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2004/11/30

2004年11月のバックナンバー

「釜ゆでうどん」であること
再開後最初のエントリ。書くことの決意表明。

書評:「ビジネス・エシックス」
英米流のビジネスエシックスの起源を考える。

メディア・アートとは何か-「ART WIRED」イベントレビュー
多摩美大でのアートイベントのレポートと日本のアートシーンについての考察。

10年後のマンション価格
以前の記事の再掲。マンション価格はどう決まるかについて。

続・10年後のマンション価格
以前の記事の再掲。不動産価格と地域コミュニティーの関係。

ニートになりたい僕たち
未だに大量のPVを集め続ける傑作コラム。30代男性の雇用について。

誰か教えて
ゴミエントリ。

運命という才能
小此木啓吾「モラトリアム人間」から考えた、30代の職業観。

「ニートになりたい僕たち」への反応の感想
ニート論の続き。働くことの意味を答えられなくなっている現代社会。

湯川vs切込論争に思う、ネット・ジャーナリズム論の不毛
湯川氏と切込隊長へものすごい勢いで投げつけたうんこ。マスコミ批判の開始宣言。

「結婚したら負けかなと思ってる」
非モテ論とニート(非労働)論の接続。それらを許す親の存在がカギ。

人の死を直視するということについて
イラク人質処刑問題によせて。タイで出家した際の体験談。

はてなが住所登録義務化を撤回
速報エントリ。

はてなの将来と「参加型ジャーナリズム」
速報の後に考えた、はてなを使ったネットメディアについての難解な論考。

11:59 午後 バックナンバー一覧

2004/11/26

はてなの将来と「参加型ジャーナリズム」

 なんか前のエントリで「詳しくは週末に投稿します」とか言ってたら年末進行で忙しいはずの山本一郎@切込隊長がなぜかものすごい勢いで類似エントリを放り込んできたので、生煮えでも早くネタ提供しておくべきかなと思って参戦する次第。

 その前から湯川氏@時事通信のブログで「参加型ジャーナリズム」のための技術革新の話、それから報道ビジネス研究会のブログでも「特ダネ競争よりも配信経路にニュースの価値があるのでは」という、techdirtのサイトの投稿が紹介されていた。

 いやね、techdirtの話はね、もう分かってる人は分かってて、後は「誰がやるか」ってことだけなんですよ。えーと具体的に誰とか聞かないでね(笑)。今まで僕がやろうとしてきたこともまさにそういうことだっt(以下検閲削除)。そういう意味では「技術革新なんか別に要らなくて、そういうビジネスモデルを実際に企画してやるやつがいねーだけなんだよ」という切込氏の主張に全面的に大賛成するものであります。

 で、このエントリのタイトルなわけですが、つまり人力検索システムとしての「はてな」というのは、切込氏が言うような「専門性」つまり読者をその関心対象や得意分野によって分類しコミュニティーに帰属させる仕組みと、「モデレーション」つまりポイントを使って読者により有用性の高い知見を表明するよう動機づけ、出された知見を評価する仕組みとを、既に両方持ちあわせた秀逸なシステムなわけですよ。これだけでも十分湯川氏に対する反論になってると思う。

 僕が思うに、もしかして参加型ジャーナリズムのプラットフォームになるかもしれないはてなに今決定的に足りないものは、2つある。1つはこういうニュースあるいはトピックの知的消化のスパイラルシステムをまさに必要としている人(切込氏の言う「実際に問題に直面しているマネージメントクラスの社会人」)を、リアル社会からはてなの中にまで引っ張ってくるだけのプロモーション手段と資金力。

 もう1つは、はてなでのQ&Aを、切込氏の言う「消費されるトピックとしてのフロー」ではなく「構造的な議案についての知見」と見なし、これにオープンネットでタダであふれかえるフロー情報とは全く別次元の商品価値を与えて、僕の言う「特定多数向けのビジネス」に変える商才、である。

 おそらくこの2つは、ご覧の通り鶏と卵のような関係でもあるので、現状のはてなが自身の中から生み出すことはできないものだと思う。ぶっちゃけて言えば、リアルのメディアと組むことでしか実現しえない。(今回の住所登録義務化の話だって、正しいビジネス化のプロセスが分かってないからあんな話が出てきたのだ、と僕は思っている)

 前回のエントリで書いたように、誰もが「特定多数」のコミュニティーに属し、その中で渦巻く「コミュニティーの人々のための情報」にしか関心を持たなくなるような意識構造が、膨大なマスコミ情報の氾濫とネットの普及という2つの流れの中で世の中の人にどんどんできあがってきている。

 マスコミの情報洪水から身を守るため、あえてコミュニティー内に閉じこもって情報を遮断して暮らそうとしている人々にてめーの情報(ニュース)を伝達しようと思ったら、内容を極めて万人向けの安易でサプライジングなものにするか、あるいはそのコミュニティーに情報を流通させる権限を持っている人に気に入ってもらうか、どっちかしかあり得ないわけだ。

 経営組織論という学問の中で、この「外部情報と接触して、それを選別して組織内に流通させる権限を持つ人」というのは「ゲートキーパー」と呼ばれる。ゲートキーパーとされるのは、組織内にごくわずかしか知り合いがいないような一見窓際系に見える人であることが多いが、実際には組織内の誰よりも圧倒的な外部情報網を持ち、それゆえに組織トップの意思決定をはじめ、組織内のメンバーの行動様式に大きな影響を持つ存在とされている。

 参加型ジャーナリズムでは、メディア(ジャーナリズム)がコミュニティーに属する人々からこの「ゲートキーパー役」のポジションに見なしてもらえるかどうかで成否が決まる。従来、人がコミュニティー内においてただのメンバーなのかそれともゲートキーパーなのかを可視化して知ることはできないと考えられていた。しかしはてなのようにコミュニティー内で頻繁に流通するポイントを使ってモデレーションを行えば、それが可視化できる。つまり可視化できるということは、メディアが自分の「ゲートキーパー度」をきちん確かめ、それによってコミュニティーを統計的にマネジメントすることが可能だということだ。

 モデレーションシステムを通じたコミュニティーメディアの働きの可視化という点では、はてな以外にもスラッシュドットなどがその先駆事例だと思う。要は、ネットの世界はたいていの技術は探せばどこかにある、のである。

 どうもこのことに、ライブドアも気がついているらしいということは、某社長日記でも明らかにされている。湯川氏が「技術革新が起こるまで~」とか間抜けなことを言っている間に、分かってるやつはもう動き出してるってことなのですよ。Welcome to the NEW ECONOMY!ニューエコノミーの世界へようこそ!!(笑)

 あーあ、全部言っちゃった。まあいいや。切込隊長みたいに分かりやすく喩えを並べるなんて親切まったくしなかったし(切込氏があのエントリ書いたのは、デビルマンネタを参加型ジャーナリズムと結びつけて語ったら面白い!って夜中の12時ぐらいに思いついたからに違いない。絶対そうだ)、この抽象的な文章読み切る奴なんてほとんどいないでしょ。ま、分かる人なら分かるってことでそれ以外の人はスルーしてよし。では。

(8:00追記)蛇足ながら付け加えておくと、コミュニティー・マーケティングというのは究極のダイレクト・マーケティングである。この領域に踏み込むということは、メディアがマスからワン・トゥ・ワンへ、マーケティングスタイルを180度転換するということに他ならない。だから(ビジネスモデルから、スタッフ一人ひとりの意識に至るまで)これまでの成功体験をいったんすべて捨てる決断が必要なのである。

03:03 午前 メディアとネット コメント (4) トラックバック (8)

2004/11/25

はてなが住所登録義務化を撤回

 ついさっきメールが来ていた。リリースのリンクはこちら

 この件については僕もアンテナや検索を使っており、ダイアリーも利用を検討しているところだったので、かなり関心を持ってウオッチしていた。とりあえず法曹の専門家からでさえ疑問が唱えられていた一律義務化が全面撤回されたことで、はてなというコミュニティーが守れたことは良かったと思う。というか、おそらくコミュニティー崩壊の一歩手前まで行っていたのだろう。実際、アンテナしか使ってない僕でさえ逃げ出す準備をしていたぐらいだから(笑)。

 はてなについては、少しじっくりと語りたいことがあったのだけれど、この話題が落ち着かないことには…と思っていた。今週末にでも、はてなについて思うことを書いてみたい。

 まあとりあえずは近藤社長、大英断でした。お疲れさまとだけ、申し上げておきます。

10:49 午後 メディアとネット コメント (0) トラックバック (0)

2004/11/24

人の死を直視するということについて

 大学生の時、とある事情からタイの田舎で出家した経験がある。

 日本では出家というとびっくりされるが、タイでは20歳になった男子は必ず1回は出家することが文化的風習だ。つまりタイ式「成人式」である。キリスト教の広まった最近のバンコクではそうでもないらしいが、基本的に出家したことのない成人男性は「未熟者」と見られる。また、女性にとって人生で最大の功徳(善行をなして徳を積むこと)とは、「息子を出家させること」とされている。

 僕は高校時代にも一度タイにホームステイしていたことがあり、実は出家は日本では決してできない自分のための「成人式」のつもりであると同時に、その時に僕を実の息子同様に可愛がってくれたホストマザーに対する恩返しのつもりもあった。もちろん、彼女は自分の息子が出家するのと同じぐらいに、僕の出家をたいそう喜んでくれた。

 それで、タイで出家するとどんな暮らしをするのかというと、そちらの方面に興味のある人は文化人類学者の青木保の『タイの僧院にて』あたりを読んでもらいたい。簡単に言うと、頭髪を剃り、まゆ毛もひげも剃り、茶色の布1枚だけを身体に巻き付け、食事は午前中に2回だけ、早朝に重い鉄の鉢を持って村を托鉢して回り、帰ってきたら読経してそれを食べ、午後は読書や勉学でじっとして過ごす。時々、村のそこかしこで行われる冠婚葬祭(文字通り結婚式やお葬式、あるいは家の上棟式とか病人の治癒祈願とか)に呼ばれてお経を上げたりする。

 一般人はこれをだいたい短くて2カ月ぐらい、長ければ半年とか1年とかやってから「還俗」、つまり一般人に戻る。戻る時期は自分で決める。嫌で嫌でしょうがないという人はあまりいないが、たいていは仕事やらいろいろ用事があるのでしょうがなく戻る。でも仏門の生活が気に入った人はそのまま一生僧侶で居続けることもある。

 僕は日本の大学2年生の夏休みをフルに活用したので、7月に期末テストが終わってすぐにタイに行き出家して、9月の半ばに還俗して戻ってきた。3日ならぬ“2カ月坊主”である。

 食事が午前中だけというのは、僧侶はそれほど身体を動かさないし、慣れるとどうってこともない。有名な「女性に触ってはいけない」とかの禁忌も別に大した問題ではなかったのだが、一番辛かったのは早朝の托鉢だった。

