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2004/11/03

書評:「ビジネス・エシックス」

ビジネス・エシックス 1ヶ月以上も書かないとネタが大量にたまってしまうのだけれど、とりあえず書評から始めよう。最近気になっていたテーマ「ビジネス・エシックス(Business Ethics:経営倫理学)」で少し手ごろそうな本を見つけたので、手にとって読んでみた。「ビジネス・エシックス」(塩原俊彦著・講談社現代新書)。なぜこのテーマかというと、これが海外のMBAコースでは必ずといっていいほど履修科目になっており、日本のビジネススクールなどでもやらなきゃね、的な議論が起こっているという話を耳にしたからだ。

 読んでみた感想を一言で言うと(Amazonのレビューにも書かれているが)、これはお手軽なMBA的ビジネス・エシックスの入門書ではない。なぜ今米国でビジネス・エシックスの必要性が叫ばれており、しかるにビジネス・エシックスとはどういう学問なのかを根本から解き明かそうとしているからだ。

 僕がこの本を手に取った時に期待したことも、まさにそういった根本的な解説であって、別にエンロンがあーだとかワールドコムがどーたらといった、大前研一大先生の言うような「こんなことデキるビジネスマンの常識だぞ」的ご託ではなかったので、とっても満足できたと言っていい。むしろ、世の中の多くの人は「そんなこと知りたかないよ」って思うんだろうけどね(笑)。

 まあいい。で、そのミソの部分を惜しげもなく(あるいは誤解を恐れずに)強烈に要約してしまうと、少々長くなるけどこういうことだ。

 米国のMBAでビジネス・エシックスが必須科目とされているのは、別にエンロンやワールドコムの不正経理事件があったからだったり、そのせいでサーベンス・オクスリー法が成立したからではない。日本で「大企業の取締役になるのに、商法を知ってるのは当たり前でしょ」といった程度の、ビジネスマン(なかんずく経営者)にとっての“常識”の範疇の話だからである。

 なぜか。実はその本質的な理由は、日本しか知らないビジネスマンには絶対想像できない、米国の「契約」にまつわる法律の構造にある。日本(や欧州、すなわち大陸法の国々)では、契約というのは例えば、「AさんとBさんがモノを売り買いする約束をしました」=「AさんはBさんにモノを渡し、その代わりBさんはAさんに代金分の“債務履行の義務”を負う」という一連の関係ができることを指す。ところが米国の法律では、AさんとBさんの間の売買契約とは「AさんがBさんにモノを渡す」というのと「BさんはAさんにお金を払う」という、2つの約束から成ると考える。

 まあ、モノの売買契約だと「何が違うの?」という感じだが、これが雇用から株式会社の仕組みまであらゆることに展開されるのだ。米国では、労働者と企業の関係は基本的に「随意雇用」であり、気にくわない社員は理由もなくいつでもどこでも解雇できる。だって雇用とは「言われたことやる」+「給料やる」の2つの約束に過ぎないから。株主と取締役の関係もしかり。「経営任せる」+「株価or配当で儲けさせる」の2つの約束だから。俺が辞めた後に会社が潰れようが社員が路頭に迷おうが知るもんかい、と。

 なぜこんな(日本人に言わせりゃ極端な)法律が正しいとされてきたのかと言えば、資本主義の原則として「労働者にはいつでも別の企業に転職する権利がある」「株主は取締役をいつでもクビにする権利がある」からだ。つまり「嫌なら、辞めてもらっていいんですよ」ってやつである。

 誤解を恐れず言えば、米国というのは「政府と国民」の間には人権があったが、「企業と従業員」の間にはつい最近まで(今も一部で)人権はなかったのである。これに比べれば、日本のサラリーマンなんて長時間残業はあるけど社内外で上司や会社の愚痴言うわ(=表現の自由)、決められた以外のことも平気で首突っ込むわ(=知る権利)、でもクビにもならず(=働く権利)といった案配で、基本的人権を謳歌しまくりなのだ。

