プロのジャーナリズムとは何かについて考えてみる・その2
前回の続きである。と、その前に、既にあちこちからTB、コメントのツッコミをいただいている。それについて触れておこう。まず、お気に入りのカレー屋さん100のとこでのエントリ。将棋の森内竜王の話をネタに「プロとなるためのあと1歩」の何たるかに関する考察を書いていた。
これ読んで、前回付け加え忘れたなあと思った「プロであるための条件」が、あった。それは「自分ではない誰か(たいていはお客さん)のための仕事ができるか」ということだ。ま、これはジャーナリズムの場合、僕が前回挙げた「テクストに含まれているべき3つの要素」に含まれていると言えば含まれているのだけれど。
そして、この点についてTBをくれたもう1つのサイト、einzbrenさんがMovableTypeとの比較検討終了ブログで突っ込んでくれている。で、彼が手厳しいが非常にいい指摘をされている。引用しておこう。
それ(引用者注:他人の意見より的を得、共感を得やすい内容にするか)を満たすために、R30が指摘しているような「時期を読むセンスと唯一性」を磨く。そういう意味では実はweb上の高速道路組のが有利だ。商業におけるジャーナリズムは「煽りによる購読者集め」と「スポンサーへの擦り寄り」という「お金のための意識」が主体であって、時期を選ぶことや的を射ることに必ずしも注力できないからだ。それを補うためにあからさまな表現で個性を出そうとして、結果哀愁を漂わせている自称ジャーナリストは後を断たない。まさにその通りで、今の世界中の商業ジャーナリズムが直面している問題は、「時宜を伺うセンス」や「これまでになかった新しい視点」といった、ジャーナリスティックなテクストに求められる要素の3つに2つまでが、インターネットのアマチュアによって(部分的に、ではあるが)乗り越えられちゃっているということだ。このことは、以前に湯川氏@時事通信も「敗北感を感じた」と、語っている。
これが普通の職業なら、そうはいかない。例えば前回のエントリで引用した梅田氏は、システムエンジニアのアマがプロを超えた例として広島の高校生が作ったスパコンを挙げていた。
だが、それでは大学や企業がその高校生に研究所で使うスパコンを発注するかと言えば、たぶんそれは「否」だろう。彼は自分の興味のためにスパコンを作ったのであって、それを何億円も取って企業や大学に売っていくつもりはなかったに違いない。
ところが、ジャーナリズムはちょっと勝手が違う。既存のマスコミ、特に新聞や雑誌系では、原稿は書いてから掲載されるまでに必ずタイムラグがある。新聞なら数時間から数日、雑誌は数日~数週間、発表が遅れる。だからまず「時宜を伺う」点でネットのスピードに勝てない。
しかも、既存のマスコミ人で、自分の文章の読者がどのくらいいて、どう反応したかをリアルタイムに知っている人はほとんどいない。だから「お客のため」といっても、どの読者のためなのか、社の上層部のためなのか(社の上層部だって「読者」と言えば読者の1人ではあるわけだから)、あるいは広告主のためなのか、だんだん分からなくなってきてしまう。
これに対し、ネットではPVがリアルタイムでがんがん見える。それによってアマチュアでも書き手が容易に「読者の好み」を想定してものを書くようになる。実はこの時点でプロがアマに「プロ性」で負けている。あとは、これを「継続」するアマが出てきた時点で、プロの付け入るスキはなくなる…ということになる、のかもしれない。
だがそれでいいのか?何かまずいような気が…。と書いているのがeinzbrenさんだ。以下、ちょっと長くなるが再び引用。
インターネットは弱者が自慰行為に浸るきっかけを大幅に増やした一方で、権力者と弱者の位置付けをより明確にしてしまったのではないかと思う。だが、むしろそれが正しいインターネットなのかもしれない。現代マスメディアに依存しきってしまった大衆が真実という幻想を追いかける場所、ユートピアとして存在し続けることが出来るこの場所は、アイデンティティクライシスという精神病患者末期症状があふれる現代にこそ必要なのだ。インターネットという処方箋によって患者は生き延び、権力者は別世界でラリることはできても食うために渋々現実に顔を出す弱者から油を搾り取る。諧謔的な表現で意味が分かりにくいが、要するに「既存マスコミは正義を守るより、カネと政治力を持つ人々により癒着する。ネットは彼らに普段搾取されているそれ以外の貧乏人が、不満をぶちまけて鬱憤を晴らす場になるだけだ」ってことね。つまり、商業ジャーナリズムはこれからますます(もともとはその基盤としていた)大衆から遊離し、それ自体が権力側のシステムになる。クオリティが高くてもカネと権力に拮抗するリアル・パワーのないネット・ジャーナリズムなんて、意味なくない?という疑問だ。
米国で既にそういう疑問をちゃんと叫んだ人がいる。マーキュリーニュースの技術コラムニスト、ダン・ギルモア氏だ。YAMDAS現更新履歴のところで紹介されている彼の著書「We The Media」が、クリエイティブ・コモンズのルールに基づき前文の日本語訳が公開されているので、それをお読みいただきたい。
…彼が想像するジャーナリズムの未来とは、こうだ。商業ジャーナリズムはカネと政治の権力側につき、市場はシュリンクするもマスを押さえる広告メディアとして買収・合併を繰り返し寡占を実現しつつ何とか生き残る。だがかつてのようにウォーターゲート事件など権力者の不正を暴いた「公共に奉仕する」ジャーナリズムはメルトダウンし、消える。
アメリカという社会が健全だなあと思うのは、そこでダン・ギルモアのように「公共に奉仕する意見を言える人間が必要だ、その機能を経済的に支えることが必要だと、我々は訴えなければならない。参加型ジャーナリズムの場に利益を生み出さなければならない」と叫ぶ人が出てくるってことだ。
日本ではまだ現実の事態がそこまで至っていないとみんなが思っているというのもあるけれど、実際に大手マスコミの中の人の「言いたいことが言えない制約」の多さなど、米国と大して変わらない状況になりつつあるって思うんですがね。
結論めいたことを言うなら、前回エントリにコメントしてくれたpaprikaさんの言う「食えるかどうか」という現実態としてのプロの条件と、「客のために一定水準以上のアウトプットを出し続ける」という本来的なプロの条件が、ジャーナリズムの世界においては大きくねじれてしまっている、とこういうことなわけです。
とりあえず、第2回はここまで。こちらマルチメディア支援室 14GさんのTBについては、次回引用させていただきます。あしからず。
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コメント
お気に入りのカレー屋さん100のたあぼうです。
いきなり訳の分からない絡み方をしてしまったガキの質問に、丁寧かつコンパクトな解説ありがとうございました。
お客さんがお金を払ってもよいと思える需要に見合った質の高い情報を提供しないとプロたりえないというご指摘、仰るとおりだと思いました。
僕には厳しいと思うので、やっぱり趣味でカレー屋さんを紹介し続けていくだけにしようと思いました。
次回以降も楽しみにさせていただきます。
ひっそりと。
ではでは、失礼しました。
投稿: たあぼう | 2004/12/11 17:49