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2004/12/13

プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その3

 このネタもだんだん長くなってきて、読んでいる方は疲れてるかもしれませんが、幸か不幸か切込隊長からも「待ち切れねーぞコノ野郎」といった趣の丁寧なツッコミTBなどいただいていることですし、それでも読んで脳みそかき回しながらもうしばらくおつきあいいただければと。

 また、このブログを初めて読みに来られて「こんな長い過去ログいちいち読んでられるかボケ」というお忙しい方は、とりあえず以下のあらすじをご参照ください。

【これまでのあらすじ】 これまでのエントリを読んだ人はとばしてね!==>

 最初のエントリでは、梅田ブログ@CNETと切込隊長のキムタケ銀行因縁エントリをネタにして、ジャーナリズムにおけるアマチュアとプロの境界線は「自己満足ではなく、顧客から見たクオリティの意識」と、「一定以上のクオリティの継続的出力」だという話をした。そして、ジャーナリスティックなテクストが持つべきクオリティとは「時事性(スピード)」、「初出情報(ニュース)」、「独自視点(コメンタリ)」の3つだと述べた。

 次に前回(2回目)のエントリでは、TBもらった各ブログの書き込みなどに答えるかたちで、インターネットというメディアの登場によって、そこで綴られるアマチュアのテクストのクオリティが、既存の商業ジャーナリズムに属するプロ(であるはずの人々)のテクストをあっさり超えるようになったと書いた。

 しかも、(特に紙を媒介とする)商業ジャーナリズムには上述のクオリティで初めからインターネットに負けている部分がある。だからネットのアマチュア・ジャーナリズムの活動に「継続的出力」という部分さえシステムで担保されれば、既存の商業ジャーナリズムは本来的な意味での「ジャーナリズム」としては機能しなくなり、結果的に「大衆」という既存の顧客を無意識のうちに捨て去る可能性が高い。実際、米国では一足先に大手商業メディアでそういう状況が生まれつつあり、それに対抗するネット上の参加型ジャーナリズムの立ち上げを叫ぶ気骨あるジャーナリストも現れている。

 と、ここまで書いたところで朝帰りの徹夜ハイな切込隊長氏が乱入。それに呼応してfinalvent氏も出版業界のディープな世界に関してコメント。で、一気にお二人とも僕の亀の歩みのような話から勝手に筋立てを読み取り、ビヨーンとジャンプして一気に結論へ。ぐはぁ(笑)。だ~か~ら~、ちょっと待っててっちゅーの(笑)。

<== 【あらすじここまで】

 さて。今回はTBいただいていたyosomiさんとこのブログのエントリを念頭に置きつつ、前回のエントリで少し説明不足だったなあと思うところを埋める作業に費やしたい。まず、「継続的出力」が担保されさえすればアマチュアもプロ並みのクオリティなんじゃ?という部分について。

 前々回のエントリでpaprikaさんに「切込ブログでは一年以上定期的にこのクオリティのエントリーがでているのではないでしょうか」というコメントをいただいていたが、あれですか、「家の外で三国人が騒いでいる。うるせー馬鹿」というのは、クオリティ・ジャーナリズム(笑)なんでしょうか。

 というのは冗談だが、正直1年なんてのはプロの条件としての「継続」のうちには入らないと僕は思う。僕の言うのは、10年、20年、言うなれば人が一生をかけて取り組む類の話である。

 僕のこれまでの経験から言うと、どんな博識な人でも独自情報のインプットをまったく受けずに(つまり過去の持ちネタだけで)書き綴れる「ジャーナリスティックなクオリティ」の文章というのは、50本が限界だ。毎日書けば2ヶ月でネタ切れするし、1週1本としても1年間がいいところだ。だからそれ以上続けようと思えば、当然ながら毎日必死で情報収集したり勉強したりしなければならない。コメントだけでさえそうだから、ましてニュースを書こうと思えばなおさらだ。つまり、文章を書くこと自体に対する報酬がもらえないことには、生きていけない。

