれで最後にするつもり。それとあらかじめ言っておくけど、僕が見て意味不明と思える非建設的なコメントやTB打ってくる人がいたら、速攻で削除させていただきますんで念のため。

 とはいえ、オチャラケを誤解された挙げ句に全然意味不明のケンカ売られたら、僕としてもちょっと2~3個ばかり買っとくしかないかなあと。

 で、切込ブログにTBスパム送っている団藤氏@ブログ初心者についてですが。

 切込隊長が、そして僕も湯川氏@時事通信も言ってきたのは、「ネット上で意見を書きっ放すだけなら誰だってできるけど、それが知の営為として継続し集積され“続ける”んでなけりゃ、現実社会の中でそれが“ジャーナリズム”であるとは認知されんでしょうよ」ってことなんだよ。湯川vs切込論争の中で提示された「参加型ジャーナリズムの定義」っていうところを読んでもらえれば、その意味が分かると思う。

 で、それに対して団藤氏が最初のエントリで提示したのは、新井直之(75歳)という、共同通信記者を経て創価大学教授になり左派系の立場からマスコミ批評を始めた、しかもインターネットが登場するはるか以前の(1960年代の)論者という、ものすごく香ばしい人のアナクロなジャーナリズムの定義なわけですよ。それでいて切込氏や僕のブログをまったく読んでいないのかというと、「ブログの上で読むのが大変なぐらい長くて、熱い議論が交わされてきました」ってちゃんと書いてるもんだから、「あんた人の話をちゃんと聞いとんのかい」と、切込氏がばっさり斬りかかったわけです。

 ちなみに指摘しておくと、団藤氏が引いた新井直之のジャーナリズムの定義は、「素人がものを言ってもそれはジャーナリズムである」という一点(切込氏による参加型ジャーナリズムの定義のAのみ)しか満たしてないわけだ。

 ところが、これに対して団藤氏の反論がめちゃくちゃ痛々しい。「切込隊長はマスメディアのことをジャーナリズムと置き換えても何の不自然さもない」という彼の指摘(批判??)は、彼の最初のエントリが引用しているソキウスの「ジャーナリズム論」の一番最初に書かれているくだりをそのまま切込氏に投げ返しただけなのであるが、何の反論にもなってないわけだ。だって切込氏や湯川氏は、まさに産業としてのネット・ジャーナリズムについて議論してきたのであって、別に75歳の赤くて創価の爺ちゃんが唱えるジャーナリズムの理念について議論してきたわけではないからである。

 この、論理的に自分の立ち位置をまったく自覚していない痛々しさに加えて、団藤氏が決定的に口をすべらしたなあと思うのは、彼が反論エントリの中に、

はっきり言って、私には「切込隊長」氏がジャーナリストたろうとしているとは思えない。
 という一文を書いちゃったことだ。

 なぜなら、彼は最初のエントリで「ジャーナリズムとは『隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う』ことなのです。これはプロにも素人にも限定されません。」と定義し、さらにその後の引用で、何が目から鱗なのかよく分からないが、自分の意見を言うこともジャーナリズムに含まれる意のことを言っている。だったら切込隊長ブログなんてジャーナリズムそのものじゃないですか。

 真っ向から反論するつもりなら、頭を冷やして筆が走るのを抑え、「私には切込隊長氏の言っているものだけがジャーナリズムだとは思わない」、と冷静に書いておくべきだったろう。あのくだりに対して謝罪を書かない限り、団藤氏は完全に論理破綻していると言われても否定できまい。

 さて、返す刀で団藤氏以外のブログ・コメントについてもざっと紹介&補足を述べておく。

 「finalventの日記」でも、この件が触れられていたが、finalvent氏はこの論争の意味不明さについてぼやくと同時に、団藤ブログが一般のブログとは違う不思議な香ばしさを漂わせていることもそれとなく指摘している。まあ、言うなればこいつ第2のキムタケを目指してるんじゃないか?ってことでしょうね。僕もそう思いますハイ。