 托鉢は、10kg近くある鉄のお鉢を抱えて、素足で歩いて村の集落を回る。距離は1時間で帰ってくるぐらいだから、だいたい3~4kmぐらいか。タイの田舎は幹線道路しか舗装されていないから、家の前の小道とかはほとんど砂利道だ。そこを素足で歩かなければならないのだ。

 しかも、手に持っているお鉢にはご飯やおかずなどの食べ物がどんどん放り込まれるので、どんどん重くなる。するとますます足の裏が痛くなる。他の僧侶は慣れているのか、皆平然とした顔だったが、僕は苦痛に歪んだ顔をしていたはずだ。あの時ほど日本人に生まれ育った自分を恨んだこともない。

 さて、毎朝しかめっ面で村々を歩いて回っていたある日の午後、先輩の僧侶が「病人の治癒祈願に行くからついてこい」と言った。特に用事もなかった僕は数人の僧侶仲間と一緒に先輩の後をついて行ったところ、彼が入っていったのは僕の高校時代に同じ学校にいた、同級生の家だった。

 家族や医者に囲まれて横たわっていたのは、まさにその同級生だった。彼とは高校の時以来会っていなかったが、当時一緒にサッカーやバスケットなどしたこともあり、元気な頃の彼の姿をはっきり覚えていた。内臓が悪いのか、やせ細って顔が黄褐色に変色し、目をつぶったまま不自然な荒い呼吸を繰り返す彼の変わり果てた姿を見て、唖然とした。

 といっても僕にはどうすることもできない。ろくな医療機関もないその村の自宅に寝かされていること自体、彼が大した医者にもかかれずにここまでなってしまったことを示していた。家族と先輩僧侶の会話をちらりと耳にした範囲では、彼の命ももう長くはないようだった。僕を含む僧侶たちは15分ほど治癒を祈願するお経を上げてその家をあとにした。

 1週間ほど経った頃、僕の出家していた寺で葬式が行われた。「仏様」は、あの同級生だった。雲一つなく晴れて輝く太陽の下で、蓮の花で飾られた棺の前で僕らがお経を上げ、香が焚かれ、やがて棺は火葬場の中に入っていった。おそらく闘病期間が長かったのかもしれない。母親は涙ぐんでいたものの、彼の親族は皆割と平然とした様子で、静かに葬式に参列していた。

 その時、ふいに僕は目頭が熱くなった。高校の時に少し知り合いだっただけの彼の死に、どうしてだか分からなかったが、何かが胸の中からこみ上げてきた。すると、目を押さえた僕の様子に気づいた先輩僧侶が僕に向かって静かに諭すように言った。

 「僧侶なら、泣いてはいけない。死は誰にでも訪れる。だから彼の死をただじっと見つめなさい。そして泣くのは止めなさい」

 それからしばらく、僕は夜眠ろうとすると、頭の中を虹色の光がぐるぐると飛び交って眠れなくなる日が続いた。光は日をおうごとに少しずつ増えていくようだった。僕の心を邪魔しに来ているような感じだった。毎晩寝つかれなかったが、翌朝早くからまた起きなければならない。何とかして眠ろうと、一生懸命他のことを考えたりしようとした。でも眠れなかった。

 ある夜、光があまりにもすごい勢いで渦巻きはじめた。どうしてこんなことになるのか分からなくて、無我夢中で先輩僧侶の部屋に行って「助けて下さい」と叫んだ。でも先輩は出てこない。気が狂いそうになり、思わず毎日唱えているお経を唱えた。すると、それまで毎日唱えていたのに何の「御利益」もなかったサンスクリット語の経の言葉が、突然意識の中にすーっと吸い込まれて、そして虹色の光の渦は音もなく消えた。心の中には、真っ暗な静寂が広がっているだけだった。その瞬間、先輩僧侶に言われた言葉の1つひとつが、とても自然に思えるようになった。

 これは、たぶん「宗教的体験」と言われるものなんだろうと思っている。だから同じことを他人が体験できるとは思わないし、だから他人に上座部仏教への入信を勧めようとかも思わない。

 ただ、1つ思うのは、最近2ちゃんねるあたりで流行しているそうだが、どこぞの殺人動画を見ることが「死を直視する」ことでは、決してないということだ。僕なりに考える「死を直視する」ということの意味は、ある人の死を通じて、それがいつ何時自分であってもおかしくないと思うこと、そして「死は誰にでも訪れる」という現実をただじっと見つめて、そこから自分の生きる意味を考えるということである。もっと言えば、メディアを通したのではない、目の前のナマの死を見て、それと自分を対比することだ。

 例えば、卑近な話で言うと「もし今あなたが何でも3つ夢を叶えられるとしたら、何を望みますか?」という質問に対して「何も望まない」と答えることだと、カッコつけでも何でもなく、僕はそう思う。女性だと「美貌、男、カネ」とか望むのが定石だそうだが、別に僕は「カネ、カネ、カネ」とか「女、女、女」と唱えようとか全然思わない。カネ、容姿、男(女)、そういったものは自分に死が訪れる時のことを直視すれば、どれも空しいからだ。

 この程度で悟ったなどと言うつもりは全然ない。けれど「死を直視する」という言葉の深い意味を、いい年した大人がきちんと自分の言葉で説明できなくなっている日本って、本当に寒い国だと思う。マーケティングとはまったく関係ないが、そんなことを思う今日この頃だ。まっ、2ちゃんやブログあたりでぐだぐだ言ってるのは20歳以上の大人じゃない、のかもしれませんが。

07:30 午後 日記・コラム・つぶやき コメント (2) トラックバック (1)

2004/11/22

「結婚したら負けかなと思ってる」

 前回のニートの記事も、小難しい内容よりも先にタイトルが割と共感を呼んじゃったみたいなところがあったので、今回もタイトル先行で行ってみたいと思います(笑)。ネタ元はとくダネのあのニート君の有名なせりふ「働いたら負けかなと思ってる」から。

 以前のブログで「少子化の根本的原因は、子どもが小さいうちは母親が付き添っていないと精神発達が遅れるという『3歳児神話』にある」みたいな話を書いた。そのときは考えもしなかったことなのだが、どうも少子化とニートは、問題の根っこが同じところにあるらしい。

 前回の「ニートになりたい僕たち」で書いた話は、実はもう現実に先取りされていた。読売新聞の9月16日の報道によると専業主“夫”は7年連続で増加しており、昨年は96年の2倍に達し、ついに8万人を突破したとのこと(読売の元記事はもうネット上に存在しないので、このあたりのブログを参照)。要するに、男性と女性の立場がすごい勢いで入れ替わっているだけのことで、これからますます男もカジテツやらセンギョーやらになるわけだ。で、男性は子どもを産むことはできないんだから少子化進んで当然じゃん、みたいなアホくさい結論で終わりそうな気もする。

 というところで終わってもしょーがないので、今度はちょっと逆の側から、つまり女性が結婚しない理由について考えてみたい。

 ずばりそのものの議論については、今年は「負け犬」論争などもあったことだし、小倉千加子センセイなど高名な学者様たちがさんざん論じているテーマなので、ここで正攻法で議論するつもりはない。

 で、何が言いたいかというと、「ニートも非婚化も根っこは同じ気がする」というLoveless zeroのエントリに対する言及だ。僕もまったく同じことを考えているが、それはLoveless~の筆者、秋風さんが書いているような「自己の理想イメージと(結婚、雇用の)相手のオファーとのミスマッチ」というだけではない。それははっきり言える。

 ニートと非婚化の何が共通しているかというと、それは親の存在だ。ニートでも「むりやり就職しなくてもいいという親」の存在がニートを(経済的、精神的に)許してしまっているという声があるが、結婚だって同じなのである。自分の娘がいくら婚期を逃しそうだからって、給料も安定してもらえない男と結婚してもいいと思う親はあまりいない。むしろ親の方が結婚相手の経済力を天秤にかけて、そんなやつと一緒になるぐらいなら30過ぎても家にいなさい、とか言って通ってしまう。前も言ったように女性自身の経済力だって、同世代の男に比べて(相対的に)どんどん上がっている。

 昔はそういうとき、無理矢理結婚相手を見つけて世話しようとするおばさんが必ず近所にいたもんだが、最近はそういうお節介な人は特に都会ではめっきり減った。

 あと、僕がこれは見逃せないと思うのは、経済的な側面だけではなく、「結婚生活そのものに対して、親の世代が何の希望も子ども世代に与えていない」ということである。

 団塊世代の夫婦で、夫婦の寝室が一緒だという家庭の割合は2~3割と聞いたことがある。もっと少ないかもしれない。ほとんどの団塊夫婦は家庭内で別居している。別に夫婦仲が悪いからではない。お互い、それぞれでやりたいことがいろいろとあるからだ。妻は地域内での様々な会合やらネットワーク活動に大忙し。収入は減り気味だけど会社の仕事にも余裕が出てきた夫は、若い頃没頭できなかった音楽や芸術などの趣味に没頭。日中忙しい妻と帰宅後の時間を夜中まで楽しみたい夫は、生活時間が合わなくなる。それで、寝室を分ける。

 若い世代はそれを見て「結婚なんて別に意味ないじゃん。一緒の家で暮らしていても、結局お互いのやりたいことやるだけなんだ…」と思う。で、同年代の男性を見ると趣味にとてもついていけない。20代後半~30代前半はできればニートになりたいとか思ったりする、ひきこもりオタク世代だからだ(笑・僕含む)。

 「子どもはほしいけど結婚したくない」という声が多くの女性から上がるのは、「子どもはカワイイから欲しいけど、こんなキモイ男どもと一緒に暮らしたくないよ~」という理由があるからである。というか、親の世代も含めて、趣味に没頭する男というのがたいてい家族関係をないがしろにしてまでそれをやる、ということが分かってるから結婚したくなくなるのだ。

 本音の部分を補えば、今の若い女性の気持ちは「(経済合理性があって趣味もあう、そんな理想の相手がいれば)結婚したい、でも(ニートひきこもりオタクフリーターとかのダメ男とは)安易に結婚したら負けかな、と思ってる」、みたいなところじゃないでしょうか。実は、ニートとまったく同じ構図(笑)。

 さてここからは、あるマーケティング・コンサルタントの受け売り。

 実は、「団塊世代」「シニア世代」の価値観は、人口で約半数を占めるというボリュームも相まって、今や日本人の全世代に波及している。

 シニア世代の最大の特徴は「夫婦子連れ」という、政府や企業の想定してきた標準的世帯像とは異なる「非標準世帯」であることだ。たいていのシニア世代は「親+子1人ずつ」か「独居」という世帯構成である。なぜか。夫婦の場合はほとんど寝室が別で、家庭内で別居状態である。だから2人の「独居者」のいる世帯と考えて良い。