 隊長がTB元エントリの「クオリティがどうであるか、高いか低いかと、それがプロであるかどうかは、ベクトルが違うのだろうと。それはまったく方向が違うというのではなく、相関はあるにしても、隔たりはある」と言っている意味は、そういうことだ。ジャーナリズムの本来的価値の1つである「継続的出力」を実現しようと思えば、どうしてもそれで報酬を受け取る仕組み(組織)の中に入らざるを得なかったわけだ。

 もっと言えば、現実の商業ジャーナリズムにおいては、一生かけて一定以上の水準のクオリティの文章を書く個人など、全体の1%もいない。新聞も雑誌も(特に雑誌はそうだが)、ライターは長くて15年、せいぜい数年で使い捨て、素人同然のライターが書いて送ってくる文章を編集者が読めるものにでっちあげて(クオリティを出して)媒体名の看板の下に並べるという仕組みがあることで、どうにかこうにか「継続的出力」を担保している。つまり切込隊長の言う通り、現実にクオリティ・ジャーナリズムを体現する個人なんて、国中探しても指折り数えるほどしかいないのだ。あとはみんな基準値以下。

 それでも昔は1つ1つの記事のクオリティを比較できなかったから、読者も「そういうものか」と思って受け取ってきた。でも今は、テクストだけ見たら同レベル以上のクオリティの「ネット」というものが転がっているから、商業ジャーナリズムの実態が「基準値以下」だってことが、多くの人にばれちゃった。ようこそ「マスゴミ」の世界へ。

 とはいえ、ネット上のアマチュア・ブロガーだって、「継続的出力」が担保されないっていう点ではあまたのマスゴミのライターと同じだ。しかもクオリティだってピンキリ。既存の商業ジャーナリズムを「マスゴミ」とか笑っていられない。

 しかし、例えばここにライター1万人を擁し、その中からごくごくまれにアップされる面白い(一定基準以上のクオリティの)コラムに点数つけてピックアップし、毎日1本ずつ以上読ませてくれるというシステムがあったらどうなるか?おそらくそのシステムそのものが非常にクオリティの高い「ジャーナリズム装置」として機能しちゃうだろうね。

 そう、それがgoogleやテクノラティ、未来検索などの検索エンジンだ。どれもまだそこまで「ジャーナリズム装置」としての機能を持ってはいないが、考えてみればgoogleだってまだこの世に登場して7年しか経っていないのである。もう数年もすれば、そういう精度の高い「自動ジャーナリズム装置」としての検索エンジンが出てくるに違いない。湯川氏のブログの「参加型ジャーナリズムは技術的革新待ちの状態」というエントリは、このことを議論したものだ。

 おお。ここまで読むと、数年後にすっごいかっちょいいスーパーgoogleが出てきて、そしたらインターネットが既存の商業マスゴミを超えた面白い記事を俺たちにバンバン読ませてくれるようになりますか?みたいな雰囲気が濃厚に漂っちゃうのだが、本当にそうだろうか?

 そうそう。プロのクオリティの条件として、1つ忘れてるのがあるよな。「独自に調べた初出情報(ニュース)」ってやつですよ。しかも、それ一発で世の中ひっくり返すような、おっきいやつ。そんなもの、出てくるのか?

 企業、政府といった「権力」は、その暗部を暴き、足をすくおうと手ぐすね引いている「ジャーナリズム」と当然ながら対峙する。そのパワーゲームに対抗するためには、「ジャーナリズム」側にも個人だけでなく組織の力があった方がよいと考えるのが自然だ。実際、新聞社や出版社は、だから本社玄関に屈強な警備員を配置し、社内一優秀な社員を法務部に集めている。

 だが、それでも最近は記事の内容で名誉毀損だの損害賠償だの訴えられて、実被害を認定されるケースが増えている。もちろん、その訴訟費用の負担や賠償責任は直接個人に降りかからないようになっている分、大手商業メディアに所属した方がリスクが少ないと言えばその通りだ。