 次に、このブログにもTBを送ってくれた「at most countable」さんのとこ。風邪をこじらせてらっしゃるようで、まずはお大事に。で、僕の前のエントリの「スポーツは参加型ジャーナリズムの安全ゾーン」ってコメントしたのにひっかかってらっしゃるみたい。ので、補足しておきます。

 切込氏や湯川氏、そして僕が可能性について議論している「ジャーナリズム」が想定する対象は、企業、政治といった「当事者たちがそもそも外野からあーだこーだ論評されたくないと思っている、論評されること自体が彼らの食い扶持にとって時に死活問題になる」といった領域なんだと思う。その意味で、人口に膾炙してナンボ、チョーさんでもナベツネでも何でも良いから話題振りまいてナンボ、のスポーツとはちょっとワケが違うよ、と言いたかったのだ。

 実際、スポーツでも試合内容や業界動向の批評とかはサポティスタみたいな掲示板+まとめサイトが存在して機能してるわけだし。だけどサポティスタの浜村さんとか岡田さんが、ネット上のサポティスタそのもので「食っている」かというとこれは否だ。あちこちの雑誌に連載を持ったり、本を出したりして生活してるわけで、その意味ではサポティスタは「参加型ジャーナリズム」の機能の完成形ではあるけれども、ビジネスとしてsustainableであるかと言えばそうではない。

 僕や切込隊長、そして湯川氏らが恐らく夢想しているのは、浜村さんや岡田さんがウェブのサポティスタだけで食っていけるような世の中なのだ。で、それにはどうしたらいいんだろね?技術?それとも資本?それとも人?みたいな議論が、今行われてるネット・ジャーナリズムの議論だと思うのですよ。

 次。参加型ジャーナリズムを卒論にしたというyosomiさんとこのエントリ。貴方も切込隊長に劣らずオトコですね。がんばってください。で、彼のコメント「(マスメディアの中の人で)経営感覚に関する主張をしている人がほとんどいない。お金持ちが多いんだ、きっと。」いいとこついてきますねえ。団藤氏もお金持ちなんですよ、きっと。研究の成果、楽しみにしてますよホントに。ぜひ大手新聞社各社に経営の詳細をヒアリングしに行ってみてくださいな。んで、書けたらネットで公開してね。

 TBくれたmiamotoさんとこのエントリ。「R30タソのゆるーいエントリーに激しく共感」アリガトーゴザイマース(笑)。とりあえずこれが一般人の反応ですよ?>団藤タソ

 で、最後に団藤先生の反論エントリの一番最後に戻る。

 ところで「R30」氏は「ネットジャーナリズム・ウヨサヨ論」で「何で切込隊長とか湯川氏とか僕とかがこんなに口角泡をとばしてネットジャーナリズムの産業化の可能性について議論してるのか、全然わかんなくなっちゃうじゃーん」とおっしゃっている。お気遣い無く、ご自分のペースで議論をされたらと思う。
 「ご自分のペース」って何デスカ?絡んできたの、貴方ですが何か?自分の言ってることの意味、分かってるのかなこの人。マスゴミに20年も漬かった人と議論するの、本当に難しいですわ。(byまだ9年目の小僧)

11:36 午前 メディアとネット コメント (5) トラックバック (8)

2004/12/02

ネットジャーナリズム・ウヨサヨ論

 ネット・ジャーナリズムの議論も、本当にエンドレスですなあ。ま、この業界に長く身を置いてきた皆さんの鬱憤がいろいろな意味で沸点に達しつつある状況を見れば、ある意味当然かとも思われるんですがね。

 んで、実質2本目のエントリを入れたばかりの団藤保晴氏のブログにすごい勢いで切込隊長氏がかみついているのを見て、まーなんというか、もっとやれやれみたいな(笑)。今さら僕が入っていっても、議論が重箱の隅に突撃するだけのような気もするし、まったくどうでもいい。