 一方、ニート、カジテツ、老・老介護などのいる家庭は「親+子1人ずつ」の構成だが、この世帯の特徴は「親と子どもに相互甘え関係がある」ことだ。意識が融合していて、お互いに離れられない。そうでない場合には、たいてい依存の相手として子どもの代わりに「ペット」が存在する。こういう家庭では「1週間に娘/息子より、ペットの顔を見る回数の方が断然多い」。つまり子どもがどうしているか、親の側にまったく関心がない。これはむしろ2人の「独居者」家庭と分類した方がいい。

 彼の話によると、首都圏では既に「標準構成」の世帯比率は、全世帯の15%にまで下がってきている。それ以外の家庭は全部「独居」か「親+子依存」のどっちかである。むしろ標準家庭がとうてい「標準」ではないという実態がある。

 この結論として、彼は「30代半ば負け犬女性も20代後半ひきこもり男性も、マーケティング的には全員『シニア』である」と定義する。他人より自分の価値観を優先し、血縁のある家族より癒しを与えてくれるペットを重視する、そういう価値観の人々が世の中の多数を占めるようになったのである。以上、受け売り終わり。

 ここで狭い意味の50歳、60歳以上のおっさんたちが「世間の伝統的な家族の価値観の崩壊はユユシキことだ」とかほざいたところで、若い世代に「アンタそんなこと言うてるけど自分の家で奥さんと別室で寝とるんとちゃうんかい」と言われてしまうとまったく説得力がない。今さらサーヤも結婚できてやっと当たり前の女性になって良かった良かったとかはやしたててみたところで、今さら上の年代がぶっ壊してしまった枠組みが元に戻るようなものではないと思う。だって、それは今の労働人口問題やら経済の合理的な流れをすべて逆回転させたい、というのと同じことだからね。心情的には分かるけど。

 結局のところ、保守的な人たちのもやもやした気持ち(サーヤを見習え!みたいな)を突き詰めていくと、結婚や労働という「我慢」を若い連中に教えろ、ということに集約されると思うのだけれど、上の世代が我慢から解放されて好き放題していながらそれを言うか、という時点でもはや解決策はないのかもしれない。そういう意味で、保守的な方々は若い連中に苦行としての労働を「人間的成長」とか洗脳しつつ教え込んでる楽天やらソフトバンクといった会社をもっと持ち上げるべきだと思いますがね。これは余談。

 で、僕が思うのは「労働か家庭(家事)か」という二者択一に押し込めようとするから誰もが不幸になるんだよね。だったら、第三の選択肢を広げればいいじゃん?ということだ。つまりですね、地方自治体の仕事とか公共機関の仕事を全部解放して、公務員の仕事をみんながパートタイムとか有償ボランティアでできるようにすればいいんだよ。

 そうすれば、家に閉じこめられてる人にとってもちょっとしたお小遣い稼ぎ&社会に貢献する仕事をしたことの証が得られるかもしれないし、適当に人が入れ替わっていくことで、雇用の流動性も高められるし。

 だいたい、今の公務員っていうのは、学校の登下校の行き帰りで旗を振ってるだけのおばさんが年収800万円だとか、理不尽な話が多すぎるんだよね。ニート対策で230億円の予算とか言う前にそこんとこ何とかしなさいってこった。

10:48 午前 経済・政治・国際 コメント (0) トラックバック (4)

2004/11/17

湯川vs切込論争に思う、ネット・ジャーナリズム論の不毛

 湯川鶴章氏@時事通信切込隊長氏との間で、ネットがリアル世論に比肩する世論を形成しうるかという話が議論になっている。「世論形成」の話が議論になっているはず、だったのに論点がだんだんとずれていき、結局「ネットのジャーナリズムはそれ自体として独立した(ネタ振りの)役割を果たせるか」みたいな方向に行き着いてしまった。なんだかなあ。

 議論を見ると、もともとの世論形成のメカニズムについては、さすがに切込隊長のほうが統計や投票行動分析などの知識を持っているだけあって、単なる印象論で語る湯川氏とは議論の精緻さが全然違うと思えた。特に、「世論」という、社会学的に定義すればそもそも狭いメディア業界の枠を超えたところに存在する言葉を、議論のきっかけになった最初のエントリに書いたという時点で湯川氏の論が「甘い」だけのような気がするのだけれどね。

 まあ、彼のブログは「あちこちに議論を誘発する」のが主たる目的なので、議論に勝とうが負けようが「切込隊長が議論を挑んできた」というだけで、既に彼自身の目的は達成されたも同然だと思うわけだが。

 最近、ネットとジャーナリズムの関係みたいな話がやたらと喧しい(それもただネットの側だけで)が、騒ぎ立てている当の本人というのが週刊木村剛みたいなポジショントーク入りまくりの政治的なブログだったり、新潟中越地震の2chソースな告発だったりするので、なんか参戦しようという気になれなかった。

 なぜかというと、今回の湯川vs切込論争を見ても分かるように、そもそも「ジャーナリズム」というものの定義が論者によって相当違う。湯川氏の所属する通信社のように、小さな街ネタから国際政治の先端のスクープまで、あらゆる「1次情報」をかき集めてホールセールするジャーナリズムもあれば、読売、朝日に代表される全国紙のように取材した1次情報を核に自分のパーセプションをちょっとまぶして「1.5次情報」みたいにして小売りするジャーナリズム、1次情報は他紙からもらいつつ地域性やエンタメ性を加味して再構成して小売りする地方紙や夕刊紙、また単純な1次情報ではなく「識者」や「業界関係者」の2次情報も含めて取材し、パーセプションのユニークさで読ませる週刊誌、1次も2次もほとんどよそから借りてきてタダで垂れ流し、広告をくっつけるだけでカネを稼ぐ民放テレビなど、それはそれはたくさんのビジネスモデルがあるわけである。

 それを十派ひとからげに「ジャーナリズム」という言葉でくくって批判したり、ネットと対比したりしようというのは、いくらなんでも暴挙だと僕は思う。で、この手の議論は結局「ジャーナリストの全員がそんな人ではないと信じてほしい」みたいな、小学生の道徳の時間みたいな結論で終わる。きちんとセグメントができてない所以である。しかも湯川氏の論題は「世論」ときた。そもそもビジネスモデルが全然違う企業が無数にある業界の総称なのに、マスコミの言うことが「世論」だなんて、誰が決めましたか?

 実際のところ、マスコミだって日々「世論」を調査したり追いかけたり代弁したりといった努力をしているのだ。「ネット世論は社会の世論に融合するか」なんて表現、「社会の世論=マスコミの論調」と勘違いしてるメディア業界関係者の驕りから出た以外の何物でもないと思うよ。切込氏の言う通り、「世論とは単なる割合の問題」なのだ。

 で、僕がこの議論を見ていて非常に興味深いなあと思ったのは、ここからである。2ちゃんねるのサーバー管理チームの中核でもあった切込氏が、2ちゃんねるとテレビの広告価値を比較して次のように述べている点だ。

 未来永劫という保証はないにせよ、少なくとも向こう5年から10年ぐらいまでは(ネットがジャーナリズムの1つの形に成ることについて)絶望的である。テレビとの比較が出たので考察するが、例えば2ちゃんねるの正味ユーザー数はおよそ200万人から250万人程度である。日本最大級のコミュニティとして成立しているが、その実態は視聴率1.6%程度、GRPにして月間40ポイント程度の代物である。
 しかも、取り扱うべき情報は多岐に渡るため、コミュニティ一個あたりの視聴率は板数200程度の人口密度によって按分される。したがって、2ちゃんねるの限界収益はテレビ業界の標準を考えるならば年間4億円程度である。 (切込隊長ブログ「新聞業界がこの先生きのこるには
   もちろん、ここで切込氏が言っているのは、おそらく非常に単純にバナー広告という無差別なプロモーションのレベルの広告価値のことなので、2ちゃんねるを「クチコミのパブリシティ媒体」に使う場合の価値などは含まれていないだろうと思う。だが、「既存マスコミと同じ土俵に乗ったら、ネットのプレゼンスなんて鼻クソ以下ですよ」というのを、この数字以上にはっきり証明しているものもない。

 だから、湯川氏はあまり表層的なレベル、例えば「世論形成に果たす役割」といったような既存マスコミの作った土俵の上でネットメディアとリアルメディアの優劣を論じるのでなく、ネットがリアルメディアにないどんな機能を持っていて、それを使ってどんなことができるのか、リアルメディアをどう補完すれば「面白い」&「カネになる」のかを論じた方がいいんじゃないか。

 そんなことはこの業界の人間だって皆必死になって朝夕考えていると思われるかもしれないが、まさにこの部分が「ネットの意見を聞かない」マスコミの悪い点で、ネットがすごい勢いで普及しているというのは、誰もが頭では分かっているのだけれど、それが自分たちの既得権益をがしがしと浸食していると感じた瞬間に、ネットをどう取り込むかということよりもネットを無視し、抑圧するという方向に(湯川氏が言うように、特に経営に近い人ほど)舵を切りたがるのだ。

 だから既得権益の浸食よりも、ネットという技術的・意識的なイノベーションを事業にどう取り込むと「面白い」そして「カネになるか」を論証して見せた方がずっと有益なんじゃないか、と僕は思う。それでもワカラン人はワカランというだろうけど、別に経営トップが変わらなくてもミドルクラスだけでも意識が変わってくれば、いろいろと前向きな変化も生まれてくるだろうしね。

 それとあと1つ思うのは、マスコミはもう少しダイレクトマーケティングの重要さを学んだ方がいいということだ。マスコミは未だに圧倒的多数の「不特定」な大衆に情報を届けられることをパワーだと思っている節がある。それはそれで否定しないのだが、一方で「特定」多数の人々の中だけでシェアされている情報が近年どんどん増えていて、しかもマスコミはそのことをまったく知らないということを、もう少し真摯に捉えた方がいい。

 ネットに関して言うと、無料で見られるブログやらニュースサイトやらの世界というのは、実はインターネットのごく一部に過ぎない。ユーザー認証のかかった掲示板や情報サービスには、google先生も教えてくれず、切込隊長も書いてくれない(笑)、もっと密度の濃い価値ある情報が飛び交っている。

 ネットのオープン領域は広告市場が急成長していることもあって皆注目しがちだが、僕は、マスコミ各社はそんなところはどうでもいいと割り切り、むしろ「ユーザー認証」領域でのビジネスモデル構築にもっと必死にならないといけないと思う。端的に言えば、この領域は顧客DBとコンテンツDBを早く、しかも上手に囲い込んだ奴の勝ちである。

 例えば新聞がもしオープンネットの世界で生き残るつもりなら、リアルの新聞もリクルートやぱどのようなフリーペーパーのビジネスモデルに転向すべきだろう。この世界では、既にブログなどの技術はすごい勢いで取り込まれている。例えば「R25」のウェブサイトは、恐らくMovableTypeで実装され、トラックバック機能まで搭載されている。このスピード感がなければ、オープンネットの世界で真正面から戦っていけない。