 米国の契約概念は資本主義の理想状態ではあるが、現実の社会はそうではない。労働者も、別に日本だけじゃなくて、米国だってそう簡単にほいほい転職できるものではないし、転職が決まるまでの自分や家族の精神的な負担だって大きい。つまり労働者側の不利を想定せずにこうした対等な契約だけで物事を決めちゃいかんだろ、という声が米国でもこの20年ほどの間に高まり続けてきた。

 個人情報保護とかセクシャル・ハラスメントとかアファーマティブ・アクションとかコンパラブル・ワース(別の職種でも職務価値が同じなら給与水準は同等でなければならないという考え。主に男女の給与格差解消を指す)といった最近日本でも流行の言葉の数々は、みーんなこうした「企業の人権蹂躙やりたい放題」を止めさせるというコンセプトから生まれてきたものだ。日本ではそのへんの悲惨な歴史が全く理解されず、職場で絶大な権限を誇るお局OLが気の弱い部長を「セクハラですよ!」とか怒鳴り上げてたりする。まったくもって本末転倒である(笑)。

 そしてもう1つ、契約オンリーの発想が起こした大事件というのが、エンロンやワールドコムだった。GEを引退したジャック・ウェルチが数百億円もの退職金を受け取ったと非難されたのも、この流れの中でのことだ。つまり「辞めた後なら企業がどうなってもいいのか」という問題である。単にインサイダー取引どーたらの話ではない。

 こうした、2つの片務的な“約束”の対に過ぎない米国的「契約」を補う概念として、もともと米国にあり、最近になって重要性が増して来たのが「信認関係(fiduciary relationship)」という考え方だ。例えば、会社は労働者を雇う時、彼らがクビになってもすんなり別の雇用が決まるわけじゃないんだから、解雇する(=圧倒的に強い)立場の企業は、従業員からの信認に応える相応の義務があります、というものだ。株主との関係について言えば、圧倒的にたくさんの情報を持つ取締役は、利益さえ上げれば好き勝手経営していいわけじゃなくて、ちゃんと株主からの信認に応える義務があります、ということになる。

 で、この「米国流契約」の概念だけではカバーしきれない部分の「信認されたものの義務」というのが何であるか、どの程度法的に「義務あり!」とされるかを学ぶのが、ビジネス・エシックスという学問なのである。その1つである、株主に対して、つまり「コーポレート・ガバナンス(企業統治)」に関する「義務」の追加内容が、2002年に成立したサーベンス・オクスリー法だったりするわけだ。

 長々と説明したが、要するに要するに、ビジネス・エシックスというのは、たとえて言うなら日本人が大企業の取締役になる前に商法のイロハぐらい一応知っておきなさいよね、と言われるレベルに過ぎないのだ(と僕は理解した)。なーんだ。そう、なーんだ、なのである。MBAだからってビビらない!これ鉄則(笑)。まあ、もちろん日本で商法をきちんと理解して取締役になってる人なんて大企業にさえどれだけいるんだろうかと思うし、ましてや米国のビジネス・エシックスまで理解して取締役になっているグローバル企業の役員なんてほとんどおらんやろうね。そういう意味では、米国がビジネス・エシックスを今頃叫ぶのをあざ笑うのは、目くそ鼻くそ以下のレベルの話ではある。

 特に僕も不満を感じていたことだが、日本のほとんど唯一の経済メディアである日経新聞が、この件については偉大なる「反面教師」になってしまったため、正面からビジネス・エシックスとは何であるかを論じる経済系のマスコミ人がいなくなってしまった。だから、いっこうにビジネス・エシックスについての本質的理解が進まない。で、これが分からないということは、前述したような様々な企業に対する規制や運動の意味も分からないということになってしまったのだ。

 本書の著者の塩原教授は、実はもともと日経新聞の記者だったようで、米国のビジネス・エシックスがどのような背景のもとに成り立っているのかを解説した後で、日経新聞の例の事件(TCワークス問題)に題材を取りつつ、日本でビジネス・エシックスがいかに成り立ち難いものかを説明している。このへんの解説が、文章の行間から溢れてくる彼の出身企業に対する思いが読めて、なかなか面白い。