 それよりも、何だかこの延々と繰り返されてきたような気がする砂をかむようなすれ違い感覚は、どこから生まれてくるのかと遡及して考えてしまう。

 で、前々からこの手のすれ違い感ってあちこちで体感するような気がしていたんだけど、どうにも言葉にまとまらない。まとまらないんだけど何となく口に出してみるテスツ。ま、何の論理的根拠もないので読んでむかついた人はスルーして下さい。

 団藤氏と切込氏のすれ違いは、とりも直さずまた再び「ジャーナリズム」の定義をめぐってに見える。戯画的に表現すると、こんな感じかな。団藤氏が「世の中の事象とその意味を自分なりに語れば、それはプロもアマもみんなジャーナリズムさっ」とかいって、原理主義というかノーテンキ論というかいわゆる「サヨ」的夢トークをぶちまけた瞬間に、切込氏が「だ・か・ら、食って行けなきゃしょうがねーって言ってんだヨ!!」みたいな「ウヨ」的回し蹴り炸裂。

 よーするに社会“学”的な「事実+意見の表明」っていうものと、現実の経済における「職業としてのウンタラ」みたいなものの混同が、あれだけ議論して「やっぱ実践あるのみだよな」って落としたにも関わらず、また新たな論者の登場によって振り出しに戻ってるわけだ。てか、も~つきあいきれんよこの堂々巡り。

 なぜこの手のトートロジーが生まれるのか。それってばたぶんこの2つの思考が、ウヨ・サヨみたいな意味の、ある種のアプリオリな「イデオロギー」から生まれてくるものだからじゃないでしょうかね。

 すっごく乱暴な言い方をすれば、切込隊長氏には、多方向的な議論の生み出す新しい言論の次元といったネットジャーナリズムの理念は理解し湯川氏と共有しつつも、毎日必死でカネ稼いで自分と社員を食わせていくためにはそんなアマチャンなこと言ってても俺の一日は始まらねえんだよ資本主義では!みたいな、ITベンチャー的国民派ウヨの現実認識ががっちりあるわけだ。

 これに対して、団藤氏は立ち位置として大手新聞社の中にいて食うには全く困らず岩波の雑誌にも寄稿しちゃったりする典型サヨ知識人生活を送りつつ、ネット内のあちこちの一般庶民がピーチクパーチク言うのをもっと多くの社会の人々に聞いてもらえば世の中もっと真っ当になるに違いない、そうだよ民主主義を追い求めていけば(中略)みんなが幸せになる、みたいな、資本主義社会とのアウフヘーベン(or打倒)が無限遠点の理想としてはあるんだろうね。

 そう考えると…うわ、不毛だなこの議論どうしようもねえ(笑)。

 個人的には(というか僕が仕事しているメディアも)発想は切込隊長氏(=ウヨ)に近いので、団藤氏がどうしても話を振り出しに戻したように見えてしょうがないんであるが、こちらのブログの反応なんかを見たりしていると、世の中には団藤氏的イデオロギーに「そうだそうだ」的共感を示す人たちもいるってことですな。

 ちなみに団藤氏に賛意を示してるそのブログで例として上がってるのがサポティスタだったりnakata.netだったりするわけだが、nakata.netはただのイケメンファッションモデルのプロモサイトだし、サポティスタはそれ自体としては別にただのまとめサイトだし。しかもどっちもスポーツなんていう、赤提灯で飲んだくれた親父でもピーチクパーチク言えるように作ってある「安全ゾーン」なネタが対象だし。なんか全然ネットジャーナリズムの例になってませんよ?あ、それがジャーナリズムですかそうですか。

 団藤氏が2ちゃんのまとめサイト的なものを指してジャーナリズムと呼んでいるのなら、それはそれでまあいいんだけど、だったら何で切込隊長とか湯川氏とか僕とかがこんなに口角泡をとばしてネットジャーナリズムの産業化の可能性について議論してるのか、全然わかんなくなっちゃうじゃーん(笑)。ていうかあんな脱力なコラム今さら書かないでくださいおながいします、もうちょっと空気嫁ってことでFAかな。ネタニマジレス、カコワルイ>俺。

11:52 午後 メディアとネット コメント (1) トラックバック (6)

2004/12/01

過保護の親に子育ての資格はあるか?