 だが、だから何なのか?公の場に虚偽の内容を発表して迷惑をかければ、個人だろうが組織だろうが訴えられて、カネを払わなければならなくなるリスクは同じ。だから、訴訟リスク負担の差をもって「個人でニュースを書くジャーナリストなど存立し得ない」などという結論は出ない。勝Pとか戦争系以外のそういう個人ジャーナリストの名前をあまり見かけないから一般人には分からないだろうが、自力で調べたニュースを持ち込むフリーランスのジャーナリストは、日本にだってたくさんいる。

 じゃ、何でネットにはニュースがあまり出なくて、紙や電波媒体には出るのか。そりゃ、簡単な話だ。既存媒体の方がニュースの持ち主にたくさんカネを払うから。つまりニュースを買って売ることで売り上げを得る仕組みができているからだ。

 隊長の突っ込みエントリのコメント欄の22番が「インベスティゲーティブ・ジャーナリズム」つまり日本語で言う「調査報道」という言葉を出しているが、これこそがネット・ジャーナリズムの議論の核心だ。

 つまり、インターネット上のアマチュア・ジャーナリズムがどんなに進化しても、今のところ持てそうな見込みの立っていない、そして既存のマスメディアにはある唯一の機能、それは「カネと時間をかけて、隠された事実を調べて明らかにする“調査報道”が(継続的に)できるかどうか」、この1点に尽きる。それ以外はすべてネットで代替可能である(注:たまたま事件の現場に居合わせた人が1次情報をレポートするのは、「ジャーナリズムではない」と、ブログのエバンジェリストであるRebecca Bloodは述べている)。

 逆に言えば、世の中の多くの人がクソ記事のたくさん載っている新聞や雑誌を月や年単位で定期購読するのも、「たまにはこいつらも、度肝を抜くような調査報道をやって政府や企業のオエライさんどもの鼻をあかしてくれるからなぁ~」と思ってくれているからだ。…とゆーかたぶんそうじゃないかと思ったりしている(弱気)。でなきゃウェブサイトや電車の中吊り広告だけ読んでいればいいわけで。

 山本一郎氏が何をやろうとしているのか、ここまで読まれた方はもうお気づきだろう。彼はネットメディアにも調査報道(とそれによって世の中へ影響力を持つこと)が可能であることを、身をもって証明しようとしているのだ。ま、その突破者的な手法が吉と出るか凶と出るかについては、今は言及を避けておきたいと思うが。

 さて次回、たぶん最終回だが「ではネットに調査報道の機能を持たせることは可能なのか」について考えてみたい。TBいただいているNew UnderGround Commune Styleさんのエントリへのコメントもそちらでやります。では。

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コメント

はじめまして。大変興味深いご意見ですが、一つ疑問があります。

>だが、だから何なのか?公の場に虚偽の内容を発表して迷惑をかければ、
>個人だろうが組織だろうが訴えられて、カネを払わなければならなくなるリスクは同じ。

金を払うような事態になった場合、個人の方が受けるダメージは大きいわけですよね。
名誉毀損の場合、百万や二百万の賠償金は企業にとってなんでもないですが、
個人にとっては非常に大きい金額だと思います。

ですから、

>訴訟リスク負担の差をもって「個人でニュースを書くジャーナリストなど
>存立し得ない」などという結論は出ない。

存在し得ないとも思いませんが、ある程度経済的な基盤がないと、
なかなか個人でニュースを書く事は難しいのではないでしょうか

今後、参加型ジャーナリズムが盛んになっていくに連れ、
訴訟リスクを回避するためのガイドラインや、共助組織みたいなものも必要になってくるのでしょうね。

もっとも、この辺りの話は次回以降に語られるのでしょうね。
ちょっと先走ってしまったかもしれません。

投稿: わたなべ | 2004/12/13 01:52

>逆に言えば、世の中の多くの人がクソ記事のたくさん載っている
>新聞や雑誌を月や年単位で定期購読するのも、

個人的には、新聞や雑誌には様々ななニュースがちょっとずつ載っているからだと思うんですけどね。
一通りの事は書いてあると。うわべしか書いてないけと言う事も言えますが、読む人にとっては
それで充分なのではないでしょうか。