 だが、著者はやはり大学教授という身分ゆえか、結論として「日本のビジネス・エシックスは米国の制度を輸入してくるだけではやはりダメで、日本のビジネスマン1人ひとりの意識が自立した“主体的個人”に変わらなければ始まらない」と述べて終わっている。そもそも法律体系がまったく違うにもかかわらず、国民全員が米国式「契約」の主体になるだとか、カントの言う「自らの不自由を意識した自由な個人」になるなんてことはあり得ないわけで、さすがにこの結論だけはそんな無茶な、というほかない。というわけで、この本は「実用書」ではありません、という書評になってしまうわけだ。

 でもそれで終わっちゃつまらない。ここで、R30なりの実用的「誤読の可能性」に挑戦してみる。

 塩原氏は「日本には主体的個人同士の契約概念がないから、その不備を補う信認の概念も理解しようがない、したがってビジネス・エシックスは日本には根付かない」と結論づけるが、実際のビジネスの現場ではむしろ逆のことが起きているんじゃないか。

 日本は、むしろ顧客との関係の部分でこうした売買の“契約”から一歩進んだ“信認”の概念がかなり早くからシステマティックに導入されてきたように思う。米国と違って、日本の顧客には商品の不良が買った後(あるいは保証期間が切れた後)で分かったとしても、店側の「これは売買契約が切れた後ですからお客様がご自分で対処なさるべきです」といった筋論が通らない。「お前ンとこが売りつけた商品だろ!お前ンとこで何とかしろ!」という話になる。

 で、この(米国であれば「アホ」の一言で一蹴される)難癖を、企業の側もしたたかにシステム化することで、顧客と「売買契約」でなく「信認」の関係を築く仕掛けを作り上げてきた。その端的な例が家電量販店がよくやる「保証期間延長サービス」であったりするわけだ。顧客も、モノを買うたびに契約契約言われるのがめんどくさいので、こういう「私どもにただお任せ下さい」的な、無条件の信認関係を作って迎えてくれる企業の懐に喜んで落ちる。

 消費が「モノ」ではなく「コト」つまりサービスやソフト中心の時代になってきて、この傾向はますます強まっている。そして、消費者と契約ではなく信認の間柄になることは、企業にとってもメリットが大きい。というのは、いったん信認関係を結んでくれた顧客は、継続的に企業にコミットしてくれるからだ。

 実はこれは、もともと日本的経営の中で最大限のメリットを生み出してきた「終身雇用」という仕組みのアナロジーでもある。成果主義導入を声高に叫ぶ昨今の企業も、その裏で「うちは終身雇用を捨てた」とは誰も言わない。むしろ本音としては「年功賃金」は止めたくても、「終身雇用は捨てたくない」というのが、企業の本音だからだ。それはなぜかと言えば、従業員と短期的「契約」ではなく長期的な「信認関係」を持つことが、結果的に雇用関連のコストをもっとも抑えることを知っているからである。

 塩原氏が言うような意味での英米的「契約」を経た信認ではなく、日本ではむしろ「損して得取れ」的な古くからの商道徳としての信認の概念がビジネス・エシックスとして存在し、かつ勢いを増しているのだろうと思う。塩原氏に言わせればそれらの商道徳は、「世間」という日本独特の狭いコミュニティーの中でしか通用しない論理だったのかもしれない。だがしかし、国民国家の分解と人々のより狭小なコミュニティー化は、欧米社会でも生じつつある現象だ。コミュニティーとの信認関係をビジネスモデルのベースに置くようなベタベタの日本的企業が欧米で大成功する可能性だって、ないわけじゃない。

 MBA的ビジネス・エシックスは、株式市場とコーポレート・ガバナンスという、グローバリゼーションの浸透しつつある部分については適用されざるを得ないかもしれない。しかし、だからといってそれが日本企業にとってのビジネス・エシックスのすべてではあり得ないだろう。著者の意にはまったく反するかもしれないが、そろそろ松下幸之助とか稲盛和夫の哲学あたりからビジネス・エシックスを組み立てる人も、出てきていいんじゃないの?というのが、この本のR30的読後感である。

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