 「マーケティング社会時評」と題してブログを再開してみたものの、以前に比べて自分の関心領域がビジネスやマーケティングのフィールドからかなり遠ざかってしまっていることに気がつく。その代わり最近やけに気になってしかたがないのは、ニートや負け犬、専業主婦といったライフスタイル系の話と経済の境界線的な部分のことである。

 以前のように、仕事と会社に対して悪態をつくネガティブ・パワーがもう自分の中に薄れてきてしまっていることも理由としてはあると思うのだが、もう一方で自分の息子が少しずつ意味のある言葉をしゃべるようになってきて、「ある日突然こいつに人生の真理について尋ねられたら一体何て答えればいいんだ」といったことに恐怖を感じるようになったからかもしれない。

 そういうわけで、最近熱中して読んでいるブログも、ビジネスやらIT系の仕事絡みや世間の流行を追いかけたものよりも、人生の真理や家族の心など、不易のネタを軽妙に表現したものが多い。

 最近読んでいて妙に感動したのが、今や有名ブログの仲間入りしている「悪徳不動産屋の独り言」の中の、このエントリ。ブログの記事はどれも生々しい人間模様が描かれていてとても興味深いが、自分の息子の家出の一部始終を綴ったこのエピソードは、息子の将来の教育方針に今頃から頭を悩ませている僕にとっては、大変心を打つものだった。

 内容は読んでいただくとして、僕が興味深いなと感じたのは、ブログの筆者が息子や娘の取るだろう行動を見抜いていて、その上で反抗期の子供たちが間違いをしでかさないように、注意深く「本来してほしいこととは反対の指示や態度をわざと取っている」という点だ。

 家出しようとする子どもに「してもいいが、するなら二度と敷居をまたぐな」と言う。家で留守番して待つ娘には「お兄ちゃんが帰ってきても絶対にカギを開けたり、食べ物や着るものを渡すんじゃないぞ」と釘を差す。どちらも、本音は「バカなことしていないで、早く戻ってこい」、「親が留守にしている間に食べ物や服を渡してやれ」なのだ。

 どうせ反抗期だから、子どもは親の言いつけなんか守らず、親の目を盗んで子ども同士助け合う。それで兄弟姉妹の絆が強まる。それに、子どもは家出したら親が困って探し回るだろうと思ってするのである。「その手には乗らないから」とあらかじめ言い放っておくことで、再発やエスカレートを防ぐことになる。こう言ったら褒めすぎかもしれないが、この筆者は一種の「親の鑑」であろう。

 人間というのは面白い。道理を道理としてただ説けばいいわけではない時がたくさんある。わざと危険な目に遭わせなければ身をもって学べないこともある。人が人として恥ずかしくないように生きるための、そういう様々な情や掟を教えてくれる相手や場所というのは貴重である。社会に出てからでは人はみな他人だ。そんなことを赤の他人にわざわざ身をもって教えてくれる人などいない。

 学校というのはもともと人が社会集団や組織の中で生きていくための(職業的な)スキルを教える場所に過ぎない。先生が面倒を見なければいけない子どもの数も多い。だから全員でいっぺんに学べる「道理」だけを教え、世間の人とつき合って生きるための「情」や「掟」を教えてはくれない。それを教えてくれるのは地域か家族だけだ。