 もし販売価格をタダにはできないというのなら、とっととオープンネットの領域で戦うことは諦めて、ユーザー認証の領域に参入して2つのDBを死にものぐるいで(ただしなるべく低コストで)囲い込むべきである。収益がどうとか販売チャネルがどうとか言っている場合ではない。でなければマスコミは、ネットに「殺さ」れはしないにせよ、今後市場の収縮の影響をもろに受けることは避けられないだろう。

05:05 午前 メディアとネット コメント (8) トラックバック (1)

2004/11/15

「ニートになりたい僕たち」への反応の感想

 先週の月曜日にアップしたエントリ「ニートになりたい僕たち」が、何やらものすごい反響を呼んだみたいだ。ちょうどasahi.comに、自分もニートになるんじゃないかと思いながら働いている若者のルポ記事が出たタイミングでもあり、それとセットになってブログ界の人たちなら誰でも知っている超有名ニュースブログに次々とリンクが貼られ、それ以外の個人ブログにもたくさん引用された。

 個人的には少々跳ねた「トンデモ論」を書いたつもりだったのだけれど、引用先のブログを見ると「実は私もニートになりたかった」っていうカミングアウト系、「そう言われれば確かにニートってカジテツのことじゃん」という膝打ち系、「ああ~俺達ってやっぱり割を食う世代なのね」というしょぼーん系など、割と肯定的な反応が多かったです。リンクしてくださった方々、どうもありがとうございます。

 で、コメント欄にも何人かの方からレスいただいた。それに答えるふりをしつつ、もう少し真面目な議論をしてみたいと思う。

 まず、aaさんからいただいたコメント。

インターンシップ行ったが、行ったからといってニートは減らないだろう。彼らはインターンシップ自体行こうとする努力をしないのだから。
 既にニートの人たちはインターンシップとか言っても来ないと思うので同意なんだけど、僕が議論していたのは中高生のインターンシップの話で、基本的に強制参加みたいなものの話だから、aaさんのご指摘はちょっと論理がずれている気がする。

 僕の考えるインターンシップがニート対策にならない理由は、まずニート増加の最大の原因が「親が就職を勧めない」ことにあるからだ。このあたりの話は、前回のエントリでも引用したNHKのクロ現を批判する余丁町散人先生のブログあたりが詳しいのでそちらをどうぞ。

 今の20~30代のニート急増は、その親である団塊世代の意識、さらに若い世代特有の、労働をめぐる男女の役割の変化などにあるのであって、そうした社会環境を無視してニート予備軍をむりやりインターンシップにかり出したところで、それほど状況は変わらないと思う。むしろきちんとした方向付け(オリエンテーション)をしないでただ未熟な彼らを労働現場に放り込むだけでは、むしろ「ああ、俺ってこんなに役立たずなんだ」と学生に思わせ、働くことに対する後ろ向きなインパクトを与えて逆にニートを増やしかねないとも言える。

 中高生や大学生のインターンシップを否定するわけじゃないが、それぞれの年齢ごとに「働く現場」を見せることの意味は違うと。ここでは詳しくは述べないが、「ニート対策=インターンシップ」というのは、何やら職業教育のステップというのを踏まえない浅はかな議論のような気がしてしょうがない。

 次、杢さんとjust another neetさんのコメント、

きつい言い方するけど、家事は遊びみたいなもん、主婦はニートみたいなもん、と思っているのは家事をした事のない証拠だし、主夫には向いてないと思うよ。(杢さん)
専業主夫に向いてるとか向いてないとかの話じゃなくて、そもそもそういう適性があるかどうか挑戦して試してみる機会がないって話じゃないですかね。(just another neetさん)

という件。なんていうか、ここには触れてもらいたくなかったというか、この話を考え始めると迷宮に入るんだわ(笑)。ニートを「男カジテツ」って読み替えた瞬間に「それじゃあ家事は価値ある労働じゃないのか」という、これまた僕にとってはアンタッチャブルな議論になってしまうのが半分ぐらい分かってたので。

 これについては、もう何十回もいろいろな文章を書いては消し、消しては書きを繰り返しているが、他人に読ませられるほどのものが書けないでいる。今回も悪戦苦闘してみたがダメだった。

 一言だけ言うとすれば、「ニートになりたい~」で僕は、「男=仕事するべき存在」という日本社会の共同幻想を批判したかった。そのためにあえてああいう書き方をしたのだ。一方で杢さんの書いているような「実は専業主夫は専業主婦より楽だ」という実感も知っていて、男と女に「交換不可能な部分」が存在することについて悩んでいたりもする。要するに、既存の価値観批判以上の「これ」というアイデアが(ぼんやりとしたものなら、ないこともないんだけど)、明確には「ない」のである。

 なので、この議論については、もう少し考えを練ってからまた改めて書きつづりたい。お返事になってないようですみません。

 このほかにも、いろいろと参考になるサイトからのリンクがあった。特に、ニートについての様々な議論は、loveless zeroというブログの11/13のニュースメモが非常によくまとめられているので、さらに多角的に考えたいっていう人はそちらをご訪問いただければ。

 このサイトに大変面白いコラムがあった。ひきこもりとニートを区別するための「退却マップ」というもので、ニートというとよく引き合いに出される労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子氏の4区分などより、こっちのほうがずっとシンプルかつ実感が湧く。つまり分かりやすい。

 ニートの問題に向き合うことは、「働くとは何か」という質問に根本から答えを出すことと同じだ。ここでは、「働かざる者食うべからず」といった伝統的な価値観に基づく説明は一切の意味を持たない。若い人たちは、大人の教えることと実際の現実とがあまりにも矛盾だらけであることを、既に知っているからだ。

 ゆとり教育で教えられたのは「好きなこと、やりたいことの能力を伸ばせば理想の大人になれる」ということだったが、実際は「日常しなければならないことのうちやりたいことなんて1%もなく、嫌なことも必死でやらなければ自分の食い扶持は稼げない」のが現実である。この矛盾に放り込まれた人にとって、大人の価値観に基づいた「働く意味」の説明なんて笑止でしかない。この感情に向き合わない限り、ニートがいなくなることはあり得ないと僕は思う。

01:59 午前 経済・政治・国際 コメント (7) トラックバック (5)

2004/11/11

運命という才能

 「マスコミとコンサルの奴はモラトリアムを続けたいだけだ」と、いとーさんにコメント欄で一刀両断にされたものですから、倒れてもタダじゃ起きないのがポリシー(嘘)の僕としましてはこれも何かネタにしなきゃなぁと。

 そこで引っぱり出してきたのがこれ。故・小此木啓吾著『モラトリアム人間を考える』(中公文庫)。懐かしいね。1980年にブームになり、その後高校・大学の国語の受験問題にも頻繁に引用されるようになったこの本、R30の読者なら、読んだことはなくてもこのタイトルぐらいは聞いたことがあるはず。

 今になって読み返してみて、面白いことに気がつく。

 まず、この本で小此木教授が言っているモラトリアム人間の定義を確認しておくと、「現実原則(Reality Principle)ではなく執行原則(Exective Principle)として環境を理解し、『断念する苦痛に耐える心』(フロイト)のなくなった人間」という意味である。

 彼は決して悪い意味にこの言葉を使っているのではなく、マスメディアが肥大化し、物質文明が発展した結果として、若い人ほど「自分は本来全能であり、目の前の現実はいくらでも変えられる」と考える精神傾向を持つようになったことを指して「モラトリアム」という言葉を使っている。

 面白いなあと思ったのは、本の後半でライフサイクルについて述べた部分で、現代人の職場・仕事への適応問題として「上昇停止症候群」というものを挙げている点だ。実はこの本で述べられていることとまったく同じことを、「極東ブログ」のfinalvent氏が印象的な言葉で11月7日の日記に書いていたことを、思い出した。

人生って中年以降は匿名として消えていくか、権力ゲームのプレーヤーになれるか、の、どっちかで、99%くらいは前者。私もその組。才能の問題もあり運命の問題もあるが、畢竟、才能とは運命だな。
 「モラトリアム人間」の本の中では、一般にこの種の「上昇停止体験」を経て、サラリーマン人生における下降カーブの現実を受け容れる時期を「40代」としている。当時(80年代)、部長から役員、社長へと登る階段のスタートは40代後半、役員の座に就くのは普通50代後半だった。だからその「1%に入れない」という諦めが、99%の人々には40代で訪れたのだ。

 だがどうだろう。恐らく10年後、日本の大企業の社長の3分の1ぐらいは40代になっているに違いない。高くても50代前半か。とすると、1%を選抜する出世レースは遅くとも30代後半、場合によっては30代前半で、ある程度の決着がつくことになる。

 とすれば、小此木教授の言った「上昇停止症候群」は、現在においては40代ではなくまさに30代の精神症状と言ってもいいんじゃないだろうか。経営者の若返りという現象は、銀の匙を加えて入社するわけではないその他大勢のサラリーマンの挫折時期の前倒しという副作用も、当然ながら伴っていたわけだ。

 彼はこの症状の解決法について、「個人心理的な内面の成熟」「それまでに身につけた仕事、職業、役割と何らかの連続性を持つことのできるような仕事、職業、社会とのかかわりを保てるかどうか」「望ましくない仕事をやむを得ず強いられるくらいなら、自分自身の意志で退職し、それまでとの連続性が得られるような仕事、職業を獲得する方が望ましいのではないか」といったようなことを述べている。

 30代の僕らは、まだまだ新しいことを覚えることのできる能力があるという意味で、ここで彼が言っているような「それまでの仕事との連続性」はあまり気にしなくてもいいのかもしれない。だが、「運命という才能」を持たない99%に入る人間であるという自覚を持って、「望ましくない仕事をやむを得ず強いられるより、自分自身の意志でやりたい仕事ができる職場に転ずる」ことを目指すというのも、30代の重要な選択かという気もする。

 やりたい仕事をやれるかどうか、あるいは自らのコントロールできない現実の「苦痛に耐える心」を強いられる程度が多いか少ないかという意味においては、マスコミもコンサルも別に他の職種より特に優位性があるかと言えば、そんなことはない。単に、しがらみだらけで変化対応の遅い会社は世の中の現実に向き合ってない分社員もお気楽、というだけの話で、そういう会社は業績が傾くとエゴ丸出しで消えゆくパイの取り合いという地獄が現出するので、それまでほとんどなかったはずの「自分でコントロールできない現実の苦痛」が、突然急拡大するというデメリットもある。

 マスコミ、コンサルをより「モラトリアム」と思わせるものがあるとすれば、それは単にその社会的イメージという“幻想”の部分に過ぎないんじゃないかと思う。むしろ“幻想”にとらわれて自分が「運命という才能」のない99%であるという現実を直視するのが遅れる分、後々のリカバリーが辛くなるような気がするんだけど。人間万事塞翁が馬の如し

01:57 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (0) トラックバック (0)

2004/11/08

誰か教えて

 このブログにはただの一言も「ゴッ●ル」って言葉を使ってないのに、来訪者の検索ワードに「ゴッ●ル」が入っているのはなぜ??誰か教えて。(つД`;)

