プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その1
以前のエントリで「不毛の論争はこれっきりだ」って宣言したのがつい数日前なんだけど、その舌の根も乾かないうちにもう一回きちんと書いてみたくなった。というのも、CNETの梅田ブログ「インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞」を読んで、ものすごく考えさせられたからだ。
せっかく山本一郎@切込隊長による、身を張ってのネットジャーナリズム実験(笑)も現在進行中であることだし、ここでちょっと冷静になって、自分なりにジャーナリズムの将来について考えをまとめておきたい。ええ、もちろん「なるべく具体的」に、です。
梅田ブログは、「インターネットはアマチュアにとっての高速道路」という将棋の羽生名人のコメントを引きながら、プロとアマのレベル差が一気に詰まった現代社会の仕組みを非常に的確に言い当てている。
そこでは、「上達しよう」という強い意志さえあれば誰でもプロまであと一歩のところまではあっという間に到達できる。ただ、羽生名人は「その一群は、確かに一つ前の世代の並のプロは追い抜いてしまう勢いなのだが、そうやって皆で到達したところで直面する大渋滞を抜け出すには、どうも全く別の要素が必要なようである」とコメントして終わっている。
梅田氏の思惟は、「ネット業界でも同じことが起こっている。例えば、システムエンジニアがプロと認められるための“あと一歩”とは何だろうか」という問題提起で終わっている。僕がこの記事を読んで考えたことも、まさにこれと同じだった。「いったい、ジャーナリストがプロと認められるための“あと一歩”とは何だろうか」と。
テクストとしてだけ見た場合、例えば山本氏のキムタケに関する先日のコラム(こちらとこちら)は、明らかにプロのジャーナリズムの仕事の水準に達している。
なぜそう思うか。「今言うべきことを今言っている」という、団藤氏@朝日新聞の尊敬する新井直之教授によるジャーナリズムの基本定義(笑)を満たしていることに加えて、「独自に調べた1次情報」、「これまでになかった新しい見方」という、他人が読む価値のある文章の基本と思われる2つの要素が含まれていると思うからだ。
最初のエントリは、冷静に読めば振興銀の中間決算発表を受けた分析に終始していて、しかもネタは週刊誌などが書いているもののまとめに過ぎない。山本氏の分析(竹中大臣とのコネクションの問題)などが若干含まれているものの、この文を読むだけで憶測の域を出ない。ただ、「中間決算発表を受けて」週刊誌発行のタイミングと合わせて出たものであり、「今書くべきこと」を書いたという意味ではとてもジャーナリスティックだ。
2本目のエントリは、より純粋にジャーナリスティックだ。まず、「論談」に書かれていた例のネタから読みとれる今回の出来事の構図を、かつての日債銀事件と対比するという「新しい視点」が提示されている。また、複数の関係者から直接話を聞き、一般のマスメディアが書きづらい本人の人格やマスコミ某社(笑)との間の悶着まで取り上げている。これらは十分「1次情報」であり、このエントリは(完全に固有名を伏せるなど表現手法が若干ブラックめいてはいるが)普通に見ればプロのジャーナリズムの仕事そのものだろう。
なお、この際、山本氏がこの記事をブログで公表することによりどういう影響を狙ったかは、このテクストがジャーナリズムであるかどうかの判断条件には含めるべきでないと、僕は思う。
思いっきりうがった見方をすれば、彼は問題の構図をおおっぴらにすることで逆説的にキムタケの命だけは守ろうとしたのかもしれないし、あるいは単に週刊誌がこのタイミングで一斉に記事を書くことを察知して自分が少し情報量でアドバンテージがあることを利用し、ネット上での売名行為に及んだだけかもしれない。
また、今や日本のブログ・ネットワークのハブ(結節点)になってしまったキムタケブログが、そのパワーを政治的にニュートラルではない方に用いようとしはじめたのを見て危機感を覚え、彼のプライベートな人格攻撃を行うことでそのオーソリティーをぶち壊さなければという強い衝動に駆られたのかもしれない。
しかしそれらの動機は、ジャーナリズムの本質とは関係ない。本職のすごいジャーナリストだって、そりゃあ人間として生きているわけだから様々なしがらみがその裏側にあるし、公共のためなのか私怨なのか区別できないような記事を書くことだってしょっちゅうなのだ。大切なことは、科学者と同じで「どんな研究(記事)を世に出そうが、その引き起こす社会的影響を自分の責任として受け止める」覚悟があるかどうかだけである。
では、これだけジャーナリズムとしてのクオリティのある記事を書いた山本氏は、果たして「ジャーナリスト」なのかどうか。
恐らくこのエントリを書いて発表した瞬間の彼は「そうだ」と言えるかもしれない。だが同時に、表に見える範囲で彼がこの記事を書いてカネを稼いだわけではないし、またこうしたクオリティの記事を彼が今後も常にブログに発表し続けるとも到底思えない。
なぜなら、普通これだけのレベルの記事を書き続けようと思えば、片手間ではできない取材の手間がかかるわけで、一生食っていけるだけの現金がある金持ちが道楽としてやるならともかく、普通はまず「継続」し得ない。彼が「自分はジャーナリストたろうともしていないし、そうであるとも思っていない」と以前のエントリで書いているのはまさにこの点に基づくはずだ。
繰り返すが、このテクストだけを見た時、山本氏は明らかにトップクラスのジャーナリズムを体現している。だがそれが羽生名人の言う「プロと認められるための“あと一歩”」を超えていないし超えるつもりもないと彼が自称するのは、その水準が「継続しない/できない」からではないだろうか。
たぶん、アマチュアからプロになるということはそういうことだ。ある水準以上のクオリティーを、常に継続してアウトプットすることが「プロ」のプロたるゆえんなのだと、僕は思う。当たり前と言えば、当たり前すぎる結論ではあるのだが。
以下、その2に続きます。
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コメント
切込ブログでは一年以上定期的にこのクオリティのエントリーがでているのではないでしょうか。これは継続性といえると思います。
ただ切込隊長という存在自体がかなりイレギュラーなので、汎用の定義の例にあげるのが適してないだけで、プロの条件として「継続性」が必要なのは同意です。
やはりプロの条件としては、平凡に考えて「喰えるか」が重要でないでしょうか。
またジャーナリズムという言葉からプロ、アマチュアという言葉が分離できるなら、その後に残ったジャーナリズム自体の意味はますます不可解というか。。。
投稿: paprika | 2004/12/10 12:25
前述の切込隊長の特殊性とは「独自に調べた一次情報」はおそらく彼の事業上で耳にしたり、調べた情報と思われます。彼は経営者として事業で得たものに対して全て決済できる立場であるから情報を出すことができるのでこれはかなり特殊な例ではないでしょうか。あるいみ道楽というかボランティアというか団籐氏が唱えていることをより実践的におこなっているのが切込隊長であって、行ないつつもその発展にはかなり消極的なのは自明ですよね。彼みたいな立場の人間-道楽ができる人間は限られるからです。
団籐氏はそれを大新聞社の人間ということをプロフィールで語っておこなう危うさを指摘されているのでしょう。
また仕事で得た情報を個人のブログで流すとこんなリスクがありますよー、といいタイミングでこんな記事がありました。
http://netafull.net/archives/006495.html
投稿: paprika | 2004/12/10 12:37