 しかし、かのブログに登場する様々なお客さんの様子を見ていても、日本の家庭にそれを教える機能はますます失われてきているような気がして仕方がない。地域はどうか。これもシステマティックになればなるほど、そうした「わざと危険な目に遭わせて学ばせる」といったことができなくなっていく。

 僕は以前(6~7年前)、ボーイスカウトのリーダーをやっていた。小学生のレベル(カブスカウト)の夏休みのキャンプに同行したのだが、その時に目を疑った覚えがある。

 ドラム缶と竹材を組んだイカダに乗って、湖に漕ぎ出そうというプログラムがあった。山の中の湖なので、水温は多少冷たいが、落ちて死ぬほどではない。水の深さだって岸から20m離れた程度の場所なら、せいぜい2~3mぐらいがいいところだ。しかも川ではなく湖で、急な水流があるわけでもない。僕が子どもの頃なら、一番ガタイのでかそうな年長の少年数人にオールを持たせ、「自分の後輩の頭数だけはちゃんと数えてろ。それと、あまり岸から離れるなよ」とだけ耳打ちしてあとは飛び込むなり何なり、適当に遊ばせるところだと思った。

 ところが、実際にはイカダに4本ものぶっとい救命ロープを結わえ、岸にいる父兄がそのロープの端を持っていつでも岸に引き戻せるようにしている。イカダの上の子どもが少しでも湖に腕など突っ込もうものなら、「○○ちゃん!危ないわよ!手を引っ込めなさい!」と、岸から母親の悲鳴が上がる。少年たちはただ、ボーっと湖の上のドラム缶イカダに座って湖面を眺めているだけだ。水遊びの楽しさ、怖さ、溺れないための知恵など、身につくはずもない。

 過保護もいい加減にしろと思ったが、その時のリーダー曰く、子どもの誰かが溺れでもしたら父兄やボランティアのリーダー全員が訴訟リスクに直面する、だから危ない真似は一切させられないのだそうだ。なんだそりゃ。命の守り方を教えている最中にたまたま事故があったからって、善意の父兄やリーダーを訴えて何になるんだろ。そんなボーイスカウト活動なら家族旅行に行って、親がつきっきりでも自由に遊ばせた方がよほどためになる、と心の中でつぶやいた。それ以来、僕はボーイスカウトの手伝いをしていない。

 最近はボーイスカウトどころか、家族の中でさえ危険なことには子どもに指一本触れさせない親も増えている気がしてならない。他人に自分の子どもが叱られると、詫びるのでなく子どもと一緒に叱った大人をにらみつける。叱りつけた人はわざわざ他人の子どもに良かれと思ってしつけをしてくれているのだ。親としてお礼を言うか詫びるかするのが当然だと思うのは、僕だけなのだろうか。

 子育てに限らず、他人とのつき合いを「損か得か」「こっちの論理か相手の論理か」みたいなゼロサムでしか考えない人が増えた。それはやはり、人づき合いはゼロサムではないと教える地域内や年代を超えた人の絆がなくなったからだろう。

 昔はドラマなどで「アンタなんか、子育て失格の親だよ!」とかおばあさんに怒鳴りつけられる若奥様が屈辱にうち震えて…みたいなシーンがよくあったような気がするが、今どき町中ですれ違う若い人たちのうち、いったいどれだけがまがりなりにも「子育ての資格がある」人と言えるのか、眺めていてはなはだ心許ない。

 ま、僕を含めての話だけど、そういう人たちに何を学べと言えばいいかというと…難しいよな、実際。以前は、子育ての資格なんて言葉で教えられるもんだと誰も思ってなかったしね。ただ、1つの解決策としてはこういうブログを読んで、大人として知っとくべき人の心の機微を学ぶっていうのもあるんじゃないかと。こちらの結論も甚だ心許ないですが。うーん眠いし何言ってるかよくわかんないかも。ごめん。

02:25 午前 育児 コメント (3) トラックバック (2)