12:09 午後 ウェブログ・ココログ関連 コメント (4) トラックバック (0)

ニートになりたい僕たち

 知り合いの社長ブログ(笑)に、「ニートはほんとに問題か」っていうエントリが数日前に出た。IT企業の若い社員が「そもそも正社員って何?」と言っているという話、さもありなん。若い人には、正社員よりニートの方がライフスタイルとしてずっと親近感がある。

 NEET(Not in Employment, Education or Training:無業者)については、NHKが今年5月にクロ現で取り上げてからあちこちのブログで話題が沸騰したわけだが、「ニートなんて良くないよ!みんなちゃんと働かなくっちゃ!」という人の意見も、「ニートを生んだのは日本社会であって、彼らは悪くない」的な意見も、どこかぴんとこない。

 どうしてかなぁとずっと考えていたのだけど、何かもやもやして吹っ切れない。今のところ思いついたことを書きとめておこうと思う。

 率直に言ってしまうと、世の中のおおかたの人とは違って僕は、初めてニートという言葉と概念を聞いたとき「それって、僕のなりたいものなんじゃないか…」と思った(笑)。

 実は以前から人に「将来何を目指しているの?」と聞かれるたびに「専業主夫」と、半ば冗談で答えるようにしているが、この答えを聞いた時の相手の反応が面白い。

 僕より5歳以上年上の人だと、この答えを聞いた瞬間にどう反応すれば良いか分からなくなり、視線が宙をさまよう(笑)。40歳以上の人は特に、無言でも「こいつ、何たるふがいない奴だ」という文字が顔に浮かび上がる。30代前半でも、女性とかリベラルな人は笑った後で「その気持ち、わからんでもないよ」と言ってくれるが、企業社会の価値観にどっぷり浸って生きている人は表情が凍りつく。

 ところが、20代に入ると、男性で「そうですよね、その気持ち分かりますよ!」と激しく同意する人が一気に増える。「僕もそれを目指したい!どうやったらなれるんですか?」などとカミングアウトするやつも出る(笑)。逆に、女性の反応はそれほど変わらない(「その気持ち分かりますよ~」という程度)。つまり、90年代後半の就職超氷河期+企業の大リストラ時代を分岐点として、その前後に社会に出た人、特に男性の価値観が大きく変化していることが分かる。

 それで思ったのだが、そもそもニートってこれまで家事手伝い、俗に言う「カジテツ」って呼ばれていた女性の生き方と同じじゃねーのか。あるいは「仕事もせず学校にも行かず職業訓練もしていない」って、それ専業主婦のことじゃねーの?そういえば女性のニートって、今まで聞いたことないし。

 そっか、要するに結婚してない無職男性がカジテツって自称できないからニートなんだね。女性は結婚せず仕事もしなくてもカジテツかよ。男でもカジテツって呼べよ!とか思うのは僕だけだろうか。

 つまり、僕がニートという言葉に何かもやもやしたものを感じていた理由というのは、この言葉自体が「いい年した男性は結婚して働いているべきだ」という社会的偏見をたっぷりと含んでいるからじゃないのか。

 今20代~30代前半の男性が企業で一生懸命働く動機付け要因は、これからどんどん減っていくと僕は考えている。なぜか。能力主義、成果主義人事制度導入で、企業の中で一番割りを食うのがこの世代だからだ。

 成果主義人事は一般にろくに働かない中高年管理職の年俸を下げるのが目的と言われているが、それは嘘だと思う。なぜなら、年俸切り下げのターゲットが中高年管理職であるのは事実だが、同時にこの人々はそれなりに社内政治力も持ち合わせており、制度導入の際にいろいろな「経過措置」なるものを付け加えて定年まで逃げ切る仕掛けを埋め込むからだ。

 そこで実際の人件費削減の原資は、社内政治の右も左も分からない20~30代前半までの若い連中の(主に将来の)給料からひねり出されることになる。大手企業で成果主義を導入しているところを見れば、だいたいそうだ。で、新卒採用を大幅に絞り込んで現存する若手社員の昇級を抑制し、極限までこき使う。音を上げて辞めるやつが出ても会社は全然困らない。給料の高い正社員が減れば、その分をパートや派遣で補ってお釣りが来るからだ。

 というわけで若いやつほど割りを食うのだが、この中で唯一割りを食わない人種がいる。それは、主に20代後半~30代の女性正社員である。

 既にパートや派遣に切り替わっている人は別だが、この年代の女性正社員は大手企業にとって極めて貴重な存在だ。というのも、上場企業中心に強まるCSR(企業の社会的責任)重視の風潮の中、「雇用」の分野でもっとも注目される指標が「女性管理職の比率」だからだ。

 CSRの評価を上げるためには、何が何でも同業他社より女性管理職の比率を高めなければならない。しかし、管理職にできる女性はいるか?社内を見回した時に、40代以上で生き残っているのはあくが強すぎ、20代では心許なさすぎる。となると、30代女性正社員をどこまで囲い込み、マネジャーに育てていくかが最大の課題ということに気がつく。

 だから、企業は若手社員をいじめても、30代女性だけは「幹部候補」というプロテクションをかけて守る。これまで女性採用数の少なかった企業では、この枠が20代後半ぐらいまで降りてくるかもしれない。したがって、20代後半~30代では正社員に限れば男性より女性の待遇のほうが良くなってくるところが増える。

 となると、普通の男性が無理して働く意味はますますなくなる。これまでの女性と男性の社会的役割が、この年代に限ってはひっくり返っているだけなのだ。だから今働いていても、本音では「結婚したら退職したい」とか「親と同居できるなら仕事はパートでもいい」とか考えている男性は多いと思う。

 余丁町散人氏がブログで書いているように、今の20代~30代前半は、団塊世代の親の生き様から大きな影響を受けている。その影響とは「(民間企業で)働くことに対するイメージダウン」であると同時に「労働から解放されて井戸端会議に高じていられる(専業主婦という)身分の(特に老後を迎えてからの)圧倒的優位性」である。成果主義人事という企業の非情な仕打ちを受けて、「何でここで歯を食いしばらなきゃいけないの?嫌だったら専業主夫やカジテツになればいいじゃん」と考える男性が増えるのは、団塊世代の経験を踏まえた、ある意味必然的な帰結ではないだろうか。

 だから、僕個人は「ニートを減らすために中学・高校でのインターンシップを拡充しよう」といった話が出るたびに、「別にそんなことしなくてもええじゃん」という気持ちになる。

 それより、男手だけでも子育てできるぐらい育児環境の整った社会を作れば、ばりばり働きたい女性がもっと増えて企業のCSRにもプラスになるし、『家庭内の大黒柱は男でも女でもいい』っていう社会常識もできるんじゃないの?そしたら無職男性も『カジテツ』とか『センギョー』って呼ばれるようになって、ニートって言葉は自然消滅するよと思うんだけど、どうでしょうかね。

10:30 午前 経済・政治・国際 コメント (60) トラックバック (76)

2004/11/06

続・10年後のマンション価格

注)このエントリは08/11/2004 09:10:53 AMにアップしたものを日付だけ変えてそのまま再録しました、URLは変わっています。リンクされていた方はリンク先変更をお願いします。
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 昨日(といっても数時間前)に書いた、マンションの価値評価の続き。自宅用としてマンションを賃貸でなくわざわざ「買う」人にとっての価値とは何か、10年後に価値の下がらないマンションとは何かというお話です。

 前のエントリでも書いたように、もしこれからの人生に転勤や失業といった“不測の事態”が起きる可能性があって、しかも特定の地域に住み続けなければならないという縛りのない人(独身者とか片方が無職の子なし夫婦とか)だったら、住みたい場所を賃貸で借りて住んでいればいいだけのことだ。

 かつては賃貸住宅は分譲住宅に比べて品質が悪いとか言われていたが、公団(都市再生機構)の最近の賃貸マンションには一昔前の分譲並みクオリティーのものだってあるし、定期借家権制度の普及で、購入した分譲マンションや戸建て住宅が2~3年の短期で貸しに出されるケースも増えてきた。ライフスタイルに合わせて家を住み替えたいという人にとって、賃貸住宅の選択肢は確実に広がっている。

 ではなぜ人はマンションを買うのか。それは、ライフスタイルに合わせて賃貸を住み替えることでは解決できない問題があるからだ。

 今どきマンションを買う人というのは、大きく以下の3種類に分かれると僕は思う。

  1. 子育て中の30代ファミリー
  2. 結婚相手の代わりに自分の根城がほしい30~40代独身女性
  3. 第2の人生のための家がほしい50~60代定年退職夫婦
 昔なら2.の層(俗に言う「負け犬」)は一定年齢が経過した時点で親族によって田舎に強制的に引き戻され結婚相手を引き合わされたりしたものだが、最近はマンション1棟まるごとこういう人たちが買うところもあるほど“顧客層”として厚くなってきた。一方3.の人々も、60歳の定年から後の人生がまだ30年も残っていることをはっきりと意識し、自分の築いた資産を次世代ではなく自分のために使い切ることを決意した、戦後初めて現れた人種である。

 2.と3.はどちらも、山手線内側の都心マンションが飛ぶように売れる「都心回帰」現象の原動力である。だが「これらの人々(とその需要)は、10年後もある(orさらに強まっている)と思うか?」と問われれば、「分からない」としか答えようがない。何しろ、バブル崩壊で地価が20年前の水準にまで下がると同時に、含み益重視からキャッシュフロー重視へと経営の舵を大きく切った日本企業の保有地放出が相次ぐという環境要因が2つ重なったところに現れた、これまでに類のない人生の価値観を持つ人々だからだ。

 彼らが一時的に都心のマンションの需要を増やし、価格をつり上げてプチバブルを演出しつつも時代のあだ花で終わるのか、それともこういう社会構造がますます強まるのか、予測は不可能だ。彼ら自身も、自分がマンションを買って10年後にどうなっているか、正直なところ分からないだろう。ただ、現状に対する漠とした不安と、万が一のときにも生活の支えとなる資産を持っておきたいという気持ちが、YW曰く“資産価値のある”都心マンションの購入に彼らを走らせるのである。

 個人的な(そして不吉な)直観を言っておくと、2.と3.のこうした投資は一部を除き「失敗」に終わるのではないかという気がしてならない。あくまで直観なので明確な根拠はないけれども、本質的にどちらの層も「しっかりした計画があれば買わなくてもいいもの」を買っているという点で、需要(つまり価格)が実態以上にかさ上げされているように見えるからだ。かさ上げの実態が見えた時点でバブルは必ず弾ける。

 それに対して、(1)の顧客というのは今も昔も伝統的な住宅1次取得者層である。自分も含めてこの層の住宅取得動機は明確だ。「子供が育っていくに連れて間取りを増やす必要が生まれるなど、数年単位でライフスタイルの変化が生じる。しかし子供の教育環境を考えると、頻繁な転居はしたくない。少なくとも子供が中学か高校を卒業するまでの15~20年は居住地域を固定したい」というものだ。