大衆の人は、はたしてクオリティの高い記事を求めているのでしょうか。
一部は求めるかもしれないけど、多くの人にとっては「新聞のクソ記事」程度で
満足しているように思うのです。

投稿: わたなべ | 2004/12/13 02:09

国際級で仕事が出来ている分野って日本国内にどれほどあるだろうか? 本当に限られていると思う。団藤氏に噛み付く切込隊長の気持ちもそんなところから発せられているのかもしれない。
とにもかくにも、読み手が日本人で安穏としていられる記者などいつまでその存在が許されるのか。

投稿: 通りすがり | 2004/12/13 23:32

体制を監視するのは重要だけど、なんか青っ洟垂らした
お子様みたいに反体制を気取るのがかっこいいとかいう
抽象的な印象操作とかに踊らされている人を感じると
実に憐れで惨めなものだなあと思いますね。

投稿: ぷ | 2004/12/14 11:26

↑抽象的な印象操作だ。
具体的に言っていただきたいものだなあ。

投稿: さいもん | 2004/12/14 22:22

 論旨が「プロのジャーナリズムとは何か」からジャーナリズム総論に移っている中でなんですが、

----------以下引用----------
正直1年なんてのはプロの条件としての「継続」のうちには入らないと僕は思う。僕の言うのは、10年、20年、言うなれば人が一生をかけて取り組む類の話である。
----------引用おわり----------

----------以下引用----------
もっと言えば、現実の商業ジャーナリズムにおいては、一生かけて一定以上の水準のクオリティの文章を書く個人など、全体の1%もいない。
----------引用おわり----------

 ということはプロのジャーナリストなんてものはアマチュアはもちろん商業ジャーナリズムの世界を含めて殆ど存在しないということなんでしょうか?

 ジャーナリズムの切り分けとして一次情報の取得は多くの場合、特に大衆が知りたい情報の最大公約数的な情報(NHKで夜の7:00から流れているような情報)をそれを生業としない個人が取得するのは困難なのはあたりまえだということで只ソースの取得とは別に時事的な話題を既存のメディアが賃金を支払って登場している論者より鋭かったりおもしろかったりする人がこのブログのようにネットに散見されるというのは大衆に流通する情報の総体としてのジャーナリズムという面では新しい状況があらわれつつあると思われ、もちろんネットの情報は対価としての金銭が支払われない場合が多い情報であることから多くは質が問題になりますけど、その為希望する質の内容の情報を拾い上げる仕組みが必要になるってのも良くわかります。
 只それはジャーナリズムの総論で「プロのジャーナリズムとは何か」といささか話しがずれてるような気もします。でもジャーナリズム総論的な話のほうが面白いのでいいんですけどね。

投稿: paprika | 2004/12/17 10:52

paprikaさん、コメントありがとうございます。
「プロのジャーナリズム」というものの定義を厳密にすれば、おっしゃるとおり、個人でそれに当てはまる人というのは非常に少ないと言わざるを得ないです。

ただ、個人ではなくても、そういう機能のある組織であれば良いというのであれば、既存の商業ジャーナリズムは組織的にその機能を担保する仕組みになっている(いた?)んだろうと思います。

ただ、それは紙や電波しかない時代の話で、ネットがこれだけ普及しちゃうと、商業ジャーナリズムが必死で何とか築いてきたものを上回る「プロのジャーナリズム」の仕組みが登場しちゃうまで、もうあまり時間がないんじゃないですか、ということを言いたかったのです。

だから個人でプロのジャーナリストを目指す人は目指せばいいと思うし、そういう人はネット時代になろうがなるまいが価値は不変です。問題は、再販制度や電波法などの分厚い規制、障壁に守られながら擬似的にプロのジャーナリズムだと言い張ってきた企業の、化けの皮がはがれてしまうことですよね。

というわけで、わかりにくいかもしれませんが、僕の論考はあくまで「プロのジャーナリズム」をめぐっての論考であることをご理解ください。

投稿: R30@管理人 | 2004/12/17 11:01

なるほど「個人」に拘って読んでいました。
いま一度読み返して理解してみます。
ありがとうございました。

投稿: paprika | 2004/12/17 11:10

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