 つまり、自分のライフスタイルに合わせて家を「住み替える」のではなく、「つくり変える」ことを希望するからこそ、マンションの賃貸でなく購入を選ぶのである。

 都心マンションの10年後の価格がどうなっているかはさておき、こうした「子育てのために居住地を固定したい」という顧客層にとってのマンションの価値とは何だろうか。マンションそのものに付随するハード的価値(ライフスタイルに合わせた間取り変更などのリフォームのしやすさ、設備や躯体の耐久性etc.)を除けば、それはおそらく公共交通へのアクセス利便性などと並び、いやそれ以上に「その地域の教育環境」が重要な価値になると思う。

 教育なんてどこに住んだって変わらないんじゃ?とか言ってる場合じゃない。10年後を予測するカギとなるのが、今総務省主導で見直しが進んでいる地方財政改革の中の「義務教育に対する国庫負担金廃止」(リンク先はまとめサイト)である。

 義務教育国庫負担金というのは、市町村立学校(主に小中学校)の教職員給与の半分を国が負担する制度のことだ。これが廃止されて地方自治体(実質的には市町村)に財源が委譲されれば、教育にカネをかける自治体とそうでない自治体の差がはっきりと出る。

 これまで、公教育というのは日本全国どこで受けようが同じ、というのが建前だった。実際には教員によって当たり外れがあるとかいろいろ言われてきたが、それでも学習指導要領に縛られた授業内容は、全国共通のものだった。

 しかし、2002年に文科省はゆとり教育に対する批判から、「学習指導要領は最低基準」と方針を翻し、今年の教科書からは指導要領を超える内容を盛り込んだものがほぼ全教科で登場している。つまり、公教育に明確な学校格差が生まれ始めたのだ。このことは、小学生の通信教育最大手の「進研ゼミ」のコース内容の変化や、1対1や2対1の個別指導を軸にしたIE一橋学院のような学習塾が急速に業績を伸ばしていることからも伺える。小中学校での全国共通、あるいは都道府県ごとに共通のカリキュラムというルールは既に崩壊しているのだ。

 となると、公教育にカネをふんだんに使うと宣言している自治体に住まいを構えることは、それだけでカネに代えられない「居住のメリット」を得ることに等しい。あえて金額換算するなら、小中学校の9年間を一定レベルの私学に通わせるのにかかるコストと公立に通わせるコストとの差額(こちらのサイトによると、約660万円)が、そのメリットと言えるだろう。つまり、公教育にカネを使っている自治体内のマンションは、それ以外の条件が同等の他の自治体の不動産に比べて子供1人当たり660万円分は高くてもいいことになる。

 こうした観点から見て、現時点で首都圏でマンションを「買って」でも住むに値する自治体は、「ハタザクラプラン教育特区」で少人数教育を始めようとしている埼玉県志木市、小中学校へのチーム・ティーチング用教員の増員を100%市費で賄っている千葉県浦安市、1学級20人台の小学校を研究指定校内に設置した神奈川県の一部地域などだろう。ちなみに、文科省の調査に対し「少人数学級実施の希望校はない」と返答し、知事自ら「教育にはスケールメリットが必要である」などと意味の分からない発言をくり返している東京都には、間違ってもマンションを買ってはいけない(笑)。

 そして、長期的にはこうした公教育の改革が行われていくかどうかは、その地域の住民の教育への意識が高いかどうかに依存する部分が大きい。インターネットで「少人数学級」などのキーワードで検索して、住民のつくったサイトがひっかかってくるような地域は、マンション購入の条件を満たす可能性が高いと言えるだろう。

 端的に言えば、今後10年はこういう「地方自治体のソフトパワー」が、地域の不動産価格だけでなく、あらゆる意味の生活インフラに大きな差をつけるようになると僕は思う。だから、10年後に価値の下がらないマンションはどこですか、と聞かれたら、僕はこう答えるだろう。「今いる住民の自治意識が高い地域を選びなさい」と。住民のコミュニティーの強度が、ハードの資産価値を左右する時代が、もう目の前まで迫っているのである。

10:35 午前 経済・政治・国際 コメント (2) トラックバック (3)

10年後のマンション価格

注)このエントリは08/10/2004 11:32:55 PMにアップしたものを日付だけ変えてそのまま再録しましたが、URLは変わっています。リンクされていた方はリンク先変更をお願いします。
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 8月22日号のYomiuri Weeklyに「東西430駅マンション10年後の価格」という特集が載っていた。最近、住宅に関心を持っているので買って読んでみたが、例によってYWの空砲だった。不動産評価会社、東京カンテイのマンション売買データをもとに、「10年後に値下がりしにくいマンション」の駅を上位100駅までランキングしたというものだ。

 結論から言うと「下らない」の一言に尽きる。なぜかというと、10年後の価格下落率の予想方法というのが、「現在の新築価格と中古流通価格の単位面積当たりの差を求め、それを中古物件の築年数で割り、1年当たりの減価額の10倍を新築物件の単位面積当たり価格で割る」というものだからだ。

 要するに、単純に過去10年のマンション価格の変動を「年ごとに一定率減価していく」と仮定して、それを新築マンションの価格に乗じて10年後の相場予想を出しただけなのである。

 あほらしい。中古マンションの価格が年ごとに一定率減価するなんて、10年たったら価値がなくなる自動車じゃあるまいし。最近のマンションは、メンテナンスさえちゃんとしていれば躯体寿命は100年である。10年で15%価格下落する地域のマンションは、50年経ったら4分の1の価格ですか。そんなことありえない。

 ま、東京カンテイというデータ屋さんのウリはこの計算方法の分かりやすさにあるわけで、こういうサルみたいな計算式が日本のあらゆる町の不動産屋ほぼ100%に採用されている限り、こういう頭の悪い雑誌の特集もなくならないのでしょう。

 ちなみにランキングの上位10駅は、1位田園調布、2位光が丘、3位品川、4位御獄山、5位吉祥寺、6位月島、7位新浦安、8位平井、9位若葉台、10位代官山。

 分かる人には分かるが、これらの駅はすべて過去10年以内に鉄道の新線が開通した地域か、大規模な地区再開発が実施されたところである。田園調布、御獄山は地下鉄南北線の東急線乗り入れと、東横線複々線化。光が丘、月島は都営大江戸線。若葉台は小田急の新駅開通(予定)。品川、平井、代官山はそれぞれ大規模な(再)開発が行われた地域だ。新浦安は少し古いが90年の京葉線開通に加え、今も海辺の埋め立て地で継続的に住宅・商業地の開発が進んでいる。吉祥寺だけがよく分からないが、ここも駅周辺の商業施設の充実があるのだろう。

 だから本当に「10年後に価格が下がらないマンション」を言い当てたいなら、地域に今後大規模な再開発が起こりそうな、あるいは新線が開通して交通の便が劇的に向上しそうな場所を選ぶべきだろう。今なら、ゆりかもめが再来年に延伸する豊洲とか、有楽町線が延伸する住吉とかの駅まで数分以内のマンションが「お買い得」だと思う。本当に10年後にキャピタルゲインを狙ってマンションを買おうという人は、そういうところを買えばいい。

 だが、マンションを買うのは別に投資家ばかりではなく、むしろ自宅として購入する人の方が多いはずだ。YWのランキングは単に「過去10年余りの間にマンションを買って大損しなかった人の多い地域ランキング」なだけで、今後10年間のマンションの価格変動とは何の関係もないものだが、さらに言うなら「値下がり率」という投資の尺度だけでランキングしているという点で、投資用ではなく自宅用にマンションを購入する人にとっては、二重の意味で何の指針にもならない。

 YWの記事には、「先行き不透明な時代、人生に何が起きるか分からない。不測の事態に備え、将来も値崩れしにくく、高く売れ、人に貸しても高い賃料が取れる物件を買うことが重要」と書かれているが、もし住み替えが必要になるような「不測の事態」があり得る人生ならば、そもそもマンションなど買うべきではなく、賃貸マンションに住んでいればいいのである。

 実際にマンションを「買う」人には、人生に「不測の事態」が起こってそこに引き続き住めなくなるリスクも負ってでも、マンションを「買わなければならない」理由がある。ならばなぜその「理由」をもとに将来の不動産の価値を評価しないのだろうか。

 僕には、10年後にこれが住宅用不動産(主にマンション)の価値を決めるだろうと思われる、決定的な評価軸のイメージがある。ただ、これについて語り始めるとまた長くなるので、続きは次のエントリで。

10:25 午前 経済・政治・国際 コメント (1) トラックバック (0)

2004/11/05

メディア・アートとは何か-「ART WIRED」イベントレビュー

 「メディア・アートとは何か?」という問いは、二重の意味で難問である。「アートとは何か」という、素朴だが非常に難しい問いの上に、「メディア」という言葉が引き起こす意味の限定・拡張が行われる。そしてその答えは、どんどんファイン・アートの定義からかけ離れ、ずれていってしまう。

 10月29日(金)、多摩美術大学上野毛キャンパスで行われた『ART WIRED-アートとテクノロジーが可能にする表現の最先端』という講演を見に行ってきた。この講演はリンク先を見てもらえば分かるが、アジア欧州財団(ASEF)という文化交流団体と、東京で現代アートのネットワーク・人材育成を進めるNPO「アーツ・イニシアティブ・トウキョウ(AIT)」の共催した、アーティストキャンプの一環として行われたものだ。

 29日の講演はそのプログラムの1つだったが、メディア・アート界では恐らく世界最大のイベントであるオーストリア・リンツの「アルス・エレクトロニカ(Ars Electronica)」からゲルフリート・シュトッカー(Gerfried Stocker)共同ディレクターを、そして日本からは早大文学部教授でUCLAの客員研究員でもある草原真知子氏を招いてのプレゼンテーションがあった。

 何が面白かったかといって、タイトルが「アートとテクノロジーが可能にする表現の最先端」であるにもかかわらず、そういう内容はほとんど俎上に乗らず、ただひたすら冒頭に述べたような問いが2人の講演者、そして参加者の間で交わされる議論の論点がずれていく、その噛み合わない様子が面白かった(笑)。以下に簡単に講演者の話を要約する。

シュトッカー氏:
延々とArs Electronicaの歴史や概要についてビデオ映像を見せながら説明。「もともと、リンツ市に電子産業を振興する際、企業誘致だけでなく文化振興も必要だという発想から技術者とデザイナー、科学者とアーティストが集まって楽しむ場を設けたのが始まり」

「今、デジタル/メディア・アートは『コンピューターを用いる』という以外に共通点のない、様々なジャンル(アニメ、ネットワーク、ミュージック、コミュニティなど)に分かれて発展している。フェスティバルのテーマも、監視社会(98年)、遺伝子工学とリプロダクション(2001年)などに広がっている」

「Ars ElectronicaにはFuture Labという研究センターがあり、ここでは欧州の企業とアーティストのコラボレーションが試みられている。例えばSIEMENSのカーナビゲーションシステムのインターフェイス開発チームにアーティストたちがアイデアを提供するなどの成功事例も出てきた」

「メディアアートにかかわる人たちには、ぜひそういう(企業とのコラボなどの)試みにも挑戦してほしい」

草原氏:
最初に「日本のアートには、(欧米で重視される)テクノロジーへの批評/批判のニュアンスが含まれていないと批判されるが、本当にそうなのか?また、それではいけないのか?」というテーゼをスライドで大写し。その後、江戸時代の浮世絵、民芸品などの写真を見せながら話し始める。「これら日本の伝統的なアートやクラフトには、欧米のアーティストも注目して取り入れた画期的な表現技法が含まれていた。現代日本のメディア・アーティストにも、こうした道具や部品(Device)といったものへのこだわりが脈々と流れている」

現代日本のアート作品を列挙する。その中に、明和電機が登場。ごていねいに会社の由来と社歌演奏風景までビデオで上映。「明和電機は日本の中小企業をパロったアートユニットで、彼の作品は吉本興業を通じて商品化され、秋葉原で実際に売られているほどである」。店頭に陳列されている魚コードノックマンビットマンの写真が大写し。「そしてエンタテインメント企業である吉本興業に所属するというのが、彼らのような日本の現代メディア・アーティストの1つの方法論である」

「こうした日本のツールに対するアーティスティックなこだわり、いわば“Device Art”(部品芸術?)とでもいうべきスタイルは、DeviceとArtという2つの矛盾する概念を結びつけ、科学や技術をアートとして扱っているとは言えないだろうか」

 この2つのプレゼンテーションが終わったとたん、会場の参加者(主に海外から来日してキャンプに参加しているアーティスト志望の学生たち)からものすごい勢いで発言が始まった。

 欧州から来たと見られる学生は草原氏に向かって「貴方のプレゼンテーションを見て、私はあまり知りたくないことを知ってしまった気がする。日本のアーティストは欧米のアートに似せたものを作ってはいるが、それは単に面白ければいいというふうになっているだけだと思う。日本にアートはないと思った」と発言。

 これに対して、草原氏ではなくシュトッカー氏が「クサハラの提示は個別のアートの是非を問うているのではなく、日本という文化的伝統の中での位置づけから見た時の日本の現代メディア・アートの位置づけを提示している。欧米的な、問題意識や批判がなければアートではないといった“安全な場所”、“古い見方”からは抜け出すことを考えなければならない」と反論した。

 その後、オーディエンスで参加していた岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーの坂根厳夫名誉学長が「日本のアートがアートではないとは思わないが、明和電機を始め視野の狭いエンタテイメント的なアートだけが日本のメディア・アートではない。もっとサイエンス・アートのような作品や作者を海外に紹介し、アートが問題提起する“社会”を、世界規模で捉えていくことが必要ではないか」と発言。

 だがその後も学生と講演者の間で(途中から面倒くさくなって通訳を使わず、全員が英語で)「あれはアートじゃない」「いや、アートだ」といった不毛のやり取りが交わされ、時間が来てお開きに。

 個人的な感想を言うと、「ファイン・アートに比べて、メディア・アートっていうのはアートの中では“不純”なんだね~」ということだった。だからこそ、それぞれの発言者の論点がずれる。シュトッカー氏は「メディア・アートは町おこしから企業の新製品開発にまで経済効果を発揮するんだよ」としきりに強調し、草原氏は浮世絵というファイン・アートと柳宗悦の民芸のような工芸と、明和電機という「レトロモダンによる社会批判」とをごっちゃにしている。そして、欧州からの学生は相変わらず「アートは社会批評たるべし」という欧米的な鉄のテーゼを乗り越えられない。

 メディア・アートとは何か、というずばりその話を聞きたくて参加した僕としては、問題の核心からずっと離れたところをみんなが遠巻きにして走り回っている光景を見たようで、奇妙な印象だった。もっとも、その走り回り方を見ていると、彼らが踏みこまない「メディア・アートの本質」の部分とは何かがだんだん見えてくる、という意味ではそれなりにためになったんだけれども。

 講演の後の懇談会でオーディエンスだった武蔵野美術大学の講師の人と立ち話していたのだが、もしメディア・アートが「テクノロジーやサイエンスと人間の関係を考えさせる」という問題提起にあるならば、日本では明和電機よりも八谷和彦の「ポストペット」などを例示したほうが良かっただろうという話になった。ポストペットは、「書いた通りの文面を正確に素早く相手に届ける」というメールソフトの社会的役割を転覆しようという試みだからだ、というのがその先生の言い分である。

 草原氏はたぶん、明和電機を2003年のArs Electronicaでインタラクティブ部門の準グランプリ賞を取ったアーティストとして紹介したのだろうけれど、魚コードやノックマンは彼らのアート活動の中では「吉本で食っていくため」の枝葉に過ぎない。というか、アーティストが吉本に所属しようがソニーに所属しようが独立でいようが、それはメディア・アートの本質とは関係ないと明言しておくべきだったと思う。

 しかし、最後まで「これは僕にとってはアートじゃない!」と叫んでいた欧州からの学生、彼はシュトッカー氏のコメントをどう受け止めているのだろうか。僕にとっての驚きは、欧米のアートディレクターにもああいう頭の柔らかい人がいるのだと知ったことだ。

 もっとも、欧米には「アートとは社会批判であるべし」という2000年以上にわたって維持されてきた堅固なイデアがあるからこそ、それに立ち向かう現代アートに衝撃が感じられるわけだが、そういうイデアが全然ない日本人にとっては、どんなアートが出てきても「遊べる?楽しい?」のレベル(坂根氏の言う「生活レベル」)だけで価値判断されてしまうという意味で、アーティストにとって“やりがい”の感じられない国なのかも知れないよね。

12:40 午後 文化・芸術 コメント (3) トラックバック (3)

2004/11/03

書評:「ビジネス・エシックス」

ビジネス・エシックス 1ヶ月以上も書かないとネタが大量にたまってしまうのだけれど、とりあえず書評から始めよう。最近気になっていたテーマ「ビジネス・エシックス(Business Ethics:経営倫理学)」で少し手ごろそうな本を見つけたので、手にとって読んでみた。「ビジネス・エシックス」(塩原俊彦著・講談社現代新書)。なぜこのテーマかというと、これが海外のMBAコースでは必ずといっていいほど履修科目になっており、日本のビジネススクールなどでもやらなきゃね、的な議論が起こっているという話を耳にしたからだ。

 読んでみた感想を一言で言うと(Amazonのレビューにも書かれているが)、これはお手軽なMBA的ビジネス・エシックスの入門書ではない。なぜ今米国でビジネス・エシックスの必要性が叫ばれており、しかるにビジネス・エシックスとはどういう学問なのかを根本から解き明かそうとしているからだ。

 僕がこの本を手に取った時に期待したことも、まさにそういった根本的な解説であって、別にエンロンがあーだとかワールドコムがどーたらといった、大前研一大先生の言うような「こんなことデキるビジネスマンの常識だぞ」的ご託ではなかったので、とっても満足できたと言っていい。むしろ、世の中の多くの人は「そんなこと知りたかないよ」って思うんだろうけどね(笑)。

 まあいい。で、そのミソの部分を惜しげもなく(あるいは誤解を恐れずに)強烈に要約してしまうと、少々長くなるけどこういうことだ。

 米国のMBAでビジネス・エシックスが必須科目とされているのは、別にエンロンやワールドコムの不正経理事件があったからだったり、そのせいでサーベンス・オクスリー法が成立したからではない。日本で「大企業の取締役になるのに、商法を知ってるのは当たり前でしょ」といった程度の、ビジネスマン(なかんずく経営者)にとっての“常識”の範疇の話だからである。

 なぜか。実はその本質的な理由は、日本しか知らないビジネスマンには絶対想像できない、米国の「契約」にまつわる法律の構造にある。日本(や欧州、すなわち大陸法の国々)では、契約というのは例えば、「AさんとBさんがモノを売り買いする約束をしました」=「AさんはBさんにモノを渡し、その代わりBさんはAさんに代金分の“債務履行の義務”を負う」という一連の関係ができることを指す。ところが米国の法律では、AさんとBさんの間の売買契約とは「AさんがBさんにモノを渡す」というのと「BさんはAさんにお金を払う」という、2つの約束から成ると考える。

 まあ、モノの売買契約だと「何が違うの?」という感じだが、これが雇用から株式会社の仕組みまであらゆることに展開されるのだ。米国では、労働者と企業の関係は基本的に「随意雇用」であり、気にくわない社員は理由もなくいつでもどこでも解雇できる。だって雇用とは「言われたことやる」+「給料やる」の2つの約束に過ぎないから。株主と取締役の関係もしかり。「経営任せる」+「株価or配当で儲けさせる」の2つの約束だから。俺が辞めた後に会社が潰れようが社員が路頭に迷おうが知るもんかい、と。

 なぜこんな(日本人に言わせりゃ極端な)法律が正しいとされてきたのかと言えば、資本主義の原則として「労働者にはいつでも別の企業に転職する権利がある」「株主は取締役をいつでもクビにする権利がある」からだ。つまり「嫌なら、辞めてもらっていいんですよ」ってやつである。

 誤解を恐れず言えば、米国というのは「政府と国民」の間には人権があったが、「企業と従業員」の間にはつい最近まで(今も一部で)人権はなかったのである。これに比べれば、日本のサラリーマンなんて長時間残業はあるけど社内外で上司や会社の愚痴言うわ(=表現の自由)、決められた以外のことも平気で首突っ込むわ(=知る権利)、でもクビにもならず(=働く権利)といった案配で、基本的人権を謳歌しまくりなのだ。

 米国の契約概念は資本主義の理想状態ではあるが、現実の社会はそうではない。労働者も、別に日本だけじゃなくて、米国だってそう簡単にほいほい転職できるものではないし、転職が決まるまでの自分や家族の精神的な負担だって大きい。つまり労働者側の不利を想定せずにこうした対等な契約だけで物事を決めちゃいかんだろ、という声が米国でもこの20年ほどの間に高まり続けてきた。

 個人情報保護とかセクシャル・ハラスメントとかアファーマティブ・アクションとかコンパラブル・ワース(別の職種でも職務価値が同じなら給与水準は同等でなければならないという考え。主に男女の給与格差解消を指す)といった最近日本でも流行の言葉の数々は、みーんなこうした「企業の人権蹂躙やりたい放題」を止めさせるというコンセプトから生まれてきたものだ。日本ではそのへんの悲惨な歴史が全く理解されず、職場で絶大な権限を誇るお局OLが気の弱い部長を「セクハラですよ!」とか怒鳴り上げてたりする。まったくもって本末転倒である(笑)。

 そしてもう1つ、契約オンリーの発想が起こした大事件というのが、エンロンやワールドコムだった。GEを引退したジャック・ウェルチが数百億円もの退職金を受け取ったと非難されたのも、この流れの中でのことだ。つまり「辞めた後なら企業がどうなってもいいのか」という問題である。単にインサイダー取引どーたらの話ではない。

 こうした、2つの片務的な“約束”の対に過ぎない米国的「契約」を補う概念として、もともと米国にあり、最近になって重要性が増して来たのが「信認関係(fiduciary relationship)」という考え方だ。例えば、会社は労働者を雇う時、彼らがクビになってもすんなり別の雇用が決まるわけじゃないんだから、解雇する(=圧倒的に強い)立場の企業は、従業員からの信認に応える相応の義務があります、というものだ。株主との関係について言えば、圧倒的にたくさんの情報を持つ取締役は、利益さえ上げれば好き勝手経営していいわけじゃなくて、ちゃんと株主からの信認に応える義務があります、ということになる。

 で、この「米国流契約」の概念だけではカバーしきれない部分の「信認されたものの義務」というのが何であるか、どの程度法的に「義務あり!」とされるかを学ぶのが、ビジネス・エシックスという学問なのである。その1つである、株主に対して、つまり「コーポレート・ガバナンス(企業統治)」に関する「義務」の追加内容が、2002年に成立したサーベンス・オクスリー法だったりするわけだ。

 長々と説明したが、要するに要するに、ビジネス・エシックスというのは、たとえて言うなら日本人が大企業の取締役になる前に商法のイロハぐらい一応知っておきなさいよね、と言われるレベルに過ぎないのだ(と僕は理解した)。なーんだ。そう、なーんだ、なのである。MBAだからってビビらない!これ鉄則(笑)。まあ、もちろん日本で商法をきちんと理解して取締役になってる人なんて大企業にさえどれだけいるんだろうかと思うし、ましてや米国のビジネス・エシックスまで理解して取締役になっているグローバル企業の役員なんてほとんどおらんやろうね。そういう意味では、米国がビジネス・エシックスを今頃叫ぶのをあざ笑うのは、目くそ鼻くそ以下のレベルの話ではある。

 特に僕も不満を感じていたことだが、日本のほとんど唯一の経済メディアである日経新聞が、この件については偉大なる「反面教師」になってしまったため、正面からビジネス・エシックスとは何であるかを論じる経済系のマスコミ人がいなくなってしまった。だから、いっこうにビジネス・エシックスについての本質的理解が進まない。で、これが分からないということは、前述したような様々な企業に対する規制や運動の意味も分からないということになってしまったのだ。

 本書の著者の塩原教授は、実はもともと日経新聞の記者だったようで、米国のビジネス・エシックスがどのような背景のもとに成り立っているのかを解説した後で、日経新聞の例の事件(TCワークス問題)に題材を取りつつ、日本でビジネス・エシックスがいかに成り立ち難いものかを説明している。このへんの解説が、文章の行間から溢れてくる彼の出身企業に対する思いが読めて、なかなか面白い。

 だが、著者はやはり大学教授という身分ゆえか、結論として「日本のビジネス・エシックスは米国の制度を輸入してくるだけではやはりダメで、日本のビジネスマン1人ひとりの意識が自立した“主体的個人”に変わらなければ始まらない」と述べて終わっている。そもそも法律体系がまったく違うにもかかわらず、国民全員が米国式「契約」の主体になるだとか、カントの言う「自らの不自由を意識した自由な個人」になるなんてことはあり得ないわけで、さすがにこの結論だけはそんな無茶な、というほかない。というわけで、この本は「実用書」ではありません、という書評になってしまうわけだ。

 でもそれで終わっちゃつまらない。ここで、R30なりの実用的「誤読の可能性」に挑戦してみる。

 塩原氏は「日本には主体的個人同士の契約概念がないから、その不備を補う信認の概念も理解しようがない、したがってビジネス・エシックスは日本には根付かない」と結論づけるが、実際のビジネスの現場ではむしろ逆のことが起きているんじゃないか。

 日本は、むしろ顧客との関係の部分でこうした売買の“契約”から一歩進んだ“信認”の概念がかなり早くからシステマティックに導入されてきたように思う。米国と違って、日本の顧客には商品の不良が買った後(あるいは保証期間が切れた後)で分かったとしても、店側の「これは売買契約が切れた後ですからお客様がご自分で対処なさるべきです」といった筋論が通らない。「お前ンとこが売りつけた商品だろ!お前ンとこで何とかしろ!」という話になる。

 で、この(米国であれば「アホ」の一言で一蹴される)難癖を、企業の側もしたたかにシステム化することで、顧客と「売買契約」でなく「信認」の関係を築く仕掛けを作り上げてきた。その端的な例が家電量販店がよくやる「保証期間延長サービス」であったりするわけだ。顧客も、モノを買うたびに契約契約言われるのがめんどくさいので、こういう「私どもにただお任せ下さい」的な、無条件の信認関係を作って迎えてくれる企業の懐に喜んで落ちる。

 消費が「モノ」ではなく「コト」つまりサービスやソフト中心の時代になってきて、この傾向はますます強まっている。そして、消費者と契約ではなく信認の間柄になることは、企業にとってもメリットが大きい。というのは、いったん信認関係を結んでくれた顧客は、継続的に企業にコミットしてくれるからだ。

 実はこれは、もともと日本的経営の中で最大限のメリットを生み出してきた「終身雇用」という仕組みのアナロジーでもある。成果主義導入を声高に叫ぶ昨今の企業も、その裏で「うちは終身雇用を捨てた」とは誰も言わない。むしろ本音としては「年功賃金」は止めたくても、「終身雇用は捨てたくない」というのが、企業の本音だからだ。それはなぜかと言えば、従業員と短期的「契約」ではなく長期的な「信認関係」を持つことが、結果的に雇用関連のコストをもっとも抑えることを知っているからである。

 塩原氏が言うような意味での英米的「契約」を経た信認ではなく、日本ではむしろ「損して得取れ」的な古くからの商道徳としての信認の概念がビジネス・エシックスとして存在し、かつ勢いを増しているのだろうと思う。塩原氏に言わせればそれらの商道徳は、「世間」という日本独特の狭いコミュニティーの中でしか通用しない論理だったのかもしれない。だがしかし、国民国家の分解と人々のより狭小なコミュニティー化は、欧米社会でも生じつつある現象だ。コミュニティーとの信認関係をビジネスモデルのベースに置くようなベタベタの日本的企業が欧米で大成功する可能性だって、ないわけじゃない。

 MBA的ビジネス・エシックスは、株式市場とコーポレート・ガバナンスという、グローバリゼーションの浸透しつつある部分については適用されざるを得ないかもしれない。しかし、だからといってそれが日本企業にとってのビジネス・エシックスのすべてではあり得ないだろう。著者の意にはまったく反するかもしれないが、そろそろ松下幸之助とか稲盛和夫の哲学あたりからビジネス・エシックスを組み立てる人も、出てきていいんじゃないの?というのが、この本のR30的読後感である。

01:27 午前 書籍・雑誌 コメント (0) トラックバック (1)

2004/11/02

「釜ゆでうどん」であること

 再開後最初のエントリにまず、なぜ再開するのか少し考えを書いておきたい。

 もともとこのブログは、リアルでほとんど会えない友人に、僕が今考えていることを伝えるために始めたものだった。ただ、仕事柄ネットの世界の技術動向を理解していなければという思いもあり、「ブログ」というものがどんな影響を及ぼし得るのか自分で体験してみようという気持ちもあった。

 半年間ブログをやってみて感じたのは、ぶっちゃけて言うと「自分で思ったことを好き勝手に書ける場所があるって楽しいねえ」ってことである。知っている人は知っているから今さら隠し立てしないが僕はマスコミの片隅で飯を食っていて、普通の人に比べれば「自分で思ったことを書いて他人に読ませる」チャンスがべらぼうにたくさんある。それでもブログをやってみて、改めてそう思った。

 と同時に、大マスコミのブランドの傘が外れてしまえば、他人に向かって偉そうなご託を言えるほど知識のあるネタというのも自分には実はほとんどないということにも気がついた。切込隊長氏のエントリでうまくまとめてくれているので、それにリンクしておこうと思うが、彼の言葉を引用して曰く、

人間、好きなことを語るってのはどんなに忙しくても文章が長くなっても苦にならないのだなあという感嘆。あと、自分がどんな糞マイナーな趣味だと自負しているものでもその方面に長じている、より極めた男というのが存在していて立ちはだかるという現実の厳しさ。
 といった感じである。

 一方、当初想定していたのをはるかに上回る数と範囲の人がこれを読むようになって、以前書いたことが少し無防備すぎたなあという反省が出てきた。それでいったんブログを閉鎖した。

 ただ、閉鎖して改めて思った。こういう、自分が偉くも何ともないと思える場所をきちんと持っておかないと人間がダメになるなあということだ(特にマスコミに長くいると、この感覚が鈍る)。それに、少数ではあれこのブログを楽しみに読みに来ている人もいる。そういう人たちとささやかに意見交換ができることも、ブログで知った楽しさの1つである。

 ここしばらく、今の自分の仕事に悩み続けていた。他人のやることにあれこれ文句をつけるだけで、自分が何かビジネスの価値を生み出すわけじゃない。取材先でよく「そこまでお知りならぜひうちでコンサルしてくださいよ」とか言われるが、僕にコンサルなんかできっこないと思う。ふだん言っていることとやっていることのギャップの大きさにいつも悩む。特にビジネス・ジャーナリズムっていうのはそのジレンマに陥る。

 そんなとき、ある人からこう言われた。「世の中には言うだけの人ってのも必要なんですよ。その人の発言で他の人たちがカタルシスを感じてるんだから、それで十分価値を生んでるじゃないですか」。まあ、そうかもしれない。偉いことを言っているわけでもないけど、誰かのカタルシスになっていればそれでもいいか。最近、ちょっとそう思うようにもなってきた。

 関西出身なので小さい頃、生返事をしてだらだらしていると祖母などに「あんたは釜ゆでうどんやねえ」とたしなめられた。そのココロは「湯~(言う)だけ」である。でもその時以来ずっと釜ゆでうどんそのままの人生を過ごしている。でも釜ゆでうどんでもいいじゃないの、と言ってくれる人がいる限り、おいしい釜ゆでうどんで過ごすのも悪くないかもしれない。

 偉ぶらない釜ゆでうどんになる。このブログを通じて僕がやりたいことの1つはそれだ。自分にどこまでそれができるか、もうしばらく試してみようかと思っている。

 それから、以前のブログのネタで「もう一度読みたい!」っていうリクエストがあれば、ものによっては加筆修正して再アップすることも考えます。リクエストがあればコラムの内容を指定してコメントしてください。

11:03 午前 日記・コラム・つぶやき コメント (7) トラックバック (0)